1934年、太平洋戦争以前に、日本には世界レベルの高性能を持ったハンググライダーが存在していました。
当時はハンググライダーとしてだけではなく、グライダーとしてもトップレベルの高性能機だったのです。
製作者は頓所好勝。若干19歳の青年でした。
頓所青年は、独学で航空工学を学び、すべて自分一人でこの機体を作り上げました。
もともと頓所青年は、模型飛行機が趣味だったため、その技術を生かして「頓所1型グライダー」を作り上げたのです。
機体に使われている材料は、当時は今のように高品質のアルミ材やカーボンはありませんでしたから、スプルース(米松)と航空べニア。それを羽布張りした機体で、重量が25キロだったそうです。
ワイヤーを使わない完全片持ち構造の機体で、この重量におさまってしまっているのは、全く無駄のない構造を持っていたと言えることが出来るでしょう。
とにかく、当時としては第一級のグライダーであり、そんな機体を若干19歳の青年が作り上げたことに、当時の航空関係者は驚きを隠せなかったそうです。
残念ながら、当時は戦争へと進んでいた時代で、頓所グライダーもその後すぐには進化型は作られず、2型が出来たのは1976年、42年もたってからでした。
更に残念なことに、頓所1型は、敗戦時に焼却されてしまい、更に機体の詳細な図面も現在は残されておらず、三面図しか残っていません。
この残された三面図、および写真から想定できることとして、確かにかなり高性能であったことが伺えます。
しかし、そのコントロールはかなり難しかったことが予想できます。
まず離陸時、パイロットはかなり後方に位置しているため、走り始めると大きくノーズが上がり始めることが予想できます。
この挙動は、機体の先端をゴム索で引っ張っていたため、これの効果である程度は抑えられていたのだと思います。
そして、水平尾翼が全体が動くフライングテールであったため、ピッチの安定を保つのがかなり難しかったはずです。
おそらく、テイクオフするときはゴム索で引っ張り、昇降舵を目いっぱいに下げながら走り、揚力が出たところで思いっきり前に飛び乗り、素早く重心位置を合わせて、その後は忙しくピッチをコントロールする必要があったと思います。
残念ながらこの「頓所1型グライダー」は高高度を飛ぶことは無かったようですが、しかし、その経験は頓所2型に生かされていくこととなります。
頓所2型では、無尾翼となり、機体の重心位置と人間が吊り上げられる位置がほとんど同じ場所になり、完全に一人でテイクオフできるようになりました。
皆さんがいつも飛んでいるハンググライダーもこれと同じで、機体の重心位置とパイロットが吊るされる位置が同じだからこそ、安全にテイクオフすることが出来るのです。
Ⅰ型グライダーを作った頓所青年のその後は、その実力を買われて戦争に使う兵器を作る仕事につかされています。
その兵器の名前は「神竜」。
年端もいかぬ少年と爆弾を乗せて敵に突っ込む「特攻機」です。
少々本筋から離れてしまいますが、実はこの「神竜」は足尾、板敷エリアのある八郷盆地の中で68年前に開発されていた事実があるので、それについて次回お話しします。