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ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

寡黙なる巨人

2013-08-29 15:38:18 | 本を読んで
免疫学者の多田富雄さんの「寡黙の巨人」という本を読んだ。

新聞とかでしかこの人の文章を読んだ事がなかった。

脳梗塞で倒れた後の活躍、その努力についてはよく新聞に載っていた。

私が30代の頃か、新聞に何かを連載してたことがあったと記憶していて、

それを興味深く読んだというおぼろげな記憶があるけど、

内容はまるで憶えていない。

脳梗塞で倒れたときやその後の暮らしや思いがとても細かく書かれてあって、

脳梗塞についてこんなふうに表現された文章は私にとって初めてだった。

私の母も脳梗塞で倒れ、感情失禁、失語症、右半身不随になって、

それは多田さんと同じだったけど、

多田さんは考えることについての神経細胞はやられなかったみたいで、

だから、こうした文章が書けたんだけど、

そのことが苦しみとなり、また喜びにもなったのだと思う。

私の母みたいにそこがやられた(多分・・)場合は、

思いの苦しみはそれほどなかったろうと思われる。

倒れてそれほど経ってない頃は無念みたいな涙を見たけれど、

それも早いうちになくなってしまったように見受けられたから。

でもいつもどんな心の世界に生きているんだろう???というのは私にはあった。

さっきのブログで書いたけど、

「いつ何があるかわからない」

多田さんも倒れる前の健康診断ではいつもどこも悪くなく、

それまでとても元気に活躍してたみたいだ。

それが突然別人になってしまった。


昨日夫とこんな話をしていて、

自分がこんなふうに健康で日々を暮らせているのも、

私自身の努力とかでは全く無い、ということがよくわかる。

何故かこんな気質に生まれ、鼻炎や腰痛や五十肩はあるけれど、

今のところ何故か健康に恵まれ、

何故かやりたいことがやれている。

夫は「生かされているっていうことだろうね」と言った。

本当だと思った。私自身の力なんて無いといっていい。

いや、こんなふうに生きていられることに、

私自身とか私以外の何かとか、そういう区別はないんだな、と思った。

(すべてがこういう現れ方をしてるところの私)といっていいかな。

そして今以降の(すべてがこういう現れ方をしてるところの私)の身に

何が起こるのかわからない。

(すべてがこういう現れ方をしてるところの私)の管理人である私は、

何が起こっても引き受けたいと思ってるけど、

そんなこと思ってみても、

この本を読むと脳梗塞の症状やその後の暮らしの辛さに

耐えられるか心もとない(すべてがこういう現れ方をしてるところの私)だと観ている管理人の私だ。

彼にこんな言葉があった。

「受苦ということは魂を成長させるが、

気を許すと人格まで破壊される。

私はそれを本能的に免れるためにがんばっているのである」

がんばっている、という表現は

こう在りたいという管理人の思いかと受け取った私だ。



正常化の偏見 心の惰性化

2013-08-29 10:42:11 | 新聞を読んで
今朝の毎日新聞の余禄欄に、こんなことが書かれてあった。

人は異常な状態に直面しても、

「大変だ、これは非常事態だ」という心のスイッチがなかなか入らない。

災害の専門家が『正常化の偏見』と呼ぶ心理だそうだ。

たいしたことはない、と考えてしまう平常時の心の惰性。

東北の大震災で多くの人が亡くなったのもこの心理が働いたからではないかと。

刺激臭のある煙を徐々に部屋に充満させても、

7割の人がそこにとどまり続けたという。

ううん・・・なんか実に覚えがある。

その煙の実験なんかでは「徐々に」というのがクセモノかもしれない。

一気に刺激臭が部屋に入ってきたら、違う対応をするかもしれない。

この前麻生財務大臣がわからないうちにささっとやってしまえ・・みたいな発言をしたけど、

あの真意は知らないけど、わからないうちにやる、というのは

この、徐々に煙が充満・・みたいな感じなんだろうな。

ちょっとずつちょっとずつ進むと進んでいることがわからない。

一緒に暮らしている親は子供の背が伸びてることがわからないけど、

久しぶりに会った叔母さんがすぐに「大きくなった!」と言うことも一緒かも。

いいことも悪いこともちょっとずつだとわからない。

軍国主義がいつのまにか忍び足で・・・なんていうのも

そういうことなのかもしれない。

いつも「正常」という軸を自覚してないといけないね。

脱線したかな。

この欄で言ってるのはもうちょっと違うことか。

『正常化の偏見』

『たいしたことはない、と考えてしまう平常時の心の惰性。』

大変なことはそうそう起こらない・・・

そういうふうに私たちはなっているのかもしれない。

実際大変なことはそうそう起こらない、とは言える。

毎日暴風雨じゃないし、毎日家族が死ぬほどの目に遭ってることもない。

だから、「大変なことはそうそう起こらない」と潜在意識で固定しちゃってる。

でも大変なことは常に起こりうる。

可能性はある。無いなんていえない。

天候の警報が出るとき、狼が来たという嘘を聞き続けた大人みたいに、

又、空振りだろうと瞬時に決めてしまう心。

この子供向けの話は、だから嘘をつくのは止めましょう、ということらしいけど、

空振りを出すのは止めましょう、というのは言えない。

空振りか空振りでないかはその時点でわからない。

そうそう、これは出す側の問題じゃない。

聞く側が平常時の心の惰性化状態になってることが問題なわけだ。

さてさて、非常時異常時であるかもしれない、のとき、どうしたらいいか・・・

どうしたらいいか、じゃなくて、

やっぱりどう在ったらいいか・・ということになるんじゃないか・・

これは異常じゃないか!?というふうに頭が働けばいいんだが・・・

「いつ何があるかわからない」・・・これかな、

これをいつも頭におくこと・・・・・

本当にいつ何が起こるか今の私たちにはわからない。

そういう、わからない私たちなんだという自覚を持つことなのかな・・

それと、

パッと、「あれ、なんか変だぞ?」と感知したら、

それを流さないで、その感知を大事にするというか、

感知を信じ、感知通りに行動する、というのも有効かも・・?

感知の後に(たいしたことはない、と考えてしまう平常時の心の惰性)という理性が

働き出す前に行動すること・・とか。




同じ歩調で・・

2013-08-29 09:22:07 | 本を読んで
公開してから、ちょっと違うなと思って・・・

「自分が先取りしてからでなく、自分より遅れている人、

弱い人の手を曳いて誘い合い、持ち合わして、

同じ歩調で進み度いのです。」・・・青い本から。

待ち合わしてじゃなくて、“持ち合わして”。

持ち合わして・・というのは人それぞれの個性というか、

持ち味というか、その人でしかそう在れないこととか、

そういうものを互いに持ち寄って・・というようなことか・・・


同じ歩幅じゃなくて、“同じ歩調で”。

調子を合わせる、流れに乗るということかな・・

すぐそれは間違ってるとか、違うんじゃないか、とかじゃなく、

優越感などない心の状態ともいえるし、

無評価の状態とも言えると思う。

自分が先取りしてからでなく・・・とは

自分はそのことがわかっていると上から目線で見るんじゃなくて、

自分より弱い人の弱さを否定せず、

そう在ることを無批判無評価の心の姿勢で観て・・

これは共に在ろうとする心の姿勢かな・・