たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

歩きたくなる社会 <地方暮らしの「足」どう確保?>を読みながら

2019-04-11 | 事故と安全対策 車・交通計画

190411 歩きたくなる社会 <地方暮らしの「足」どう確保?>を読みながら

 

今日の花は「雲間草(くもまぐさ)」です。<雲間草(クモマグサ)の花の写真・花言葉・名前の由来>によれば、花言葉は<「活力」「自信」「愛らしい告白」「深い愛情」「活動」「可憐な瞳」「遠い思い出」>と盛りだくさんです。人間の複雑な感情の賜物でしょうかね、花言葉ですからそもそもそれぞれのことばに関連性を見いだそうなんてことは考えない方がいいのでしょう。この中で自分が気に入ったら、選べばいいのでしょうか。

 

といいながら、今日の見出しのテーマになにかと関連づけしてこれから書いてみようかとふと思ってしまいました。

 

さて記事410日付け毎日夕刊<特集ワイド進む高齢化 地方暮らしの「足」どう確保? 車を持たず、助け合いで 運転はリスク>です。このブログでも以前なんどか取り上げた車を持つか持たないかについて、地方での暮らしの中でその問題と各地の対応策を取り上げています。

 

奥村隆記者は<地方都市での生活には自動車が欠かせない。「移動の足」としての利便性は疑う余地がないが、超高齢化社会に突入し、運転はリスクでもある。「地方創生」が提唱されて久しい今、あえてマイカーを持たずに生活する方法を考えた。>と切り出します。

 

東京を含む首都圏での生活が長かった私自身、長く車を持たない、乗らない生活をしていました。車を持つようになってもたまに乗るくらいでした。ところが、当地にやってきてからは乗らない日がないというくらいのヘビーユーザーになりました。といっても運転の危険と腰痛などのため長距離運転はよほどのことがない限りとしません。10分、20分程度のリスクの少ない、のんびり運転です。

 

ところで奥村記者は、まず、社会のあり方として、<藤井聡・京都大大学院教授(都市社会工学)の持論>である<地方創生には「クルマ依存症」からの脱却しか道はない>を持ち出します。

 

その理由が明解です。<モータリゼーションの進展で鉄道が寂れ、駅前商店街はシャッター通りになり、地元商業に大きな打撃を与える。一方、郊外に建てられ、広い駐車場が整備された大型ショッピングセンターには地元の住民らが集まるが、「地域外の大資本」によってつくられた店であり、利益の大部分は地域外に流出する。つまり住民の金が大都市に吸い上げられる構図で、地域経済はさらに疲弊する。地元自治体への納税額も減り、行政サービスは劣化する>というのです。

 

このこと自体は、90年代から2000年代にかけて一部で(あるいは多くが?)言われてきたかと思います。私も、日弁連の07年の人権シンポではそのような視点から、脱車社会を取り上げた一人でした。LRTやコンパクトシティなど各地の取り組みを調査したものでした。

 

ただ、藤井氏のように、<「クルマに乗らずに歩きましょう」>とまでは言えませんでした。ただ、たぶん当時ならまだ地方の車依存社会の実態を知らなかったので、つい言ってしまったかもしれません。藤井氏もKBS京都のラジオ番組で訴えているということで、京都は最近地下鉄も普及していますし、歩くにいい環境ですので、いいやすいですね。私もずいぶん京都の中を歩き回りました。どこを歩いてもとまでいいませんが、とても歩くのに風情のあるまちなみです。とはいえ、京都のまちなみ景観、自然景観は発展進化の名の下に、壊される一方で、それを見るのも疲れますが。

 

ところで、藤井氏が<次世代型路面電車(LRT)を導入した富山市や、ローカル鉄道を再生して地域の足を確保した和歌山市など、各地の成功例を紹介している>そうですが、和歌山市が出ているのには驚きです。ローカル鉄道というのは和歌山駅から貴志駅までを走る和歌山電鉄貴志川線のことでしょうか。たしかにローカル鉄道としては頑張っていると思いますが、それでも日常生活の足としてどのくらい利用されているかとなると、それほどではないような印象です。私自身、数回しか利用したことがないので実際のところわかりません。だいたい、和歌山市中心街にはいわゆる路線電車がありません。バスだとやはり不便です。橋本から和歌山までJR和歌山線が走っていますが、のんびりしていてよいものの、通勤というレベルだと少し遅すぎ、本数も少なすぎます。そして和歌山駅から中心街に行くにはバスを利用すると、乗換も含めとても時間がかかりなかなか利用する気になれません。長くなりましたが、藤井氏の成功例という表現をどうとらえたらよいのか悩むところです。

 

また富山のLRTも一定の評価はできますが、これも以前指摘したことですが、そもそもLRTは単に段差がないといったこと以上に、車掌がいない、改札がないなど、利用ルールがとてもフリーなのです。私もカナダ・カルガリーで滞在中、車依存であっても利用の便利さを感じさせて、LRTの気軽さを楽しむことができ、よく利用したものです。そういったソフトの改革がなされてなく、またLRTにあうような都市計画づくりをしているかといえば、遠い道のりという印象です。それでも他に例がない導入ですから、市長のやる気はほんものでしょうけど、最近話題になった市議の不正支出など議会改革も必要でしょうね。現行の都市計画(藤井氏が指摘する郊外開発の制約がない)でつくられた町では、なかなかLRTを有効に活用することができないように思います。

 

また、藤井氏の指摘する経済的リスクということでしょうか、興味深い計算が紹介されています。

<年間5000人が交通事故で死亡している現状を前提に、ドライバー1人当たりの事故発生率を割り出し、50年間運転し続けると仮定すれば、確率的には125人に1人が事故で人を死なせる計算になる。>この確率論というか、計算は私にはどうも理解できません。でも、50年間運転し続けるという仮定自体、ちょっと無理筋かなと思いつつも、自分の運転で事故死を招く可能性は無視してよいといった甘い理解に立ってはいけないという渓谷としてはよくわかります。

 

ともかく自動車運転のリスクは若年層(保険料率が示していますね)だけでなく、高齢化すると高くなることはまちがいないわけですから、車依存症から脱却する方策を考える必要がありますね。

 

<東北工業大名誉教授の山下三郎さん(84)>が<依存症からの脱却を試みたが諦めた人>として紹介されています。地方暮らしでは無理というようです。<「コンパクトシティーとかスモールタウンにして、徒歩圏で暮らしが成り立つようにする必要があります。でも地域ごとに事情が違うので難しいでしょう」と浮かぬ顔だ。>とあきらめ気味ですね。

 

私のいとこも今年80才、神戸で暮らしていますが坂の多いところで、免許証返納を悩んでいます。コンパクトシティを掲げる都市の一つとして神戸市があげられていますが、高齢者は認知症のリスクもありますが、足腰が弱ったり、重い病気を抱えていて坂道を上り下りすることは容易でないといった人も少なくないのです。神戸の坂は有名ですね。どんなコンパクトシティを考えているのでしょう?

 

戦後自由奔放に開発が促進されてきていわゆるスプロール化して膨張した各地の都市構造は、なかなか車依存を脱却することができにくいのではないかと思います。

 

歩くことが困難になってきた人には、カーシェアリング思想にAIを活用した仕組みを活用しやすくするとか、車依存を緩やかに脱却できるような仕組みの構築が急がれると思うのです。いまから隣の人は何する人ぞといった都市内で、物理的な地域コミュニティを構築する以上に、AIを活用したコミュニティが使い勝手がよいのではと思うのです。

 

また遠い将来は別にして、この遠く離れた位置にあるさまざまなインフラを利用するのに、物理的な移動に代えて、医療、介護、行政サービス、さまざまな領域でAIITによるサービスが受けられるようにできれば、歩行圏内ですべて処理できるようになるかもしれません。

 

といいながら、他方で、歩くという人間にとっても最も本質的な動作を、誰もが少しでも多く行うよう、意識改革が求められているのではないかとも思うのです。そういう私も、ほとんど歩かない日々を送ってきましたが、最近ようやく、スマートウォッチを携帯し、日々の歩行数を増やそうとする意識が芽生えています。

 

<「国土強靱(きょうじん)化」政策>も大事ですが、なにより一人ひとりの強靱な体力作りではないでしょうか。歩く社会、それが人の「活力」「自信」を生みだしやすい仕組みではないでしょうか。歩いて楽しい社会を作り、積極的に歩きたくなる環境を作ることこそ、必要とされていないでしょうか。歩くのを補助する仕組みとしてカーシェアリングやLRTなどの公共交通機関があってよいでしょうけど、基本を「歩く社会」にすると、見方が変わるのではとふと思ってしまいました。

 

最初の花言葉「愛らしい告白」「深い愛情」以下にはなかなか結びつきませんでした。

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。

 

 

 

 


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