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白夜の炎

原発の問題・世界の出来事・本・映画

福島・偽装請負

2013-03-12 11:55:26 | 原発
 ようやく実態が見えてきたということではないだろうか。

「原発要員計画が破綻 福島第一、半数が偽装請負の疑い
朝日新聞デジタル 3月12日(火)5時54分配信
 【佐藤純】東京電力福島第一原発で働く作業員の要員計画が破綻(はたん)し、政府が見直し作業に入ったことが分かった。違法な偽装請負の状態で働く人が約半数に上る疑いが浮上し、適法な作業員だけでは足りない恐れがあるためだ。業界の慣行である偽装請負に依存しない新たな計画を打ち出せるかが焦点となる。

 政府と東電は昨年7月にまとめた工程表で、年間最大1万2千人の作業員が必要と試算し、2016年までは「不足は生じない見込み」と明記。福島第一で働く際に必要な放射線業務従事者の指定を昨年5月までに受けた2万4300人のうち、高線量を浴びた人を除く2万3300人を「再び従事いただける可能性のより高い母集団」と位置づけ、要員確保は十分可能と説明していた。

 ところが東電が昨年9~10月に作業員4千人を対象にしたアンケートで、「作業指示している会社と給料を支給している会社は同じか」との質問に47%が「違う」と回答。下請けが連なる多重請負構造の中で偽装請負が横行している実態が判明し、経済産業省は2万3300人を「母集団」とみるのは困難と判断して6月までに工程表を見直す方針を固めた。被曝(ひばく)記録より高い線量を浴びた人が多数いることも発覚し、「母集団」の根拠は揺らいでいる。舟木健太郎・同省資源エネルギー庁原発事故収束対応室長は「労働環境の改善は重要。工程表全体を見直す中で要員確保の見通しを検討する」と話す。」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130312-00000008-asahi-soci

福島原発の現状/地球座より

2013-02-27 14:43:49 | 原発
「福島原発事故後2年、炉内の状況はなお深刻 ~ 朝日新聞が、決死的な潜入ルポ
2013年 2月 26日 時代をみる 池田龍夫
<池田龍夫(いけだたつお):毎日新聞OB>

廃炉作業が進められている福島第1原発の1~4号機について、東京電力が現状報告を怠っているので、炉内の状況がサッパリ分からない。心配でたまらなかったが、朝日新聞2月21日付朝刊が潜入ルポを伝えた。原子力規制庁検査官に同行したもので、高濃度汚染の各炉を4時間にわたり見て回った報告は貴重だ。規制庁検査官の現地調査を察知、危険を押して同行取材した努力は、特筆に価する。

汚染水が激増、4号機には近寄れず

「1~3号機で溶けた燃料を冷やした水と、建屋に流入した地下水が混ざって汚染水は増え続けている。汚染を除去しきれず、敷地内にタンクで保管している。2011年7月に約1万㌧だった汚染水は、今年2月には23万㌧に増え、今も1日数百㌧ずつ増えている。汚染を取り除いたとしても処理水の海洋放出は当面難しい。1~3号機建屋は現在も放射線量が非常に高く、作業員が容易に近づけない」との報告に肝を冷やした。

最も危険視されている4号機については、「4号機建屋最上階からは鉄骨がぐにゃりと曲がって鳥の巣のようになっている建物が見えた。炉心溶融事故で水素爆発を起こした3号機の建屋だ。4号機にいる作業員の姿はない。無人操縦のクレーンが屋上のガレキを撤去していた」と記しており、特に4号機には潜入できるような状態でなかったようだ。

屋根が吹っ飛んだ4号機上部には、使用済み核燃料約1500本が保管されたまま。昨年2本だけ引き抜いたが、全部撤去するには10数年かかるという。欧米諸国が最も危険視しているのは4号機で、1日でも早い決着が望まれる。

廃炉作業の完了は2050年ごろ?

原子炉の圧力容器底部の温度が100度以下になり、放射性物質の放出を管理、被曝線量を大幅に抑制できることを「冷温停止状態」というが、その状態がほぼ達成されたとして、2011年12月に野田佳彦首相(当時)は「冷温停止」を宣言した。しかし、格納容器や建屋の密閉機能を失い、核燃料がどのようになっているのかも分からず、長大なホースを引き回した仮設装置で注水を続けているのが現状という。

安倍晋三政権は「福島第1原発廃炉対策推進会議」を立ち上げたが、以上の潜入報告が伝えたシビアな現状を見つめ、「まだまだ冷温停止と言えない状況だ」と、国民に伝える責任がある。東電に対しても、必要な情報開示の徹底を厳命すべきだ。

東電は2015年までに敷地内に70万㌧収容可能なタンクを増やす計画というが、これとて中間的対策に過ぎない。原子力規制庁福島第1原発規制事務所の小阪淳彦所長は「放射能が局所的に高いホットスポットもいまだに把握しつくされていな」と述べており、廃炉作業完了は、2050年ごろと言われている。こんな状況下で、原発再稼働や新増設が論議されていることなど、時代錯誤ではないか。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/

http://chikyuza.net/n/archives/31372

隕石が落ちたチェリヤビンスクとはどういうところか/日刊ベリタより

2013-02-23 18:50:21 | 原発
 隕石落下で話題になったチェリヤビンスクは、ソ連時代の核開発拠点の一つであった。

 今も関連施設が残るこの地域に隕石の直撃がなかったことは、人類にとっての幸運だった。

 それにしても、隕石が落下するぐらいの危険、といえばほとんどないに等しいことの例えだが、あるんですねぇ-。

「【たんぽぽ舎発】ロシア、チェリャビンスクに隕石落下-ロシアの核施設からわずか90キロの近さ あわや第二のチェルノブイリ   山崎久隆


 「異常な天災地変とは隕石落下など」と説明されて、「まあそんなことは、ほとんどあり得ない」と妙に納得していたのではないだろうか。2月15日にロシア、ウラル地方に落下した隕石は、最も近い町の名前が「チェリャビンスク」と聞いたとたんに、背筋が凍り付いた人もいたであろう。ソ連時代に核兵器開発の拠点だった「秘密都市チェリャビンスク65」と「プルトニウム生産施設マヤーク核施設」は、核実験場とともに、旧ソ連の大規模放射能汚染現場になった施設だからだ。

 東西冷戦時代に、米国と競った核兵器開発競争で発生した大量の放射性廃棄物が、チェリャビンスクの近郊テチャ川に捨て続けられた。また、核兵器の開発のためにプルトニウム生産が行われ、それが1990年まで続いた。

 1957年9月29日、この原子力施設で爆発事故が発生した。当時5基の原子炉と再処理施設を有していたマヤーク施設で、高レベル廃液を貯蔵していたタンクの冷却装置が故障し、崩壊熱で高温になった廃液タンクが爆発した。
 爆発規模はTNT火薬に換算して70トンほどで、およそ1000メートル上空まで放射性廃棄物を巻き上げ、北東方向に幅約9km、長さ約105kmの帯状で汚染地域を形成、約1万人が避難した。これら避難者は1週間の間に平均520ミリシーベルト、最高720ミリシーベルトを被曝した。レベル6の事故とされた。チェルノブイリ原発事故までは史上最悪の事故だった。

 隕石が落下したのは、この地域である。ここには再処理工場から出た放射性廃棄物貯蔵施設があり、BN600と建設中のBN800高速増殖炉がある。

 隕石は空中でいくつかに分かれ、大半は大気圏で燃え尽きたとみられるが、近くの湖などにも落下した破片があり、全部が燃え尽きたわけではないようだ。
 幸い、地上落下ではなかったが、発生した衝撃波で少なくても4474棟の建物に被害が出ている。1158人が負傷し、中には隕石にあたり重傷を負った人もいるようだ。幸い、まだ死者は確認されていない。

 もし、この10~15トンの隕石が、地上の核施設を直撃していたらと思うと、ほんとうに恐ろしくなる。マヤークの核分裂生成物を貯蔵しているサイトから隕石の一部が落下したとみられるチェバルクリ湖との間は90キロメートルしか離れていない。直撃を免れたとしても、核施設周辺に今も広がる汚染地帯に落ちれば、巻き上げられた放射性物質を含む塵が拡散し、再度大規模汚染事故を起こす恐れ
もあった。

 この地域は今でも高いレベルの空間線量を観測している。
 隕石の核施設落下は「荒唐無稽」な話ではなかったのだ。

◆[マヤーク核施設] 中国新聞より
 正式名称は「マヤーク生産協同体」。ソ連時代は、施設内の工場などで働く労働者らが住む秘密都市(現オジョスク市)と併せ「チェリャビンスク65(旧チェリャビンスク40)」のコード名で呼ばれ、地図にも表記されなかった。
 1948年6月、兵器用プルトニウム生産のための最初の原子炉が稼働。半年後の12月には再処理施設も操業を開始。1949年2月、プルトニウムを初めて取り出した。その後、同じ目的の原子炉を5基造ったが、1990年11月までにいずれも閉鎖された。
 このほか、約200平方キロの工場敷地内には、現在も使用中の兵器用トリチウムと民生用のアイソトープなどを取り出す原子炉2基、約60個の廃棄物貯蔵タンク、廃棄物貯水池、高レベル放射性廃液ガラス固化体施設などがある。従業員は約1万5千人。」

http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201302220021015

斑目氏は失敗した-証言 (1)

2013-02-21 16:14:47 | 原発
 以下はJB PRESSより。3.11時点での原子力安全委員長だった斑目氏の証言。

「3.11当時の原子力安全委員会委員長だった班目春樹氏(元東大教授)にインタビューした。直接のきっかけは、2012年11月、3.11当時を振り返った回顧録『証言 班目春樹』(新潮社)が出版されたことである。新潮社の説明によると、この本は班目氏の話を教え子である岡本孝司・東大大学院工学系研究科教授ら数人が聞いてまとめたものだ。著者は岡本教授になっている。


『証言 班目春樹 原子力安全委員会は何を間違えたのか?』(岡本孝司著、新潮社、1470円、税込)
 本を一読して、政府中枢で福島第一原発事故対応に関わったキーパーソンの証言として、非常に貴重な内容が含まれていることが分かった。当時官邸にいた人間の中で、班目教授は数少ない原子力の専門家である。そして原子力安全委員長(内閣への助言機関)という重要なポジションにいた。事故対応で、班目氏が分からなかったことは、他の官僚や政治家も分からなかったと考えることができる。

 原発事故や住民避難対応の失敗について、班目氏にはバッシングに近い激しい非難が加えられてきた。しかし一方、制度や法律枠組みで、本来法的な権限のないこと、任務ではないことまで混同して同氏のせいにして、非難するのは筋が違うと思った。そうした「原子力安全委員長はここまではできるが、これはできない」という制度や法律の制限を無視した批判が多すぎるように思えた。

 また政治家や官僚が失敗の責任を班目氏に押し付けようとしている気配も感じた。そうしたことをすべて含めて「班目春樹・原子力安全委員長から見たら、3.11はこう見える」という話を聞いておきたかった。こうした班目氏にまつわる話には、本人に取材して言い分や反論を聞いた報道がほとんどない。そこで新潮社を通じて取材を申し込んだ。班目氏からは、快諾の返事がすぐに来た。

「自分が知っている事実」を語った班目氏

 インタビューは2013年1月11日午後、東京・矢来町の新潮社の会議室で行われた。時間は約2時間である。机をはさんで班目氏と私が向かい合い、横で担当編集者が立ち会った。インタビュー中は、新潮社側からの介入はなかった。班目氏が回答を拒否した質問もなかった。

 取材申し込みの段階で、班目氏にいくつかの点を伝えた。記者としての私は原発否定論・推進論いずれの立場も取らないこと。班目氏を糾弾したり一方的に非難したりするつもりはないこと。記憶が曖昧だったり、忘れたり、知らないことは無理をせずその旨告げてほしいこと。ニュアンスを読者に伝えるよう、発言をできるだけそのまま書くこと。インターネットという媒体は紙媒体と違ってスペースに制限がないので、一問一答をできるだけそのまま再現すること。言葉をできるだけそのまま再現し、削除したり、強引にまとめたり、書き換えたりしないこと。

 インタビューは非常に内容が濃密だった。著作とインタビューを通じた筆者の印象として、班目氏は誠実かつ率直に「自分が知る事実」を話しているという印象を持った。「誤解していた」「考えが至らなかった」と自分の誤ちや失敗をいくつも認めているからだ。その中には「家に帰って就寝していたら官邸に電話で呼び戻された」など、本来「認めるのが格好が悪い事実」も含まれている。また、自ら言わなければ知られることのなかった誤解や失敗も明かしている。

 世間が言う「学者・官僚がもたれ合う原子力ムラ」とはまったく違って、法律上は原発事故や住民避難の要になるはずだった原子力安全・保安院と経産省がまったく機能しなかったことを厳しく批判している。あるいは過去の原子力安全委員はじめ学界も痛烈に批判している。これはもちろん、班目氏が失敗の責任を他者に転嫁していると理解することもできる。最終的に同氏の発言をどう評価するかの判断は読者に委ねる。

 事故対応で重要な点を挙げておく。

(1)班目氏は、福島第一原発が冷却用の電源をすべて失った後も「直流電源は生きている」と根拠なく思い込んだ。

(2)本来は住民避難開始の「ヨーイドン」になるはずだった原災法15条通報を「水位が見えないための念のための通報」と過小に理解した。

(3)根拠なく「見えない所でしかるべきことをちゃんとやってくれている」と思った。過小な行動しか取らなかった。

 この(1)~(3)を念頭に置くと、班目氏が提案、あるいは政府の実施した対策すべて過小あるいは後手であることの理由の一端が分かってくる。

 もちろん、班目氏の誤解や失敗が原発事故対応の失敗の原因のすべてではない。私はこれまでの取材で福島第一原発事故対応は「長年にわたる巨大で醜悪な無作為と無責任の集積」という感触を持っている。班目氏の誤解や失敗はそのほんの一部にすぎないと考えている。

 インタビューはすべて班目氏の了解を得て録音した。終了後録音を書き起こし、班目氏にメールで送った。校正・校閲のためである。班目氏からは一部「発言を取り消したい」という要請があった。しかし校正・校閲の範囲を超えるものは断った。該当部分と理由は文中に記す。インタビュー終了後にこちらがメールで再質問したもの、班目氏から補足があったものは、そのように書いておいた。誤認や記憶違いも、可能な限りそのままにして、注釈で訂正した。「班目氏がもう覚えていない」ことも事実として記録すべきだからである。

「官邸で何があったか」が伝わっていない

──ずっとお話を伺いたかったので、お目にかかれてうれしく思っています。3.11のあと私は福島・浜通りに20回以上取材に通いました。そうした現場から取材を始めて、東京に戻ってきて、政府内部の取材を始めました。当時、首相官邸内部でのみなさんのいろいろなやりとりを後から知りました。そして、次第に「なるほど福島で見たものは、政府でのこういう決定や判断があって、ああなったのだな」という順番で、認識してきたんです。そして国会事故調や政府事故調などの報告書が出ました。菅直人首相はじめ政治家のみなさんの回顧録も出ました。それらに目を通すうちに、班目さんの本にも接することになりました。今回、インターネットは紙媒体と違ってスペース制限がないですから、お話にできるだけ編集を加えない形にしようと思っています。糾弾しようというつもりは全くございませんので、どうぞおくつろぎください。

班目春樹氏(以下、敬称略) 「どうぞ何でも聞いてください。私はもう、どこでも平気でこうやってしゃべってます」

──ご存じないことやお忘れになったことはそのままおっしゃってくだされば結構です。

班目 「ほとんど忘れているんですよ。本当に飛んじゃってるんですよ。断片的にだけど覚えているシーンがいくつかあって、でも順番がめちゃくちゃだったり。例えば東電のビデオのような動かぬ証拠を突きつけられて認めざるを得なくてそうだったんだと思ったり、当時の私の知識からいって、質問に対していかにも私が答えそうな内容を喋ったと言われると、これは私自身認めてしまってそうだと思うようになったりといったところです。とにかくいろいろな段階の記憶らしきものが、積み重なっています」

──分かりました。おそらくああいう大混乱の現場ですので、ご記憶も完璧とは言えないと思います。そういうところはそのままおっしゃってください。

班目 「はい」

──月並みな質問から始めさせていただきますが、今この本(『証言 班目春樹』)を出そうと思われた動機はなんだったんですか?

班目 「まず『官邸で何があったか』という事実が、あまりにも伝わっていないと思いました。もちろん政治家の方々も本を書かれていますが、この手の本は多分、当時の秘書官だったような人が手伝っているのではないかと見当をつけています。私が考えていたこととは大分違っている。これはどうしても、詳しい人間と詳しくない人間とのコミュニケーションギャップだと思います。私の意図とは違う形で受け取られているということも多々ある。ある程度原子力に詳しい人間がああいう場面でどう振る舞ったかということを、きちっと出しておくべきだろうと。それが一番の理由ですね」

──特に「これは事実と違う」とお考えのものは何でしょうか。

班目 「それはいくつもあります。例えば、これはほんの一例に過ぎませんし、海江田さん(注:海江田万里氏、当時の経産省大臣)ご本人の責任だとも思いませんが(海江田氏の本には)私がヘリコプターで現地から帰ってきて、それから自宅に風呂に入りに戻ったとか書いてある。こんなことあり得ないんですよ。実際にヘリコプターが東京に戻ってきたのは11時ちょっと前で、11時30分過ぎには呼び戻されてますから。そもそも海江田さんのSPが私と事務局長を引き離したので、私は官邸のどこに行けばよいのかも分からないという状態だったのです。しょうがないから4号館まで歩いて帰っているんですよね」

──「4号館」とは霞が関にある「中央合同庁舎4号館」のことですね。原子力安全委員会の事務局がある。

班目 「よく晴れて、人っ子ひとりいない通りだったことをよく覚えています。12日の朝11時くらい。ヘリコプターが着いて徒歩で戻って、戻った途端に呼び戻されて、また官邸に車で行ったと。当時から、あたかも私が家に帰っているという噂を流している週刊誌などがあったことは私も知っていたが、政治家ともあろう方がそれを堂々と本に書いてしまうというのは、いかがなものか。ちょっと悪意を感じますから。『悪びれもせずにまた席に座った』などと」

(注:これは海江田万里氏が2012年11月に出版した回顧録『海江田ノート』<講談社>41ページの記述への反論。同著では、班目氏は3月12日午前中、菅直人首相との現地視察から帰った後、1号機の水素爆発の前に帰宅したと記述されている。班目本では3月13日午前1時ごろ帰宅したと書いてある)

──確かにそう書いてあります。

班目 「ひっでえなぁって思いました。ああいう顔をして『私はどうなっても構わないんです』とか散々国会で話した挙句こうです。実は人をかなりの悪意を持って見る人だなと。そう思わざるを得ないところはありますよ」

(筆者注)
インタビュー後、文面を見た班目氏がメールを送ってきた。上記「ああいう顔をして~ありますよ」部分を削除してほしい、と筆者に伝えてきた。「カッとして吐いた悪口雑言で、我ながらいやになりました」「刑事告発されている身の上らしいので、さらに名誉棄損で訴えられるようなことだけは避けたいとの気持ちでいっぱいです」との理由が述べられていた。また「班目氏が検察の事情聴取を受けた」と報道が流れたことで、自宅周辺をしばらく記者らしい人物がうろうろして神経質になっている、とも伝えてきた。削除の申し入れは複数回メールで来た。

 班目氏が憔悴していること、感情的になったり神経質になる気持ちはよく理解できる。個人としては班目氏の窮状に同情している。

 しかし、筆者はこの申し入れを断った。この申し出を受け入れると、報道の原則を侵してしまうからだ。

(1)3.11当時の原子力安全委員長だった班目氏は「公人」である。

(2)その班目氏が福島第一原発事故について話す内容は「公共性」が極めて高い。

(3)このインタビュー記事は報道記者である筆者(烏賀陽)が班目氏に取材して書く記事であり、執筆主体は筆者である。班目氏の口述筆記原稿ではない。

(4)インタビュー後に文面を見てもらうのは校正・校閲のためである。読者に間違った情報を伝えないことが第一目的である。その範囲を超えるものを被取材者が修正することはごく限定的な例外に留める。

(5)班目氏がいったん発言し、録音・記録され、記者が聞いたことを、読者に知らせる前に取り消す行為は、読者との信義を裏切ることになる。拡大すると、政治家など公人が「失言」しても、いくらでも後から取り消せることになってしまう。

(6)報道する際、記事内容に被取材者の合意を得る必要は必ずしもない。

 また、そもそも班目氏の発言は海江田氏の記述をきっかけとする「反論」である。加えて「3.11当時の事故対応の過程で、原発の所管大臣だった海江田氏と、班目氏の間に感情的なものが残るような出来事があった」「事故対応について、両者の記憶は食い違っている部分がある」「感情的なものは事故後2年近く経っても残っている」などの言外の事実も、歴史に記録し、読者に知らせるべきだ。筆者はそう考えた。

 インタビューに戻る。

悪かったのは保安院だけではない

──『証言 班目春樹』によるとご帰宅は「3月13日未明」となっていますね。「12日午前中ではない」とおっしゃるのですね。

インタビューに応じる班目春樹氏(筆者撮影)
班目 「あり得ません。不可能です。12日の土曜日の午前中に、官邸みたいな場所でタクシーが捕まるわけがないじゃないですか。そんなの調べればすぐ分かることなのに、調べもせずに悪意を持って本を書かれるというのは、果たして政治家としていかがなものでしょうか。海江田さんの悪口ばかり言っていますけど、各々の方々にみんなありますよ」

 「でもそれはしょうがないでしょう。あの本は海江田さんご本人が書かれたものとは思ってません。当時、海江田さんは経済産業大臣でしたから、秘書官は当然経済産業省のお役人ですよね。そういう人たちから見ると、原子力安全委員会という、これから潰れる組織になるべく責任を負わせたいわけですよね。そういう意図から一生懸命やっている。要するに経済産業省のお役人であった保安院が、ものすごい体たらくでしたから」

──それは原子力防災本部の事務局長である寺坂信昭氏(原子力安全・保安院の院長)が菅首相に詰問されたあと官邸から姿を消してしまったとか、そういった事実を指しているのですね。

班目 「逃げちゃって何もしなかった。『でも、保安院だけが悪いんじゃない』と言いたいんですよね」

──なるほど。

班目 「だからなんとなく、官僚組織全体としての悪意が多分あって、それに海江田さんなんかは踊らされているんだろうな。気の毒だな、と思っているのが私の正直な気持ちです」

──海江田さんは経済産業大臣に着任されて間がなかった(2011年1月に就任)。班目さんはその前(2010年)から安全委員会の委員長をやっていらっしゃる。その時代から保安院とのやり取りは結構あったんですか?

班目 「実は私は東大時代には原子力安全委員会の仕事はやったことがないんです。保安院の仕事ばかりだった。総合エネルギー調査会の臨時委員など、保安院関係の審議会の委員長はいくつ務めたか、数えることができないくらいです。検査の在り方検討会の委員長とか原子炉安全小委員会の委員長とか中越沖地震の調査委員長とか、保安院の仕事はたくさん引き受けていました」

──じゃあ例えば、寺坂院長や平岡英治次長ともよくご存じだったのですか。

班目 「もちろん、昔からよく知っていました」

──ご著書には「3.11の進行中は寺坂院長と官邸で会うことはなかった」とあります。それでよろしいですね?

班目 「1回もないです。官邸では多分一度も見ていないと思います」

──ということは、班目先生が駆けつけられた時にはもう、寺坂さんは菅首相に詰問されて退出された後だったのですか?

班目 「だと思います。平岡さんしかいなかった」

安全委員会に福島第一原発の図面がなかった

──時系列で事実をお伺いしたいのですが、ご著書によりますと地震が発生した時は、中央合同庁舎4号館6階の原子力安全委員会の執務室におられたということですね。馬鹿な質問で恐縮なのですが、原子力安全委員長は常勤でやってらっしゃったのですね?

班目 「はい、もちろん常勤だったわけです。兼業は一切していませんから」

──ということは、3.11当時は執務室に出勤し、そこが仕事場でいらっしゃった。

班目 「震災の前は、大体9時前には部屋に入っていましたね。ずっと判で押したような生活をしていました」

──なるほど。霞が関に出勤されるということですね。それはちゃんと迎えが来るんですか?

班目 「ありました」

──3.11当時は、官邸との間を行ったり来たりで大変だったと思うのですが、その時は歩いて行かずに迎えが来てくれるんですね。

班目 「例外的に歩いたのはその1回くらいであとは全部車です。家内に送ってもらったこともあるし、まあいろいろなケースがありますけどね」

──ご著書に生々しい記述があります。地震が起きた14時46分に「隣の庁舎の建物が揺れているのか見た」と書いておられますね。

班目 「見れるかなと思ったのですが分からなかったですね。もう少し長く見ていればよかったんですよね、きっと」

──そのあと原災法(原子力災害対策特別措置法)の第10条通報(11日15時42分)が福島第一原発から来た(注:第10条は原子力防災管理者の通報義務を定めている)。そのあとで15条通報が来る(16時45分=全電源を喪失した、冷却不能になったことを知らせる緊急事態の通報。ここが住民避難の開始になるはずだった)。これで大体地震発生から2時間が経過しています。ご著書に「原発の専門家20人にメールを送った」とありますね。

班目 「それは10条通報の直後ですね」

──例えば他にはどんなことをしていらしたのですか?

班目 「まず、真っ先にテレビをつけて、震源地や津波のことを知るということですね。そのうち一番厳しいのは福島第一だということが分かってくるわけですね。10条通報も15条通報も福島第一から来る」

──同じ津波被災地域でも、宮城県の女川原発とかではなく福島第一原発が厳しい状況にある、ということですね。

班目 「まあ、女川が、福島第二が、東海第二がどうのこうのというのが入ってきはしますけれども」

──まず津波被災地域の原発が気になったということですね。

班目 「はいそうです。とにかく福島第一が一番凄いことになるのは確実だった。安全委員会の中に福島第一に関する資料がどれだけあるか探させた。私自身も、持ってきてくれた設置許可申請書を見て、何が分かるか一所懸命調べていましたね」

──ご著書に「福島第一原発の図面が安全委員会になかった」と書いておられます。その時からもうないことに気づかれていたんですか?

班目 「ないんです、最初から。設置許可申請書は初めて見るわけではなくて、まあ見るまでもなかったくらいでしたが、何か手がかりがあるんじゃないかと、一所懸命探してましたね」

──簡単な概略図はあっても、構造を示すような設計図がないと書かれています。

班目 「本当に概略図しかないのです。一応、熱交換機とポンプとが線でつながっているような感じのものはあったが、知りたかったのは、例えば非常用ディーゼルがどこにあるかとか、そういうことなのです。記憶ではタービン建屋の地下だとは知っていましたが、増設したものがどこにあるのかとか、そういうことが分からない。津波でやられてますから、どの程度やられているのかという話と、どういう所に何があるかということを、しっかり押さえたかったんですよ」

15条通報は「念のため」出されたものと受け止めた

──ご著書の中に「専門家にメールを送った」ということが書いてあったので、そこまで委員長がしなければならないのかと意外に思いました。

班目 「私が送ったのではないです。それはもちろん事務局に送ってもらいました。『一斉招集をかける必要がありますね』『じゃあやってください』という感じで」

──安全委員会の事務局の規模は、100人くらいと聞きました。

班目 「実際には常勤が六十数名で、あとの残りは非常勤なんです。これは原研などのOBですね。退職された方々に技術参与という形で、例えば安全審査や指針類を作るお手伝いをしてもらうと。これは専門家の方にしかできませんから。ただ非常勤なので毎日来るわけではない」

──実感として今回の3.11を乗り切って行くには、60人という人数は少なかったですか?

班目 「実際にはかわいそうなくらいバタバタになってしまった。人数の問題としては、保安院と安全委員会が別組織であるということが最大の問題で、1つの組織であるならば、保安院には300名近くいますから、十分やれる人数だと思いますけれども。それと保安院は他に、JNES(原子力安全基盤機構)という別組織を持っていますから、そこも合わせると、かなりの人数がいる。で、安全委員会の方は非常勤の人を含めても、たかだか100人という。そして仕事としても、実務というよりは安全審査のダブルチェックをやったり指針類を作ったり、そんなことですから、これはむしろ普段小所帯でやっていてよい組織なんです」

──地震が発生して15条通報、全電源喪失の知らせが来るまでに2時間くらいある。この間はそういう形で図面を探されたりしていたわけですね。15条通報が安全委員会に到達したのも、保安院と同じ16時45分と考えてよろしいですか?

班目 「そんなには変わらないと思います。17時前だろうと思いますね。これは保安院経由で来ます」

──第一報のファクスは原発から保安院に着くはずです。

班目 「そうです」

──だから時間的にはそんなにラグはないということですよね。

班目 「まあ5~10分の差はあるかもしれませんが」

──福島第一から保安院にはファクスで来るそうです。安全委員会にはどういう形で着くんですか?

班目 「そのファクスがそのまま転送されるんじゃないかな。記憶がはっきりしませんが、10条通報の時はなかなか紙が届かなかった気がします。15条通報の時には『水位が見えないから、念のために15条通報を出す』という発表を、最初に東電が出しているんです。その『念のためというのが随分頭の中に残った気がするので、ひょっとたらその紙は割と早い時間に見ているのかもしれません」

──それは東電が知らせてきたのだが、「これは念のためだから」という注釈が付いていたということですか?

班目 「それが付いているようなものが送られて来ているんです。どっちにしろ、私は多分紙は見ていません。あとで事務局がコピーして皆さんに配るのですが、とりあえず15条通報が出されたことを口頭で教えてもらっていた。それが多分夕方の5時くらい」

──海江田さんの本によりますと、海江田さんの所に15条通報の知らせが来たのが、何と17時35分(注:つまり保安院に到達してから、担当大臣である経産大臣に到達するまでに50分かかっている=経産省内部だけで50分かかった)と書いてあったんですよ。もちろん海江田さんは「どうしてそんなに時間がかかったのか」という不満を述べてられます。班目先生のご本には16時45分と書いてある。なので、原子力安全委員会の方が早く伝達されたのかと思ったのです。

班目 「それはどうなんでしょう、分かりません。17時前に本当に見ていたどうかは分かりません。ただ1つだけ言えるのは、私は17時30分過ぎに4号館を出発するんです」

福島第一原発の様子は一切伝わってこなかった

──15条通報があって、その時点で首相官邸に向かわれたのですね。確かにそう書かれている。

班目 「というのは、15条通報があったら原災(原子力災害)本部が必ず開かれるからです」

──首相官邸の原災本部に招集がかかるわけですね。

班目 「正式メンバーではないが、助言役として必ず同席しなければいけないとルール上なっていますので。17時30分ころに出発するのですが、まだ官邸から招集がかからないのかと言っていた記憶があるので、その間に30分近く時間があった気がするので、やはり17時頃に15条通報を知ったんだと思います。行かなくてもよいのかと言いながら例の上着を着て待機して、結局行った方がよいということで17時30分過ぎには出発してますから、17時30分くらいまで知らなかったということはあり得ないですね」

──その間に、原子力安全保安院が福島第一原発の様子などを伝えてきたりはしないんですか? 原子力安全委員長に情報が届いていないのは不思議な気がします。

班目 「本当は安全委員会とERCという保安院の対策室との間に、テレビ会議システムが繋がっていろいろなやり取りができるんですけれども、15条通報が出て最初に官邸に行くまでは、テレビ会議システムを立ち上げてなかったと思います。保安院からの連絡を事務局の誰かが受けて、それを我々に伝えてくるという形だったと思いますね」

──例えばそれは、今1号機の圧力や温度がこうなっている、2号機は、3号機はというような、そういう詳しい話ではないのですか?

班目 「一切なしです。というか我々も、保安院もその情報が入ってこなくて困っているだろうと思っていましたから」

──それに対してイライラされましたか。

班目 「保安院も苦労していて分からないんだろうなと思っていました。最初に10条通報、全電源喪失の時点で非常用ディーゼル発電機がせっかく立ち上がったのに、きっと水をかぶって本当の全交流電源喪失になってしまった。そのように理解していたので、これはもう現地は本当に大変なことになっていると」

──なるほど。

班目 「そして、私は何点かずっと誤解し続けるんです。3つくらい間違ったことを考えていました」

(つづく)」

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/37192

「原発事故と調査報道を考える 奥山俊宏(朝日新聞記者)×藍原寛子 」

2013-02-13 19:34:44 | 原発
「原発震災後、メディアの報道が大きな関心を集めている。福島県内外で避難者の取材をするなかで、国や東電、行政そしてマスメディアに対して、「震災について十分な情報を提供してくれなかった」と疑問をもったという声を何度も聞いた。本来、メディアは住民、読者や視聴者の側に立ち、報道によって十分な情報を提供し、それによって人々のより良い行動の選択へ大きな役割を果たすことを期待される。そのメディアへも不満が募ったことは、今後も起こりうるであろう複合災害や原発事故の報道について大きな宿題を残した。

そこで、原発事故当時、東京電力の記者会見を取材、『検証 東電テレビ会議』(朝日新聞出版、共同執筆)、『ルポ 東京電力 原発危機1カ月』(朝日新書)を上梓した記者の奥山俊宏さんに原発事故と調査報道について聞いた。奥山さんは社会部や特別報道チーム、特別報道部などで調査報道をつづけてきた。東大工学部原子力工学科で原子力を学び、朝日新聞入社後も福島支局時代に原発を取材した。メディアのなかでも原発と調査報道の両方の数少ないエキスパートだ。
(聞き手・構成/藍原寛子)

■情報の非対称性はあったのか ―― テレビ会議の検証
―― 東電のテレビ会議の記録が昨年から報道機関に開示されています。奥山さんは3人の同僚を含む取材チームで『検証 東電テレビ会議』を上梓されましたが、この録画記録に注目した理由を教えてください。

東電のテレビ会議の映像は、その存在が分かって以降、資料価値がかなり高いもので、いつかは見てみたいと思っていました。東電の社内で何が話し合われたのかを知ることは、どのように事故が拡大していったのか、東電がそれにどう対処したのか、つまり、事故の核心を知るために、とても重要なことだと思いました。同時に、「東電はウソをついたのではないか」「東電が持っていた情報と、国民が知らされた情報に違いがあったのではないか」という疑問を検証するのに役立つだろうとも思いました。

ぼく自身、震災の2カ月半後の2011年5月31日の政府・東京電力統合対策室合同記者会見で直接、東電や細野さん(当時は総理大臣補佐官)に「ぜひ公開していただきたい」とお願いし、細野さんは「事態が落ち着いた段階で皆さんに御説明するということは当然あり得べしだと思う」と返答しました。不十分とはいえ、それがやっと実現したのが昨年8月のことでした。

―― 今回の原発事故では、東電や政府が持っている情報と、国民が得た情報のあいだに格差、「情報の非対称性」があって、それは大きな問題だと指摘されることがありました。情報の非対称性について明らかにすることは、大きな災害や事故の際に、事故原因者が被災者に対してどう情報を提供するかという課題を明確にするでしょう。情報の非対称性の有無について、テレビ会議で分かったことはありますか。

東電自身が原子炉の内部の状況について見誤っていた、状況を把握できていなかった、ということがテレビ会議でのやりとりで裏づけられました。テレビ会議を見ると、東電の人たちは「圧力容器の底は抜けていない」という前提で、内部で話をしています。「格納容器は健全だ」という前提で話し合っています。つまり、「格納容器は健全です」と発表したのは、ウソをついたのではなく、本当にそう思っていた、ということがよく分かります。

ちょっと恐ろしいことですが、情報の非対称性は、世間で言われているほどには、大きくはなかったと感じました。速やかに発表すべきことを速やかに発表しない、発表に消極的、発表し渋っていた、というような実態もテレビ会議でよく分かりましたが、事故の核心、事態推移の核心について意図的なウソをついた、というところは、今はまだ精査中ですが、今のところ見あたりません。

東電による事態の評価については、「過小評価の事例」「過大評価の事例」「意図的にウソをついた事例」があったことが今となっては分かっています【表参照、奥山氏まとめ】。これが「過小評価の事例」ばかりで、「過大評価の事例」がなかったのだとすれば、それは、東電が意図的にウソをついたことを裏づける状況証拠になりますが、実態としては、そうではなかったことが分かります。



―― 報道機関の原発事故報道について「大本営発表報道だった」「パニックを恐れて情報統制した」「報道機関は東電と一緒になって隠していたのではないか」という批判があります。その指摘についてはどのようにお考えですか。

東電に取材が集中したのは、東電が事故を起こした当事者だからです。東電がもっとも事実に接近できる立場だったからです。

「報道機関が情報統制に手を貸した」とか、「報道機関が東電と一緒になって隠した」とかいうのも、あり得ない話だと思います。ぼく自身、社内でそんなことはまったく見聞きしていません。3月15日から16日にかけての各紙の一面を見れば、それは裏づけられます。

情報統制どころか、各紙ともむしろ、あおるくらいの調子で書いています。たとえば、3月15日の読売新聞夕刊の一面トップの見出しは「超高濃度放射能が拡散 4号機 年間限度の400倍 官房長官『身体に影響の数値』」ですから。

―― 放射線量などは的確に住民に知らされていた?

ぼくがいた東電本店では、福島第一原発や福島第二原発の敷地のなかの放射線量が公表されていました。それらのうち大きな値は新聞で報じられました。福島第一原発の敷地内には一般の人はいないので、10キロ離れた場所の線量であるという点で第二原発の線量を目安に推移を見ていましたが、それらの値はインターネット上で公開されていました。宮城県の女川原発や茨城県の東海第二原発で線量が上がったことは報道で知り、「そんな遠くまで放射性物質が飛んでいったのか」と感じた覚えがあります。それらの情報は公表はされていましたが、「的確に知らされていた」といえるかというと、そこに問題があった、ということだと思います。

―― あの当時、放射線量の発表を知っても、その線量の数字の意味を個人個人が理解して判断し、行動できたかというと、ほとんどの人はできませんでしたよね。

そうなんだろうと思います。線量が仮に毎時100マイクロシーベルトだというときにどう行動するべきか。人によって状況によって異なると思います。逃げるべきか、それとも、とどまるべきか。福島第一原発事故では、避難の途中に亡くなった人がいました。国が一律に避難を押しつけるべきものなのかどうか。年齢や健康状態、生活環境、価値観などなどを総合して個々人ごとに判断できればいいのでしょうが、それは理想論かもしれません。

―― では、政府が出した避難指示というのは、やり過ぎだったのでしょうか。

政府が出したのは当初、原子炉がこの先どうなるか分からない段階での「念のため」の予防的な避難指示でした。原子炉の格納容器が爆発するような事態に備えたのだと思います。実際には、格納容器からその中身の一部が漏れましたが、格納容器が爆発してその中身の大部分が外部にぶちまけられるということはありませんでした。格納容器の爆発がなかったことをもって、後知恵で「もっときめ細やかに避難あるいは屋内退避を指示するべきだった」と言うことができますが、それがあの局面で正しいかどうか。

―― 奥山さんは格納容器の健全性について、東電が「事態を過小評価した事例」としています。東電側が正確に状態を認識していなかったのに、結果として格納容器が爆発しなかったことについてはどうお考えでしょうか。

格納容器が爆発しなかったのは、偶然なのか、必然なのか。これは大きな疑問です。結果的に1号機、2号機、3号機のすべてが高圧状態になったのに爆発せずに済んでいます。これが偶然によって起こる確率は非常に小さいです。爆発する前に高温・高圧状態になったらどこかが抜けてしまうような、意図せざるベント状態になってしまう、もともとの構造があったのだと推定できます。

その意図せざるベント状態については認識が甘かったと思います。制御できない状態で格納容器の中身の放出がつづきました。それは爆発が原因ではなく、格納容器の蓋の隙間の抜けが原因だとみられることが分かってきています。2号機の原子炉は3月15日から16日にかけて完全に気密性を失って外部とツーツーになったのではないかとぼくは思っていますが、それについては当時、過小に見ていたのではないかと疑っています。

―― 東電のテレビ会議の映像は、当時の菅首相や民主党の議員に対する論評、官邸内の動きなどが緊張感なく話し合われている3月12日夜の場面から始まります。12日午後11時12分には、都内の本店の対策本部は一部の社員を残して「解散」してしまっています。炉の内と外、福島と東京、東電の本店と原発サイトでは、あまりにも温度差があり過ぎると思います。被災者からすると本当にやりきれない思いですが……。『検証 東電テレビ会議』でもこのあたりは書かれていますが、なぜ、3月12日夜、東電社内はあんな空気だったのでしょうか。

12日夜に武黒一郎フェローが画面の前でずっと話をしている場面ですよね。1号機の原子炉建屋の爆発の7時間ほど後の場面です。原子炉に水が入り始めて峠を越えたといったような、あののんびりした雰囲気は、東電の危機感のなさが感じられて確かにショックで、残念です。

あの時間帯は、3号機の原子炉が制御不能に陥ろうとしていたころです。2号機はまだ冷却ができていて、4号機も無事だったころです。やるべきことがもっとあったのではないか、もっといい対応をすれば、抑え込むことができたのではないか、ましな結末があったのではないかと痛切に感じます。少なくとも2号機、3号機、4号機は救えていたはずです。

―― そうですね。

3号機の原子炉主蒸気逃がし安全弁(SR弁)を開くためのバッテリーがなくて、社員にマイカーのバッテリーの拠出をお願いしたり、ホームセンターにバッテリーを買い出しにいくための現金を貸してほしいと社員に呼びかけたりする3月13日朝の場面が象徴的です。

3月13日の早朝に3号機の原子炉が冷却できなくなっていることが分かった。消防車の低圧のポンプで外部から原子炉に注水するためには、SR弁を開いて原子炉内を減圧しなければならない。SR弁を開けるには120ボルトの直流電源があればいい。ところが、そのとき、福島第一原発には、その120ボルトの直流電源がなかった。12ボルトの自動車用バッテリー10個を直列につなげばいいのですが、3月13日の朝、原子炉が冷却不能になった後になって、福島第一原発の現場でそれを集め始めています。

「資材班です。すいません。これからバッテリー等を買い出しに行きます。現金が不足しております。現金をこちらに持ち出せる方、ぜひ、お貸しいただきたいと思います。すいません。申し訳ありませんが、現金をお持ちの方、貸していただけないでしょうか。よろしくお願いします」

3号機原子炉の水位がどんどん下がって、メルトダウンが始まろうというときに、福島第一原発の免震重要棟の中でこう呼びかけている。

もし、一般の家庭で夜、停電になったら、どうするか。まず懐中電灯と電池を探しますよね。電池が足りなければ、使っていない電気機器から電池を取り出して電池を集めるかもしれないですし、コンビニに行って電池を買おうと思うかもしれない。そういうふうに考えるのはそれほど難しいことではないです。ところが、福島第一原発では、残念ながら、震災の2日後に至るまで、それがちゃんと行われなかった。とても単純だけど、とても大事な話。これが抜けていたように見えます。

―― 記者会見でSR弁の話が出ていた時、「いったいSR弁はどのような仕組みで、動力は何か」などを聞いた記者はいましたか。

東電の原子力設備管理部の課長が「バルブ(SR弁)もなかなか言うことを聞いてくれなくて……」と言っていたのが印象に残っています。SR弁というのは「Safety Relief Valve」のことで、日本語では「原子炉主蒸気逃がし安全弁」と言うんだということも説明がありました。SR弁の「開」を維持するにも、コンプレッサーとバッテリー電源が必要だという説明もありました。SR弁の動力は電気ではなくて、圧縮空気です。電源が必要なのは、作動信号を送る際のことです。そんなようなことがぼんやりと頭に入ってきたような覚えがあります。しかし、あの状況で、記者が「SR弁の構造を説明せよ」と一から問えるか、というと、それは難しかったと思います。

―― でもそうなると、自分が書いたり話したりしているその「SR弁」は、字面(じずら)としては分かっても、いったいどのようなものか理解できないまま記者は聞いていたということになりはしませんか。意識的あるいは無意識的にでも、記者会見という集団取材の場で、「質問することによって全体の空気を乱したくない」というような意図が働いたことはありませんか。それによって基本的で非常に重要な質問を避けてしまい、東電側に新しい思考回路を開く機会を与えず、また自分の頭でも確実に理解するということを飛ばしてしまったのではありませんか。

3月12日に記者が「自動車用バッテリーでもいいからちゃんと調達するべきではないのか、調達できているのか」と東電に質問していればよかったのかもしれませんが、それは難しかったと思います。消防車のポンプで原子炉に水を押し込むには、原子炉内の気圧を下げる必要があって、そのためにはSR弁を開ける必要があって、SR弁を開けるにはSR弁の制御用電磁弁に作動信号を送る必要があって、そのためには直流電源が必要で、そのためには自動車用バッテリー10個があれば足りる、という知識、そこまでの知識はどんな記者も持てなかったと思います。

記者は専門家じゃないし、SR弁の作動原理について、事態進行の真っ最中に全部を理解して、それにもとづいて東電の人に質疑するのは非現実的です。「東電側に新しい思考回路を開く機会を与え」るというのは、結果としてそうであったらとても良いことだと思いますが、それそのものは記者の仕事ではありません。

念のため申し上げると、圧力容器のSR弁に限らず、格納容器のベント弁についても、どうやったら動くのかという質問は繰り返し出ていました。「電気がないから言うことを聞いてくれない」というような説明でした。社員のマイカーのバッテリーをかき集めたという話はかなり後になって聞いて、そんな原始的な方法なのかと驚いて記事にしようと考えたことがあります。でも、当時は事実関係を詰めきれませんでした。てっきり3月11日当日にそれをやったんだと思ってました。拙著『ルポ 東京電力』にもそんなふうに受け取れることを書いたのですが、実際は地震の当日ではなく2日後の3月13日でした。そこが残念なところです。

―― 誰でもわかる単純なものが抜けているのは、逆に、原発の複雑な多重構造に注意が向けられているがために、シンプルに考えることができなくなって起きるヒューマン・エラーということもいえるのではないでしょうか。それとも東電特有の企業体質があるとか。

なぜそれが起きたのか、それがいったいどういうことなのかは、今後解明したい点です。東電の広報部に聞いても「当時としては、社員の自家用車のバッテリーを収集してSR弁を復旧するという発想、判断を行うことは難しかったと考える」というような回答が返ってきます。そこに発想が及なかったのはおかしい、間抜けなんじゃないか、と批判することができるのですが、ただ、その批判はもしかしたら、今だから言える後知恵かもしれない。

検証の作業というのは基本的に後知恵で過去のできごとを探ることですが、それは当時の状況でどうだったかという視点でやらないと、現場の人に無理を強いる誤りの教訓を導き出すことになる。これは報道の検証でも同じです。原子炉を運転する通常の専門家ならそこに気づけたか、気づくべきだったか、という点は明らかにしたいです。虚心坦懐に見てみたいと思っています。その答えによって教訓が変わってきますから。

■調査報道の重要性
―― 話が変わりますが、原発事故後、調査報道への読者の関心の高まりは実感されますか。

「発表だけに頼るのではなくて、調査報道をしてほしい」という声は震災前からありました。で、その調査報道に対する世間の期待が、福島第一原発事故の後に、より高まったということは言えると思います。原発事故の当初の報道は発表報道の典型で、それはあの局面では仕方のないことだと思っていますが、それに対する批判がとても強い。その批判の裏返しとして、「調査報道をちゃんとやるべきだ」という叱咤激励があるのだと受け止めています。ぼく個人としては、調査報道への関心が高まるのは良いことだと思っています。

――奥山さんとは今からもう20年も前の1992年ごろ、奥山さんが福島支局に赴任されたときにお会いしたのが最初でしたが、一緒に福島市政を回っていたあの頃から、時々、ビックリするような特ダネを書いていましたよね。奥山さんには正直、抜かれたことしか覚えていません(笑)。当時はまだ現在のように情報公開制度が整っていない頃でした。福島に赴任する前から、調査報道をされていたのですか。

大学4年生のときにリクルート事件が朝日新聞の調査報道で発覚し、調査報道を意識して朝日新聞に入りました。初任地の水戸支局(茨城県)でもかなり一生懸命、調査報道をやったつもりです。なかでも、入社4年目、福島市役所を回っていたときに福島版に書いた「福島市、競売物件を高値買い?!」「商工会議所会頭が仲介」「『競売に気付かず』と市」という記事はとくに思い出深いです。ぼくとしては、とても良い調査報道だったと思っています。

福島市の中心市街地に「第一会館」という名前の古いビルがあるのですが、競売にかけられていた。福島市内の有力企業がそれを1億1500万円で競落した。そのわずか5カ月後に、福島市がそのままそれを1億6250万円で買い取ることになった、という記事です。福島市は競売に参加していなくて、買収価格を決める際に鑑定もせず、しかも、地元財界の有力者と市長の直談判で話がまとまった、という話でした。

この件にかかわった人にお願いして委任状を書いてもらって、裁判所の競売記録を閲覧して、いろいろな事情を把握しました。当時の市長は、第一会館だけでなく、その周辺の一角全体を買うといういわば「地上げ」の計画を持っていたようですが、あの報道で出ばなをくじかれて、断念したのだと思います。もし「地上げ」が進んでいたら、その後の地価下落で市は多大な損失を被っていたところだったので、あのときの報道は大きな意味があったと思います。

―― 何が取材の端緒になったのですか。

たしか、福島民友か福島民報の夕刊に「第一会館買収」の話が肯定的に書いてある記事を読んで、「何かおかしいな」と感じたことがきっかけでした。これは誰かがリークしてくれたのではなく、自分の着眼点でした。こうした感覚、センスはけっこう大事だと思っています。情報があっても、その情報に響く人、響かない人がいます。ぼくも見落としてきたものがたくさんあると思います。頭のなかでは、いつも何かをとっかえひっかえ考えていて、何か引っかかるようなことがあると、四六時中そのことを考えているときがありますね。とにかく考えることが大事なのかなと思います。

――調査報道で重要なことは何でしょうか。

大事なのは着眼点。どこに目をつけるかということは、取材の端緒をどうやって得るのかということと同じぐらい大切だと思います。言ってしまえばその人のセンス。いくら一生懸命取材しても、平凡な着眼点だったら、平凡なニュースしか出てこないことが多い。自分独自の、他の人にはない着眼点や目のつけ所が大事だと思います。

―― 政府は権力があり、東電は大企業。情報も持っています。そうした権力のあるものに対して常にチェックしていくというのは報道機関の役割です。さきほど、「事故の核心に関して東電が意図的なウソをついた、というところは、今のところ見あたらない」という話が出ましたが、そう言ってしまうと、「東電を守っているのではないか」という矢が飛んでくる可能性はありますが。

東電や政府を批判的に検証するのは必要で、実際にそれをやっています。ただ、調査報道は、事実を明らかにすることが何より大事で、それがどっちに有利になろうが、不利になろうが、誰が喜ぶとか、喜ばないとか、取材をする際にはそういうことは記者としてあまり考えるべきではないと思っています。そういうこととは無関係に、分かった事実を書いていくというスタンスであるべきだと。批判のための批判になったら、調査報道とはいえないでしょう。

事実を提示する、「みなさん考えてください」と素材を提示するのが基本だと思います。提示の仕方として、「こういう問題点が考えられます」というのはあっていいと思いますが、事実を見せるのが基本でなければ、単なる論評になってしまいます。自分の意見に忠実であってはならなくて、事実に忠実であらなければならないのだと思います。

その上で思うのですが、「東電だから事故が起きた」「菅内閣だからこうなった」と東電や政府を批判し、問題を指摘したつもりが、結果的には問題を矮小化することがあり得ます。

「東電は分かっていたのにウソをついた」「東電はウソつきだった」という批判は結果として、「今後は何が起こっても正直であらねばならない。そのためのチェックシステムを設けよう」という教訓を導き出しますが、果たしてそれが福島第一原発事故の本当の教訓なのか。また同様に「関西電力は東電とは違って正直な会社なのだから原発を稼働させていいのではないか」という結論を導くことにもなりかねませんが、果たしてそれが正しい結論なのか。

東電は事実を見誤っていたのだから、これに関しては、正直であることは解決策になりません。また、たとえ仮に関西電力が正直な会社であったとしても、事実を誤認して誤った発表をする危険性は残ります。そのように考えるべきだと、ぼくは思います。そこを間違えると、逆に、原子力発電所を稼働させたい人たちにとって「ウエルカムな批判」になってしまうという、本来意図せざる安直な結果になる可能性があります。

チェルノブイリ原発で1986年に事故があった後、日本では「あれはソ連だから起こった」と言われました。それは一面では事実です。でも、それを言い過ぎた結果、あの事故から教訓を学ぶことがおろそかになったのではないかと疑っています。

福島第一原発事故についても、「あれは日本だから起こった」という側面があります。実際、米国の規制の下なら、ああはならなかったでしょう。それをもって、「あれは日本の原子力安全・保安院や東電だから起こった。米国など国際水準の規制を日本に採り入れればOKだ」と言う人がいるかもしれません。それは一面では事実のように見えますが、他方で、大切なものを見過ごした議論でもあると思います。

できるだけ客観的であろうとするジャーナリストなのならば、原発稼働に反対だとか賛成だとか、あるいは、「東電の人たちはウソをついたに違いない」とか、逆に「東電の人たちは国民のために命をかけて頑張った英雄だ」とか、そういう自分の意見がたとえあったとしても、そういうのは捨てて、虚心坦懐に事実を見る必要があると思います。それが事実なのならば、それがだれに有利になろうが不利になろうが、それを報じていく姿勢であるべきだと心がけています。

―― 福島第一原発事故について、ご自分の記事で印象に残った記事をひとつあげてください。

福島第一原発の4号機がなぜ過熱・崩壊から救われていたのかを報じました。本当は震災4日前の3月7日に外部に抜き取られるはずだった水が、震災直前の工事の不手際によって使用済み燃料プールのそばに残っていたという偶然もあって核燃料が救われたということが分かりました。

3月16日夜、「4号機の燃料プールに水がある」という報告が現場から上がってきましたが、それに対して東電のなかでは「何で水があるの?」と疑問に思った人がいました。一方で「水があるのは当然」と思った人もいました。米政府は「4号機のプールに水はない」と発表し、海外のマスメディアはそれを真に受けて誤った報道をし、その誤報が日本にはね返って、日本のマスコミはなぜ本当のことを報道しないのかという批判の原因にもなりました。

4号機の燃料プールのなかにある大量の核燃料がメルトダウンしていれば、大変な事態になっていたわけですが、実際には、メルトダウンするどころか、一貫して十分な量の水がありました。これについて「どうして助かったのか」「水が残っていたのはなぜだったのか」「それは必然だったのか偶然だったのか」という問題意識があり、いろいろな人に疑問をぶつけているなかで理由が分かりました。

―― 奥山さんは関西電力珠洲原発の立地疑惑の取材では、フィクサーたる人から暴力や脅迫を受けたりしていますが、調査報道により、ただひたすらに「真実を突き止める」という姿勢を貫いているがゆえのことで、数々の問題を突破しながら前に進んでいる人だと思います。ともに同じ現場を回っていたころから約20年という時間を経て、この福島原発事故が発生した現在も、お互いに現場を歩く取材者として現場で会うというのも、ジャーナリストとしては貴重な巡り会わせだと思っています。奥山さんの仕事には今後も注目していますし、私も私なりの視点で取材していきたいと思っています。長時間のインタビュー、ありがとうございました。」

http://blogos.com/article/55575/?axis=&p=1

福島原発の放射線量/日刊ベリタより

2013-02-12 17:26:17 | 原発
「爆弾低気圧と原発放射性物質   山下茂


 1月14日の東京は大雪でした。雪をもたらした爆弾低気で福島第一原子力発電所の放射性物質はどうなったでしょう。東京電力が公開している放射線量の測定値をみてみました。

 事務本館南側は1号機のすぐ横です。14日午前中は200あたりを示していたのに、低気圧とともに130近くまで下がりました。35%の降下です。正門も20あたりが10あたりまで降下しました。風で吹き飛ばされたのか、雨や雪がたたきおとしたのか、わかりません。(図1)

 でも2週間で事務所本館南はもとの200、正門は20に戻ってしまいました。壊れた原子炉から放射性物質がどんどん出ているんでしょう。事故は収束していないことだけは、はっきりわかります。

 数値の単位はマイクロシーベルト/時です。生活空間の国際基準は0.1程度ですから200や20はもの凄い線量ということです。

 私が住んでいる東京も見てみました。新宿の東京都健康安全研究センターの測定値です。0.05あたりで福島第一原発に比べれば低いです。低気圧とともに降下してもとに戻るのは同じですが、直前にいったん跳ね上がっています。風で吹き飛ばされたもの凄い線量の放射性物質がやってきていたのでしょうか?(図2)

 「雪が降るのかなぁ」と空を見上げていたころ跳ね上がっていたんですねぇ。事故は収束していない! あらためて肝に銘じさせていただきました。」

http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201302111215361

これは重要-原発事故関係資料の蓄積と公開

2013-02-08 18:09:41 | 原発
「 原子力規制委員会が、東京電力福島第一原発事故に関する約90万枚に上る資料を電子文書化し、早ければ2年後の一般公開を目指すことがわかった。

 未公開資料も含まれるとみられる。各政府機関がばらばらに保管している資料の散逸を防ぎ、当時の事故対応を将来にわたって検証可能にする目的もある。ただ東京電力が自社で個別に管理する資料は、所有権がないため対象に含まれていない。

 「ここだけでも30万枚分の資料があります」。東京・六本木の規制委庁舎の一室。事務局を担う原子力規制庁の担当者が室内のロッカーを開けると、旧原子力安全・保安院(昨年9月に廃止)から引き継いだ大量のファイルが並んでいた。

 事故直後の福島県内の放射線モニタリング結果が記されたとみられる資料には、放射線の値に何本ものアンダーラインが引かれ、走り書きされた判読不能な文字もあるなど、当時の混乱ぶりがうかがえる。

 こうした資料は規制庁のほか、福島市内にある政府の原子力災害現地対策本部、経済産業省(東京・霞が関)の緊急時対応センター(ERC)などに分散して保管されている。しかし、作成の時期や内容が未整理のままファイルにとじられていたり、段ボールに無造作に入れられたりと、管理状態は決して良好とはいえない。規制庁担当者は「あまりにも枚数が膨大で、ほとんど手つかずのままの資料も多い」と打ち明ける。

 対象となるのは、原発事故が起きた2011年3月11日からの約1年分。放射線のモニタリング結果や被災状況、自治体の避難計画など、政府の現地対策本部が所有する事故に関する全記録で、発表資料か内部文書かは問わない。東電や福島県から提供された資料は収録できるが、東電など事業者が自社で管理する内部文書については政府に所有権がないため電子化の対象外。また、政府機関の資料でも、官邸や各省庁が単独で管理するものも対象に含まれていない。

(2013年2月8日17時24分 読売新聞)」

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130208-OYT1T00776.htm?from=ylist

福島の除染現場

2013-02-07 16:37:23 | 原発
「除染の現場から  ある親方の証言


 地元の建設会社社長の鈴木さん(仮名)に飯舘村の除染の実態を聞いた。鈴木さんは、地元の職人の親方として、仲間を率いて、一所懸命に除染作業に取り組んでいる。
 「手抜き除染」という問題が大きく報道されている。が、これとは対照的に、鈴木さんらの仕事ぶりは、職人の誇りにかけていっさい手を抜かないものだ。むしろ、そうであるがゆえに、除染にたいする見方は厳しく、その矛盾を指摘している。
 鈴木さんが、事故前に携わった原発内作業の実態も含めてお話を伺った。
〔取材は12月から今年1月にかけて〕


〔飯舘村二枚橋にある寺の除染。この日の気温は日中でも氷点下2~氷点下1度。空間線量率は毎時0.8マイクロシーベルト前後で飯舘村の中では比較的低い地域。2012年12月〕


【Ⅰ】  原発での仕事


――原発の仕事は長かったのですか?

鈴木:地元の職人は、どっちかに分かれるんだね。原発に行くか、火力に行くか。
 自分は、なるべく区域(原発内の放射線管理区域)には入りたくないと思ってたから、火力に行ったり、一般の道路工事をしたり、原発でも外の仕事をしたり。で、たまたま震災の3、4カ月前に1F4号機(東電福島第一原発4号機、当時定期点検中)に入ったわけ。

――原発の中の仕事には関わらないようにしてきた?

鈴木:そうね、やっぱり。
 作業は、一般の現場より楽よ。線量を浴びる分、作業時間が短いとか。一般の現場なら1人で持ち上げるところを、原発だったら3人でやるとか。やっぱり安全面でそうするわけ。
 でも、やっぱり線量を浴びる。だから、絶対にいやだっていう者は行かない。進んで行くのは自分の周りにはいないね。
 自分が原発に行ったのは、先輩の会社に頼まれたから。「人が足りないから、ちょっと応援してくれ」みたいな話で。お金がいいとかの話じゃなくて、それをやらないと仕事がない時期だったんでね。
 この辺の職人は、火力の定検(定期点検)が終わったら、次はこっちの定検という具合に、原発や火力をグルグル回っているわけ。仕事がないときは柏崎(東電柏崎刈羽原発)に出張に行ったり。

――4号機での仕事は?

鈴木:シュラウド(原子炉の圧力容器の中にある、炉心を囲む構造物)の交換がらみの仕事。
 ものすごく分厚いタンクみたいなものの中に入っていくんだけど、「あ~ここが心臓部なんだな」と。自分の作業は、原子炉の水を全部抜いて、そこを拭く仕事だったけどね。
 それから、シュラウドの蓋を開けるためにボルトを抜くんだけど、そのボルトをプールの中から挙げて切断する仕事とか。

――かなり被ばく線量の高い作業ですね。

鈴木:そう。身体汚染しないように管理されて、フードマスクを被ったりしながら、作業したね。その場には5分ぐらいしかいられなかった気がする。
 蓋を開ける係とか、それからそこを拭いてくる係とか、そういう工程表があって、役割分担がしてあるんだよ。で蓋を開ける人は、開けたらサッと帰ってくる。
 だから普通なら1人2人でできるような作業でも、安全面を考えて、10人ぐらいでやる感じ。

――危ないと感じた経験は?

鈴木:ひどく怒られたことはあるね。
 4号機の中で、他の業者が切った高線量の配管をさらに細かく切って、ドラム缶に入れる仕事で。
 一番、線量を食う仕事で、アノラックを着てやるんだけど、直接触ったりすると、どっかの隙間から(放射性物質が)入る。それでサーベイを受けると、ものすごい数字が出ちゃう。決められたルールを守っても、身体汚染をしちゃうということが2回ぐらい続いた。それでものすごく怒られた。まあ、そのくらいシビアだっただろうなと。
 親会社の方から言われる。「どういう管理をしてんだ」って。
 基本的に、電力の人は、自分らには柔らかい口調で言ってくるんだけど、やっぱり親会社の監督さんなんかは、プレッシャーがあるんじゃないかな。

――親会社というと鈴木さんは何次請け?

鈴木:たぶん6次か7次ぐらい。
 俺らは、仕事がどっからどう来ているとかは、正直、わかんない。
「今度、ちょっと人足りないから」と言われたら行くという関係。契約関係とかはほとんどない。ある程度のラインまでしかない。実際、そうじゃないと人は集まんないでね。

――危険な作業で、当然、特別な手当てが出ると思いますが。

鈴木:出ているのかどうかわかんないけど、俺らはもらえない。
 当時、もらっていたのが一人1日1万3千円ぐらい。この辺だと、道路工事などの日当が大体1万円ぐらいだから、それより2、3千円高いというぐらい。
たぶん、電力なり元請なりが出している金額とは全然違うと思うけど、もうそれで我慢するしかない。お金を頂けるだけ、仕事があるだけありがたいという感じだよ。



〔門前の道に沿う植込みの表土を削って、上から砂をかけていた〕


〔屋根の除染の準備で、雨樋のサーベイ。「いちまーん」と読み上げる声が。
 1万cpmということだろう。激しい汚染だ〕




【Ⅱ】  原発建屋の中で3・11




――3月11日の地震のときは?

鈴木:あのときは、4号機の建屋の中で足場を組んでいたね。最初に組んだところがダメで、作業を中断してちょうどみんな足場から降りてきたときに地震になっちゃったんだ。足場に乗っていたら大変なことになっていたね。
 ものすごい揺れで、自分なんか、変な話だけど、「隕石でも落ちたんじゃねえか」ぐらいに、もう何がどうなっているんだか、わかんなかった。船に乗っているぐらい揺れてた。全員立ってらんなかったね。あせちゃったよ。
 で、照明が落ちちゃった。非常口の表示だけが点いていて、あと警報が鳴りっぱなし。
 もうトラウマになってるね。ヤバかったよ。

――まず、考えたことは?

鈴木:とりあえず外に出ようと。ヘルメットにライトつけている人もいたんで、それを頼りに外に出てきた。
 自分らは入り口に近い方だったんで、着替えとかもキチッとやってきたけど。サーベイは足だけしてもらって。
 別の建屋なんかでは、配管か何かの水を浴びちゃって、でもそのままでてきてしまったり。みんなもうパニック。俺らのところは割と冷静だったけど、他所の建屋では、「早く出せー」って感じで、着替えもサーベイもなしで、一斉に出てきてしまったらしい。

――津波のことは考えましたか?

鈴木:いや、建屋から出てきたものの、何がどうなっているかが理解できない。道路もこんなにグチャグチャになっているし、1号機なんか角の方が落っこちてたりしたんで。
 とにかく避難場所(原発サイトの南端にある見学用の高台)があるんで、そこにみんなで行って、安否確認をした。
 そのうち吹雪いてきたんで、しばらくみんなを落ち着かせて、それから、「じゃあ、各自帰れ」となった。津波は、たぶん高台で安否確認しているときに来ていたんだと思う。あそこから海は見えないから。大変なことになっていたんだけど、誰もわからなかった。もし、安否確認してすぐに帰っていたら、たぶん津波にあって死んでたのかなと思う。浜街道を通っていくから。
 みんなで車で浜街道を走ってたら、道がないんだよ。俺は、「パイプラインかなんかが破断して水が溢れてんだな」ぐらいにしか考えなかった。でもそのうちに津波だということがわかって。ちょうど家族とかと電話がつながり始めて、「家が流された」とか、そんな感じだったね。

――原発が危険になるとは?

鈴木:3月11日の2日前に岩手で地震があったけど、あのときにいつものメンバーで飲みながら、「そろそろ地震が来るんじゃないか」といった話を冗談半分でしてた。で、もし地震がきたら、「原発が危ないから、福島市に逃げよう」と、みんなで打ち合わせしてたんだ。そしたら、本当にあの地震が来ちゃった。
 だから、原発が危ないという情報が入る前に、そのまま福島市とか新潟にばんばんいちゃった。もうどうせみんな家も流されているし。
 俺の家は、津波では大丈夫だったんで、避難所にいる仲間に「とりあえず逃げなさい」って言って、ガソリンとか、子どものおむつを届けて、自分も翌日に避難した。

――原発の爆発を知ったときの気持ちは?

鈴木:「ああ、基本、帰れないんだべな」と。
 あの後、何日後かに、みんなのところに、(上の方の会社から)ガンガン電話がきて、「1Fに戻れないか」とか「決死で来てくれないか」とか言われた。普段は電話なんか来ないような何とか部長とかから。でも、みんな「それどころじゃねえ」って。
 自分は、事故以降、原発に戻ることはなかったね。
 でも、3月20日ごろにはこっちに戻ってきて、「ああこの先どうしようかな」とか考えてたよ。



〔落下、転倒、被ばくなどの危険を周知する打ち合わせが毎朝行われる。現場では省略してKYという〕




【Ⅲ】  飯舘村の除染





〔夏に表土剥ぐ除染が行われた小宮地区の田圃。線量はある程度下がったものの、豊饒な土壌を取ってしまったので、農業の再生は遠い。また周りの山林は手付かずなので、放射性物質はやがて戻ってくる〕


――除染はいつから?

鈴木:一発めの国のモデル事業から。去年(2011年)の10月ぐらい。いまは飯舘村をやってる。

――実際にやってみてどうですか?

鈴木:やれば下がるのは下がるんだけど、まあ場所にもよる。ホットスポットというのはある程度決まってて、そこだけ集中的にやってけば、とりあえずは下がる。
 コンクリートは、水で洗っても、落ちない。土は、表土を取れば全然違う。あと、木がダメ。切り倒すか、木の皮を剥くか。皮を剥くと違う。
 屋根は、瓦をキムタオル(拭き取り作業用、パルプ製)で一枚一枚拭き取ってる。一回拭いたら、もう汚れてるからダメなんで、折り返して折り返して、みたいな感じ。「ああ、これはどうなのかなあ」と思うけどね。
 それから、雨樋に放射性物質が溜まっているから、俺なんかは、「雨樋を新しいのに交換したらいいんじゃないか」と思うけど、それはお客さんのものだから勝手に交換ももちろんできないし。
 一番、激しいのは、雨どいの下の土。桁違いの数字が出る。そこは、1メーター×1メーター×1メーターで土を取ってしまう。で、測って、まだ高ければ、もっと掘ってという感じ。で、そこを取ると低くなる。まあ低いと言っても、震災前よりはずっと高いんだけどね。

――作業の雰囲気はどうですか?

鈴木:うちは、大成・熊谷・東急のJV(Joint Venture 共同企業体)の下にいる。
 監督さんらも一所懸命なんだけど、みんな初めてのことだから、一所懸命すぎて空回りしてしまうような雰囲気はあるよね。
 俺らとしては、言われたことさえやればいいわけだけど、監督としては、「下げたぞ」という結果が、技術者としても欲しいんだろう。
 だから、会議なんかで言い合いになる。「そんなやり方じゃ効率悪い」とか。「風が向こうから吹いてきてるから、向こうから攻めて、こういう風にやりたい」とか。「それはできません」とか。もうできないことはできないと言う。監督も、できないと分かってて言って来るから。
 それに工程的にきついよ。プレッシャーもある。除染をして数値が下がらなければ、やり直し。でも工期も決められているから、詰まってくるわけ。
 俺らが手を抜くわけにもいかないし、精神面で疲れるなあと思う。
 それでも、監督さんに、「無理を行って悪いなあ」とか「ありがとうなあ」と言われれば、職人としてはうれしい。



〔民家の玄関前のコンクリートの洗浄。屋根の洗浄で出た汚染水は回収するが、玄関前の洗浄で出た汚染水は、この現場では回りに流していた〕


〔ビニールハウスの中の土壌を剥離〕


ここは住む町ではない


――実際のところの除染の成果は?

鈴木:直後は下がる。でも1週間後、1カ月後、どうかね。雨どいの下の強烈なところは取り除いた。でも家一軒まるまるだからね。一戸ずつやっていくしない。そうすると地域全体としては、変わんないと思う。とくに飯舘村なんかは田圃があり、畑があり、山があり、森がありだから。
 ある意味、辛いよね。心の中で、「何やらされているんだ」みたいな。そういう気持ちもある。

――原発内の作業を経験した立場から今の除染はどうですか?

鈴木:原発内の除染と今の除染は、言葉は同じでも全く違う。原発の方は、建屋の中が汚染されていても、建屋の外に出れば、きれいな空間。それなりの理屈がある。原発では、汚染を封じ込め込めて、ここから持ち出さないという風にしている。中の方の気圧も低くしてあって、外には出ない。
 でも、今の除染の場合、ここを除染しても、まだこっちが汚れているから、難しいというか、今やっている除染は矛盾しているところがある。ここを除染しても、風で飛んでくれば、元に戻ってしまう。辛えよねえ。
 国が細かく基準とかマニュアルを作っているけど、その通りにやれば成果が上がるとは限らない。きつい思いをして、一所懸命やってる気持ちと、でも実際には「これは無駄だな」ということがある。みんな職人だから、そういう思いはあると思う。

――一番の無駄や矛盾は?

鈴木:家でも倉庫でも、拭き取ったり、洗浄したりするのにお金をかけるんだったら、それは壊して、新しいのを建ててあげた方がいいなと思う。で、出たものは汚れているから、集めて散らさない方がいいんじゃないかって思うんだけどね。
 自分の感覚なんかじゃ、正直な話、正常なときの建屋の中でさえ除染しきれなかったのに、これだけぶちまけて、できるがわけない。

――つまり除染しても元には戻らないと。

鈴木:ここはもう住む町ではないと思うね。とくに子どもたちが。
 実際、みんな単身こっちにいて、家族は避難という感じだね。

――ではどうしたらいいか、現場で見えてくるものは?

鈴木:たまに地図を見たりすると、福島県大きいし、飯舘も大きい。面積があって、高濃度で汚染されてて、ほとんど山。広すぎて、除染なんて意味がない。
 だから何十年かは、人が入れないというところを作るしかないと思う。子どもたちはできるだけ、近づけないで。



〔一軒の民家の除染でも大量の廃棄物が。これは一旦、小宮地区にある仮仮置き場に集められる。最終的には、双葉町・大熊町などに作ろうとしている中間貯蔵施設へ持ち込もうとしている。しかし無駄な除染のために双葉・大熊にまた犠牲を強いるのかという声も少なくない〕


危険手当


――除染作業は当然、危険手当がついているわけですが、その辺は?

鈴木:危険手当は一日1万円、普通の賃金プラス1万円。
 福島県の最低賃金が5300円ぐらいだから、「最低1万6千円ぐらい払いなさい」という話だよね。
 ただ、危険手当を除いたら6千円。6千円で働く職人なんていないよ。だから、最低で2万円は出してる。
 でも、自分のところでも、上の段階で相当抜かれている。やっぱり、暗黙の了解みたいな。
 それから、除染だからといって必ず危険手当が着くかというと、川俣町はつかない。
 飯舘村は環境省だけど、川俣町は町でやっているから。被ばくするのは同じなのに。だから、その辺の矛盾もあるよね。ものすごい安いし、人、集まんないって言ってたよ。
 

手抜き除染


――「手抜き除染」という報道が大きくされていますが?

鈴木:自分らは、地元の人間だからね。自分たちが住んでいるところだよ。そこで、ああいうことはやれない。気持ちとしてね。地元の人間だったら、川に捨てたらどうなるかとか、分かるし。
 手抜きで問題になっている作業員というのは、たぶん大半が、地元の人間ではないだろ。建設業もやったことがないような。
 俺らは、例えば、水で洗うときも、「一滴も漏らすな」って、回収を厳しくやってるくらい。その辺、監督もシビアだから。

――一所懸命やってきた現場としては?

鈴木:この話を聞いて、正直、俺もびっくりした。
 現場では、今はなんか雰囲気が重いよ。真面目にやっているのに、いっしょに見られて。そういうことを聞かれるし。なんか、やるせないね。

――どこに問題があると思いますか?

鈴木:国の人は、2~3年で除染してとか考えているみたいだけど、現実には無理。やっぱり除染なんて、できないことを無理にやろうとしているところに原因があるんじゃないか。さっきも言ったように、原発の建屋の中でさえ除染しきれなかったのに、放射能をこれだけぶちまけて、除染なんてできるわけがない。そういう矛盾したことをやっているところに問題があると思うけどね。
 

「本来の生活」を取り戻す


〔野菜を置けなくなった二枚橋新鮮野菜直売所につるし雛が(写真上)。住民の思いがつづられている(写真下)。「帰れるものなら帰りたい」という思いも事実。しかし除染すれば元に戻れるわけではない。それも重い事実〕


――原発が事故を起こして、汚染した状態になって、しかもその処理作業に携わっている人間として、どんな気持ちですか?

鈴木:そうねえ、出口が見えないトンネルに入ってしまったという感じかな。ただ、いまさら後戻りもできないし、何とか抜けるまでは行くしかないなあ。自分が生きている間は無理かもしれないけど。

――原発という政策からの転換については?

鈴木:やっぱりもう「本来の生活」に戻るべきなんじゃないかな。例えば、太陽光にしたとして、その発電量が少ないと言うなら、それで暮らせる生活にするべきなんだよ。たとえ貧しくても。その方がいいと思う。これまでがおかしかったんだよ。

(了)」

http://fukushima20110311.blog.fc2.com/

東電・国会事故調の調査を妨害

2013-02-07 15:29:23 | 原発

「東京電力福島第一原子力発電所の事故調査を担当した、国会の事故調査委員会の元委員が、去年、1号機の現場調査を検討した際、東京電力から「内部は真っ暗だ」などと、実際とは異なる説明を受けたために、調査を断念することになったとして、衆参両院の議長に現場調査を求める文書を提出しました。

文書を提出したのは、国会事故調の田中三彦元委員です。

提出した文書によりますと、国会事故調のメンバーが、事故と地震との関係を調べるため、去年2月、福島第一原発1号機の現場調査を計画した際、東京電力から現場の状況について説明があったということです。

この中で、東京電力側は、みずからが撮影した建屋内部の動画を見せながら、「1号機を覆うカバーを設置する前に撮影したものだ」としたうえで、「今は真っ暗で、作業員の余分な被ばくを避けるため、同行できない」などと説明したため、国会事故調は現場調査を断念したということです。

ところが、この動画は東京電力の説明とは異なり、カバーの設置が完了したあとに撮影したもので、場所によっては外部から光が差し込むなど真っ暗な状況ではなかったということです。

田中元委員は「東京電力の虚偽説明による重大な調査妨害があった」として、衆参両院の議長などに対して、経緯を調べ、国会に現場調査するよう求めています。

これについて、東京電力は「担当者が動画を撮影した時期を誤って認識していたため、間違った説明になっていた。説明に誤りがあったことはおわびする。国会事故調が現場調査をしなかったのは、明るさだけでなく、がれきが散乱している危険性などを考慮したことだと理解している」と説明しています。」

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130207/k10015357521000.html


 このようなことを許してきたことが福島の事故をもたらした。

 それを繰り返すのは「人を代えていないから」だ。

 この国の「エリート」と呼ばれる人間には自分を変える能力がない。

情報漏洩の規制庁高官の動向・続

2013-02-04 17:01:45 | 原発
「公開質問直後に個別面談=日本原電が名雪元審議官と―敦賀原発資料漏えい問題

時事通信 2月4日(月)16時6分配信

 原子力規制庁の名雪哲夫元審議官が日本原子力発電に、敦賀原発(福井県敦賀市)の活断層評価書案を漏えいしていた問題で、同社は4日、原子力規制委員会の判断を不服として公開質問状を提出した昨年12月11日、名雪氏と個別面談していたことを明らかにした。

 日本原電は4日、活断層の可能性が高いと判断された昨年12月10日以降、名雪氏と個別面談した回数もこれまでの5回ではなく、7回だったと訂正した。 」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130204-00000053-jij-soci

規制庁の実態/情報筒抜けは3.11以前とまったく同じ

2013-02-02 16:49:19 | 原発
「 原発の新安全基準を検討していた原子力規制委員会の専門家チームが31日、骨子案をまとめた。「沸騰水型(BWR)原子炉のベントフィルター装着」「防潮堤のかさ上げ」「第2中央制御室の設置」「活断層上での原子炉建設禁止」……
 一見、従来より厳しくなったかに思える。ところが抜け穴だらけ。解釈や規制庁の運用しだいで、電力会社は原発の再稼働も可能だ。

 国民の意見を聞くパブコメがわずか2週間というのも拙速感が否めない。

 「原子力規制を監視する市民の会」が1日、国会内で院内集会を開き、井野博満氏(東大名誉教授)、後藤政志氏(元東芝原発設計技師)らが「新安全基準」の危険性と欺瞞性を指摘した。両氏ともストレステストの評価委員で最も厳しい見解を示していた。ゆえに今回の専門家チームから外されたものと見られている。

 井野氏は「事業者(電力会社)が値切ろうとしている。規制委員会と事業者が一体となっている」と話す。値切るとは重要施設の設置期限を延ばしてもらったりすることだ。防潮堤がかさ上げされていなくても、ベントフィルターが装着されていなくても、電力会社は原発を再稼働できることになる。

 活断層の定義もいい加減だ。30日の記者ブリーフィングで筆者の質問に対して原子力規制庁は「活断層の露頭(※)が重要施設の真下にきている場合は建設できない」と答えた。

 ところが原子炉の真下に露頭がなくても、原発敷地内あるいは敷地の近くに露頭があれば、原子炉が乗る地層も連動して陥没したり隆起したりするのだ。「疑わしきは活断層」とする後藤氏の説の方が理にかなっていて説得力がある。

 新基準は7月18日に施行されるが、いくらでも骨抜きにされるようになっているのだ。


警察は前方にも進めないように鉄柵を取り付けた。自民党政権になりジワリジワリと規制が厳しくなりつつある。=1日夕、国会記者会館前 写真:諏訪撮影=

 首相官邸前で「原発反対」の声をあげる市民に「新安全基準」について聞いた――

 八王子市に住む大学生(女性・23歳)は悲観的だった。「原子力規制委員会の独立性は全くない。事業者(電力会社)と癒着していると思う。それでも廃炉という選択をしてほしい。パブコメ自体が周知されていない。自分も原発事故以降初めてパブコメを知った。パブコメはさっと書けるわけじゃない。(国民に話を聞いたという)建前に過ぎない」。

 先月、4人目の孫が誕生したという男性(会社経営60代・大田区)は、新安全基準なんぞ端から信用していない、という口調で語った。「規制委員会は“政界で一番厳しい安全基準”と口では言ってるが、抜け穴だらけ。パブコメは形だけ国民の声を聞いたことにするためだ。」

 この日、原子力規制庁の審議官が活断層の検討資料を日本原電に漏えいしていたことが明らかになった。規制庁の体質は、電力会社の意向を汲み原発のトラブル隠しに懸命だった原子力安全・保安院のままだ。福島の教訓とは何だったのだろうか。 《文・田中龍作 / 諏訪都》」

http://tanakaryusaku.jp/

柏崎刈羽の直下にも活断層

2013-01-24 11:44:54 | 原発
「 東京電力柏崎刈羽原発(新潟県)の原子炉建屋直下にある断層が、活断層と判断される可能性が高くなった。原子力規制委員会が策定中の地震と津波の新しい安全基準で活断層の定義が広がるためだ。東電は調査を進めており、規制委も東電の調査結果を踏まえて活断層かどうかを判断する。活断層であれば再稼働は難しくなり、廃炉になる可能性がある。
 問題の断層は、柏崎刈羽原発1、2号機の原子炉建屋直下を通る「β(ベータ)断層」で、約200メートルの長さが確認されている。

 昨年8月に開かれた旧原子力安全・保安院の専門家会合で、参加した専門家からβ断層のずれは約24万年前に降った火山灰を含む地層よりも新しい地層まで及んでいるとの指摘が出ていた。一方、東電は少なくとも約12万5千年前以降は動いていないとして、耐震設計上考慮すべき活断層ではないと主張していた。

 現行の国の指針は活断層を「約12万~13万年前以降に活動したもの」と定義している。しかし、規制委は新安全基準で「40万年前以降に活動したもの」に拡大する。このため、β断層は新基準では活断層と判断される可能性がある。規制委が示す新基準の骨子案は、活断層の真上に原子炉建屋など重要施設の設置を認めていない。

 原発敷地内断層について、規制委は活断層の疑いがある日本原子力発電敦賀原発(福井県)など計6カ所で現地調査を実施、計画中だ。柏崎刈羽原発は現時点で対象外。ただ、柏崎刈羽原発は、旧保安院から敷地内の断層についてさらに検討が必要と指摘されており、東電は自主的に調査をしている。

 規制委は「東電の調査結果の報告を受けてから、現地調査が必要かどうか対応を検討する」としている。」

http://digital.asahi.com/articles/TKY201301240076.html?ref=comkiji_txt_end_kjid_TKY201301240076

脱原発依存を模索する京都滋賀の自治体/京都新聞

2013-01-24 10:35:43 | 原発
「「脱原発依存」6割が可決 京滋の市町村議会印刷用画面を開く
 福島第1原発事故以降、京都と滋賀の全45市町村のうち、原発依存からの脱却を求める意見書や決議を昨年末までに可決した議会が、京滋とも6割を超える計28市町に上ることが、京都新聞社の調べで分かった。再稼働反対や再生可能エネルギーへの転換を促す意見書を可決した議会を含めると35市町村に達する。脱原発に慎重な政権与党の自民党と地方議会にずれが生じていることが浮き彫りになった。

 京都府(26市町村)では京都市や宇治市、京丹波町など16市町で脱原発依存の意思を明記した意見書・決議が可決された。

 表題に「脱原発に向けた取り組みを求める」(木津川市)と掲げたり、本文に「脱原発依存社会へ向けて廃炉計画を速やかに示すこと」(綾部市)と盛り込むなどしている。滋賀県(19市町)では草津市や彦根市など12市町で可決された。

 脱原発の文言はなくても、原発再稼働に反対したり、再生可能エネルギーへの転換を促す意見書も、府内は5市町村、県内は2市で可決された。

 立命館大の村上弘教授(地方自治論)は「過去を見ても、1980年代から国の原発推進に対し、予定地の府県や市町村の多くが反対を表明し、建設を止めてきた例がある」と指摘した上で、「昨年の衆院選で比例代表の自民党の得票率は3割弱なので、国民が全て自民のエネルギー政策に賛成したとは言えない。意見書に法的拘束力はないが、政府や国会は参考にすべきものだ」と話している。

■意見書や決議を可決した議会■

【脱原発依存】

 京都府内=京都市、福知山市、綾部市、宇治市、宮津市、城陽市、向日市、京田辺市、京丹後市、木津川市、大山崎町、井手町、宇治田原町、精華町、京丹波町、与謝野町

 滋賀県内=彦根市、長浜市、近江八幡市、草津市、守山市、甲賀市、野洲市、湖南市、東近江市、米原市、竜王町、甲良町

【再稼働反対や再生エネ促進(上記除く)】

 京都府内=舞鶴市、亀岡市、長岡京市、伊根町、南山城村

 滋賀県内=大津市、高島市」

http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20130124000023

「海洋汚染対策後回し 東電会議映像」

2013-01-24 10:13:41 | 原発
「海洋汚染対策後回し 東電会議映像

2013年1月24日 07時16分

 東京電力が二十三日に新たに公表した福島第一原発事故をめぐる社内のテレビ会議映像で、東電は建屋にたまった高濃度汚染水が、海に漏れる危険性を知りながら、汚染水による作業員の被ばく対応などに追われ、漏出防止対策を後回しにしていたことが分かった。

 今回公開されたのは、二〇一一年三月二十三~三十日と四月六~十二日の映像。これまで二回の公開分と合わせ、事故後一カ月間のやりとりがそろった。

 会議の映像を分析すると、東電は三月二十日前後は、使用済み核燃料プールに向け大量に放水される水が、建屋などに付いた放射性物質を洗い流し、海に流れ込む可能性を非常に気にしていた。

 しかし、二十四日に3号機タービン建屋地下で作業員らが高濃度汚染水で被ばく。汚染水の分布調査や、増え続ける汚染水の移送先の確保に追われた。

 その後、放水口近くの海水から高濃度の放射性物質が何度も検出され、海への漏出防止策に注力する転換点はあったが、後回しになっていた。

 二十八日になると、建屋内の汚染水は外のトレンチ(配管用の地下トンネル)や海のすぐ近くにある立て坑にまでたまり、いつ海に漏れてもおかしくない状況だった。

 だが、東電本店では「単純にトレンチまで(汚染水が)いってますと、今まで言っていない事実だけを公表する」などと、発表は必要最小限の内容にとどめる方針が決められていた。その一方、海水の汚染の原因究明や防止策を話し合う場面は見られなかった。

 四月二日、2号機取水口近くで毎時一〇〇〇ミリシーベルト超の汚染水が海に漏出していることが判明。その後になって、東電は立て坑をコンクリートでふさいだ。

 早い段階でこうした対応をしていれば、海への漏出は防げた可能性が高い。

 東電の尾野昌之原子力・立地本部長代理は記者会見で「汚染水の海への漏出を把握したのは四月二日が最初」とあらためて強調し、「その時点でできる対応をしていた」と釈明した。
(東京新聞)」

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2013012490071627.html

新たな過酷事故対策基準

2013-01-21 12:18:32 | 原発
「原発の過酷事故対策で新基準案 第2制御室や緊急時対策所新設
2013年1月21日 12時06分
 原子力規制委員会が開いた原発の新安全基準の検討会=21日午前、東京・六本木

 原子力規制委員会は21日、原発の新安全基準を検討する有識者らによる会合を開き、東京電力福島第1原発事故のような過酷事故を防ぐ対策を盛り込んだ基準骨子案を示した。航空機衝突などのテロや大規模な自然災害にも対応できるよう原子炉の冷却設備や第2制御室を備えた「特定安全施設」を設置。免震機能を持ち事故時に現地対策本部となる緊急時対策所も新設する。
 過酷事故対策はこれまで電力会社の自主努力に任せられていたが、福島事故を教訓に義務化する。22日には地震と津波対策の基準骨子案も示す予定で、これらを今月末に骨子としてまとめ、国民の意見を聞いた上で7月に基準を施行する。
(共同)」

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2013012101001341.html