前回ご紹介した頓所好勝氏は、見事なグライダーを作った知識を買われて、その後、海軍の要請で「神竜」という特攻グライダーを開発することになります。
本筋からは離れてしまいますが、今回はこれについてご紹介しておこうと思います。
太平洋戦争末期、日本の負けが確定的となり、それでもアメリカを譲歩させ、日本にとって有利な条件の「負け方」に持っていくため、日本軍は陸軍、海軍ともに、「特攻」という恐ろしい方法をとることを考えます。
これは「国体維持」、つまり天皇制を残して国が混乱しない形で「負け」にすることを主な目的としたもので、そのために、日本の徹底抗戦を見せるために、大切な若者たちの命を犠牲にして、爆弾とともに敵に体当たりするという、人道的に許せない行為を強制しました。
この「特攻」で大事な命を落とした若者は、直接的には5000人以上、実質的には10000人以上いたことが考えられます。
海軍の場合、一部の有優秀なパイロットを除き、ほとんどのパイロットにこの特攻をさせる考えがありました。
更に、パイロットがすべて特攻でいなくなった後も、アメリカ軍が日本本土に上陸するときに、更に攻撃をするため、予科練(海軍パイロット養成校)の生徒までも特攻要因として使うことを考えます。
そのために開発されたのが、今回ご紹介する「神竜」です。
神竜は、14歳から18歳くらいの予科練のグライダー操縦の経験を持つ少年に特攻をさせるためのものです。
この神竜は、固体ロケットエンジンを積んだグライダーに、爆弾100キロと少年をのせ、敵に体当たりするというものでした。
予科練では、パイロットの訓練をするために、まずはグライダーから練習させました。
そのため、予科練そのものは、茨城の土浦と九州の大村の二校しかありませんでしたが、グライダーの練習場は日本各所に多数存在していたのです。
頓所氏が開発を手掛けた「神竜」は、そのグライダー練習場の一つ、「石岡中央滑空場」にて進められていたのです。
この「石岡中央滑空場」が、実は足尾、板敷二つのハンググライダーエリアのすぐ近くに存在していたのです。
現在は、法政大学体育施設として使われています。
観光地になっている「ダチョウ王国」のすぐ近くです。
少し前にとった現地の写真ですが、今ではそのような恐ろしい兵器が作られていたとは思えないくらい、静かで平和な場所になっています。
桜の花がとてもきれいでした。
特攻は、表向きは本人の志願の形をとっていましたが、実質的には「強制」でした。
そして、そんな兵器を開発する技術者も、口には出しませんでしたが、実はいたたまれない気持ちで開発を続けていたそうです。
神竜の開発を進めていた頓所氏は、いったいどのような気持ちで、この兵器の開発を進めていたのでしょうか?
幸いこの神竜は、実際に使われる前に終戦となり、この兵器で命を落とした若者はいませんでした。
ただ、そのような恐ろしい歴史があった事実は後世に伝えなければならず、そのようなことを知っている者も少なくなっているため、このブログにその事実を記しておきたいと思い、ちょっと本筋からそれた内容になってしまいました。
ご勘弁ください‥。