飛行中年

空を飛ぶことに薪ストーブ、そして、旅をこよなく愛する一人の中年のブログです。

大川小学校の悲劇、釜石の奇跡、この二つに触れてみて…。

2021-05-29 14:55:29 | 人生論(life)
大川小学校の悲劇とは、東日本大震災時、宮城県石巻市にかつてあった大川小学校が、78名の生徒と避難してきた住民、約100名近く

が大津波の犠牲となった痛ましい事故です。


釜石の奇跡とは、同じ東日本大震災の時に、生徒と教職員などが的確に避難し、ほとんどの方が助かった出来事です。

結果は全く違っているのですが、実際にこの二つの出来事に触れてみると…。

結構似た部分があるのでは?と、私には、今、思えています。


実はこの二つの出来事、かなり微妙なところで、その「最終的判断」が変わったことをご存知でしょうか?

まず、この二つの出来事の共通点は、マニュアル通りに避難場所に避難している。ということで

す。

大川小学校は小学校自体が避難場所に指定されていました。(ちなみに大川小学校の海抜高度は1メートル)

釜石の奇跡が起こった鵜住居地区の場合も、地震が起きてすぐに指定の避難場所に避難しています。

二つとも、マニュアル通りの行動をとっているのです。

しかし…。

大川小学校の場合、学校そのものが指定された避難場所だったことより、「高い場所に避難した方が良い」という意見が出ながらも、なかなかそ

の場からの移動が始められませんでした。

周りは急斜面ばかりで、しかも雪が残り足元が悪い中、子供やお年寄りがいる状態で、マニュアルを破ってそのような場所に避難するのは問題があ

るのでは?という意見もあったからです。

確かに、実際にその場所を見てみると、小さな子供やお年寄りが高い所へ安全に移動できそうな斜面は、大川小学校の周りにはありません。

対する、釜石 鵜住居地区の場合、同じように避難場所へと移動していますが、指定された避難場所で、たまたま裏山が地震で崩れていたため移動

を決意。結果、ほとんどの子供の命を救うことができています。

釜石 鵜住居地区で起こった奇跡も、裏山がたまたま崩れていなければどうなっていたかわからない…。このことは、同、鵜住居地区にあ

る「いのちをつなぐ未来館」で語り部をされている方も語られていました。


前回の私のこのブログで、実際にこの釜石の奇跡が起こった場所の写真を掲載しましたが、指定された避難場所から、道路が整備されてい

たため、 次の避難場所への移動が問題なく行えた。
ことも、臨機応変な行動をとることができた要因と思えます。

結論を申しますと…。

この二つの出来事は、マニュアルで指定された避難場所は「危険」であったわけです。

つまり、マニュアルが間違っていたのです。

そのことに対して、どのような行動をとったか、あるいは、どのような行動をとることがその場で可能だったの

か。


そのことが「明暗」を分けてしまったように思えます。

おそらくですが、大川小学校の場合も、もし、近くに誰でも高いところに避難できる整備された道があれば、安全な場所に避難していたと思え

ます。



では、なぜ今回のこの二つの出来事で、間違えたマニュアルが作られたのでしょうか?

この理由は、私たちが、自然を全く理解していなかったことに原因があると私は思います。

この時の避難を指示したマニュアルは、実は、先の三陸津波の事例を参考としており、それを超える大津波は想定していなかったのです。

つまり、今回のような大津波は、誰も起こるとは思っていなかったのです。

しかし、地震や津波に対する研究が進む中、過去、想像を超える大きな津波が発生していることが分かってきまし

た。


以前にも、私はこのブログで書かせてもらいましたが、そのような、過去起こった大津波を正確に調べることが

とにかく重要であると思います。


そして、それをベースとして、安全な避難マニュアルを作らなければ、大川小学校のような大きな悲劇が再び起こ

ってしまうと思います。




ちなみに、もし大地震にあった時、どの程度の津波が来るか、すぐに自分で予測できる方法があるのをご存知でしょうか?

…。と、言っても、コレ私が考えた方法なのですが…。

まず、地震の揺れには、最初の弱い揺れP波(プライマリー波)本震のS波(セカンダリー波)があります。

これは地震の振動が、その揺れ方で伝わる速度が違うために起こる現象です。

揺れの弱いP波の方が早く伝わるため、揺れ始めてから本震のS波が来るまでの秒数をカウントするのです。それで

震源地までの距離が、まずわかります。


そこから、その地震のだいたいの規模や津波の規模が、計算できるのです。

具体的には、まず、P波が揺れ始めてから、本震S波が来るまで、その秒数に8を掛けます。

出てきた数字が、自分がいる場所から震源地までのだいたいの距離です。

例えば、揺れ始めて本震が来るまで10秒かかったとしたら、震源地までは10×8で、だいたい80キロということになります。

そして、その地震での震源地の震度なのですが、これは、80キロ震源地に近づくごとに「1」大きくなると考

えれば、だいたいですが合うようです。


例えば、揺れ始めて本震が来るまで10秒ほどかかったとして、自分のいる場所の震度が4だったとしたら、震源地まではだいたい10×8で80

キロほどですから、震源地での震度は4+1で5程度ということです。

そして、その震源地での震度の数字、上の例では5という数字が、地震の規模を表すマグニチュードの数値とだいたい合うようで

す。

(念のためですが、揺れを表す「震度」と、地震のエネルギーを表す「マグニチュード」は全く別のものですが、震源地ではたまたまその数字が合う

というだけです。)

つまり、震源地で5の震度の場合、その地震のマグニチュードもだいたい5程度です。(あくまで震源地が浅い場合。深い場合はもう少し震度が小

さい。)

更に…。

津波の大きさを知るには、本震の時間の長さと津波の大きさは比例する!と、考えればよいと思います。

例えば、妙に長い本震、先の東日本大震災の場合は3分ほどありましたが、こんな時は大津波が来ます。

この理由は、地震とは、断層がずれて起こるものであるため、その地震が長ければ、その分断層も大きく移動しま

す。


そして、その断層の移動が海の水を持ち上げ、「津波」となるからなのです。

もちろんこの方法は「かなり大雑把な方法」ではありますが、最初のP波が来てから本震のS波が来るまでの秒数を数え、そして、本震S波のだいた

いの時間をカウントするだけで、ここまでわかるのですから、正確な情報が取れるまでの、仮の判断の基準にはなると思います。

ちなみに…。

津波の警戒が必要なのは、だいたいマグニチュード6程度からだと思いますが、上で解説したように、本震の揺れが長かった場合は大きな津波にな

る可能性があるため、マグニチュードだけでの判断は危険かと思います。(この種の津波は「サイレント津波」と呼ばれているようです。)














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「釜石の軌跡」。実際に現地で確認してみました。

2021-05-21 18:07:57 | 人生論(life)
10年前の東日本大震災で、「釜石の軌跡」といわれる出来事が起こりました。

釜石市鵜住居地区の小中学校の生徒が自主的に非難し、ほとんどの子供が助かることができた。というものですが…。

本当は、これはマスコミの早合点で報道されたもので、実際は水門を閉めてくださった消防団員さん、誘導してく

れた大人の方たち、たくさんの大人の方が子供の命を守ろうと、その時できることを懸命にやったために、かろうじてだったのですが、ほとんどの

子供の命を救うことができたものだそうです。


このことについて、釜石市鵜住居地区にある「いのちをつなぐ未来館」で、実際にこの時この避難を体験され、現

在その体験の語り部をされている方も、自分たちだけがマスコミから、まるでヒーロー扱いされることにかなり悩まれ、「本当はそうではない」と

いうことを懸命に訴えられました。


そうして現在、そんな誤解も少しずつ解け始め、いのちをつなぐ未来館では、災害時にどうすれば命を守ることができるのか…。そのこと

について、真剣に考えながら、訪れる人たちに熱くその思いを語られています。




私もこの語り部の方のお話を一度聞いてみたいと以前より思っていたので、先日釜石まで足を運びました。

で、実際に語り部の方が体験した本当の話を聞いてみると…。

…。涙が止まらなくなりました…。

で、あの時子供たちはどんなことを考えながら避難したのか…。それが少しでも分かるかと思い、実際に子供たち

が避難した経路を歩いてみました。




まずは小中学校があった場所。鵜住居の駅近く、だいたいこの辺になるはずです。



海抜2メートルになります。

子供たちはここで地震にあいます。

地震は長く、本震だけでも3分半ほど揺れましたが、揺れ始めて2分ほどで既に中学生はみんなが集まって避難を始めます。

なぜこんなに早く避難できたかというと…。

この地区に住まわれている方は、津波の恐ろしさを十分承知しており、避難訓練も行われていたからです。

中学生はマニュアル通りに、800メートル離れた避難場所へと移動をはじめますが…。

このとき防災放送で、津波警報が出ていること、予想される津波が3メートルであることが言われていたそ

うです。


しかし、ともに避難していた大人たちを中心に、「この揺れで3メートルでは済まないのではないか…。」という、防災無線の放送を疑問視する意

見が 口々に出ていたそうです。

マニュアル通りに避難場所に移動。ここで、別途避難してきた小学生と落ち合います。



だいたいこの辺になると思います。

海抜4メートル。

しかし、写真では確認しずらいのですが、正面奥の山斜面が地震で崩れていたことより、マニュアル通りのこの場

所も危険性があると判断。


おそらくですが、先に述べた「津波は3メートルでは済まないのではないか。」という不安も、後押しされたのだと思います。

主に大人の人たちの判断で、「もう少し上に避難しておこう。」ということになり、マニュアルにはない上への移動が始まります。



この坂を上ったことになります。

この先にはデイサービスセンターがあり、そこまでの約300メートルを再び小中学生は移動しました。

デイサービスセンターは海抜15メートル。

この坂の移動が、子供たちの運命を「死」から「生」へと変えたのです。

その場所から少し離れたところで、町の景色を見てみました。



ここまでの避難で、保護者の方が数名子供を引き取りに来られていますが、このうち1名の子供がその後来る津波に命を落としています。

ここまで避難した時、皆は町の方で起こる異変に気が付きました。

大きな音とともに、土煙が上がっていたのです。

デイサービスセンターからは、家が邪魔をして直接町が見えないのですが、その異変が津波が原因であることを知るには時間は必要ありませんでし

た。

あまりにもすさまじい光景に、恐怖を感じ、誰が言うでもなく、皆の共通意識でさらに上へと逃げたそうです。 

そして、このとき、ついさっきまでいた最初の避難場所は、津波にのみこまれてしまっていました。



子供たちが最終的に逃げ延びた「恋ノ峠」。海抜45メートルになります。

ここでは子供たちはみな泣いていたのですが、数名の子供は、あまりもの恐怖に過呼吸状態になっていたそうです。

その後、何もできないままその場所で皆は留まっていたそうですが、そのうち保護者の方が迎えに来られ、子供たちは引き取られていきました。

しかし、中にはいつまでたっても保護者が現れない子供もおり…。

そこにいた、ともに逃げてきた先生方は、慰めの言葉もなく、共に泣くことしか出来なかったそうです…。


更に私は調べてみたのですが、これは、ネットなどには載せられていなかった情報で、実は…。

子供たちが最終的に避難した恋ノ峠も、その背後では津波が増幅現象により海抜30メートル以上まで来ていまし

た。


津波の増幅現象とは、地形の影響により、更に高いところまで津波が到達してしまうもので、東日本大震災の時は、最大50メートル以上まで津波

が到達しています。

つまり、もう少し津波が大きければ、海抜45メートルの恋ノ峠でさえも危険であったわけです。


今回ご紹介する、この子供たちの津波からの避難。

実は、その時々で起こっている状況に合わせて、臨機応変に行動しなければいけない!

ということを学ぶことができます。

東日本大震災は、「想定外の大きさの津波」を生みました。

これは、当初予定していた規模とは違うわけですから、マニュアルに疑問を持たなければいけな

いのです。

もし、マニュアル通りに最初の避難場所にとどまり続けていたとしたら…。

間違いなく多くの子供が犠牲になったに違いありません。


そのようなことを、皆さんにも知っていただきたいので、是非、「いのちをつなぐ未来館」に足を運ぶことをお勧めいたします。

また、これは私から「いのちをつなぐ未来館」さんに希望したいことなのですが…。

すばらし内容なので、これは日本人のみならず、海外の方でも理解できるようにした方が良いと思いました。

それぞれの国の言語を話せる語り部さんを持つことは不可能と思いますが…。

掲示板にQRコードを付けて、それに携帯をかざせば、いろいろな国の言語のガイダンスが流れるようにすれば、現実的なのではないかと思

いました。










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縄文の女神ってご存知ですか?

2021-05-11 20:51:49 | うんちく・小ネタ(absurd story)
実は私、結構縄文文化に興味があり…。

皆さんは、縄文文化というと、原始時代の延長…。みたいに感じられている方が多いと思うのですが…。

いやいや。縄文文化って、分かればわかるほど、結構文化レベルが高いものなんだって感じるんです!

例えば…。

石器の材料として使われていた黒曜石の産地って、決まったところのものしか使われていなかったってご存知ですか?

具体的には北海道産のものと小笠原産のものしか使われていなかったらしいのですが、そこのものしか流通していない…。つまり、それだ

け交易が盛んだったという証ですね!


また、三内丸山遺跡から出土した「栗」の遺伝子を調べたら、すべて同じ遺伝子を持っていた…。

つまり、三内丸山遺跡では、品種改良されて接ぎ木した栗が栽培されていた!ということですね。

そんな、思いのほか高い文化が存在していた可能性の高い縄文時代に…。

これこそ縄文文化の高さを物語るに十分と思える「土偶」を、今夜はご紹介いたします!



この像なんです。

縄文の女神と呼ばれています。

山形県の船形町で出土した土偶なんですが…。

一般的な土偶と一線を画すものがあると私には思えてならないのです。

まず、土偶って、実は現在は「病気を治す呪術につかわれたもの。」という説が有力になっています。

その証拠として、土偶はまず完全な形のものは出土していなく、どこか体の一部が欠けたものばかりなのだそうです。

つまり…。

土偶は、病気の人の身代わりとして、その悪い場所を取り去って埋めたものなのですね!

しかし…。

この縄文の女神は、完全にそろった形で出土しました。

これは、他の目的で作られたもの…。と、考えるのが普通だと思います。

この縄文の女神を見ていると…。

顔を上に向けて、あたかも神に祈りを捧げる…。あるいは、神に対し畏敬の念を表しているようにしか思えません。

そして…。

その簡略化した形の中には、私たちが19世紀になってようやく確立した「キュビズム」が、すでに含まれているように思えるんです…。

被写体を、印象的に見える方向から切り取り、それを再び組み合わせる…。

この縄文の女神では、体が四角形をしており、あらゆる方向から見た被写体を、再び美しい形で組み合わせている…。そんな風に思えるんです。

更に、決定的に驚いたのは…。

この縄文の女神には、「腕」がないんです!

腕がないことで有名なのはミロのヴィーナスですが…。



このミロのヴィーナスは、腕がないことで美しく見える像なんです。

(ミロのヴィーナスの腕がない理由には諸説ありますが…。)

しかし、この縄文の女神は、腕がないことで、被写体が簡略化されて、明らかにその美しさを倍増させています。

芸術の究極って、とにかく被写体を簡略化しながらも、その命となるものだけはしっかり残す…。

全体をできるだけ簡略化するからこそ、その命が引き立ってくるもの…。だと思うのです…。

(芸術がよくわからない私が、偉そうなことを言っていますが…。)

この縄文の女神は、その視線だけで、この像が何を表しているかが理解でき、すでに腕を加える必要すらなかったため、より美しく見せる

ために「省略」されてしまったのだと思います。


…。で、私は思うのですが…。

これだけ美しく完成された像は、一人の人間の創意工夫だけではなし得ないものだと思います。

きっとですが、この縄文の女神を作られた方は、それまでに、他の方が作られた、数限りない美しい像を見ていたに違いありません。

そして、更に美しい像を作るにはどうすればよいか…。一生懸命に考えたに違いありません。

そんな努力の結果、この「縄文の女神」が生まれたのではないでしょうか?

つまり、それだけ芸術が花開くまでの高い文化が、縄文時代にすでに存在していたとしか、私には思えないので

す…。










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車中泊の旅で、涙が止まらなかった出来事…。

2021-05-03 21:11:12 | 旅(freedom person)
今回は、内容的に写真の掲載は控えておきます。

数年前の車中泊で北海道旅での出来事でした。

大間から函館までのフェリー「大函丸」に乗船し、函館に着こうとしていた時のことです。

私が下船準備をしていた時、隣の車のお父さんが、何やら私の車に興味津々…。

私の車は、もちろん完全車中泊仕様です。

お父さんは、そんな車中泊仕様の私の車に興味を持ったのかな?と、そのお父さんに話しかけてみたのですが…。

その数分後に、私は涙が止まらなくなり、車が運転できずに路肩に車を寄せて、一人泣くことになりました…。

今夜はそんなお話です。


そのお父さん、今回ワンボックスカーを買って初めて旅をしたそうです…。

北海道の北見市に住まわれているとのことでした。

その車で初めて奥さんと旅をされたとのことでしたが、奥さんの姿はそこには見えません…。

実は…。

奥さんは、末期の大腸がんに見舞われ、早急の手術が必要とされたのですが、北海道中の病院をあたってもすぐに

手術ができる病院はなし…。ようやく見つけたのが、滋賀県の病院で、今回の旅はその病院まで奥さんを送り届けるものだったとのこと。


奥さんにできるだけ負担をかけないように、今回中古のワンボックスカーを購入して、後ろで寝られるように手を加えて、滋賀県の病

院まで送り届けたそうです…。


お父さんの言うことに、この先、今回のように、いつどこかの病院に奥さんを送り届けることになるかわからないし、何よりも、すでに奥さんとの

時間そのものが限られているかもしれない…。

これから先、奥さんと一緒にいられる時間を大事にし、この車を使って、いろいろなところを旅して奥さんとの思い出を作りたい!と、言われるの

です。

お金はないのでもちろん全て車中泊…。

でも、これからの時間を大事にし、奥さんのために、出来ることは全部してあげたいといわれているのです。

だから、私の車中泊仕様の車に興味を持たれていたのです。

私はその事情がよく分かったので、私の車中泊仕様の車の説明をしてあげました。

私の車は、このブログでもご紹介していますが、車中泊の他にも仕事や薪ストーブの薪集めなどにも使っているため、簡易的にすぐに車中泊仕様に

できるように、しかし、それでいて快適に車中泊が過ごせるように工夫しています。

言ってみれば、簡単にできてそれでいて快適に車中泊が過ごせる工夫をした車…。

おそらく、このお父さんのお役に立てるのでは?と思い、フェリーから車を出す時までずっといろいろな工夫を紹介していました。

そして、下船後もしばらくそのお父さんとお話し…。

ひと通りのお話しが終わると、そのお父さんが言います…。

今回お世話になった津軽海峡フェリーさん。私がこのフェリーを使う理由をお話ししたら、津軽海峡フェリーさんは、わざわざ女房が

休める部屋まで準備してくださって、その上、その部屋まで女房を運ぶ手伝いまでしてくださいました。本当に感謝しています。だから、そのお礼

が一言いいたいんです。


そう言い残して、そのお父さんは私の前を立ち去りました。

私はそのお父さんと別れ、しばらく車を進めたのですが…。

それまでこらえていた涙が一気に噴き出しました。

お父さんの前では「泣いてはいけない」と思い、ずっとこらえていたのですが…。

結局、200メートルも車を走らせることはできませんでした…。



人って、本来は一生懸命に生きなければいけないんですよね…。

そんなことを、そのお父さんから学ばせていただきました。

コメント (2)
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