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ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

進化って・・・上に向かって進むもの?!

2017-06-06 21:05:22 | ひとの幸福

今の世界では「人の為に」という思考はなくてはならない。

貧しい人たちの為の政策、

食べるものが少ない地域への食糧援助、

戦争紛争をしている国の子供たちの保護援助はなくてはならない。

いま、法律がなくてはならないのと同じで。

今はその両者ともが必要。

だが、しかし・・・

福岡伸一ハカセの「せいめいのはなし」での、

養老孟司先生の言葉で、簡単に言うと、

・・モグラが地中で暮らすようになって、

目が要らなくなったので退化したという考えがあるけれど、

進化というスタンスで考えると、

目が見えなくなったことが目が見えるよりも有利になったときに

それが選択されることになったのではないか・・・

・・というのがあった・・と記憶してる。

それと同じで、今の世では法律が必要だけれども、

戦争紛争各種トラブルなどない完全幸福な世界になったら法律が要らなくなる、

というより、

法律が在ることより無いことの方が人類にとって有利、快適に暮らせる、

と実感できるようになると、

勝手に行動しても則を超えずといった論語みたいになって、

法律は自然消滅する・・ということなんじゃないかと考えたことがあった。

(ネットで調べたらこうだったよ・・「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。」)

・・・そういうことをブログに書いたけれども、

「人の為に」という思考もそれと同じなのではないか・・と思った。

「人の為に」という思考が無いことの方が、

人にとって有利、快適に暮らせるということが人類の殆どにわかるようになると、

そのような思考は自然消滅する。

それまでは有効であったとしても。

国境という概念も同じなんだろうと思う。

国境という概念が在ることより、無い方が人にとって有利、快適に暮らせると、

殆どの人がわかるようになったら、自然消滅するのかと思う。

山岸さんの文章で、法律も在る間はそれを無視しないとか云々とかの、

正確な言葉は忘れたけれども、

あれもそういったことを云っているのかと思った。


こうなのも仕方ないんだなぁ・・・

2017-06-05 21:59:58 | ひとの幸福

~コレコレこうなのも仕方ないんだなぁ・・・

~コレコレこうなったのも当たり前だよ・・・

自分のことでこんなふうに思えたとき、すごく楽になったことを憶えている。

高校生になったとき、いきなり自分が暗くなってしまった。

小、中学生のときは本当に明るかったのに、

どうしてこんな自分になっちゃったんだろう???

暗い自分を受け容れられず、悶々としていたそんなある日・・・

父は暗く、母は明るくてお調子者、

中学までは母の部分が出ていて、今は父の部分が出ているんだ!

そんな考えがぱっと浮かび、

そうだ、そうだ!と自分の中で声がした。

それに根拠があるわけでもないのに、

思ったが勝ちで、それ以来自分の暗さが全く気にならなくなった。

このことは前にも書いた気がするけど、

今回、これと同じようなことが娘に起こったのだ。

娘は子育てで悩んでいて、なんで自分は~こうなんだろ・・・

何故~こう出来ないんだろ・・・

そんなふうだったのが、ぱっと変わった。

自分がそんなふうになったのは~子供の頃、あんなふうな環境だったからだ!

それで、今~こうなんだ、仕方ないんだ、と思ったよう。

それが本当にそうなのかもしれないし、そうでないのかもしれないし、

絶対そうだとは言えないことだろうけども、

私の上に書いたようなのと同じで、

そう自分で合点が行けば心境はガラッと変わってしまうのだ。

そうなってからは思いやりが自然に出来る、と言っている。

~だからこうなったんだ・・・~なるべくしてなったんだ・・・

あるがままの自分を受容できた、ということだと思う。

この思いが心を軽くさせる。

この思いが自分を罪悪視させなくする。

この思いが隠されていた本当の心を目覚めさせる。

考えてみれば、全てのことはなるべくしてなっているのだから、

私や娘のこと、孫のこと、地球上の人全部のこと、

起こっていることは全部仕方のないことなんだ。

それを心底合点出来れば、そこからどんなことも明るい方向に向かうはずだ。


親子三代ブーメラン

2017-06-04 11:23:16 | ひとの幸福

親子三代。繋がっている。間違いなく繋がっている。

孫の問題は子供の問題、子供の問題は親の問題。親の問題はその親の問題・・・・

~コレコレこのことは私の代で終わらせる、ってすごく思ったことがある。

かなり前のことだ。

一回決心したってそれがそうなるわけじゃない。

いま、こうして親子三代で暮らしていると、

あれ?なに?そんなぁ!?・・・などと思うことがある。

でもそれをいろいろひも解いてみると(全部ひも解けるはずもないけれど・・)

自分に返ってくる・・・

自己に発し、自己に還る。返ってくる。

ブーメランブーメランブーメラン♫

ずっ~と前に飛ばしたものがこんなに時間がかかって返ってくるんだなぁ・・

娘と一緒に暮らすことが出来て本当によかったと思う。

過去にしたこと自体はもうどうすることもできないけど、

それを土台にして二人で話ができる。

何度も何度も話ができる。

娘は過去に私がした行為を否定感なく話してくれる。

その上、私が傷つくんじゃないか・・と気にしてくれてる。

優しいなと思う。

実際そういうことで傷つくことはなくなったけど、

えっ?それは・・と言い訳したくなることがある。

言った後に言い訳だとわかる。

言い訳したくなるのは、自分は正しかった、みたいなものが浮かんで来るからだ。

娘とそんな会話のキャッチボールをしているうちに、

あぁ、そうだなぁ・・そういう行為(何度もの)が飛ぶと

こう返って来るんだなぁと納得する。

娘が子供だった頃、私はしつけ?が厳しかった。

対等になんて接しなかった。

 

四月だったか、娘の代理でアドラー心理学の講座に行ったときに、

親と子、社長と平社員、先生と生徒、などみな、

『人間としての価値は同じ』『違うのは経験知だけ』

という言葉がすごく新鮮に入った。

聞いてみればそりゃそうだな、と思うけれど 、

自分がしていたことはまるで違った。

上に立っていた。

価値が同じだということは上に立つことでもなく、下に立つことでもない。

その頃の自分を振り返ると、

自分が間違っているなどと振り返ること一切く、

自信をもって子供に接していた。

子育てのストレスなんて感じなかった。

思い出して書いているけど、恐ろしい。

詳しく思い出してよかった。

書いてよかった。

 

 


孫と暮らして・・・真意と見え方

2017-05-31 14:38:58 | ひとの幸福

小さい人、孫と暮らしているとそれ以前の自分が遠く感じる。

自分を観ることのいい機会がいっぱいある。

怒ることもない、イライラすることもない、気になることもそれほどない、

・・・そういったような穏やかな夫とだけの暮らしでは味わえないことがたくさんある。

今回、私という人生劇の新しい幕が開いた、と当初も思ったけれど、

なんでも自分の都合のいいように考える癖がある私は、

この新しい幕開けは自分にとってもそうだけど、娘や孫にも何かいい機会になるに違いない・・・

などと思ったものだ。

よく書いてる、自分にとって都合のいいように考える、というのは

何か嫌なことや、不都合なことが起こった時なんかに

この経験は自分に何をもたらすんだろう!?と思ってしまうことなんだ。

そういう嫌なことなんかがぱっと起こったすぐには

そうは思えないのだけれど、ちょっと経ってから、まぁ、頭を冷やしてからと言ってもいいな、

この経験で自分は何を得られるんだろ・・

どんな成長が出来るんだろ・・

どのくらい人生が楽しくなるポイントに・・・

・・と、まぁ、こんな感じだ・・・けれど、

それで~こういうことがよくなったとか、幾らかは成長した、

とか思うことがあっても、又同じようなことをするし、

人から見たら全然変わってないねぇ・・・だけれど・・・

うん、自分でもそう思うね。

何度同じ間違いをやるんだろって、呆れることもしょっちゅうだねぇ。

でも、この経験は自分にとってどんなにいいことがあるんだろ・・

・・って思ってしまう癖は・・変わらない。

そうそう、今日は「真意と見え方」について書こうと思ったんだ。

脇道にそれたね。

 

孫の一人はとても激しいものを持って生まれたように思う。

三才下の弟が生まれる前から激しい感じを時折見せた。

下のは穏やかな感じを持って生まれて来たように感じる。

ホント、人生のスタートラインは全員が全く違う処に立っている。

ハンディキャップなんか絶対ない厳しいスタートだと思っちゃう。

美人とブス、アホと賢、ウサギと亀ではスタートが違うけど、

ウサギと亀の昔話みたいなこともよくあると思うから面白いし、

人生総決算では不平等なことはないのかもしれない。

まぁ、そんなことないという考えももちろんあるだろうな。

また、横道に行ってしまったか。

孫がくそ意地の悪いような行為をしたときとか、

思い通りに物事が進まないときすぐキレるときとか、

(同じような場面で常にそういう態度じゃないのはもちろんなんだけど)

そういった表に見えるキレ顔?や言葉にすぐ自分が反応してしまって、

(すぐ反応、とはそれは良くないこと、と瞬時に判断していることから起こること)

怒ったり、注意したりしてた。

その時だけの効果だと頭ではわかってたんだけどねぇ。

娘と子育てのことやなんかいろいろと話しているときに・・・

気づいた。

私が反応してしまうのは(上に書いたような)、

その行為の奥にある『真意』が見えなかったからだ・・・

そうか、そうだったんだ・・・

「このままの自分を愛してほしい」

「このままの自分を受け容れてほしい」

それが小さな人の意地悪としか見えない行為の奥に潜んでいる『真意』だ。

断言しよう。

それに気づくと、意地悪に見えた行為がそう見えなくなって来る。

全く違うものに見えてくる。

本当にそういうものだ。びっくりするほど。

元々ある愛が見えれば、愛になれる。

 

人にはそれぞれいろいろな傾向がある。

この子は何かを創ることが大好き。

何かあっても転換が早い。

人を喜ばせることも大好きだ。

真意が見えるといいところがよく見える。

それが大きく見える。

嬉しいことだ。

 さて、これからどんなふうにやれるだろうか・・・

気づいたらその後すべてOKになったらどんなにいいだろう。

 

 


怒鳴り、八つ当たりしたよ。

2017-04-09 16:29:02 | ひとの幸福

この前、小さな人、孫の言動にかなり腹が立ち、

どかんとやった。やりながら腹が立ってるなと思った。

何か悪いことをしたり、傷つけるようなことをしたならともかく、

不意打ちのようにいきなり怒鳴るように言われるのは心外だ・・・・

というようなことを強い調子で言ってやった。

孫はシ~ンとなり押し黙った。

そのことが不本意なら黙っているような人ではない、と思った。

もう一人の小さい人はえへらえへらとして私の様子を見ている。

怒鳴り終えても、そこにあった乾いた洗濯物をバシンバシンと音を立て、

テーブルに投げつけた・・ながら畳んだ。

ようするに腹立ちまぎれの八つ当たりだ。

後で小さな人がごめんなさい、と言ってきた。

何がごめんなさいなの?と聞いたら、

怒ったこと、と言ってた。

つい本当かな?と思ったけど・・・

腹立ちによるこの叱責の効果はいくらかはあった・・とは思う。

けれど、それは力による抑圧だ。

(なんせこちらは権力も腕力もある)

力による抑圧が一概に悪いとは言えないと思うけれど、

必ず副作用を生むなぁ・・と思った。

小さな人がそういう理不尽な行動をしたのも、

そうなるプロセスがあったと思うし、

生まれながらの性向というのもあるとは思う。

その人だけでそうなったわけじゃない。

でも、二度とそういうことはしてほしくないという願いの実現方法としての、

力による脅しや抑圧は、必ず副作用を生む。

けれど、抗議や要望があるなら出していかないといけない。

それが怒気を含んでいるか、含んでないか、が

副作用を生むか生まないかの分かれ目かと思う。

怒気が含まれてしまうのは、無意識のうちの判断のことだけど、

その出来事をその人個人だけのこととしてとらえているから・・と思う。

あってほしくない行動もその人ひとりで創ったもんじゃなし、

そうなったことはそうなるべくしてなった、と心底わかってれば、

その人個人を責める怒気は生まれないのかも・・と思う。

頭でわかって実践できるに練習要る、で、

楽しみであります。

 

けれど、こんな小さな人とのやり取りも、

国と国とのえらいさんのやりとりも同じなのかと思うよ。

で、世界平和は個人の心の平和からしか生まれないのではないかと。

全体の平和は個人の平和から・・・

個人の完璧な平和は世界全体の平和から・・・

一日一歩♪三日で三歩♪三歩進んで二歩下がる♪

これだったら平和はすぐなんだけど・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 


干渉しない

2017-03-25 15:00:44 | ひとの幸福

自動的に干渉しない、で居られるときって、 

自分が今ここで何をしたいのか、そのための自分のこの行為が適当かなぁ・・

どうかなぁ・・と自分をじっくり観察しながら

そうしているときだ。

行為としては何もしないから、しないことをしている、という感じか。

こういうとき、小さな人でも自分の行為は

自分にゆだねられていると感じるのだろうと思う・・・

トーンが落ちたり、それ以上に揉め事が大きくなったりすることがないように感じる。

小さな人でも自分を観る、というところに行かざるを得ない・・

そんな感じがする。

 

 

 

 


気の重さ2

2016-11-23 16:02:21 | ひとの幸福
『あーしようこうしようこうやってと言われて、そうしなくちゃと思うからなのか??

あのエネルギーに付いていけないからなのか???

気が重いということは・・しなくてはいけない、があるからだ

それ以外にない。

自分に無理をして頑張って合わせるからだ。

もう嫌になった、とか疲れたとか、を明るく伝える事か・・

相手を否定せず、自分は今出来ないと出すこと。

それ以外にこの解決法はない・・ということか。』

・・・・・

これは午前中に出した文章を書く前にメモ的に書いたものなんだけど、

こう思っても、そうなんだ!という深い納得がなかった。

で、頭を静かにして、ゼロから自分をただ観て、さっきのブログを書く展開になり、あぁなった。

こういう経過を見て思うのは、頭で理屈的に納得風になってもちっともすっきりしないこと。

「気が重いということは・・しなくてはいけない、があるからだ

それ以外にない。」

・・・最初からそういう結論を出している。

「自分に無理をして頑張って合わせるからだ」とも書いている。

「もう嫌になった、とか疲れたとか、を明るく伝える事か・・」

「相手を否定せず、自分は今出来ないと出すこと。」

「それ以外にこの解決法はない・・ということか」・・・

幾ら、こんなふうにわかった風に書いても、気の重さは変わらず続いていた。

何故そうなのか・・・自分の内側を観るというプロセスをしていなかったから、と思う。

以前体験したそういうプロセスの結果を覚えているというだけで、

内側を観るという静かな行為をしてない。

観るということは自分の心が~こうなってあ~なって・・いたなぁ・・

というプロセスを観るということと思う。

数学の問題で答えだけ教わっても、そうなるプロセスがわかってないと

ちっとも面白くない。

納得するにはプロセスが要るものだ。




問題なし

2016-10-29 11:23:28 | ひとの幸福
自分に向かって言おう・・・今のこの世界を見て、なんの問題もない、と。

全ては在るがままに在る。

それでよし。


こう書くとなんだか・・・凄い感じがあるね。

でも、なぜかさっきのブログ書いたら、

こんな言葉が浮かんじゃったんだよ。




全員一致

2016-10-29 11:17:27 | ひとの幸福
北朝鮮に向かって全員が大人にならなきゃ、

穴の開いたバケツで水を汲むようなものなんだろうな、と思う。

この前も威嚇してる北朝鮮に対しての在りようについて思ったことを書いたけど・・・


いろんな問題が世界中にあるけど、今はそうなっているんだなと思う。

人は、自分は、一歩ずつ一歩ずつ進んでいるんだと思いたいわたしだ。

どんな病気怪我でもこれを呑めばすぐよくなるという特効薬がないみたいに、

ひとは一歩一歩しか前に行けない。上に行けない。

一気に裸で宇宙まで飛べない。

上に進むのには障害物がなければ行けない。

平らな道だと上に行かれない。いつまでも同じ地面だ。

階段や坂道を登らないと上に行かれない。

進化は螺旋階段のように進む、と何処かで聞いた。

自分に在るいろんな障害?未熟さ?をひとつずつひとつずつ越えて行くしかないのかと思う。

全員一致になるには、一人一人が自分を越えて行く方法しかないのかなと思う。

自分を越えるのは自分だけれども、それは一人でやることも出来るかもしれないけど、

共にやるやり方の方が早いのかと思う。






決めてるから・・・

2016-10-14 13:03:23 | ひとの幸福
こうしたい、こうしてほしい、が強くあるのはそれはそれでいいんだけど、

この前の私みたいに(してくれて当たり前)や、

(~して当たり前)(自分が正しい)があると、

その思いをなかなか放せない。

放せない思いを出しても話し合いにならないねぇ・・

だって、自分の中でもう決まってるんだもの。

よっぽどのことがあれば別だけど。

政府と沖縄県知事の話し合いでも、

双方とも自分の考えを固く持ってるから、

とても話し合いなんかにならないのも当たり前だ。

この例だけじゃない・・んだ・・


はなっから決めてる。

そういうこと多い。

それを自分が知ってるか、まるで気付いてないか、

今回の私は気付いたけど・・・


その事によって自分の気分が悪くなったときでも、

何度かここに書いてる対処方法をしないまま、

気分転換で事なきを得た、ということも多いんだけど、

話し合いができるのは、

はなっから決めてたことに気付くことや、

自分の考えはあっても、決めてない状態でいること、

そんなふうに自分を整えてからだなぁと思う。

そうじゃない場合が多いよ、私。

・・・・・なかなか難しいことだ。










わたしの生き癖

2016-10-13 15:46:42 | ひとの幸福
最近つくづくつくづくつくづく、私は自分一人でなんとかしようとする、のが強いと思った。

前々から知ってたけど、こんなにそれが強いとは自覚してなかった。

でもどうしてこんなふうになったのか、知らない。

気付いたらこうなってた。

私みたいな傾向なんか生まれつき全然ない人もいるんだと思う。

気付いたらそういう人だった、とかね。

ほんとうに人それぞれだ。

私は何故かこういう人なんだ。

そうだねぇ、「何故か」という接頭語いいねぇ・・

接頭語じゃないか・・いいやなんでも・・

なぜかそうなのよ、わたくし・・・

なぜか美人なの・・・

なぜか性格がいいの・・・

なぜか気性が激しいの・・

なぜか優しいの・・・

なぜか喧嘩っ早いの・・

いや、コレ私のことじゃないよ。

ちょっと書いてみた。


いま、これ書いてたら、なぜか気が楽になった・・

なぜか、私はこうなんだ・・・

こんな自分の傾向を受容できたのかもしれないな。

解決と対処

2016-10-02 11:32:15 | ひとの幸福
自分の気持ちがすっきりしない・・・ぐじゅぐじゅ・・・モヤモヤ・・・

なにかこういう気分になっている時というのは

自分の中で何かが解決されてないとき。

解決していないのがイヤだ、その状態で居るのがイヤだ・・・

で、モヤモヤするのか??

そんなことを思っていると、こんな文章に遭遇。

「解決しようとか、答えを見つけようとはせず、

それに対して、どう自分が対処するかが大切です。

どんなときでも、解決よりも対処と心得ましょう。」

・・・図書館から借りた『暮らしの手帳』の松浦弥太郎氏の言葉。

対処とはどういうことか??

広辞苑によると「あるものや情勢に対して、適当な処置をすること。」

ちなみに、解決とは「問題やもつれた事件などを、うまく処理すること。

また、事件が片付くこと。」


ここまでが昨日書いたメモで・・・

また何故か、つい今しがた、別の『暮らしの手帳』の中から

同じく松浦弥太郎氏のこの言葉が目に入った。

「風邪を引いたり、病気になったときは、身体が休みを必要としているときです。

治すことよりも、しっかりと身体を休ませてあげましょう。」

昨日引用した彼の言葉と何か繋がりがあるように感じるんだけど・・・

これに遭遇するなんて不思議な感じがしてしまうよ。

これは・・・治す=解決 休む=対処 と言えるんじゃないのか・・・

・・と思ったわけで。

風邪の場合は『対処』が休む、だけれど・・・

えーっと、どう考えるのか・・

どう考えたらいいのか・・まぁ構わず書いてみよう・・・


解決してないのはイヤだ、なんていうのは、

解決していなくてもいい、してもいい、というような、

ニュートラルな感じに自分がなっていないということだな・・・

解決してなきゃイヤ・・・は「待てない」という心の状態ともいえる。

解決したい、に囚われている、んだなぁ・・

そもそも解決する、ということがあるんだろうか・・・

事件が解決した、なんてよく言うけど、

何かの事件の犯人が捕まったからといって、

それで何が解決した・・のか、捜査してコレコレかくかくしかじかで・・・

裁判ではコレコレ・・こういう判決が出て、犯人は服役した・・・

これで何が解決したのか・・・

やっぱり、捜査や裁判は対処として存在するものだ。

解決といっても根本的解決とは言えないものがこの世ではほとんどなんだろうなぁ。

自分のモヤモヤする思いをじゃんじゃんどんどん書き出して、

それをよくよく観察するとモヤモヤするカラクリが見えて来て、

それに深く納得すると心がスッキリしてくる、なんていう一連の心の動きも

心をスッキリさせるための自分なりの「対処」なんだろうなぁ。

それを「解決」と言えるんだったら、再発とかないような気がするからね。

だから、モヤモヤしたときは解決すべきなんて固くならずに、

このモヤモヤを「対処」する時間を設けましょう・・

その時間がとれるまでゆっくり待ちましょう。

こういう感じで行くことにします。

・・どうぞご勝手に、だね。











「占いは信じますか?」という問い

2016-09-17 13:44:58 | ひとの幸福
信じるか、信じないか、というより、

人の過去や未来を垣間見る事の出来る人が居る、ということを

あぁ、そうなのか、と納得出来るか、出来ないか、なんだろうなぁ。

居るか、居ないか は 在るか、無いか と一緒だと思うけど、

或るものが“無い”と、言い切ることは出来ない。

無いということを証明する術を私たちは持ってないんだから。

在ることは証明できる術を持ってるけど、

無い、ことが本当に無いのか、ただ今のところ見つけられないのか、は

今の私たちにはわからないことだと思う。


で、未来を垣間見るというような能力は自分には無いけれど、

そういう能力を持っている人は居るんじゃないかと私は思ってるんだ。

でも、未来は一瞬一瞬変わるはずだ。

ひと月前に何かをやると決めたことを一ヶ月経って止めざるを得ないことに

なることなど、人生でよくあることだろうし、

そうした場合、何かをやると決めたすぐ後にそういう能力があるだろう人に占ってもらったら、

未来にその何かをやっているだろう・・と見えたとしても、

実際はそのような未来は生まれなかった、ということになるはずだ。


自分の未来といっても自分一人でどうにかなるもんじゃない。

そのつどそのつど何かをするしないを決めているのは自分だけれども、

その、何かが起こることは自分一人で起こしているわけじゃないからね~

曲がり角を曲がったその先に何に会うのか何が待っているのか何が起こるのか

わからない。

あ・・でも・・・それをわかる人もいるのかもしれない・・・・

う~ん・・・でも、10年も20年も30年も同じような思考、

同じような生活スタイルをしていたら、

占いも当たりやすいような気もするなぁ。


けど、全ての占いが信頼に値するものなのかどうか・・・

疑わしいものも多いのかもしれないと思う。

興味本位で占ってもらったことも数回あるし、なるほどと思ったこともあるけど、

大変為になった、有意義だった、また見てもらいたい、

と、思ったことは残念ながらないんだよ。