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ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

恥の感覚 ②

2012-08-09 15:55:27 | ひとの幸福
「えーっと、何故気まずく思うのか?だ。

攻撃してしまった自分を恥ずかしく思ってしまう・・んじゃないだろうか。

そういう恥の感覚を誰でも持っているんじゃないか。」

・・・これ、何日か前・・と思ったら一昨日書いたものだった。

一日に幾つか書くとなんだかずーっと前のような気がしてしまう。

「はじ」で調べると、「恥」と「辱」が出てくる。合わせて「恥辱」だけど、

「辱」の方は、「辱め」で、意味は「はずかしめること」他動詞だ。

目的語がある。

「はずかしさ」は普通「恥かしさ」と書く。

あの青い本には「辱しさ」というのがあって、

それで「はずかしさ」と読ませるようだ。

通常 はずかしい というのは「恥」の字しか使わない。

「辱め」という他動詞の「辱」を使っていることに彼の伝えたいものが見える気がするよ。

「幅る辱しさに気付いて他に譲りたくなる独占にたえられない人間になり合うことだと決定しています」


攻撃とか非難した後に、当のその本人に会うと、

誰でも気まずく感じる。

この気まずさは、この「辱しさ」なんじゃないのかなぁ。

辱しさに“気付く”とあるのは、

自分がそういうことをして気まずさを感じているのに、それに自覚がないのが

気付いてない状態だろうと思う。

実際は感じているのにそれを知らない。

知らないと何も始まらない。

山奥に金塊が在ってもそれを知らないと何も始まらないみたいに。


夏の日

2012-08-09 13:03:07 | 日々の暮らし・思い出
今朝は6時前に歩いた。まだ暑くなく凄く気持ちいい。

海はきらきら光ってる。蝉の声がする。空は青い。

なんて美しい所に住んでいるんだろうと思う。

6年経ってもそう思う。

居間の窓の外に目をやると、二つの窓両方とも山が見える。

日光が当たって輝いて見える。

蝉や蛙や鶯(まだ鳴いている)の声が聞こえる。

そういうことが嬉しく楽しい。

生まれてからずーっとこの地に住んでいるもうじき96才になる義父や近所のそういう人たちは

そんなこと当たり前だから、なんとも思わないのかもしれない。

反対に、子どもの頃はもっと綺麗だった・・もっといろいろな虫の声がした・・

鮑やサザエがいやっと言うほど居て、海はもっともっと綺麗だった・・・

なんて思っているかもしれない。

どっちが幸福なんだ!?




挨拶

2012-08-09 10:06:24 | ひとの幸福
朝二階から起きて来て、既に夫が階下に居る・ことが多い。

「おはよう」と声をかける。

この前、返事がないな、聞こえなかったのかなと思い、

もう一度おはようと言った。そうしたら、

夫は自分からおはようと言ったので、それに私がおはようと答えたんだと思ってた、

と言った。私が言う前におはようと声かけてくれてたらしい。

それが私には聞こえてなかったんだった。

おはようと声かけて、おはようと帰って来ないと気になる。気にかかる。

聞こえなかったのかな、とか、どうかしたのかな、と思う。

挨拶に返事がないと(と、受け取ると)、必ずなにか思う。

よほど急いでいて、おはようと声かけた瞬間、もう別の所に行ってる場合なんかは気になることはないけど。

おはようが返って来ないと気になる。

だいたい誰でもそうなのかと思う。

返事が無いといって怒る人もあるけど、そういう人ばかりじゃなくて、

気になる、という人は多いと思う。

何故気になるんだろう・・・

「おはよう」なんて言葉自体大した意味は無い。用件でもない。

それが無い為に何かの事に直接影響はない。

でも意味や用件がない、というそのことに、人と人との間を繋ぐ大きな役割がある。

昔、前夫と暮らしていた頃、何か気まずいことがあって、

話したくなかったことがあった。

普段なら「おはよう」とか「いい天気だね」とか言い合っているけど、

そういう言葉がなくなる。それは用件じゃないから。

気まずくてもケンカしても、必要なことは言わなければならないけど、

「おはよう」や「いい天気だね」はそういう時言えない。

用件よりそういう言葉は仲良し度・幸福に大いに関係ある。

「おはよう」と声かけて、「おはよう」と返って来るのはコダマみたいだ。

それがないと何故気になるのか・・・?

やっぱり人は糠に釘みたいな反応の無さ、人が居るのに居ないみたいな、

そんなのは寂しいもんなんだ。

「おはよう」があって「おはよう」がある。

「おはよう」があって、フン!と怒るのでも、何にも無いよりまだいい。

反応があるということは自分が居る・在るということを

受け入れていることだからね~。

互いに在ることを認め合うっていうのが挨拶なのかな~

いま、書き終えて、広辞苑の「挨拶」を見たら、

「挨拶切る」という言葉があって、その意味は「人と人との関係を絶つ。」だった。

びっくりした。