「キリストに近づくと自分が死ぬ」「キリストいわく、[古き人]が死ぬ」
「罪というものは[古き人]にしか作用しない。」
千石剛賢さんの本を読んで、今の時点で思うのは、
[古き人っていうのは自我の強い、自分が自分がという自己顕示の強い、
正しさを固く持ってる人のことかなと思った。
生まれたての赤ちゃんは真っ白なんだけど、
やはり一人一人癖を持ってる。親から受け継がれたものとか、
その親に限らず、それまでのものを持って生まれてくるのかと思う。
何故かこういうのが好きとか、何故か気性が荒いとか、
何故か、穏やかだとか・・・
環境でそうなったと思えないものも確かに在る。
そういった今までのものをしょって生まれてくるのが人間。
いろいろとしょっている存在だということが原罪だと、
千石さんは解釈してるのかと、私は受け取った。
その原罪をしょってないのがイエス・キリストだと。
その人ただ一人であると。
キリストが処女受胎で生まれたとされているのは、
そういう意味を含んでいるのかと思った。
でもマリアの存在はどうなんだ?が生まれちゃうな・・・
「釈迦や孔子は生活できないが、イエスは生活できる。
イエスの考えをどんどん生活していく。・・・
これはもう理屈じゃねえ。生活するよりしょうがねえ。
これをさかんにみんなに言ってるんです。
簡単なことなんです。実に簡単なんですけども、
伝えようと思ったら、めちゃくちゃに難しい。・・・・」
釈迦や孔子は彼の解釈でいう原罪を持っているから、
その生活を真似ても意味は無い、
と千石さんは言ってるのかと思った。
この引用した文章の最後の部分、“簡単なんです・・
でも伝えようと思ったら、めちゃくちゃ難しい”・・・
青い本の山岸さんも同じような感想を持っただろうことが想像できる。
千石さんはそれをイエスの方舟という組織で、
その人たちに口であ~だこうだ伝えたみたい。
懸命に彼は“教えた”みたいだ。
山岸さんは教えることの弊害を知り尽くしてた。
だからあの青い本を書いたのかと思う。
あの青い本は判断だらけの自分が読むんじゃなくて、
自分の判断をちょっと棚に上げて、ちょっと死んでもらって、
まるで山岸さんが読むように読めるようになるまで、
彼は待っているんだと思うなぁ。
「罪というものは[古き人]にしか作用しない。」
千石剛賢さんの本を読んで、今の時点で思うのは、
[古き人っていうのは自我の強い、自分が自分がという自己顕示の強い、
正しさを固く持ってる人のことかなと思った。
生まれたての赤ちゃんは真っ白なんだけど、
やはり一人一人癖を持ってる。親から受け継がれたものとか、
その親に限らず、それまでのものを持って生まれてくるのかと思う。
何故かこういうのが好きとか、何故か気性が荒いとか、
何故か、穏やかだとか・・・
環境でそうなったと思えないものも確かに在る。
そういった今までのものをしょって生まれてくるのが人間。
いろいろとしょっている存在だということが原罪だと、
千石さんは解釈してるのかと、私は受け取った。
その原罪をしょってないのがイエス・キリストだと。
その人ただ一人であると。
キリストが処女受胎で生まれたとされているのは、
そういう意味を含んでいるのかと思った。
でもマリアの存在はどうなんだ?が生まれちゃうな・・・
「釈迦や孔子は生活できないが、イエスは生活できる。
イエスの考えをどんどん生活していく。・・・
これはもう理屈じゃねえ。生活するよりしょうがねえ。
これをさかんにみんなに言ってるんです。
簡単なことなんです。実に簡単なんですけども、
伝えようと思ったら、めちゃくちゃに難しい。・・・・」
釈迦や孔子は彼の解釈でいう原罪を持っているから、
その生活を真似ても意味は無い、
と千石さんは言ってるのかと思った。
この引用した文章の最後の部分、“簡単なんです・・
でも伝えようと思ったら、めちゃくちゃ難しい”・・・
青い本の山岸さんも同じような感想を持っただろうことが想像できる。
千石さんはそれをイエスの方舟という組織で、
その人たちに口であ~だこうだ伝えたみたい。
懸命に彼は“教えた”みたいだ。
山岸さんは教えることの弊害を知り尽くしてた。
だからあの青い本を書いたのかと思う。
あの青い本は判断だらけの自分が読むんじゃなくて、
自分の判断をちょっと棚に上げて、ちょっと死んでもらって、
まるで山岸さんが読むように読めるようになるまで、
彼は待っているんだと思うなぁ。