脚と角

関西を中心に国内外のサッカーシーンを観測する蹴球的徒然草。

喜怒哀楽の真髄は蹴球にこそ有り。

For The Top! ~G大阪を見てきた15年の集大成~

2008年11月11日 | 脚で語るガンバ大阪
 アジア王者にあと一歩と迫ったG大阪。その頂点に登りつめ、これ以上ない至高の歓喜を敵地アデレードで迎えることができるか。AFCチャンピオンズリーグ決勝2ndlegがもう明日に迫ってきた。

 思い出せば、Jリーグが開幕した93年当時、関西に唯一存在したG大阪を好きになっていくことは、サッカーに夢中になった奈良在住の一小学生の自分にとっては必然的なことだった。成績では低迷し続け、“お荷物”と揶揄されながらも、初年度のチケットの人気とその高騰ぶりには苦戦を強いられた。それでも93年のニコスシリーズ第3節のホーム浦和戦で初めて万博に足を運び、生のG大阪を観戦することができた。当時は、生で観ていると、テレビで観るのとは違って、シルエットだけでは和田昌裕と永島昭浩の区別が付かなかったのを今でも良く覚えている。照度の高さではリーグ屈指だった万博記念競技場は予想以上に明るく、その明かりに照らし出された緑のピッチは、校庭の土のグラウンドしか知らない小学生の想像を遙かに凌駕する美しさだった。

 当時は、まだ万博公園東口までモノレールが開通しておらず、千里中央まで臨時バスで往復を強いられるか、万博記念公園駅まで歩かざるを得なかった。帰路の混雑ぶりは凄まじく、その浦和戦の日は、ホテルサンパレス(現:ホテル阪急エキスポパーク)に泊まったのを覚えている。それでも生観戦によって膨らまされた自身のJリーグバブルは、弾けることなく、94年シーズンから小学生のくせに1人で何度も万博に通わせる原動力となった。
 そんな15年前の景色とほとんど変わらない万博のピッチで、決勝戦1stlegを戦えたことは個人的にも嬉しかった。アジアの頂点を懸けた戦いがここで繰り広げられようとは、15年前に誰が予想しただろうか。感無量だった。

 奈良で行われたG大阪のサッカースクールに2度参加したのを覚えている。1度目はフラビオと中越幸大(初年度G大阪に在籍した日系パラグアイ選手)、2度目は、クラウジオがいた。まだ彼らのサイン入りタオルは色褪せながらも残っている。場所は、G大阪が松下電器サッカー部として、奈良県リーグから歩みを始めた松下電器(現:パナソニック)筒井工場のサッカーグラウンドだった。

 同志社大学に入学した時も、宮本恒靖と入れ替わり(彼は卒業までに6年を要した)で、学部も同じ経済学部。クラブのバンディエラともいえる彼との不思議な縁を勝手に感じていた。所属したサッカーサークルでは、35番(当時、プレミアリーグのウエストハムへの移籍が頓挫し、シーズン開幕ギリギリで残留が決まった宮本の背番号は35だった)を選んだ。宮本が在籍したゼミに入ってやろうと画策するも、あまりの人気にたじろいだ。結果、違うゼミに入らざるを得なかった。日韓W杯終了後に母校を訪れた宮本の講演会には、同志社田辺キャンパスの東門まで連なった約400mの行列が印象的だった。バイトを入れなければ良かったと後悔しながら、その列を横目に帰路についたのを良く覚えている。

 何はともあれ、G大阪と付き合ってきた15年間の集大成を見出す時が来た。個人的には05年のリーグ優勝、昨年のナビスコ杯優勝のいずれも仕事で現地にはいられなかった。だからこそこの瞬間を見届けたい思いは強い。
 “アジアの頂点に登りつめて帰ってくる。”おそらく現地に向かう誰もがそういう気持ちだろう。コネクトする全ての思い出を引っ提げてアデレードへ向かう。
 
 “縁と浮き世は末を待て”という。待っていた時節は訪れた。アジアを必ず制する。


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2 コメント

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Unknown ()
2008-11-13 12:24:40
アジア制覇本当におめでとう!!CWCでは世界にガンバのサッカーを見せつけてほしい!!
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Unknown (脚角)
2008-11-14 02:18:08
>赤さん
コメントありがとうございます。

メッセージありがとうございます。
CWCもしっかり勝利を至上命題に頑張って欲しいと思います。
昨年の浦和のミラン戦は、チームの垣根なしに興奮しました。
あれほどの興奮をマンチェスター・U相手に見せて欲しいです!
G大阪ならやってくれます!
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