きのうの太田総理はまた教育問題(いじめについて)だった。今回のマニフェストについてどうとかこうとか言う気はあんまりない。きのうの(「いじめをなくそう」スローガンを禁止します)は賛成多数で可決されたけど、私にはあまり意味のある内容とは思えなかったから。というのは、教育というのは子ども相手なわけで、私がこのブログでも度々引用させてもらってる清水真砂子さんが、児童文学と純文学の違いを積分の文学と微分の文学(彼女はどちらがすぐれているとかは言っていません)と言う風に表現されていますが、児童文学を語るに当たって、”微分の文学の原理で語ってはいけない”と思うのです。それと同じことが教育にも言えると思うのです。太田光の言っていることは、一面の真理ではあります。教育委員会や管理職の欺瞞への批判でもあります。でも、本音が必要なように「タテマエ」は必要なのです。それをあまりにもとっぱらってしまったので、学校が現在のオトナの世界のように本音ばかりがぶつかりあうぎすぎすした世界になってしまったのではないでしょうか。本音とタテマエのバランスが崩れて本音ばかりの世の中になってしまっていることが問題なのです。(こういうバランスの崩れた状態への反動として、”変てこなタテマエ”を復活させようとしているひとがいるのが今じゃないでしょうか)子どもたちは、そういうオトナ社会の状況を素直に反映しているのです。このブログでも紹介した兄が小学校5、6年生の時の担任の先生のことを少し思い出してみると、(その2年間クラスにいじめはなかったです)、とても人気のあった先生でしたが、「ダメなことはダメ」ということは、とても毅然とした態度で子どもたちに言っていましたね。誰かが誰かを傷つける発言をした場合、その発言をした生徒に質問をしたりするのですが、その質問自体が、その生徒に自分の誤りに気付かせるような質問でしたので、子どもたちは、勿論反論できないのですが、何かに気付いて納得して座るというような感じでした。
ところで、最近、珍しくドラマを結構観ていまして、「陰影礼賛!」という題で亀梨君主演のドラマのことを、それと、最近、亡くなった映画監督ロバート・アルトマンについても少し書きましたのでよかったらこちらの方にも訪問してみてください。
最後に、清水さんの著書「もうひとつの幸福」(岩波書店)より引用して終わりたいと思います。
でも、やっぱり人間の悪意を認めることはこわい。なぜか。そうやって人間の努力の限界を認めること、断念し、問題を手放すことは、人間としてむしろ謙虚なことかもしれないと思いながら、しかし結局のところ、現状肯定、現状維持につながるのではないかという危惧が一方にあるからです。
そういう人々を著名な作家だけでなく、身のまわりにもたくさん見ているからです。こういう人々におしなべて歴史認識が欠けているように思えるのはどうしてなのでしょう。
人間の悪意を認めつつ、なお人間を信じ、現状肯定、現状維持に傾かない道をさぐっていきたい。 (「もうひとつの幸福」182頁より)
ところで、最近、珍しくドラマを結構観ていまして、「陰影礼賛!」という題で亀梨君主演のドラマのことを、それと、最近、亡くなった映画監督ロバート・アルトマンについても少し書きましたのでよかったらこちらの方にも訪問してみてください。
最後に、清水さんの著書「もうひとつの幸福」(岩波書店)より引用して終わりたいと思います。
でも、やっぱり人間の悪意を認めることはこわい。なぜか。そうやって人間の努力の限界を認めること、断念し、問題を手放すことは、人間としてむしろ謙虚なことかもしれないと思いながら、しかし結局のところ、現状肯定、現状維持につながるのではないかという危惧が一方にあるからです。
そういう人々を著名な作家だけでなく、身のまわりにもたくさん見ているからです。こういう人々におしなべて歴史認識が欠けているように思えるのはどうしてなのでしょう。
人間の悪意を認めつつ、なお人間を信じ、現状肯定、現状維持に傾かない道をさぐっていきたい。 (「もうひとつの幸福」182頁より)