生協のピースライブラリーで見つけて、「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」(梯久美子・著/新潮社)を読んだ。読むのは大体夜中、寝る前だったのだが、読んでいる間は、その後眠れなくなって困った、そんな本だった。そして、読むのが止めれなくなるような本だった。
内容は、映画「硫黄島からの手紙」で描かれている栗林忠道像を、その硫黄島での日々、戦闘そして最期を、そのまま詳しく描写した感じで、あの映画が、かなりリアルに、栗林忠道という人物を描いていたということがわかった。
この本のタイトル「散るぞ悲しき」は、彼が最後の総攻撃前に、大本営に宛てた訣別電報の最後に添えられた辞世の歌3首のうちの1首、
国の為重きつとめを果たし得で 矢弾(やだま)尽き果て散るぞ悲しき
から来ています。当時、軍人(指揮官)として、戦闘行為を詠むに当たって、タブーとされていた”悲しき”という言葉―新聞発表では”口惜し”と改変されて発表された―が、どのような経緯で、どのような思い(意志)が籠められて発せられたのかを、軍人、家庭人としての栗林の性格や、島での地下陣地構築の日々、「生地獄」とも表現された、過酷で凄絶な戦闘の様子やその最期をていねいに描写していくことによって、描いている。もちろん、映画でも使われた手紙も数多く紹介されている。
私が最も印象的だったのは、生前の栗林を知る者を訪ねて、軍の軍属(裁縫係)として、生前の栗林と親しく接し、彼のことを”うちの閣下”と呼ぶ85歳の貞岡氏に会った時のエピソードだ。当時「閣下のもとで死にたい」と願い、硫黄島に渡ろうとしたが、本人から「来てはならん」と怒鳴られ、その願いを果たせず、今でも栗林の最期の電報の電文の一言一句を忘れず、まるでお経を読むように朗誦するという貞岡氏は、栗林の死から33年後の昭和53年に慰霊巡拝団の一員として島に渡ったときに、案内の人が栗林が潜んでいた司令部壕を指すと、「閣下ぁー、貞岡が、ただいま参りましたーっ!」と呼びかけながら、その方向に駆け出したという件を読んだときは、われ知らず泣けた。
映画でも使われた最後の出撃前の栗林の言葉、
日本国民が諸君の忠君愛国の精神に燃え、諸君の勲功をたたえ、諸君の霊に対し涙して黙祷を捧げる日が、いつか来るであろう。
を、思い出した。
貞岡氏の電文朗誦は、硫黄島の死者の霊に対する、私たちに代わっての、やはりお経なのだ。それは、そのような戦争があったことも、そこで亡くなった兵士たちのことも忘れて暮らしている私たちの戦後を照射している。私たちはそれらの死者を思い出し、涙することがあったのかと。(私は、栗林忠道のことを映画「硫黄島からの手紙」を観るまで知らなかった。)
アッツでもタラワでも、サイパンでもグアムでもそうだった。その死を玉砕(=玉と砕ける)という美しい名で呼び、見通しの誤りと作戦の無謀を「美学」で覆い隠す欺瞞を、栗林は許せなかったのではないか。(同書220頁より)
スミス中将が、その不気味なまでのしたたかさをウジ虫に例えた硫黄島の地下陣地。それは、名誉に逃げず、美学を生きず、最後まで現実の中に踏みとどまって戦った栗林の強烈な意志を確かに具現していた。(同書126頁より)
(※スミス中将=米海兵隊硫黄島上陸作戦の指揮官、ホーランド・M・スミス中将)
しかし、その闘いは、栗林本人をして、「鬼神(きじん)を哭(なか)しむる」と表現させずにはおかないほどの戦いだったのだ。
この本からは、栗林の”絶唱”としての電文に籠められたその闘いの哀切さとともに、その最期のときまで徹底した現実主義者(現実主義者としてアメリカとの開戦に反対していた)だった軍人栗林の姿が浮び上がって来る。硫黄島の地下陣地やその闘いぶりによって、敵将を感嘆させ、彼に対して畏敬の念を抱かせるほどの。そしてその現実主義者の彼が、留守宅のこまごまとした事までを気遣う手紙を書く、よき父親であり、夫であったことは、映画でも描かれていたとおりだった。
※男はどうして戦争映画がすきなのだろう(「硫黄島からの手紙」を観て感じたこと)
※「父親たちの星条旗」より
※「 硫黄島からの手紙 」
内容は、映画「硫黄島からの手紙」で描かれている栗林忠道像を、その硫黄島での日々、戦闘そして最期を、そのまま詳しく描写した感じで、あの映画が、かなりリアルに、栗林忠道という人物を描いていたということがわかった。
この本のタイトル「散るぞ悲しき」は、彼が最後の総攻撃前に、大本営に宛てた訣別電報の最後に添えられた辞世の歌3首のうちの1首、
国の為重きつとめを果たし得で 矢弾(やだま)尽き果て散るぞ悲しき
から来ています。当時、軍人(指揮官)として、戦闘行為を詠むに当たって、タブーとされていた”悲しき”という言葉―新聞発表では”口惜し”と改変されて発表された―が、どのような経緯で、どのような思い(意志)が籠められて発せられたのかを、軍人、家庭人としての栗林の性格や、島での地下陣地構築の日々、「生地獄」とも表現された、過酷で凄絶な戦闘の様子やその最期をていねいに描写していくことによって、描いている。もちろん、映画でも使われた手紙も数多く紹介されている。
私が最も印象的だったのは、生前の栗林を知る者を訪ねて、軍の軍属(裁縫係)として、生前の栗林と親しく接し、彼のことを”うちの閣下”と呼ぶ85歳の貞岡氏に会った時のエピソードだ。当時「閣下のもとで死にたい」と願い、硫黄島に渡ろうとしたが、本人から「来てはならん」と怒鳴られ、その願いを果たせず、今でも栗林の最期の電報の電文の一言一句を忘れず、まるでお経を読むように朗誦するという貞岡氏は、栗林の死から33年後の昭和53年に慰霊巡拝団の一員として島に渡ったときに、案内の人が栗林が潜んでいた司令部壕を指すと、「閣下ぁー、貞岡が、ただいま参りましたーっ!」と呼びかけながら、その方向に駆け出したという件を読んだときは、われ知らず泣けた。
映画でも使われた最後の出撃前の栗林の言葉、
日本国民が諸君の忠君愛国の精神に燃え、諸君の勲功をたたえ、諸君の霊に対し涙して黙祷を捧げる日が、いつか来るであろう。
を、思い出した。
貞岡氏の電文朗誦は、硫黄島の死者の霊に対する、私たちに代わっての、やはりお経なのだ。それは、そのような戦争があったことも、そこで亡くなった兵士たちのことも忘れて暮らしている私たちの戦後を照射している。私たちはそれらの死者を思い出し、涙することがあったのかと。(私は、栗林忠道のことを映画「硫黄島からの手紙」を観るまで知らなかった。)
アッツでもタラワでも、サイパンでもグアムでもそうだった。その死を玉砕(=玉と砕ける)という美しい名で呼び、見通しの誤りと作戦の無謀を「美学」で覆い隠す欺瞞を、栗林は許せなかったのではないか。(同書220頁より)
スミス中将が、その不気味なまでのしたたかさをウジ虫に例えた硫黄島の地下陣地。それは、名誉に逃げず、美学を生きず、最後まで現実の中に踏みとどまって戦った栗林の強烈な意志を確かに具現していた。(同書126頁より)
(※スミス中将=米海兵隊硫黄島上陸作戦の指揮官、ホーランド・M・スミス中将)
しかし、その闘いは、栗林本人をして、「鬼神(きじん)を哭(なか)しむる」と表現させずにはおかないほどの戦いだったのだ。
この本からは、栗林の”絶唱”としての電文に籠められたその闘いの哀切さとともに、その最期のときまで徹底した現実主義者(現実主義者としてアメリカとの開戦に反対していた)だった軍人栗林の姿が浮び上がって来る。硫黄島の地下陣地やその闘いぶりによって、敵将を感嘆させ、彼に対して畏敬の念を抱かせるほどの。そしてその現実主義者の彼が、留守宅のこまごまとした事までを気遣う手紙を書く、よき父親であり、夫であったことは、映画でも描かれていたとおりだった。
※男はどうして戦争映画がすきなのだろう(「硫黄島からの手紙」を観て感じたこと)
※「父親たちの星条旗」より
※「 硫黄島からの手紙 」
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