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ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

七日盆 ②

2013-08-04 17:15:05 | 日々の暮らし・思い出
「私のしたいようにしてちょうだい」が、

それとは正反対の「あんたのしたいようにしたらいい」に、

いつの間にか、なったのだった。

と、さっき書いた。

昔の私だったらとても義母と暮らせなかったと思う。

権利意識ばんばんの自分だったから。

多分反発しまくってた。

私のしたいようにしてちょうだい・・・冗談じゃないよっ!って。

反発すると、相手は嫌な気持ちになる。

自分の気持ちを受け取ってもらえないと、

受け取って欲しくて、何度も何度もそういう気持ちを向けてくる。

気持ちを受け取ってもらえたと思えるのは、

その通りに相手が本気で行為しようとする時だ。

だから、その気持ちを感じ取れるようになるまで、

「こうしてほしい」と言ったり、

欲求不満の嫌味っぽい顔つきで居る。

すると、そういうことを言われ続ける側は益々嫌になって、

益々反発し、相手の言う通りにしない。悪循環だ。

それが、「私のしたいようにしてちょうだい」

「はいわかりました」でその通りやると、

その通りやってもらった側は満足する。

何度も何度も何度も満足する。気持ちを受け取ってもらえた満足だ。

その事柄をやろうとしても出来ないこともある。

出来なくても、やろうとした気持ちはわかるから、それで満足する。

これは嬉しい。誰だって嬉しい。

その要求が理不尽なことだったら余計だ。

バカでもない限り、自分でも理不尽なことを言ったなとわかる。

そういう理不尽な気持ちもこの人は受け入れてくれたとなる。

人の気持ちってそういうものかと思う。

気持ちを聴く。

気持ちを聴く前に、つい事柄の是非に気が行ってしまう、今の私だなと思った。

義母に対しては覚悟があったのに、夫に対しては覚悟がない自分なんだなぁ~

書いてて気がついた。

これを書いたら違ってくるか???


七日盆

2013-08-04 16:46:02 | 日々の暮らし・思い出
夫が近所のひとから餡を貰って来た。

ここらでは七日盆というのがあって、

その日は仏壇の仏さまに白玉だんごに餡を乗せたものを供える。

義母が生きていた頃はそれを作って供えていた。

多分去年は作らなかったんじゃないかなぁ。

餡をくれたのは女の人で、

あんたんとこも盆団子作るやろ、と言ってくれたそう。

それを聞いて、作ろうかな、と思った。

今ちょうど夫の弟も滞在してるし、義父は餡子ものが大好きなので、

仏さまにというより、生きている人に作りたいと思った。

いま、作ってきた。そして・・

いろんな風習の伝え書きを書いていたノートを見たら、

七日盆とは八月七日のことだった。

えっ?今日何日?・・・四日だった・・・ま、いいや。


いろんな事がそのノートに書かれてある。

義母とは同居する前は数回会っただけで、

ほとんど付き合いがなかった。

ここに同居する前に、どんなことも義母の言う通りにする、

と決めていたので、よく聞いてその通りやります・・でやった。

そしてそれは本当に面白いことだった。

一緒に暮らしだしたその当日だったか、義母は、

あんたもその年ならいろんなこと知ってるだろうけど、

経験は私の方があるからときっぱりとした感じで言った。

全くその通りで、ここのやり方という経験なんて1ミリも無い私は、

なんでも義母の言う通りにしたいと思った。

義母は自由に動けなくて椅子に座っていただけだったので、

ここで私が作るのは初めてというメニューの時は、

義母の所まで鍋と調味料を持って行き、その場で見てもらいながら、

調味料を入れ、味も見てもらった。

こういうことを毎日とことんした経験は初めてだった。

けれど、初めて漬物のたくあんの切って出した時、

私はそれに関してはまるで聴くという発想がなくて、

当然のように輪切りだったか、半月切りだったかに切ったら、

ここではたくあんを4センチくらいの長さに切ってから、

それを縦に切るというやり方で、いわば棒状にたくあんを切るので、

あんたの分はそれでいいけど(輪切りで)

私のは棒状の切り方にしてもらいたいというようなことを義母は言った。

おお、なかなかな婆さんだなと思ったけど、

覚悟が決まってるというか、言う通りにすると決めていると、

こういうこともなんということもなく、あ~そうですかと聴けることがよくわかった。

義母はこんなふうに思っていることをはっきり言ってくれたので、

とてもわかりやすかった。

そうし続けているうちに、硬かった義母の態度はだんだん柔らかくなった。

そのうち、あんたのしたいようにしたらいい・・という感じになったのだった。

「私のしたいようにしてちょうだい」が、

それとは正反対の「あんたのしたいようにしたらいい」に、

いつの間にか、なったのだった。

とても面白い経験だった。

葛の蔦が・・・

2013-08-04 15:54:46 | 日々の暮らし・思い出
国道沿いの林の木には葛のツタが絡んでいるものが多い。

大きな葛の葉っぱが大きな木全体を包んでいるようなのもある。

大きな木は何を感じているのだろう・・なんて思ってしまう。

葛も大きな木も自然のもの。それぞれがそれぞれの生命力で生きている。

葛はちょっとのさばり過ぎ。

それが葛の自然の姿なんだろうけど。

自然を自然のままにしておくとどうなるんだろう・・・

この林の何十年後はどうなっているんだろう。

この国道は既にバイパスが出来ているから車は殆ど通らない。

過疎化の一途を辿っているから人もそのうち居なくなる。

今でも、この道は数人のウオーキング・スロージョギング用の国道だ。

この林に手を入れることも多分ないんじゃないかと思う。

亡くなった義母が若い頃はここに入り、つわ蕗を採ったりしたという。

いわば、里山だったんだろう。

自然といくらかの人の手とが調和していたのかと思う。

自然と人為が調和している姿を人は美しいと感じるものなんだと思う。



空と葉っぱ

2013-08-04 09:44:26 | 日々の暮らし・思い出
朝早くに畑に行き、野菜の収穫をした後、

そのまま野良着でスロージョギングして帰って来た。

海沿いの国道のちょっと木陰で、朝テレビ体操をしなかったので、

ラジオ体操をした。

身体を後ろに反らせた時、二つの木の違う形の葉っぱと空が見えた。

とても美しい。

「木の葉っぱがどういう規則で並んでいるかを考えて見てください。

葉っぱの一枚一枚は、お互いに蔭にならず、

日照時間が最大になるように配列されているはずです。」

養老先生の「かけがえのないもの」という本の、

この一節が浮かんだ。

見たけど、私にはよくわからなかった。

けれど、美しいということはわかる。


ここらへんはお墓や仏壇にシキビという木の枝を供える。

それに似せたプラスチック製のシキビがスーパーや仏具店に売っている。

葉っぱがいくつもプラスチックの枝に付いている。

うちのお墓に今、供えているのもそれなんだけど、雨露にさらされて、

風に吹かれ、ちょっと可哀想なくらい。

その葉っぱの一枚一枚の向き全体を見ると、

しっちゃかめっちゃか。不自然。統一性がない。

あなたはあなた、わたしはわたしといった按配で、

全体で調和していない。


本物は、どこがどうなっているとかはわからないんだけど、

全体が調和しているように感じる。

ちぐはぐな感じがない。

そしてなんといっても美しい。

美しさと人が感じる自然さは合致するのかと思った。