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ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

一カ月食べ続けるとしたら?

2016-07-27 09:56:04 | ひとの幸福
「一カ月食べ続けるとしたら?」・・・食べたいからそうしたいわけじゃないんだけど、

私の場合、カレーライス。

でも何故そうしたいのか??

カレーは癖がある。

大人しい味じゃない。

そんなものをひと月食べ続けて、自分がどんな気持ちになるかを体感したい。

そんなふうに思って何年経つだろう・・・

まだしていない・・・

いつ死んでしまうかわからないのに・・・

これを決意するのはいつか???!!!

行為と病気

2016-07-21 09:37:33 | ひとの幸福
受け容れられなかったひとの行為を、

この人はこういう症状があるんだ・・・

この人はこういう病気なんだ・・・

こういう納得が出来ると心が落ち着いたりすることがある。

人のその言動を受容できたということなんだろうな。


何か症状があるのだけれど、調べても何の異常もありませんと診断される・・・

けれど、辛いのは辛い・・・

自分の辛さをわかってもらえない。

辛さは無いはずと言われているような気がする・・・

何年か後、それはコレコレナンタラ病だとわかった・・

病気だとわかったのに安心する。

こういうこと時々聞くけれど、

そういう症状は出るべくして出ているんですね・・という納得を得られることで

心が落ち着くということだろうと思う。



あの人はすぐ怒るからイヤだとそれを毛嫌いしているより、

あの人は瞬間湯沸かし器だから、と諦める方が精神が安定する。

ひとをそんなふうに決めつけることで心が落ち着くなんておかしい、

そんなふうに思っていた時期もあった。

けれど、それは決めつけているんじゃないんじゃないか・・・

今、この人はこういう症状が出ている、

そんなふうに観ることが出来ている状態なんじゃないか。

正常ではないんだな、病気なんだなと納得できている状態。

ひとのいろんなおかしな言動もみな、

症状だと観られると心は落ち着く・・・んだろうなぁ。

自分がおかしいと思うそのことも症状の一つなんてこともずいぶんあるだろう。


テロ行為が起こっているけれど、

それも病気にかかった、症状が出ている、と観れば、

対処方法も変わることってないだろうか・・・

病気や症状に対して怒っていてもしょうがない。

怒るよりそれを治すことを第一に考えるんじゃないか・・・


それにはどうしてそういう病気になったのか、そこから始まるんじゃないかと思う。

ため息が出るような・・・

2016-07-11 15:32:27 | ひとの幸福
幅るのが悪いわけじゃない。

恥ずかしく思うのが悪いわけじゃない。

そう頭で思っても、身体まで下りて来てないから

自動的に不愉快な気分になってしまう。

是か非か、良いか悪いか、が潜在意識に圧倒的な強さで在るから、苦しむ。

あーあぁ・・とため息をつきたくなる。

ため息ついてみて、またわかる。

是か非か、良いか悪いかがあることをダメとしている潜在意識があるからだよ。

そうなると、もう、なんでもいいじゃん。

この私で何が悪い、と開き直る。

これでいいのだ~♪これでいいのだ~♪天才バカボンバカボンボン♪

これが在りのままで生きる・・か・・・

今 ここで。

あのとき、そう言ったじゃん・・・

2016-07-11 11:19:34 | ひとの幸福
自分が書いたかなり前のこのブログを読んでみた・・・

面白いなぁ、と思う。

面白くない小説より面白い。

別人が書いたような感じでそう思う。

なるほどなるほど・・・・そんな感じで。

ここに書いている最中に気付いたこともいっぱいあった。

けど、気付きや辿り着いた考えはその時そうなった、ということで、

それがいつもいつも自動的に顕在意識に登場するわけじゃない。


あの時、そう言ったじゃん!的な、

あのとき、そう書いたじゃん・・・を自分に向けてもそれは無理だ。

気付きや新しい考えが体得されるように日々を生きなければ、

過去の思い出に過ぎない。

発した言葉の底には・・・

2016-07-09 08:30:46 | ひとの幸福
昨日、ここで文章を書くということをして、

やはり書くのはいいと思った。大したこと書いてないけどね。

ここで書く言葉もそうだけど、

人に発した自分の言葉はいつも自分に返って来る。

この頃ブログ書いてないね、と友人から聞いたとき、

書くモードじゃないんだ、と言った後、

今の自分が書くことはどんなことだろう・・・が浮かんだ。

で、上に書いた人に発した自分の言葉・・云々が出て来たんだった。


発した後、自分の心がもやーっとなる時と、全然ならないときとがある。

もやーっとなった時をみると・・

自分の心のベースといったようなものが正常ではない感じ・・・・

自我が のさばっている。

それに気付くと恥ずかしくなる。


山岸さんが云ってた「幅る辱しさ」と違う。

今の私は恥ずかしくなる。辱しさより恥ずかしさの方がぴったり来る。

何故恥ずかしく思うのか・・

恥ずかしいと思うその底に自我がでーんとある。

プライドがでーんとのさばっている。

私は 幅り、その上、幅ったことを又、幅っている。



受け容れがたいこと

2016-04-17 18:14:36 | ひとの幸福
人のどんな言動も受容するとは

自分でもよくここに書いてるけど、今は‘そうなっている’んだなぁと受け容れること・・・

様々な条件境遇暮らし環境生まれながらのものなどそういういろんな要因が

網目のように織られて今ここにそうなっている、

そのことをわかると在りのままを受容出来るようになるのかと思っていたけど、

人のある言動が自分にとって受け容れがたくて、苦しんだ。

そのあと、

その言動を作ったのは私だ、全人の私だと本当に思えた。

在りのままを受け容れるとはこういうことかと思った。

その言動はその人のことではなくなって、自分のことになった。

話を聴く人。

2016-03-20 18:50:45 | ひとの幸福
北朝鮮のこと、世界中が非難している。

賛成はしないのが普通なんだろう。

北朝鮮のやっていることがいいと言う人はあまりいないだろうと思う。

でも核を持つ国が持つな持つなと言っても、

今の北朝鮮が はい そうします にはならないのは当然かとも思う。

皆が皆、揃って非難し、抗議し、注意するだけだ。

話を聴く人は誰も居ない。


そんなふうにみえる。

空(くう)と平和

2016-03-05 10:56:10 | ひとの幸福
これがいい、これは良くない、なんていう善悪の判断、価値観は持っていて当然。

それがなかったらこの世界を生きて行くことは出来ないんだものね。

それは自分がどう行為行動するのかの指針。

けど、絶対これだけが正しい、他は間違っている・・なんていう強い思いを持てるのは

本来存在しない自我に囚われているということの表れなんだなぁ・・・

ひと、物事の全ての本質は空だという事実を知れば、

日常、怒ったりイライラしたりしても、

戦争という行動にまでは発展しないだろうなぁと思う。

飽きる・・というのは

2016-02-24 13:58:21 | ひとの幸福
(飽きた)と思ったことがない。

で、飽きたぁ!と思ってみたい、というのがある。

石垣に行くのだって、別にここが飽きたわけじゃないしね。

しなので、飽きるとはどういうことなのかと思う。

広辞苑で『飽きる』を調べてみよう。


・・・同じことが重なり、この上それを続けるのがいやになる。

もう沢山だと思う。いやけがさす。


白いご飯を小さな時から食べているけど、食べ飽きたということはない。

毎日ご飯作ったり、洗濯したりしてるけど、し飽きたとは思わない。

毎日毎日顔を洗っているけど飽きない。

お風呂も入ってるけど飽きない。

毎晩寝てるけど飽きない。

毎日夫の顔を見てるけど飽きない。

美人顔は飽きるけど、ブス顔は飽きないというの聞いたことがあるけど、

夫はイケメンだけど、飽きない。


毎日毎食上等なステーキを食べてもやはり飽きないだろうか・・・

これは実験できない(する気がない)ので何とも言えないけど、

多分、飽きるというより、もっとさっぱりしたものを食べたいと思うかもしれない。

洗面、入浴、睡眠なんて、前と同じ・・なんて頭に浮かぶことなくやっているから、

飽きるなんて発想が生まれないのか・・・

前のことはすっかり忘れているから飽きないのか・・・

けれど、本来、同じことなんて一つもないんだものねぇ・・・


でも、まぁ、飽きるという言葉を使っても、

疲れてやる気がなくなったことをそう表現することもあるだろうしねぇ・・・

同じことが重なり、続けるのがイヤになる・・・

同じこと続けるのがイヤになる、のは

そのことがそれほど好きじゃないから・・だろうか。


何かを並べるのがそれほど好きというわけじゃないけど、

昔、製造ラインで照り焼きチキンを並べる仕事をしたことがあった。

飽きなかった。


でも、なぁ・・・考えてみると、

引っ越し好き、模様替え好き傾向がかなりある私は

飽きるほど同じことをしたことがない・・

ということなのかもしれぬ・・・


「何にも出来ない、してやれない」

2016-02-22 16:01:21 | ひとの幸福
14、5年前か、ひとのことで私にしてはとことん苦しんでいた時、

「私には何にも出来ない」という思いがわっと上に上がって来たことがあり、

一気に気が軽くなったことがあった。

軽くなる前に気が重かったのは、

その人じゃない私がその人自身を変えようとしてたから。

で、思い通りになるわけもなく、苦しんだわけだ。

何も出来ない、という地点に着く前は、出来る、と思い込んでいた。

そして、それを知らないでいた。

自分の無力さを知らなかった。

もっと力があると知らぬうちに思い上がっていたということだ。

私だけじゃない。

争いの多いこの世界が今、こういう状態だということは、

人の多くが他に対して変える力があると勘違いしてるからだ。


世界には何の問題もない。ノープロブレム。

本当にそこに立てたら、問題は自動的に解決する。


自分に戻ってくる。

2016-02-15 09:53:16 | ひとの幸福
昔からやることになっているから・・・

この地に夫と居るとそういうことになる。

仕方がない。正直に言うとそんな感じ。

・・・これ、何日か前に書いたもの。

義父の一周忌の法事のこと。

これを書いたら、やっぱり、本当にそうなの?が自分に返ってきた。

うん、そう・・これ読むとなんかここでそういう(私の感覚では、やらなくていいもの)をすることを

この地と夫のせいにしてるよう。

確かに夫は今現在のこの地ではやることになっていることをしたい、と思っていると思う・・・多分。

そんな形骸化してるようなこと本当はやりたくないと言うことも私に出来ることだけど、

それを発さなかったのも私の意志だし、

こうして夫と共に法事をするということを選んだのも私だ。

そういう行為の一つ一つを厭々やったということは全然ないんだけど、

あの文章には自分のしたことをひとのせいにする臭いがある。


…ここまで書いて、たった今読み返すと、

(私の感覚ではやらなくていいもの)・・と書いたけど、

そんなものやらないのがいい、ナンセンスなことはしない方がいい、という考えが

私にはしつこくあるんだなぁ・・・と思ったよ。

人はそれぞれ自分の考えがあるのは当然で、

私の儀式嫌いというのも悪い考えということじゃないと思うけど、

どんな考えでも固く持ったままでいるのは重いものだ。


甘利さんのこと書いた後・・・

2016-02-12 10:43:58 | ひとの幸福
ホント言葉に出すと出さないでいるのと違うその後がある。

本当にそうかなぁ・・どうなんだろう??という気持ちが生まれる。

この、本当は、というのは事件の真相のことじゃないんだけど。

アレを書かなかったら、その時のなんとなくの思いがそのまま

意識の奥に時間と共に消えて行くだけで終わっていたろうと思う。

まぁ、そんなことばかりではあるけれど。


何か事が起こると多くの正義の味方がそれ~やっつけろ~!になることが多い。

だからそうされないようにされないようにする、という風潮になるんじゃないかな。

そうされないように、そうならないように、とかいう心理の元には

非難されるものである、そうなるものである、という固定的な意識がある。


人を非難して人差し指でその人を指すとき、

あとの4本は自分を指しているという話があるけど、

こういう話を聞くようなことは近頃ない。

何かやってはいけないことをして、

周りの人たちがすごく非難しているとき、

キリストが自分が今まで一度もそういう気持ちになったことがない人だけ

前に出て、とかなんとか言ったという聖書の中のエピソードを思い出す。


やっぱり非難からは幸せは来ない。

けれど、

非難される側が非難の言葉の奥に在る愛、幸福を願う気持ち、に気付ければいいんだけど、

それは難しいよねぇ・・・・



覚悟と心配

2016-02-09 13:19:04 | ひとの幸福
起きてほしくないことが起こるかもしれないと思うとき、

それが実際に起こった場合それを受け容れることが出来るか??

・・・・という問いを自分に向けることが多い。

これが癖になっている。

起きてほしくない・・と思うことは願いの一種。

その望みがかなわなくてもいい、になるまで、自分に問うわけだ。


望みをかなえたいと思うのが人の常だと思う。

思い通りにしたい。

あれをこうしたい、これをこうしたい・・・

それがあるから生きられる。

家族が元気でいてほしい、

仕事をこんなふうに進めたい、

部屋を快適に暖房したい、

美味しいものを食べたい、作りたい、

身体にちょうどいい衣服を着たい、

こう洗濯したい、こう掃除したい、こう片付けたい、・・どれもみな欲だし思い通りにしたいこと。


何か自分に都合の悪いことが起こったとき、

思い通りにならないとき、

この状態がずっと続いてもいいか?

・・・そう自分に問う。

本当に、いいか?いいか?それでいいか??

で、「望みがかなわなくてもいい」そこに行くまで自分に問う。

なんだかそういうことが自分の習性になっちゃったみたいで、

なんでこういうことをするようになったのか?

何がしたくてこういうことをしてるのか?


自分やひとが幸せにという欲も大きな欲の一つ、

けれど、その欲にとらわれることで人の不幸が始まる。

思い通りにならずに苦しむ・・・・

仏陀はこういうことを言ったんだと思うけど、

欲はあるのが当たり前だし、それがなければ人は生きられないし、進歩がない。

元々ひとは進歩進化するように出来ているもんだ。


その欲にとらわれることからの解放としてその時々の覚悟が有効なんじゃないかなぁ。

望みを放すと望みは叶う方向に動き出す・・・

たった一回覚悟したって、叶わないだろうけど、

覚悟することでその後の行為の元が変わるということはあるんじゃないかなぁ・・・

そんなふうなことで私はやっているのか・・

そうやってみて、生きることが軽くなったというのはあるかなぁ・・・


今になって頭を整理した自分でした。










失敗して失敗して上手になる・・・けれども・・・

2016-01-25 16:54:12 | ひとの幸福
周りの人を傷つけて傷つけて人は成長する・・・

そう言えないかなと思う。

新米外科医が最初は切ったり貼ったりするのが下手だけど、

たくさん手術してだんだん上手になるってこと、ないのかなぁ・・・

いや、全くそのへんのことは知らないから勝手にそう思っただけだよ。

予行演習みたいなのをたくさんして上手になるだけなのか・・なぁ?


子供に対しての対応を失敗して失敗して失敗して・・・

いくらかはコツを掴めるようになる・・・

子供はそういう親(私)の犠牲者だ。

私だけじゃないとは思うけど・・

子供を虐待する事件が最近多いけど、

もっと知恵ある、愛情ある人たちが周りに居てくれたら、

そういう事件も起こりにくい・・・とも思う。



面白いか、面白くないか・・

2016-01-19 14:14:40 | ひとの幸福
やることがないと思うと面白くない…これ、私。

でもいつか何もできなくなる日が来るかもしれない。

老いさらばえて横たわるしか出来ない日が来るかもしれない。

注意力散漫な私は交通事故で寝る格好しか出来なくなるかもしれない。

そうしたとき、何かをしていないとつまらない、面白くない・・となる可能性が高い。

横たわっているだけで満足できるようになれるといい。

これは難しい。けど、目がよければ本が読める。ものを見ることが出来る。

話すことが出来れば人と語れる。

耳がよければひとの話が聞ける。

このすべてが出来なくなったとき、面白がれることをみつけられるだろうか・・・

思う・・ことだけが出来る。

意識不明になったとき、自分の中ではひとにわからないなんらかで意識をみることが出来るんだろうか・・・

病人が死にそうなとき、意識不明であっても、

ひとの言っていることわかりますよ、声かけてあげてください・・と

看護士さんに言われたという話を友人から聞いたことがある。

その看護師さんの独自の発想に過ぎないのか、

看護士の学校ではそういうのを勉強しているのか・・・

無知な私は知らない。

そういう意識があるといいのだけれど・・・