goo blog サービス終了のお知らせ 

ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

時間

2012-05-29 09:25:39 | ひとの幸福
あと3日で五月も終わる。もうそうか、と思う。

よく子供より大人の方が時間の流れを早く感じるという。

感じる・・・!?

何故か?

小学生の頃は夏が長かった、とかいう表現は聞く。

大人はあっという間に終わると思う。

今思えば、小学生の頃は「あー、もう夏が終わるなぁ」なんて、

過去を振り返ることがなかった気がする。

2年生になってから、「1年生の時はどうだったこうだった」なんてことも、

思わなかったんじゃないか。

夏が終えて新学期が始まってから、「夏休みはあーだった、こーだったのに・・」なんて、

思ったような記憶がない。振り返ることなんかなかった。

いつも今に生きていた。

時間を意識することがなかったんじゃないかと思う。

だから、「もう5月が終わるのか」なんてことが心に刻まれることがない。

なので、そう思ったこと自体がないので、

現在の時点で、子供の頃は(時を長く感じていた)んじゃないかと推測してるだけなんじゃないか。

それとか、お金が何億もあるときは残りがどのくらいあるか、

なんて意識が働かないみたいに、

(経験ないけど、そうかなと思って・・)

時間もたくさんある時は残りの時間がどのくらいあるか、

なんて意識が働かないので、

もう5月も終わりか・・というようなことが頭に浮かばないのかもしれない。


あっという間と思う意識が在ったから、あっという間。

三重県知事の鈴木英敬さん

2012-05-28 20:43:57 | 新聞を読んで
朝日新聞の「ひと」欄に載ってた。

三重県知事が全国の知事の2番目に育休を取るそう。

この人は2年前に自分のブログで育休をとった人に、

「リーダーたるもの昼夜を問わず働くのが使命」

「危機管理などに汗を流すべきで、少し違和感がある」と書いたことがあるそう。

そのことで会見では「前と言っていることが違う」と突っ込まれたらしい。

けれど、この人は、

「今にして思えば申し訳ない。父親になるのを前に成沢区長の気持ちがわかった」と言ったらしい。

やはり37才は考えが柔軟だと思った。

考えなんて変わって当然。

考えが変わらないことをよしとしている風潮は本当に根強い。

アメリカの大統領選でも、以前はこう言ったのに・・云々かんぬんといった話は

よく聞く。

変わることが大罪みたいな扱いだ。

軽く変われる、こういう人が政治家でもいるようになったのはいいなと思う。

私もこのブログを始めて9ヶ月になるけど、

書いた時と今とでは変わっているものもあると思うので、

今の自分で読み直して更新したりしてる。

わけ

2012-05-28 20:13:35 | ひとの幸福
約束の時間に遅れた(わけ)がある。

家を出るのが遅かった、という。

これは謂わば物理的な(わけ)だ。

何故家を出るのが遅かったかというと、

そのつもりで支度していたんだが、玄関で靴を履いた途端、

洗濯物を干していたのに気づき、それを取り込むのに時間がかかってしまった。

いや、その他にも、あの洋服を着ようと思って着たが、

着てみたら、今日の自分の感じと違って、

別のを探しているうちに時間が過ぎて行った。

物理的な(わけ)の前にいろいろな心理的な(わけ)がある。

洗濯物に気づいた。気づかなければ、そのまま出た。

洋服が気にいらなかった。気にいれば、そのまま出た。

洗濯物に気づいても、いいや、この位の曇り空ならと思えば、そのまま出た。

洋服が気にいらなくても、いいや、今日はこのままでと思えば、そのまま出た。

最初から洗濯物に気付いていたら、早めに取り込んでいた。

最初からあの洋服にしようと思ってなければ、別の洋服にしていた。

いろんな時間配分をうまく考えられなかったということもある。

・・・これは作った只のたとえ話なんだけど。


遅れたわけはなんなのか・・・???

ビクビク・・・・

2012-05-28 16:50:51 | 実例体験観察
あの人は攻撃的ですぐ怒ると思っても、

その人を恐がる人と恐がらない人とがある。

ビクビクと恐がるのは、いつ攻撃を仕掛けて来るかと、思っているから。

それを待っているような心の状態でいるから。

すると怒らないように怒鳴らないように、という対応になる。

すると相手は怒ることになりやすい。

動的平衡という在りようをするからね、意識は。

反対にそういう人を恐がらない人はどういう心の状態なんだろう。

その怒りを攻撃的と捉えない状態・・だろうか。

弱い犬は吠えるしなぁ・・みたいに捉えていると、

恐がれない。だって弱いものは恐くない。

恐くないから平気で接すると、その人は恐くない人としてその人の前に現れる。

相手は自分の見方通りの態度をとる。

2012-05-28 09:48:42 | ひとの幸福
私たちの身体は常に動的平衡状態だから当然そうなる。

こういった知識を得ればひとはその薬を止めるんだろうか。

・・・昨日これを書いた。

私は時々頭痛薬を飲む。

慢性鼻炎の薬、抗ヒスタミン剤を年に20錠ほど飲む。

副作用のあることは分かっていても飲む。

その時が辛いからだ。

在るものをなくそうとするのは不自然で、

必ずしっぺ返しが来る、それが副作用。

戦争をなくそうとするという考えもそれに通じる。

けど、痛さ、辛さが我慢できなくて、しょうがないから飲む。

その症状が出なくなることが一番の解決だけど、

どうしたらそれが自然に出なくなるのか今の私にはわからない。

でも頭痛になるのもなるべくしてなっている。

わけもなくなるわけがない。

頭痛にならないという、自然な抜本的な解決というのもきっとあるんだろうと思う。

それがまだ見出せてないんだと思う。


花粉症が初めて出た30年も前の頃、

薬に頼らずやっていこうと頑張り、目が開かないほどになってしまい、

とうとう耳鼻科に行ったとき、

どうしてこんなになるまで放っておいたんだと医師から叱られた。


効果的に薬を使う、というのは、

出来るだけ副作用も最低限に抑えて、

その副作用とも按配よろしく付き合って行くということなのかとも思う。

まだまだ未熟な私たちだから、

この時点ではそれでしょうがないのかなぁと思う。

言い争いや紛争やトラブル、戦争になるのも、

今の私たちには、ある意味しょうがないとも言える。

結局もっと人類が心や意識が成長すること、

精神的に成長することでしか、自然な解決はなされない、というか、

そういうことが起こらないようにはならないんだろうと思う。

言葉の奥にあるもの・・

2012-05-28 09:34:03 | 日々の暮らし・思い出
姑と一緒に暮らし始めた頃は、

亡くなる前とは比べられないくらい、私に攻撃的だった。

その攻撃の奥にあるもの・・・自分を守りたい、

傷つきたくない、心安らかに暮らしたい、

そういう思いの表現として、

いろいろな言葉を発したのだと私は受け取っていた。

攻撃は最大の防御というし。

やっぱり弱い犬は吠えてしまう。


一方的な言葉や、

邪険な言葉遣いやそんな顔をされたこともあったけど、

少しも傷つかなかった。

姑は事柄としては事実無根のことを、

私がしたと言ったりしたこともあったけど、

そういうとき、本気で謝った。

謝る、そのことをしたかった訳じゃない。

姑のそう言いたくなった気持ちを受け取りたかった。

事柄の有無を問うことなんか、したいとも思わなかった。

彼女が安心して暮らせるように、それだけをしたかった。


前に書いたMさんに対してはそういう自分の意志がはっきりとなかった。

姑のときははっきりとした私の意志があった。

それが全然ちがう。

「今 ここで 私は 何を したいのか」ということの自覚があった。

互いに気持ちよく暮らしたい、という気持ち、

心楽しく暮らしたいという意志がはっきりとあった。

自分の気持ちも殺すことなく、

姑の気持ちも殺すことなく、

そういう方法は必ずあると確信していた。

そのことが頭から離れたことがなかった。

瞬間瞬間を生きるとは、

自分の瞬間の意志が自分にわかっていることかもしれない。


これを最初に書いたのはブログを始めるよりもっと前、多分3年くらい前だったと思う。

私というひとが書いたその時の気持ちなんだけど、

この気持ちを常に持ってそれからの日々を暮らしていたわけじゃない。

そうじゃない瞬間の方がずっと多かったと思う。


いつでもどこでも誰にでも何にでもこの気持ちでいける程にはなってない。

だから、こうして実践しながら、私なりのやり方でブログ書いたり、

本を読んだり、してる。

「健康不安と過剰医療の時代」

2012-05-27 15:45:14 | 新聞を読んで
書評の欄にこれがあった。

「現代は江戸時代より『進化』していると言われる。

進化のシンボルが科学技術の発展である。

確かに江戸時代までは高度医療も保険制度もなく、

薬は高かった。であるから病気にならないことが重要で、

『養生』が生活の上で大切な役目を果たしていた。

・・・今の日本では薬は満腹になるほど出し・・

・・不安感だけで治療する必要はあるのだろうか?

・・・病気ではない人にお金を使わせるには、『健康不安』という武器がある。

・・あらゆるものに警告が発せられ、健康商品が大量に消費・・・」

実に面白い文章だった。

なるほどなるほどと読んだ。

血圧やコレステロールを下げる薬、骨粗しょう症の薬の副作用。

私たちの身体は常に動的平衡状態だから当然そうなる。

こういった知識を得ればひとはその薬を止めるんだろうか。


こういう文章もあった。

「本来は『ストレスに強い』ことを強要する社会の問題であるにもかかわらず、

それは問題としないで医療に金を使わせる構造になっているのだ。・・・」

勿論社会の問題も大有りだ。

だけど、この社会で不安を煽られているというふうにならない人もいる。

そのことに何故そうなんだろう?という疑問、関心が生まれないこと自体が、

こういう社会になっているということもあるかもしれない。

不安感を払拭するために身体に薬物を入れる。

不安感という感覚を薬物という物質で解決しようとすることに疑問を抱かない人が多い。

不安感という心に正体を合わせてみようとする人は少ない。

世界

2012-05-27 15:14:37 | 本を読んで
国と国が争ってるのをテレビで見る。

子供が自分の思い通りにならずに喚きたてる。

自民党と民主党の議員がおかしな顔つきで言い合っている。


「廃炉作業 阻むがれき。水源守れ 森林公有化。

脱原発の攻防。中国の海洋進出を警戒。

60代昼も夜もスッキリしない。

リベラル派 共倒れ 決選投票へ苦悩。

健康不安と過剰医療の時代。」

・・新聞を広げて、そこにあるのを書いてみた。

これらが読む人の心にどう映っているのか・・


「見るもの聞く声みな楽しく美しく飽くるを知らず・・」

・・こう映っている人はあるだろうか。





山崎勉さん

2012-05-27 14:56:26 | 新聞を読んで
同じく朝日の書評欄の「著者に会いたい」というところに、

俳優の山崎勉さんの文章があった。

「前略、中略・・・でも読書って、そういうものなんじゃないか。

読み手ごとの世界ですよ」

・・というもの。

「読み手ごとの世界」・・まことにその通り。

実際の人が織り成す世界も本も同じだ。

それを読む人、それを体験する人ごとの世界に違いない。

観念動物としての人間はそこから抜け出すことは出来ない。


「見るもの聞く声みな楽しく美しく飽きるを知らず・・」

これはこの文章を残した山岸さんの世界だろう。

木嶋佳苗さん・・・

2012-05-27 14:43:51 | 新聞を読んで
「毒婦」木嶋佳苗100日裁判傍聴記 北原みのり〈著〉

「別海から来た女」木嶋佳苗 悪魔祓いの百日裁判 佐野眞一〈著〉

についての書評(朝日新聞)を福岡伸一先生が書いていた。

最後の方の文章がこれ。

「著者たちは意識するしないに関わらず、

明らかに木嶋佳苗という鏡に映った自分を語っている。

それは裁判に関わった、聞いた、見た、すべての人々についてもいえる。

嘲りは自らへの嘲りであり、

いらだちは自らにいらだつ。

勇気ある者は、このあまりにもリアルな記録を読んで、

その鏡にいったい何が映るのか、試してみるがよい。」

・・・以上。

木嶋佳苗さんに限らず、他者は誰でも自分の心が映る鏡なのだ。

そう、ナントカナニコという自分も自分の心が映る鏡。

誰が見ても同じものが映る鏡ってあるんだろうか。

見えない意識はやはり人や場合によって違ったものに映るもの。

万人が見て、「遺体」と解釈するような、「死んだ人」というものでも、

いつだかあった新興宗教は「生きている」と解釈した。

言葉に現われる人の意識というもの、これは意味であり、解釈。

どう解釈するのかはどう映るのかということだ。

言は人なり とはこういうことなんだろう。


木嶋佳苗さんはとても特色ある世界を生きているようだ。なので、

「彼女は独自の方法で、自ら閉ざした全く別の世界を生きているのだ。

私たちには彼女の世界が読めない。

あえて読もうとすると彼女は透明な鏡になる。」

・・こういう文章もある。


木嶋さんでなくとも、誰でもが全く別の世界を生きている。

他者の世界は読めない。こうではなかろうか、止まりだ。

あえて読もうとすると彼女は透明な鏡になる・・とは

透明な鏡とはどういうことを云っているんだろう。

鏡とは対象が映るものでなければそう言わないはず。

鏡が透明だったら素通しということ?何が映ると言ってる?

あえて読もうとしたら・・・とは?

読むということはどこまで行っても、自分の解釈だ。

作者の意図とぴったり一致したとしても。

読まれるものは在るだけで。

【木嶋さんになるくらいの自分にならなければ、

在るものをそのまま読み取れない。

そんなことは可能なんだろうか???】

前の方の文章に、「・・・犯した罪は裁かれなければならない。

しかし、私たちにはもう一つ考えるべきことがある。

了解の不能性。社会性の欠如。・・・」がある。

その『了解の不能性』というのが、

上に書いた【】の中のことと同じなんだろうか・・・?

福岡先生じゃない私は「透明の鏡」の真意が読み取れない・・・

ただよく映る鏡だということなんだろうか・・?

わからないから休憩しよう。

知らないうちに・・

2012-05-27 14:28:47 | 実例体験観察
以前に書いたMさんとの付き合い方で、

私は苦手なMさんの傍に積極的には行かない、

そういう自分の行為をことを、

やりたくないことはやらない“のがいい”・・としていた自分だった。

当時そういう見方をしているとは自分で気付いてなかった。


「やりたい」や「やりたくない」という気持ちに良いも悪いもない。

子供は、だから、伸び伸びしてる。

「やりた~い」「やりたくな~い」「やるのイヤ」で終わり。


同じ「やらない」という態度をとるにしろ、

そのことに“悪い”という価値判断が付かないと、

心境が乱れることがない。


「いい人をやめなさい」というような言葉を最近よく聞くけど、

(いい人でいようとするとストレスがかかるからだろうと思う。)


知らないうちに「~のが良い」という価値を持っていて、

そうか、(いい人をしてた)と気づいて、

いい人をやめようと思うことが、次は

「いい人をやるのは良くない」という価値付けをもつことになり、

潜在意識にあるプログラムは変わってないから、

その指示通りについ、いい人をやってしまった時に、

あぁ、やれない自分はダメだ・・とか

また、同じようなストレスを背負うことになる。

善悪の観念は本当に根強い。

この世にはいい人も悪い人もいない。

その時々に様々なことをする人がいるだけなんだと思う。

現象自体は良くも悪くも無い。

それを悪いとするか、良いとするか、それぞれが決めている。

そしてそれが絶対ではないことを、

心の奥深くで知っているか知らないかで、対応が違っているはずだ。

美しさ

2012-05-27 13:26:51 | ひとの幸福
結構いろんなことに目覚めた人は、

目の前に劣等感を持って、今苦しんでいる人を見て、

劣等感を持つのはおかしいと思ったりとか、

 
遠慮や気兼ねをして苦しんでいる人を見て、

そんなのおかしいと軽蔑したり、


不平不満を言って苦しんでいる人を見て、

あー、やだやだと 嘲ったり、


何かにこだわって苦しんでいる人を見て、

そんな事に拘って 程度低いね と思ったり、

・・・そんなふうになりがちだ。

こんなのも(不平不満は良くない)(執着するのは良くない)

というような善悪の観念が幅を利かしている。


不平や不満たらたらの姿は、

美しくないかもしれないけど、

そんなのは程度低い、と嘲笑う、

そう言ってるその時のその心は美しくない。


「動的平衡2」の中で福岡伸一さんも、美醜の物差しが有効とかなんとか、

違う表現だけど言ってたね。

前は養老先生と共感する事多かったけど、

「動的平衡」読んでから、福岡先生に共感することが多いよ。

今日の朝日新聞の書評にも、

福岡先生のが載ってた。これも大いに同感。

 


好きなジョーク 二つ

2012-05-27 11:49:51 | ひとの幸福
ムカデはあんなに脚がたくさんあるのに,

何故混がらないで、ちゃんと歩けるのか??

答え・・考えないから。

そのわけ・・いま、右の3番目の脚を出したから、

今度は左の4番目を出して、えっーっと、次は右だっけ、

左の4番目は出したんだっけ?まだだっけ?エッー??

・・なんてやってたら、永遠に歩けない。

・・こんなんでこのブログのタイトルはこのジョークが大好きで「ムカデ・・」にした。

もう一つ、好きなジョーク。

物理学的にも生物学的にも、その鳥は飛べるわけない鳥なんだけど、

その鳥は平気な顔をして空を飛んでいる。

何故か??

答え・・自分は飛べると思っているから。

これもいいよね~。大好き。

高校の頃、クラスにもてる女の子がいて、

その子は目も細いし、特別可愛いいという感じじゃないんだけど、

何故か男の子にもてた。

「私ってモテる」って当たり前に思ってたふう。

“もてオーラ”を発していたように見えたよ。

さっき書いた鳥みたいに「私はもてないわけがない」って思ってるから、もてる。

そんな感じがある。


同じクラスにとても整っていた顔立ちの子がいたけど、

なんか暗くて、“私に寄らないで”オーラが出ていたせいか、

男の子の視線がその子には行かなかったみたい。

あんなに綺麗なのにな~と当時不思議に思っていたけど、

不思議でもなんでもないね~。

・・・なんで不思議でもないのか??

観測するものは観測されるものに影響を与えてしまうからだろう。

(私に寄らないでオーラ)を受け取ると、

その子に近寄らないようになる。

そして、今度はそういうオーラがその子に向かう。

そのオーラはその子に又同じような態度をとらせる。

そういう循環。そういう相互作用。

ところが(近寄らないでオーラ)を受け取っても、

その子に(近寄りたいオーラ)を発する人も中にはいる。

何度もそのオーラを感じると(近寄らないでオーラ)はそれから影響を受ける。

違う循環が始まる、違う相互作用が始まる。

そういうこともこの世にはある。


書くこと

2012-05-26 14:47:18 | 本を読んで
福岡伸一さんの文章にこういうのがあった。

「書くことが考えを生み、考えが言葉を探そうとする。」

本当にそうだなぁと思う。

言葉というものは人とのコミュニケーションではかなり不備なものだと思うけど、

自分とのコミュニケーション・ひとり考えるときには、

なくてはならぬものであり、

様々な言葉自体が動的平衡な在りようをするので、

それに連れられて行くような感覚がある。