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拝啓桜井よしこ様 (1/3) 『この国を、なぜ、愛せないのか・論戦2006』によせて、(読書感想文)

2006-06-30 18:55:10 | 趣味の話&本と雑学メモ
この一冊『この国を、なぜ、愛せないのか』(桜井よしこ著)を読み始めて、すでに2週間も経過する。総ページ数は、僅かに272ページ。システム手帳を一回り大きくした程度の「この一冊」。縦43文字横17行、文字数にして731文字。実質文字数は凡そ600文字程度か。通常、この類いの一冊を通読するに、せいぜい3~4時間もあれば十分に読破可能か。
と、踏んでいたのであるが・・・
「オットどっこい!そうはいかない・・・」
結構、てこずっている。

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実は「この一冊」、ご存知の通り、各項3~5ページの短編にて、ダイヤモンド社をはじめ週刊新潮に週刊文春ならびに日経新聞等に寄稿された櫻井女史の短編論文を集約されたものであり、週刊誌のヴォリュームに換算すれば、せいぜい2~3ページ。初刊「論戦シリーズ」は1994~1996である(当・初刊の論戦シリーズの感想文は、拙ブログにて投稿済み)。もって約10年前より、これら短編論文集は「論戦シリーズ」にて単行本に集約され、発刊され続けているのである。論戦シリーズは、すでに5冊通読し、自分自身の周囲を取り巻く「超近代の政治社会歴史の書」として、本シリーズに対する自分自身の位置付けをし、今も、大切に蔵書している。
しかし、この度の「論戦2006・この国を、なぜ、愛せないのか」には、通読するに最も時間のかかる一冊となっている。
恥ずかしながら、未だに読破できていない。読み進めるうちに、いかにも苦しい。
慌てずに、急がずに、読み進める所存なり。
「・・・?」
漢字が読めないのではない。
桜井女史の論理展開、難解とは思わない。
しかし、この一冊はいかにも読み辛い。
各項各章、読み終えて後、逐一自己反省し、且つ深く考えさせられる。以って読み進めるに、あまりにも時間が掛かっている。気分は沈み、なぜか頭痛が始まり、頭痛が収束すれば、その次には心苦しくなる。この一冊、下手に取組むと「他の本」が読めなくなる。自分自身、この一冊を読み進めた後は、相当なる気分転換を図らないと、他の作業展開が難しくなるのである。
それにはいささか理由がある。
我輩、日本人としてこの世に生を受け、早くも半世紀間にプラスすること云年以上も経過する。日本人として半世紀以上も、仕事柄世界を旅しつつ熱心に仕事をこなし、その間正常にまともに考え、常識的にまともに行動してきたはずの我輩。にもかかわらずこの一冊を読み進める中、この歳になって、あらためて自分自身の無責任さ加減を痛感させられてしまうのである。
読みながら、
「自分自身、何かしなければならぬ。自分自身、知らねばならぬ。まだ修養が足りぬか」
「わが国のために、後輩のために、何かやらねばならぬことがある」
「公のために、我国のために、子々孫々のために、先輩先祖に対して、何かやっているのか?やってきたか?」
「今から、これら公のために、自分は何ができるのか?」
感ずる事の多きこの一冊。
先の投稿、拝啓櫻井よしこ様:感想文「何があっても大丈夫」に続き、この度も3回シリーズで感想文を書いてみたい。
もって本日、その書き出し?とする。
この国を、なぜ、愛せないのか~論戦2006

ダイヤモンド社

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尚、本文に掲載されている文章の中、「究めつけの一節」が、この一冊「この国を、なぜ、愛せないのか」の、『本の帯』に抜書きしてある。
本日の締めくくりとして、上述の文章を、下記、引用しておきたい。

<以下、本文167ページ「第3章日本にとっての真の敵は、己自身の内にある」から、引用・・>
日本は自らを“ハンディキャップ国家”と位置づけ、半人前の国家にとどまり続け、国家目標を“摩擦を生じさせないこと”に矮小化し、志を曲げ気概を失った。
中国は今「沖縄も中国領だった」と言う。日本人はそれを笑い飛ばしてはならない。日本は、中国の覇権主義が沖縄領有に止まると過小評価してはならない。中国の狙いは大中華帝国の確立、つまり日本国全体の実質支配なのであるから。
中国の大戦略の前に日本が成すべき事はたった一つ、真の独立国としての志を確立することである。自力で自国を守る気概を養い、そのための大戦略を練ることだ。真の敵は日本人の心の内にある。
(以上、「この国を、なぜ、愛せないのか」引用、完・・)

 <・続く・・>

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小説「フォワイエ・ポウ」7章(第41回掲載)

2006-06-28 11:45:50 | 連載長編小説『フォワイエ・ポウ』
<添付画像>:エドゥアール・マネ作品[フォリ=ベルジェールの酒場 1882 コートールド・インスティテュート(ロンドン)] IMAGE: "EDOUARD MANET". A Bar at the Folies-Bergère. 1882. Oil on canvas. Courtauld Institute of Art Galleries, London, UK.

 BAR「フォワイエ・ポウ」を巡る人間アラカルトの描写、いよいよ核心に迫っていきます。
 引き続き、マスター本田の健闘、どうぞ宜しく応援してやって下さい!

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長編連載小説「フォワイエ・ポウ」

        7章
                            著:ジョージ・青木

1(転換期)―(4)

「解った。これでよくわかった。だから今日、美智子から電話がかからないんだ。休みでも、電話する。と、言っていたのに・・・」
本日、山本美智子はお休みを取っていた。しかし、昨夜のフォワイエ・ポウの状況報告を寺元に約束していたにもかかわらず、その報告がないという。
「寺元マスター、いちど自分で本田さんの店に出向かれたらいかがですか?」
「僕が行く!」
「そう、そうです。それが一番いいわよ」
「いや、やめとこう。やばいやばい。僕が行けば、もう、みもふたもなくなるから、止めとく」
ここで、奥のボックスからのキープボトルのお変わりの注文が入った。カウンターにいた寺元と木村栄は、協力して作業し、しばらく新しいボトルの売り上げに勤しんだ。
ひと通りの作業が終了し、2人は雑談を再開した。
「いずれにしても今夜、もういちど本田さんの店に行ってきます」
「そう、さかえさんも本田さんのフアンだからな。いってらっしゃい。2度顔出すのも、いいですな~」
「な、なに言ってんですか、マスター!マスターが本田さんの所のぞいてくれって言うから私は行くの。勘違いしないでください。お勘定ちゃんとマスターに回しときますからね」
「はいはい、分りました。どうぞどうぞ・・・」

いずれにしてもサンチョパンザの閉店まで、残すところ1ヶ月をきっていた。オーナーの寺元は地元に見切りをつけた。関東在住の友人からの誘いに乗り、友人の新規チェーン店オープンにあわせ東京に進出する予定でいた。
もしできることならば、寺元は本田にサンチョパンザの後継をお願いしたい気持ちがあった。したがって、本田に近いホステスを本田の店の偵察に覗(うかが)わせ、前もって情報を収集したい気持ちがあった。ある程度の情報が集まったところで、つまり、本田が断らないという確信を得た上で、寺元自身が最終的な交渉に乗出したい気持ちを持っていた。
しかしながら、同じ夜の飲み屋の世界でも営業形態の違いがあり、スナックバーとクラブの違いがある。つまり、店内にホステスのいる飲み屋は、風俗業の許認可を所轄の警察署でクリアーしなければならなかった。あわせて、全ての意味で客層の違いはある。
夜の世界に入った当初の本田は、ホステスを雇い入れた営業も、彼なりにイメージだけはしていた。シナリオも描いてみた。
しかし飲食業店舗としてのフォワイエ・ポウは、立地場所に問題があった。おしゃれな街並み、高級専門店街あるいはブティック街として市民に認知されている並木通りという店のロケーションは、なんとかレストラン食べ物屋としては成立するものの、飲み屋専門として営業を継続できるかどうか?非常に難しい立地条件からスタートして、今日に至っている。

本田をして、1年と半年間の経験を整理すれば、
(けっして女性従業員を雇わない)
(ゆめゆめ、クラブの客とホステスの集まる店にしてはならない)
(学生サラリーマンを問わず、若者専門の集まる店にする)
という現状であり、現状に迎合した方針を実行していた。

本田が夜の商売を始める決心をした時点から今日まで、高級ブティック街の端っこにあるバーの営業、飲み屋専門の商売が如何に難しいか、本田自身、身体をもって思い知らされていた。
夜の歓楽街を楽しもうとする客の多くは、中央通を東に渡った夜の街の集まる地域に足を運ぶ。
つまり、並木通りは中央通の西側に位置するから、フォワイエ・ポウに来る多くの顧客は、いちど中央通を渡って夜の歓楽街に繰り出し、1次会が終わった後になって、たまたま気が向けばわざわざ中央通を西に渡りなおし、並木通りに足を運ぶことになる。早い話が2度手間である。あるいは、中央通りを渡らずに、その手前の並木通りに直行してくれる客もいるが、そのパーセンテージは、かなり低い。JGBのメンバーがフォワイエ・ポウに足を運ぶ場合、事務所界隈のレストランか居酒屋で食事を済ませ、敢えて中央通りを渡らずにその手前の並木通りにある本田の店を訪ねてくれるわけだ。本田にとってはありがたい。
しかしほとんどの客は、中央通を東に渡ったら、再び中央通を西に渡り帰して、飲み直しに戻っては来ない。
ちなみに、いや、当然ながら、サンチョパンザは中央通の東の、夜の歓楽街のど真ん中、最高の場所に位置していた。
そんな夜の街ですでに15年、十分に経験を積んできたサンチョパンザのオーナー・寺元は、今後すぐに訪れる『バブル崩壊』の苦難の時代を予知していたともいえる。

あらためて言うが、この時期の本田の商売はけっして悪くなかった。夜の商売を立ち上げてから半年間、それなりの試行錯誤をした。1年後、自分流の夜の商売のやりかたが分かった。1年半掛かってしまったが、その自分流がようやく板についてきた。自分流のやり方とは、つまり本田流であり、フォワイエ・ポウの顧客の全員が、本田のフアンであった。ただ、それだけのことであった。

いつしか本田フアンの取り巻きは、構築されていた。
その取り巻き連中が、入れ替わり立ち代り本田を尋ねてフォワイエ・ポウに足を運ぶ、その繰り返しが収入を発生させた。取り巻きの多くは現役の大学生、限られた企業の若手社員。2~3年もすれば、フォワイエ・ポウの常連学生は卒業を迎え、おのずとフォワイエ・ポウから去っていくが、あらたに入学した新入生に引き継がれるから、店に出入りする学生の数の減少はない。若手サラリーマンも毎年新入社員が入る。新入社員は先輩によってフォワイエ・ポウが紹介される。
ただそれだけのこと、フォワイエ・ポウの本田オーナーのフアンクラブのメンバーだけが、店に出入りする。もし、本田がいなくなれば、今迄の顧客は出入りしなくなるであろうし、良かれ悪しかれ本田のパーソナリティーに相当する人材がいなければ、この店は維持できない。本田がいなければ何もない、何も残らない、何も与えられない、それがフォワイエ・ポウの現状であった。
だから、本田が毎日元気にカウンターに立つ限り、フォワイエ・ポウの営業は継続できる。現在の店の客層と基本的営業方針から推測して、今後しばらくの間、安定的営業を継続する可能性は十二分にあったと判断できる。

しかし、ここでまた、繰り返し言う。
フォワイエ・ポウ一店舗による売上げには限りがあった。
つまり、どう足掻(あが)いても、月間平均売り上げは120万円が精一杯であり、したがって本田の手元に残る利益は、せいぜい4~50万円が限界であった。この金額は、本田がサラリーマン時代の所得に届かないものであり、フォワイエ・ポウの経営を継続する限り、永久にサラリーマン時代の所得を上回る可能性は無かった。今はしかし、本田は脱サラし独立して商売をしている限り、あまり銭金に固執しない本田。しかし、せめてサラリーマン時代の所得の倍額の収入は得たい。と、常に考えていた。
しかし、この先、あらたに店舗数を増やすような投資行為については、疑問を持っていた。まして、ホステスをつかってさらに発展拡大的な水商売をする気など、本田は全くなかった。

<・続く・・>

(小説フォワイエ・ポウ既掲載分、ならびに前号確認などは、こちらから参照可能です)

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1.『参考資料』
『エドゥアール・マネ』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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エドゥアール・マネ
草上の昼食エドゥアール・マネ(Édouard Manet, 1832年1月23日 - 1883年4月30日)は、19世紀のフランスの画家。

西洋の近代絵画の歴史の冒頭を飾る画家の一人である。マネは1860年代後半、パリ、バティニョール街の「カフェ・ゲルボワ」に集まって芸術論を戦わせ、後に「印象派」となる画家グループの中心的存在であった。しかし、マネ自身が印象派展には一度も参加していないことからも分かるように、最近の研究ではマネと印象派は各々の創作活動を行っていたと考えられることが多くなっている。

マネは画家仲間のみならず詩人、作家との交流もあり、近代詩人の祖であるシャルル・ボードレール、エミール・ゾラ、そしてステファヌ・マラルメなどと深い親交があった。ボードレールはエッチング、ゾラとマラルメは油彩による肖像画がマネによって描かれている。

マネは1832年、パリのブルジョワの家庭に生まれた。父は司法省の高級官僚であった。はじめ海外航路の船員となるが、1850年、18歳の時に画家になることを決意し、当時のアカデミスムの大家、トマ・クーチュールに弟子入りする。1861年、サロン(官展)に『スペインの歌手』が初入選する。マネの画風はスペイン絵画やヴェネツィア派の影響を受けつつも、明快な色彩、立体感や遠近感の表現を抑えた平面的な処理などは、近代絵画の到来を告げるものである。(続きは、こちらから入れます・・)

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2.『参考資料』:(ビールの適温とレーティングビールについて)
"BEER MEMO"
"Serving temperature"
The temperature of a beer has an influence on a drinker's experience. Colder temperatures allow fully attenuated beers such as pale lagers to be enjoyed for their crispness; while warmer temperatures allow the more rounded flavours of an ale or a stout to be perceived. There are no firmly agreed principles for all cases; however, a general approach is that lighter coloured beers, such as pale lagers, are usually enjoyed cold (40-45F/4-7C), while dark, strong beers such as Imperial Stouts are often enjoyed at cellar temperature (54-60F/12-16C) and then allowed to warm up in the room to individual taste. Other beers should be served at temperatures between these extremes.

"Rating"
Main article: Rating beer
Rating beer is a recent craze that combines the enjoyment of beer drinking with the hobby of collecting. People drink beer and then record their scores and comments on various internet websites. This is a worldwide activity and people in the USA will swap bottles of beer with people living in New Zealand and Russia. People's scores may be tallied together to create lists of the most popular beers in each country as well as the most highly rated beers in the world.

(続編)日本!永遠に開催不可能か?「第32回アメリカズカップ」によせて・・

2006-06-26 22:08:45 | 研究:「ダンディズム」
(A photo from the Official Website of Swiss Team)

 第32回アメリカズカップ・バレンシア会場に於ける参加国の中、なんとシナ共産国ティームが、その末端に位置する。(下記、32回大会参加国を参照下さい)もちろん日本ティームは参加していない。今尚莫大なODA援助資金を我国の血税からむしり取っているシナ共産国をして、アメリカズカップに参加可能となる資金力技術力を持ちえていることに、驚嘆、驚愕する。 

先日投稿の記事(6月10日投稿分)『日本で開催しましょうよ!「第32回アメリカズカップ」によせて』に関し、大変重要な訂正をしたく、本日あらためて第2回記事掲載する。

 サッカー世界大会「FIFAワールドカップ」の日本代表ティームは、先日のブラジル戦敗退で、惜しくも予選落ちしてしまった。多くの課題を抱え次の大会までに日本代表ティームの再構築は可能なるか?次期日本代表ティームの監督は誰が適任か?一体だれが、日本代表ティームの監督を引き受けてくれるか?課題難題満載である。

 さて、先日投稿した「第32回アメリカズカップ」関連記事は、サッカーの世界大会同様、日本のヨットレースティームも「アメリカズカップ」に挑戦参加したらどうか!日本国民を挙げて応援したらどうか!今や、1兆円ともいえる経済波及効果を生じさせる「世界規模の海洋イヴェント=アメリカズカップ」の開催を、若し可能ならば、開催国を日本に誘致したらどうか!
 ・・等々、という趣旨の記事投稿であった。
 
 しかしながら、このアメリカズカップ開催地に関し、誘致するのではなく「前回優勝獲得ティーム」の「意思と意向」により、開催地が決定されるルールあること、判明した。したがって、かのオリンピックゲームの世界各国による誘致競争の如き獲得競争は行なわれないものであり、あらためて「訂正とお詫び」の為の記事投稿をする。

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* <前回掲載記事(6月10日投稿分)『日本で開催しましょうよ!「第32回アメリカズカップ」によせて』は、こちらからはいれます>

ニュージーランドの読者のアドヴァイスにより、アメリカズカップ開催国決定システムを知りうる事ができましたこと感謝します。あらためて敬意を表し、以下、コメントを抜粋掲載させていただきます。(以下、コメント欄より、抜粋・・・)

(抜粋コメント-A)
『アメリカズカップの開催地について』 (NZ永住者) 2006-06-15 05:19:34

前回のアメリカズカップが行われたオークランド(NZ)に住んでいるものです。

アメリカズカップはオリンピックやワールドカップのように誘致できるものではありません。
レースの勝者が次回の開催地を決定する権利があるのです。
例えば、1995年のアメリカズカップでは挑戦者のNZが勝ったため、2000年のアメリカズカップはNZで開催されました。
そして、NZは2000年のアメリカズカップを防衛し、2003年のアメリカズカップもNZで開催されました。
しかし、挑戦者のアリンギ(スイス)が勝ったため、次回のアメリカズカップはアリンギが決めた開催地ヴァレンシアで行われるのです。
というわけで、アメリカズカップを日本で行うためには、日本のチームがアメリカズカップの勝者にならなければならないのです。
ちなみに、日本のチームは2000年のアメリカズカップに挑戦しています。正確に言えば、アメリカズカップの挑戦者を決めるルイヴィトンカップ(いわばアメリカズカップの予選)に出場しましたが、残念ながら敗退しました。私も日本チームを応援していたんですが。。。。
そして日本は2003年のアメリカズカップには参戦しませんでした。


(抜粋コメント-2)
『NZ永住者さま・・』 (エセ男爵)2006-06-15 20:18:56

コメントありがとうございます。
「アメリアズカップ」の開催地決定システム!
お教え下さり、たいへんありがとうございます。
自分自身の「無知を恥じる」以前に、お教え下さったNZ永住者さまに、「たいへん感謝」しております。
その実、
大急ぎで書いた当記事、実は致命的な「場面」は、開催地決定の手段方法でした。
たぶん、
英文Wikipediaには、あるいは第32回大会公式ホームページの何処か?には、記載されているはず。よく記事に目を通さずに掲載した自分自身の安直さ、恥じてやみません。
また、
このように「マチガイ」をご指摘下さる方がいらっしゃること、幸せです。
あらためて御礼申し上げます。
たいへんありがとうございます。
ブログを開き、おおよそ一年半になります。
同じ経験、二度あります。
昨年のこの頃、
フラメンコダンスとスパニッシュダンスは、ほぼ同じカテゴリーであろう。と、独断で記事を連載していましたところ、その違いをお教え下さった読者の方に恵まれました。
まずは御礼申し上げ、「いきさつ」を、記事に取り上げさせていただきました。
その次は今年の4月下旬、、、。
我家の庭に育った「すずらん」の品種について、ご指摘下さった・・・。
あわせて今回で、3度目です。
この歳になっても、なおかつ、
ひと様(他人様)から教わる事、間違いを正して下さる事、光栄の至りです。
ありがたいことです。
心より感謝いたしております。
尚、あらためて、ますます、アメリカズカップに興味を持ち、もっともっと基礎知識を得たい、学んでいこう、という気持ちが膨らみます。
たいへんありがとうございます。
今度とも、どうぞ宜しく、ご指摘、ご指導、ご鞭撻、頂けますよう、あらためてお願い申し上げます。

 (以上、コメント欄抜粋引用、終り・・)


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「参考資料」

『アメリカスカップ出典』: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アメリカスカップ(America's Cup)は、1870年より現在まで続く国際ヨットレース。また、その優勝杯の名。

目次
1 沿革
2 主なルール
3 ニッポン・チャレンジ
3.1 主なプロフィール
4 32nd America's Cup
4.1 防衛艇
4.2 挑戦艇
4.3 Louis Vuitton Act
4.4 外部リンク


<沿革>
1851年、英国で開催された第一回万国博覧会の記念行事としてロイヤル・ヨット・スコードロン(Royal Yacht Squadron)が主催したワイト島一周レースに端を発する。このレースに米国からただ1艇参加した「アメリカ」号が優勝し、ビクトリア女王から下賜された銀製の水差し状のカップを自国に持ち帰った。その後「アメリカ」号オーナーは、「カップの保持者は、いかなる国の挑戦も受けねばならない」という贈与証書(Deed of Gift)とともに、このカップをニューヨーク・ヨットクラブ(New York Yacht Club)に寄贈した。これに基づき1870年、第1回「アメリカス・カップ」が開催され、現在に至る。

オーナーの莫大な投資、デザイナーの卓越した設計技術、スキッパーの神業的操舵は最高峰のヨットレースと呼ぶにふさわしい。その名の如くアメリカの威信を賭けたスポーツという名の戦争である。1983年9月26日、最終7戦目にオーストラリアの「オーストラリア2世」が右ジャイブにより風をつかんだことでカップ保持者の「リバティー」を破るその日まで132年間の連続勝利年月をニューヨーク・ヨットクラブが築いたのは世界スポーツ史における偉業の一つである。また、そのリベンジを果たしたアメリカの苦闘は映画にもなった。

なお2006年現在、カップはスイスのチーム・アリンギ(ソシエテ・ノーティーク・デ・ジュネーブ:Société Nautique de Genève)が保持している(2003年大会(第31回)でそれまでの王者、チーム・ニュージーランド(ロイヤル・ニュージーランド・ヨット・スコードロン:Royal New Zealand Yacht Squadron)を破りカップを奪取した)。


<主なルール>
1992年(第28回)大会以降、レースはIACC(International America's Cup Class)規格に準拠したヨットを用いてマッチレースと呼ばれる一騎打形式で戦われる。挑戦者およびカップ保持者はシンジケートと呼ばれる巨大な運営団体を組織し、資金の獲得・艇体の開発からセーリング・チームの育成まで、あらゆる業務を一貫して行う。挑戦者シリーズ(ルイ・ヴィトンカップ)を勝ち抜いた1シンジケートのみがカップを防衛するシンジケート(カップ保持者自身、もしくは同じ国のヨットクラブに属するシンジケート。もし複数のシンジケートがエントリーした場合は防衛艇シリーズを行い1シンジケートを選ぶ)に挑む権利を得る。

第28回大会では各シンジケートは無制限にヨットを建造することができたが、コストの高騰を防止する目的から1995年(第29回)大会以降、1シンジケートが新規に建造できるヨットの数は最大2艇に制限されている。また1995年大会において、当時のニッポン・チャレンジがJPN-30を当初の建造時と大きく異なる形に大改造したことに対し「実質的に新規建造と同じではないか」と他のシンジケートからクレームが出たことがきっかけとなり、2000年(第30回)大会以降「進水後の船体(ハル部分)の改造は新造艇については表面積の50%以下、旧艇(前回大会以前に建造されたもの)については同じく60%以下までに制限する」というルールが追加されている。

ヨットに乗り組むクルーの数は1艇につき最大17人、クルーの合計体重は1570kg以下に制限されている。またウェイト調整目的で18番目のクルーを乗せることも認められている(同クルーに限り体重制限はない)が、このクルーはそれ以外のヨットの操作や指揮に関与してはならないこととなっている。このため、通常は「18番目のクルー」としてスポンサー関係者や有名人などのVIPゲストを乗せレースを体験してもらい、新規スポンサー獲得やパブリシティ等に利用することが多い。


<ニッポン・チャレンジ>
日本からはこれまで、1992年・1995年・2000年の3回に渡り「ニッポン・チャレンジ」がアメリカスカップに挑んだが、いずれもルイ・ヴィトンカップの準決勝にて敗退(3回とも4位)している。

<主なプロフィール>
会長:山崎達光(ヱスビー食品元会長)
キャンプ地:愛知県蒲郡市
スキッパー:クリス・ディクソン(1992年)、南波誠(1995年)、ピーター・ギルモア(2000年)
ヨットクラブ:ニッポン・ヨットクラブ
建造艇:JPN-3/6/26(1992年)、JPN-30/41(1995年)、JPN-44/52(2000年)

<32nd America's Cup>
次回(第32回)大会は2007年にバレンシア(スペイン)で開催されることが決定されている。2005年4月29日にエントリーが締め切られ、次の12シンジケートがエントリーを受理された。

<防衛艇>
Team Alinghi(スイス)

<挑戦艇>
BMW Oracle Racing(米国)
+39 Challenge(イタリア)
Team Shosholoza(南アフリカ)
Emirates Team New Zealand(ニュージーランド)
Luna Rossa Challenge(イタリア)
K-Challenge(フランス)
Victory Challenge(スウェーデン)
Desafio Espanol(スペイン)
Team Capitalia(イタリア)
United Internet Team Germany(ドイツ)
China Team(中国)

<Louis Vuitton Act>
これまでアメリカスカップの大会間隔は通常3~5年おきとなっていたのに対し、参加者から「大会の間隔が空きすぎて、一般からの関心が薄れる」「シンジケートのモチベーションを保つのが難しい」などといった意見が多く挙がったことから、今回のアメリカスカップでは前哨戦として「Louis Vuitton Act」と呼ばれるシリーズ戦を2007年まで定期的に開催し、各年度ごとにシリーズチャンピオンを決定することとなっている。

2006年6月現在、Louis Vuitton Actは11戦開催され、2004年度はEmirates Team New Zealandが、2005年度はTeam Alinghiがそれぞれシリーズチャンピオンに輝いている。

なお各年度のシリーズランキングとは別に、防衛艇のTeam Alinghiを除く11チームによって争われる「Louis Vuitton Ranking Points」と呼ばれるポイントランキングが用意されており、2007年の第13戦終了時点のランキングに基づき

1位 - 4ポイント
2~4位 - 3ポイント
5~7位 - 2ポイント
8位以下 - 1ポイント
が「ボーナスポイント」として、ルイ・ヴィトンカップの予選に持ち越される。

("America's Cup" from wikipedia)日本語翻訳文の続きは、こちらから入れます。


<添付画像>:Peter Holmberg, Alinghi helmsman(Photo credit: Ivo Rovira/Alinghi)
Winning and watching, just two of the goals for Louis Vuitton Act 12, and the man on the helm for the job, is Peter Holmberg in the tried and tested SUI75. This will be the last time the Defender will meet the challengers in a match race until the start of the first race of the America’s Cup Match in 2007. Holmberg gives his take on the importance of LV Act 12: “It’s important because it’s one year away to the start of the America’s Cup, so the weather patterns are critical for us. Also it’s our last real chance to see our competitors. After this the challengers form a group and the Defender gets excluded from that. So it’s our last chance to measure the opponents themselves, their boats, their speeds. It’s an important week for us.” Team skipper and tactician, Brad Butterworth, is confident in the Alinghi crew rotation policy, vital to keep the in-house racing of the highest standard. He says: “Pete’s strength is match racing and he can sail the boat fast too, so you get the best of both worlds. The guys are hired for their skills in starting and he’s one of the best starters around.”
With two America’s Cup campaigns behind him, numerous Congressional Cup wins and a Silver Olympic medal, among other wins, Holmberg lives up to his crew mates appraisals. Jochen Schuemann, sports director and fellow helmsman, comments on Holmberg’s match racing style: “He is very much structured for match racing tactics. He is aggressive, with a clear plan and comes with a clear approach to everything, which he is able to execute with good boys around him.” Born and raised on the Caribbean island of St Thomas, Holmberg was sailing by five, now as one of three helmsman on the team, the other being Ed Baird, he takes nothing for granted: “We are placed well to win the Cup, not Defend it. The easiest way to lose something is by trying to hold onto it and the best way to keep something is to earn it back. So that is our goal and hopefully that mindset goes throughout the team. We've got a great group of people. I think our chances are excellent”. What can fans expect of the America’s Cup Defender in this Act? “You are going to see our standard package. Our squad will go out there in rotation,” says Holmberg, adding: “We are still a year away. We have a different challenge to the other teams. We are the Defender, so all that matters for us is one year from now to be perfectly race ready, so our focus now is on boat development and little by little ticking away at the crew development. So, during this Act, we will rotate the crew, still going for a winning result of course, but trying to give everybody equal time to develop our whole team.”

旧友UT氏からの贈りもの「若鮎」・・

2006-06-25 09:33:30 | つれずれ紀行
<画像>:『学友(今尚付き合いのある旧友の一人)UT氏撮影』


   昨夜、高校+大学時の友人UT氏から「添付の画像」、Eメールで送られてきた。

以下、旧友からのメール(無断転載にて公開!)

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 お元気ですか? 鮎の便りです。

梅雨らしい雨が降り、三篠川もいささかの増水があり、家から徒歩で2分もかけ川にたどり着き鮎釣りに挑戦しました。(家から土手越えすぐです。)

午前中11尾獲れ、すぐに友達を呼び、昼の酒の肴になりましたが、酔いがさめ夕方からの再挑戦で15尾獲れました。

若鮎の姿が納涼に役立てば幸いです。  

         2006.6.24.  T.U

                    (以上、友人からのメール)
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(以下、本文に戻る)

 彼の大邸宅からは、庭と川土手の私道を跨ぎ、徒歩2分間の距離に漁場がある。いわば、彼の敷地内なのである。

 今年、解禁と同時に豊漁なる釣果。まして、鮎といえば、我輩大好物の「川魚」。
 (関連記事掲載:本年3月「TS亭鮎の漁場三篠川」は、こちらから入れます)


 酒の肴に最適である。

まして、こうしてみれば、いかにも美味しそうだ。

そういえば約1週間前、我がご町内のK宅から、
「実家から鮎が送られていたので御裾分けです・・・」
を、頂戴し、まる1日間冷蔵庫で保存した後に食した。もちろん初もの。たいへん美味しかった。しかし思い起こせば、この画像ほどの新鮮さは明らかに失せていた。鮎の育ち加減も、ここまで豊穣なカタチではない。と、回想する。 

さて、
本日の添付画像。
これはあくまでも画像での出来事にて、我輩の口に入るものではない。要は、「鮎の美形」を鑑賞するのみ。直接食せないものを見ているだけ?という、精神衛生上きわめて不健康なる状態。これ、鮎の大好きなものにとって、酷といえば惨酷な話である。まして、我輩のみならず、凡そ10人の仲間に「納涼目的」としてEメール添付画像を送った模様。
親切だか不親切だか、皆目理解できず。
何が納涼か?
いかにも滑稽で、思わず噴出しそうである。
UT氏をして、納涼と表現するは、面白い、可笑しい、そして愉快になる。
この時節、納涼というから、いかにもUT氏らしい語彙の使い方である。
十分に未だ、雨季ではないか?(日本では雨季とは云わないか?)
とにかく今、じめじめした梅雨。湿度高く鬱陶しく、時に肌寒い今日この頃。まだ納涼というボキャブラリーは当てはまらないのではないか。かくして「納涼」とは、いかにも彼らしい語彙使用であり、友人に対してEメール送信も、彼好みの行動パターンである。
しかし、限定版である。
この「納涼目的の若鮎」を受け取り不愉快に思う輩殻に対しては、決して発信しない。と、思う。

よいもの美味しいものを自慢し、見せびらかす性癖。我が持ち物を人に見せびらかす性格等々、UT氏本人としての自覚症状は一切無く、まして他人を羨ましがらせて自己満足するような狭量的且つ「小意地の悪さ」は、一片の欠片も持ち合わせていない。

思い起こせば友人UT氏、幼少の頃より貴族なのだ。
貴族的人物の性格は、見方によっては自己中心的とも見えてくるし下種なレベルの人種から想えば、羨ましくも腹立たしくもある。そんなUT氏、一向に変化しない自分の物差しを持ち、すべからく自分の尺度で判断する性格だから、それを斟酌した上で判断すれば、納得。
全て、見えてくる。

〆て、
UT氏の人物像を、文学ジャンル的に喩えれば、例の「白樺派」に思えてくる。文豪で喩えれば「志賀直哉」先生に近い存在の、高潔にして自然観察に秀でる美的な神経の持ち主か。優雅である。
彼の人生感ならびに日々の行動パターンを評するなら、不器用にも器用にも、世の諸事雑多に感知関与しない「空間」に生きている。穏やかにして慎ましく、且つ、凛として生きている。

我輩、そんなUT氏を今尚、敬愛して止まない。

旧友・UT氏からの「贈りもの」、久しぶりに、不肖エセ男爵ブログにご披露する。

(美味しそうな鮎である!と想われる方、是非下記ランキングバーをクリックして頂きたい!)

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小説「フォワイエ・ポウ」7章(第40回掲載)

2006-06-23 12:18:45 | 連載長編小説『フォワイエ・ポウ』
<添付画像>:「落ち着かない画廊喫茶」

 絵画を鑑賞しながら、Coffee Time を寛ぐ?楽しむ?といった雰囲気に、決して為り切れない!
 店内照明の拙さ「ひとしお?」。この空間と照明、いかにもスペイン的?か。どうも日本人の感性を逆撫でするのではないか!と、思いますが、如何?いや、撮影者(不肖エセ男爵)の拙さでしょうか?・・・(撮影:スペイン滞在中バルセロナ市内、某ビジネスホテル内のロビーコーナーの一角、半端なコーヒーショップにてにて)

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 BAR「フォワイエ・ポウ」を巡る人間アラカルトの描写、いよいよ核心に迫っていきます。
 今からも引き続き、マスター本田の健闘、どうぞ宜しく応援してやって下さい!

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          7章
                           著:ジョージ・青木

         1(転換期)―(3)

木村栄はサンチョパンザのドアを押した。
小声で、
「おはようございま~す」
出勤の挨拶をしながら、彼女は静かに店の中に入った。
すでに2名1組の客が来店している。
その客は、2~3人のホステスに取り囲まれ、静かに歓談していた。
カウンターの中にいたオーナーマスターの寺元は、木村栄の出勤を待ちわびていた。
「おはよう、さかえちゃん、早かったな・・・」
「おはようございます」
「ま、とりあえずカウンターに腰掛けてよ、話聞かせてよ」
「何の話ですか?」
「分かってるじゃない、フォワイエ・ポウの話しさ・・・」
「あ~ 本当に美味しかった。本田さんのところで生ビール、中ジョッキに2杯も飲んじゃった。のどか沸くんだな~、ビール飲んだ後は、、、」
「マスター、使い立てして申し訳ない。とりあえず冷たいお水ください」
グラスいっぱいに注がれた冷たいミネラルウオーターを一気に飲み干した木村栄は、大きく息を吐き出し、一息ついた。彼女は、空になったグラスを眺めながら、何かの思いに耽っているようで、すぐには話し始めなかった。その間、寺元は無言で彼女からの話を待った。

「まず、本田さんの店、もう大丈夫。もう、完全に、お客さんは定着しています。1日平均10人を上回っているはず」
「となると、1月300人以上、客単価4000円と考えても、ひと月平均の売上げは、そう、120万円以上でしょう。年末年始、さらに3月4月の以上の時期、この時期には平常月の倍の売り上げになるはず。このままですと本田さん、必ず儲かりますよ。毎月40万円。3~4月のサラリーマンの転勤や移動の時期と究めつけの年末年始には、それぞれ100万以上、合計200万円以上残るでしょう。年間で、500万以上の利益は残せるでしょう・・・」
「なるほど、ウム、ウム・・・」
いっそう真剣になった寺元は木村栄の話に集中して耳を傾け、木村栄はさらに話を続けた。
「ま、あくまでも本田さんが手堅く財布の紐を締めて、無駄遣いしなければ、、、。という前提でね」
木村栄は、ここでまた一口、グラスの水を飲む。
「まあ、そんなストーリーですけど・・・」
この間合いから、自然に、寺元の喋る順番になる。
「でも、今までの本田さん、どのくらい借金があったか、まったく分らない。でも、どう考えたって1千万以上の借金はないはず。そして、フォワイエ・ポウをはじめて、もう、かれこれ1年と半年になる。借金があったとしても、すでに本田さんは借金など全額返しているでしょう。僕はそう思いますよ」
パイプタバコを詰め替えながら、めずらしく寺元は、自分の店で飲まないアルコールに手が走り、すでにビールを飲み始めている。
「どう、本田さん、今、奥さんとどうなってんの?」
本田がサラリーマンを辞めるとき、夫婦間でひと悶着あったこと、当然ながら家庭争議があったことを、寺元は聞き及んでいた。そんな寺元は、その後の本田の女性関係が気になる。
「それについては、私もよくわかりません。どうも別居してらっしゃるはずです。弟さんの譲治さんから、それとなく聞いたことがあります。ですから、今も、たぶん別居中でしょう。お寂しいでしょうが、また逆に気楽なのでしょう。だから飲み屋ができる・・・」
「そう、僕もそう思う。なぜか本田さんからは生活の匂いがしないんだよな~」
「・・・」
「家庭の疲れというか、仕事の疲れというか、サラリーマン時代の本田さんからは少しも感じ取れなかった。今は、どうなのかなあ・・・」
「本田さんの場合、そう、以前からそうでした。疲れた生活の匂いがしない、今もそうでしょう。今の本田さん、以前と全く変わっていませんよ」
木村栄は言い切った。言い切って、さらに彼女自身の解説が付いた。
「最近の本田さん、飲み屋のマスターが板についてきた。なぜか夜の雰囲気がある。さぜか、すでに何十年も経験していた人のように、夜の業界にスマートにとけ込んでいらっしゃる。なんだか世界の違う人が、つまり違う世界の本田さんが、私たちと同じ世界の中で生きてらっしゃるのに、なぜか違和感がないんだよな・・・」
「・・・」
「でも、ちょっと違う。平均的な夜の業界の男の人とは違う。どこが違うのか?と、問われても、すぐには答えられない。いや、今からも、長く長くしばらくは答えられないと思う。なんだか、よくわからないのよ。とにかく不思議な人なの・・・」
ようやく火の付いたパイプタバコをふかしながら、寺元は無言で頷く。
「あ~、忘れていました。寺元マスターごめんなさい。昨夜、美智子さんが本田の店に行ったこと、様子など、何も聞いていない。それその事、本田さんから聞くの、忘れていました。いや、忘れていた、というよりも聞く時間、無かったのよ・・・」
突然パイプから口を外した寺元が、無言のまま吹きだし笑いを始めた。
「おいおい、さかえさん。一時間以上も本田さんの店にいて、肝心な事何も聞いていないじゃないか・・・」
「いや、寺本さん。ほんとうにごめんなさい。私が本田さんの店に行って10分と経たないうちに、団体さんが入ってきて、それから私、少しお手伝いしてたの。そうしていたら、そこそこの時間になっちゃった。だから慌ててサンチョパンザに向かったのです、ほんとうにごめんなさい、最初に寺元マスターに謝らなければならないのに、てっきり忘れてました」
「さかえさん、君、本田さんの店を手伝ったの? さかえさん、かんべんしてよ! 君ね、自分の店を遅刻して、本田さんの店、せっせと手伝っていたの? 本末転倒もはなはだしいじゃないか!」
ここまで話した寺元は、奥のボックス席のお客への体面もマナーも無視し、いや、忘れてしまい、たまらずに声を出して笑い始めた。
「いいいい、わかった。もういいよ・・・」
「・・・」
「さかえさんが忘れているくらいだから、どの道、たいしたこと無いわけだ。ひょっとすると本田さん、みちこが店に行ったのに、なんだかもう、彼女の顔、たぶん忘れていたんじゃないの?というか、最初から記憶するのが面倒だ、だから、記憶していない。となると、思い出せないわけ。知らない人間を、最初から記憶していない人間を、その顔を、思い出せるわけがないじゃないか・・・」
寺元はさらに、自分自身納得させるべく、
「いや、本田さん自分でそ知らぬ顔して、山本美智子の来店を私には言わずに、わざと内緒にしていたのかも・・・」
と、自分自身、理屈の辻褄を畳み掛けていた。
寺元も木村栄も、お互いの顔を見合わせ、いよいよ吹きだして、本格的に笑い始めた。
木村栄はさらに、ひと言付け加えた。
「いや、それって、ほんとうです! 絶対に本田さんは忘れてたはず。美智子さんのこと覚えていないはず・・・」
「さかえさん、本当にそう思うかい?」
馬鹿笑いを止めた2人は、再び真剣に話しを始めた。
「間違いない。そう思います。本田さんは、たったの1度くらいで、しっかりと女性の顔を覚えるほど女に対してこまめな男ではない。特に女性に対してね。逆に、ああ見えても女性を観る目は結構厳しいのよ、本田さんは。でも、ちゃんと頭のテッペンから足の先まで、女性を観察する人なの。そして、直ぐに忘れてします。私ね、以前からそう思っています」
本田のサラリーマン時代から、この店サンチョパンザで本田を直接接客し、そばで観察していた木村栄の体験と経験から、この言葉が出た。

<・続く・・>

(小説フォワイエ・ポウ既掲載分、ならびに前号確認などは、こちらから参照可能です)

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「人と国を愛する」を否定するか、無節操且つ垂れ流し的メディアを問う・・・

2006-06-21 15:48:10 | 教養・文化・歴史
垂れ流し報道の責任・・・
何でもかんでも「言い放」し、そして「タレ流」す、、、。
「人と国を愛す」という人間愛の軸を逸した無節操報道には困ったものです。ここに至ればもはや、社会的な「厄介もの」だと思えてなりません。

身近な友人に、大手旅行会社勤務の優秀な人物がいました。今も元気でやっています。彼はそろそろ定年ですが、有名な逸話があるので紹介しておきたい。若かりし頃(たぶん当時30代の前半)、ある初夏の午後一人の部下を連れて急遽県外営業に出て行った。夕刻になり一段落ついたものの、勤務時間内に帰れそうもなく、直帰するという連絡を会社に取った後、
ついふらふらと(本人曰く)、部下を誘って、
「良い時節だ。たまには夜釣りを見物して帰ろうか!」
という事になり、ようやく市内に入る一歩手前で寄り道し、瀬戸内海沿岸の小さな漁港の防波堤に向かい、そこで暫く夜釣りを見物していた。
ところが、
「防波堤から人が落ちた!」
「溺れかかっている・・・」
と、
釣り人その他見物人が騒ぎ始めたとの事。
見れば目の前の海で今にも溺れかかって手足をばたつかせている人間を認めた。
見るに見かねて自分が海に飛び込み、救助した。
無事救助を終え、何事も無かったかのごとく帰宅した。
何と、朝起きてみたら昨夜の出来事が、朝刊に載っているではないか!
「まずい!」
(彼曰く、こ以下のくだり、新聞報道後に分かった事・・)
何とたまたま、その夜釣りの名所?に居合わせた釣客乃至見物人の中に、報道関係者が居合わせた。友人の勇気ある振る舞い、しかと見届けたジャーナリストは直ちに翌朝の進運記事の地方版を飾る次第となる。
「今から出社すると、昨日の直帰報告がばれる!」
昨日夕刻、会社の上司には自宅に直帰すると言いつつも、寄り道をして帰った事、これで全部バレてしまう。
つまり、
「サボっていた事がばれるから、非常にまずい!この新聞記事で、言い訳のしようも無い!!」
と、思いつつ、出社する。
出社と同時に、上司から呼び出され、当然ながら形通りのお叱りを受けた。
(上述、本人の言)
しかし、結果的にまず警察から「表彰」を受け、新聞記事では「褒められ」ていたとの事、、、。
この美談、話の流れ、いかにも彼らしく、まだ駆け出しのサラリーマン、いや、駆け出しの中間管理職といったところ、立ち居振る舞いはいかにも壮健質実にて朴訥としている。
私は彼をよく知っている。
善人であり、豪快に仕事をこなし、会社に対する忠誠心は高く、且つ気風の良いダンディーな男。

しかし、この彼をしての善行に関し、良かれ悪しかれ、報道が一枚加わると面倒が多い。
特にこの手の「人命救助行為」は、命懸けの善意の行為を行なわんとする人物にとって、報道が如何に取り扱おうと問題にしていない、心豊かにして潔く、当然ながら大きな人物のはず、、、。

人命救助という美談!
ジャーナリズム世界においてこの種の報道が成される場合、手段方法が大きく分かれ雑然としてくる。あえて意図して人命救助の美談を消去したり歪曲して報じたり、あえて大きく捉えたり、なかなか真実が伝わらない。
つまるところ、報道が絡むとややこしくなる。

不肖エセ男爵ブログには、ブログで知り得た気心の通う仲間がいる。
本日記事、いつも不肖エセ男爵ブログ記事をご愛読頂き、且つウイットと専門知識に富んだコメントを付けてくださる「tonoさん」こと「G殿下」昨日記事「ホームからの救出報道に・・」に宛てトラックバックするを意図して記事にした。
数日前にご自身のブログサイトを開かれ、まだ1週間と経たない"Blog's Newface"をご紹介したい。
一点の曇り澱み無き、無垢の愛国心をもたれた九州男子。歯切れよく展開されるG殿下ブログ記事は、いかにも凛として清々しい。。。

さて、
ますますもって報道世界の狭隘さ、世に満ち溢れる「今日この頃」ですね。

以下、広義に於ける日本国民と日本国家の安全並びに世界平和維持のための大前提があること、忘れてはならない。
すなわち、
「自らの命」を懸けて、殺傷される危険を冒しての「人道支援・人命救助」といえば、直ちに思い当たるのが「日本陸上自衛隊」の国際活動である。イラクにて活動中の陸上自衛隊は、晴れて撤収決定の旨、報道された。
しかし、我国マスコミの報道は、いかにも食い足りない。
マスコミの「視て見ぬ振り」は、許されない!
マスコミはもっともっとねぎらいの言葉と敬意を表す。そういう報道をしてほしいです。撤収作業は、イラク駐屯自衛隊の行なう行動の中、今までのいかなる行動よりも、最も困難かつ危険な行動。無事撤収作業を終えられ各隊員全員そろって元気に郷土の地を踏まれん事、心よりお祈りいたします。
また、読者の皆様に於かれましては、夫婦親兄弟を愛するがゆえに無事を祈り続けられた「隊員のご家族」と同様のお気持、あらためてお持ち頂きたい。以って、ようやくこの度、無事帰還される隊員諸氏に対し、ねぎらいと感謝の心を持って「無事なる日本国内到着」をお迎えしようではありませんか!

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<添付画像>:
『この国を、なぜ愛せないのか(論戦2006)』櫻井よしこ著

 約一週間前に購入。今じっくりと時間をかけて講読中!
感想文、あらためて記事投稿したい。

この国を、なぜ、愛せないのか~論戦2006

ダイヤモンド社

このアイテムの詳細を見る

小説「フォワイエ・ポウ」7章(第39回掲載)

2006-06-20 16:16:30 | 連載長編小説『フォワイエ・ポウ』
Duch Beer from wikipedia

本田マスターの大好きなオランダビール[Duch Beer]、ビール党の方も、そうでない方も、「フォワイエ・ポウの応援」宜しくお願いいたしたく、下記ランキングバーのクリックを・・・!

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              7章
                           著:ジョージ青木

   1(転換期)―(2)

翌日の早い時間、出勤前の木村栄が顔を出した。
しかも彼女ひとりの来店である。
「いらっしゃい、さかえさん。おひさしぶりですね、お元気でしたか?」
「本田さん、いや、マスター、お久しぶりです。私このごろあまり元気ない。この月曜日から昨日まで3日間、お店休んだの。今日も店に出たくないなあ~・・・」
タバコを取り出し、吹かし始めた。
「珍しいな、さかえさんがタバコを吸うなんて・・・」
以前から木村栄がタバコをやっていることは本田には分かっていたから、特に驚きはしなかった。
「ところでさ、本田さん。いや、マスター」
「さかえさん、マスターと呼ぶのは止めてくれないかな。さかえさんからマスターって呼ばれると、どうもしっくり来ない。おたくの店、サンチョパンザのタコ・マスターみたいじゃないか。なんだか嫌味(いやみ)に聞こえるよな~」
「本田さん、そんなことない。うちのマスター、本田さんの大フアンです。ですから、あまりタコ呼ばわりしないで。だってかわいそうじゃない・・・」
「なんだ、タコ呼ばわりはさかえさんから習ったのだから、私のオリジナルじゃないよ」
「・・・」
本田との会話のやり取りに対し、木村栄は声を出さずに笑って聞いている。
「ま、冗談だ、本気にしないで、冗談だよ!私だってもちろん彼を尊敬しているよ。いろいろとよく勉強しているし、私だって彼から業界のことたくさん教わっているし・・・」
あえて冗談めいた本田の話しを聞いていた木村栄は、ようやくリラックスした気分になった。
「あの~、実は、今日は、ちょっと教えてほしいのです。お尋ねしたいことがあるの、昨夜の事で・・・」
「昨日の事?」
「はい、昨夜夜遅く、サンチョパンザのお客さんと一緒に、美智子さんが来たでしょう」
「ウム、そういえば、店を閉めようかと思っていたら、なんだか電話がかかってきた。バイト生が電話をとったので、内容はよく分からなかった。でも、それから2人連れで、誰か来た・・・」
「本田さん、もう忘れたの。美智子よ、開店祝いで最初に連れてきた子、あの子ですよ。山本美智子がうちのお客を連れてきたの・・・」
「え~、そうだったのか。ぜんぜん覚えてないよ、山本美智子という名前すら忘れていた。それは山本美智子さんとやらに、たいへん失礼したな・・・」
「そうだろうと思いました。そこが、本田さんらしいんですよね。若い女性のお客さんに対して、全く意識がないの。商売気もないし、特に女性客を無視しているのだから」
「そうかなあ~」
「まあ、そんなことだろうと思っていました・・・」
「いや、名前思い出せなくて、たいへん失礼しました。でも、それ以外に、なにか私が粗相でもしたのか? それはないと思うが・・・」
「いいえ、フォワイエ・ポウ側の粗相なんて、全くありません。それとは別に、いや少し関連してますけど、私の話があるの・・・」
木村栄がここまで話したとき、にわかに3階の通路が賑やかになり、数秒も経たないうちに店のドアが開いた。
「こんばんは! マスターお久しぶりです。ちょうど10人ですが、奥のボックス使っていいですか? 空いていますか?」
入り口のドアを半開きにし、眼鏡ばかりが目立つ小さな顔をドアに突っ込んだままJGBの栗田係長が声を出す。
「あ~、栗田さんお久しぶりです、空いてますとも!どうぞお入りください。さ、どうぞどうそ」
「皆さん、空いてますって。よかったな~ 空いていて良かった!
サア~ みんな入った入った・・・」
あいかわらず、栗田の機嫌は今夜もすこぶる良いのである。
顔ぶれは、ほとんど女性。五反田と歌姫の檜木田に加え、なんと今日は太田君が加わっている。
「栗田係長、みなさん、水割りでよろしいですか?」
「はい、水割りでOK、マスター任せです!」
「了解です!」
木村栄の話を聞こうとしていた本田が、にわかに忙しくなったのを見ていた木村栄が、小声で本田に声をかけた。
「ちょっと、私、すこしマスターのお手伝いしましょう。水割りのセット、私が運びますから、マスターはカウンターの上にグラス、それからアイスペール。そう、先に、おしぼり! そう、本田さんはチーズクラッカーセットの用意だけに集中しておいてください。あとはご心配なく。お運び、私が全部やってしまいます・・」
本田に指図するための口が忙しく動くが、身体も動いている。通常、忙しくしゃべるとしゃべっている間の身体は止まるものである。が、木村栄の場合は身体も止まらない。
「ごめんね、さかえさん、では遠慮なくおねがいします!」
さすが、木村栄の手際は良かった。みるみるうちに、しかもスマートに、自然に、本田自身がセットするよりも数倍の速さで最初の手順を立ち上げた。
(さすがだ! さすがに違う。やはり、さかえさんはプロなのだ!)
(水割り作るの、なんと、こうも早いのか!決してもたつかない。そして、動作が、所作がきれいだ!)
木村栄の立ち居振る舞いを一部始終観察していた本田は、なぜかうれしくなった。が、しかし、本田の感謝の気持ちを木村栄に伝える時間がなかった。10人の団体客は、すぐさまカラオケを歌い始めた。予約に次ぐ予約、カラオケの予約はすでに30曲になっていたのに本田は気が付かなかった。客からのリクエストは木村栄が受けつけているし、メモを整理しながらカラオケの操作までこなしているのだ。
「さかえさん、どうもありがとう。助かったよ。こんなときに限ってバイトの連中のシフトが噛み合わないんだよな・・・」
本田は声をかけた。
「そうか、私、実はわたし、今日フォワイエ・ポウに入ってきた時、それを心配していたの。だれか、バイトの学生さんがドタキャンでもしたんじゃないか、今日になって急にバイト生が休んでしまったのかも、なんて・・・」
「違う違う、今から来ますよ。今日は遅番で組んでしまった。8時半からの勤務になってるからね。でも、ここまで手伝ってもらったら、もう大丈夫・・・」
「それをお聞きして安心しました。もうすぐ8時、私は今から店に入ります」
「あ~ そうなんだ、申し訳ない、さかえさん・・・」
「いえ、大丈夫、タコのマスター知ってるから、私がフォワイエ・ポウによってくること知ってますから心配ないの・・・」
「ありがとう、マスターに宜しく!」
「・・・」
「そうだ、さかえさん、貴方の話したい事、なに? そうか、もう聞く時間がないよな、どうしよう?」
「いや、大丈夫です。今夜、店がはねてから、もう一度フォワイエ・ポウに来ますから、その時に・・・」
「なんだって、今夜、もう一度来る?」
「はい、来てはいけませんか?」
「もう一度今夜、ここに来るのだね? 必ず?」
「はい」
「了解。その時にしっかりと聞かせて頂きましょう」
「マスター、お会計して下さい」
生ビールを2杯飲んでいた木村栄は、律儀にもお金を払おうとした。それを本田は断った。
「いいよ、さかえさん。バイト料だ。逆に私のほうが貴方にお金払わなければならなくなった。とにかく、受け取れません。さあ早く行った行った、早く出て!いいから、早くお店に出ないと・・・」
「ありがとうございます。あ~ 今から店に出るの、気が進まない。でもしかたないから店に出るか」
「なにをぶつくさ言ってんだ。フォワイエ・ポウを手伝う元気があるのに、本職の方はやる気が起きないの?可笑しいな~」
「・・・」
一旦明るくなり、元気にフォワイエ・ポウを手伝っていた木村栄は、いざ自分の勤務先への出勤となると、また元気がなくなっていた。
「もういちど元気出して、行ってらっしゃい!」
「わかりました。元気出します。いまからお勤めに行ってきます。それで、仕事終わったら、今夜、必ずもういちどお酒のみに来ますからね・・・」
「かしこまりました、さかえさま」
「・・・」
「とにかく行ってらっしゃい・・」
「・・・」
「そして今夜は、さかえお嬢さまのために特別にお夜食などをご用意し、必ず、お待ち申し上げております」
「・・・」
うつむき加減、顔を下に向けたまま、いささか照れた感じの木村栄は、自分から本田には何も返事をせず、フォワイエ・ポウを出て行く。
本田は木村栄に対し、いかにも真面目そうな表情で、このセリフをしゃべった。
自分としては単なるジョークのつもりで、わざと馬鹿丁寧に対応した本田の言葉は、嫌味のないセリフとして彼女の耳に届いた。ジョーク、軽い冗談のつもりで喋ったセリフが、木村栄にはジョークになる一歩手前の爽快さとなって、彼女の心に届いていた。
本田の店を出た。サンチョパンザに向かう道中は、今夜も彼女にとって十分に考える時間があった。店に向かって歩きながら、何度も本田のセリフを思い出し、自分が同じセリフを繰り返し喋ってみた。
本田のセリフを言われた対象、つまりそのセリフを受けた自分自身をふり返ってみたら、やはり可笑しくなった。考えれば、図らずも本田から、あたかも中世の貴婦人に対する言葉を受けた。こんな言葉がスムーズに出てくるのは、本田らしくない。いや、本田らしい対応なのかもしれない。
思いがけない本田のセリフを思い出しながら歩いていたら、木村栄は訳もなく可笑しくなった。むしょうに笑いたくなってきた。ジョークになっていないセリフは、木村栄を微笑ませ始めた。本田のセリフを自分で繰り返せば繰り返すほど、彼女の気分は爽快になり、一両日にわたって鬱蒼としていた気分は転換し、気分よく足が動く。いつのまにか1人で笑いながら、木村栄は夜の繁華街を歩いていた。1人で笑いながらも、周囲の他人の視線は全く気にならなくなっていた。

      <・続く・・>

(小説フォワイエ・ポウ既掲載分、ならびに前号確認などは、こちらから参照可能です)

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PS:
ビールの美味しい季節になりました。同じ飲むなら美味しく飲みたいものです。常識だ!と、ビール通の方にはお叱りを受けるかもしれませんが、一度ご覧になってください。間違った知識、古い知識など、本当に美味しいビールの飲み方誤解しているかも?
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光陽展「広島展」によせて(5/6)-1 「作品:ティータイムから、フェルメールを連想する・・」

2006-06-19 16:45:50 | 怒素人的美術蘊蓄録
("Milkmaid" (1658-1660) by Johannes Vermeer, from Wikipedia)

 本日の「光陽展の展覧会」鑑賞感想文は、『ティータイム』について・・・

 ・・を、書かなければなりません。

 実は、作品「ティータイム」を観ていると、なぜかフェルメールを思い出した。理由は次回に述べる。

 そして本日、まずは、フェルメールの代表作をご覧頂きたい。

 評論家や美術史家の多くは、「真珠の耳飾の少女」を、フェルメールの代表作とするようであるけれども、我輩はこちらの「牛乳をそそぐ女」(アムステルダム国立美術館蔵)の方を選びたい。

 このフェルメールの絵画を思い出させて頂いた光陽展広島展の出展作品「ティータイム」に多大なる賞賛を送り頂きたく、是非、下記ランキングバーをクリックして下さい。

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  <・続く・・(次回掲載予定、6月28日水曜日)>

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(参考資料はこちらから・・)

(前回掲載「光陽展」鑑賞感想記事はこちらから入れます。)

「光陽会」(会本部ホームページはこちらから入れます。ホームページ内には、今回展覧会作品の受賞作等、もっと上質な画像をご覧になれます)

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『ヨハネス・フェルメール』について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

真珠の耳飾の少女 (1665年頃)ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer, 1632年10月31日-1675年12月15日)は、17世紀にオランダで活躍した風俗画家である。レンブラントと並び17世紀のオランダ美術を代表する画家とされる。生涯のほとんどを故郷デルフトですごした。
最も初期の作品の一つ「マリアとマルタの家のキリスト」(1654-55頃)にみられるように、彼ははじめ物語画家として出発したが、やがて1656年の年記のある「取り持ち女」の頃から風俗画家へと転向していく。 静謐で写実的な迫真性のある画面は、綿密な空間構成と巧みな光と質感の表現に支えられている。
現存する作品点数は、研究者によって異同はあるものの33~36点と少ない。このほか記録にのみ残っている作品が少なくとも10点はあるが、記録に残っていない作品を勘案しても22年の画歴に比してやはり寡作というべきだろう。(続きは、こちらから入れます)

光陽展「広島展」によせて (4/6)-3 並ぶ優秀作品・・

2006-06-17 18:08:47 | 怒素人的美術蘊蓄録
(添付画像:光陽展広島展・「晩夏の浜」(左)と「ティータイム」(右)

<作品の紹介>(右側の作品)

 作品番号: 46
 作者氏名: 北 川 悦 子 (会員)
 作品題名: 『ティータイム』
 受賞名:  会員奨励賞
 住  所:   東 京

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 左側作品「晩夏の浜」です。既に掲載済みの画像を2枚と、見比べて頂きたい。おしろい対比、可能かどうか、、、。

 さて、読者の皆様それぞれ、発色が違うと思います。ならばこの画面での「晩夏の浜」は如何? 以前掲載2枚の作品の、いずれと同じ発色でしょうか?

 面白いもので、同じ絵画を撮影しても、全体の露出(被写体の光量とシャッター速度)は、変わってくるから発色が違ってきます。 この距離からですと、隣の作品『ティータイム』とのバランスから、むしろ「晩夏の浜」を色彩再表現にするには、一番平均的な露出ができているのではないかと思います。

 さて、如何でしょうか?・・・

   <・続く・・>

  (次回感想文掲載予定は6月26日月曜日。もちろん、鑑賞感想文は『ティータイム』について・・・)

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光陽展「広島展」によせて(4/6)-2『晩夏の浜』、続編

2006-06-17 15:42:45 | 怒素人的美術蘊蓄録
(添付画像:光陽展広島展・「晩夏の浜」)

<作品の紹介>

 作品番号: 78
 作者氏名: 渡 瀬 泰 志 (会員)
 作品題名: 『晩夏の浜』
 受賞名:  会員奨励賞
 住  所:   静 岡

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 先ずは御礼申し上げます。

 昨日記事(当日記事のオリジナル投稿)について、いつもながら多くのコメントをお寄せ下さり、たいへんありがとうございます。お寄せいただいたコメントそれぞれの読者様には、毎度ながら個々のコメントのお返しをするところ、一夜考えました。

 そして、
 コメントをお返しするよりももう一度本日あらためて、昨日関連記事続編を掲載させて頂きたく思いました。読者の皆様、是非もう一度、異なる視点と感性から、作品「晩夏の浜」をご紹介申し上げるに至りました事、どうぞ宜しくご了承頂きます様お願い申し上げます。

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 さて、
 
 昨日の添付画像は、本日の画像(オリジナル)から「明るさ」と「コントラスト」を増加し、さらに緑色と青色の「ガンマ値」をわずか10%程度増感したものである。
 加えて繰り返すが、本日の画像が、当日撮影のオリジナル版である。

 さて、こうして比較してみると、いかにも本日の画像全体は灰色に呆け、昨日の画像より鮮明さに欠ける。もって、昨日の画像はトリミングされたものであるけれども、鑑賞者の「当日のイメージ」により近い「作品イメージ」を追求した結果、上述内容での「画像調整」に至ったものである。
 やはり昨日画像の方が、緑と青の色調と全体のバランス、美術館展示中のものを「回想」するに、昨日の青と緑の色調に近いものであること、明らかである。

 したがって、究めつけは、
 こうして異なる画像を比較しても、水面及び背景に漂う赤色系等の色調は、本来存在するものである。と、確認できる。

 すでに昨日記事にて、この絵画の製作背景ならびに作者の製作意図など、鑑賞者の眼で追及し、思いを馳せた。
 しかしながら、美意識、感性と感受性、美術表現に対する人間の反応は、それこそ千差万別にて、1千人の鑑賞者に1千通りの異なる評価と異なる判断は可能となる。
 しかし、この絵画の中の小舟、誰が見ても「廃船」に見える。なぜなら、本来無いところに水がある。すなわち「舟の内壁内部」に水が溜まっている。しかも、夕立でふった水が溜まった程度にしては多すぎる水であるから、すでに廃船となった舟、放置されている舟に溜まった水。と、推測するのが妥当であると思う。
 昨日の最後の「くだり」、すなわち、小舟を「茶器」に例え、中の溜まった水を「茶の湯」に喩えた「くだり」。について、あまりにも、過ぎる喩え(例え)かも知れない。破棄されたものに溜まっている水を(茶の湯に喩えて)飲むなんて、度が過ぎているかもしれない。しかし、あえてそう感じたい意識が、なぜか作用した。

 壊れていくものに対する「美」意識。
 廃棄物に対する「あわれさ」を感じる感性。

 たしかに、あると思う。この絵の中にある。そして鑑賞者自身、鑑賞後の当初は、そう感じた。今もその印象は残っている。

 この絵画を観ていて、なぜかしかし、上記のような感情を持たくない鑑賞者が、今、ここにいる。
 
 滅んでいくもの、壊れていくもの、破棄され、捨て去られて往くものに対する「同情」や「あわれさ」、あるいは美しさを感じない「鑑賞者」、この絵からは「上述の印象」を受けない鑑賞者、今まさに、ここに存在する。。。

 何故か、なぜに、そう感じないか・・・

 理由を見つけ出している。

 何度見ても、この水は腐っていないし、生き生きしている。小舟の船体の小さな空間、数週間あるいはそれ以上の時間、この体積の内部に閉じ込められた「腐った水」には見えてこない。少なくとも我輩の眼には、そう写るのである。加えて、廃船は幾度か見ている。廃船の惨たらしさは、生に直視している。そして、この絵からは、その無残さと荒涼さは感じない。

 究めつけは、若し、この小舟が廃船ならば、このように水をたたえるだけの気密性は既に無いはず、ならば、この水も溜まらない。加えて、背景に見える木造船は現役船であり、廃船ではない。廃船ならば、かのように地面に対して垂直に、木造船を浜に引き上げ、管理しない。

 さあ、もう一度、この絵画を観て頂きたい。そして再度、この作品の作者に謝辞とエールをお贈りしたい・・・

*渡瀬泰志氏作品「晩夏の浜」、たぐいまれなる水面(みなも)表現の絵画芸術。
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