歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

クリストファーズ『ヘンデル_シャンドス・アンセム第7-9番』

2009年04月11日 | CD ヘンデル
Handel
Chandos Anthems - Volume 3 - Nos. 7, 8 & 9
Kwella, Bowman, Partridge, George
The Sixteen Choir & Orchestra
Harry Christophers
CHAN 0505

1989年録音。74分46秒。Chandos。ヘンデルの『シャンドス・アンセム』から。第7番《My song shall be alway》、第8番《O come, let us sing unto the Lord》、第9番《O praise the Lord with one consent》。忘れもしません。福岡の天神で買いました。広島から長崎に帰省するとき、よく途中下車して福岡の街をうろうろしてたんですよ。その時に買った。その後勤めるようになってからCD4枚組の全集盤も買いましたが、最初に手に入れたこの一枚には特別の思い入れがあります。大学のグリークラブの定演で、ヘンデルの〈Your voices raise〉という合唱曲の男声合唱版を歌ったのですよ。それの原典版が、最終トラックにすばらしい演奏で入ってるの。ようやく巡り会えた。

『シャンドス・アンセム』を聴かずしてヘンデルは語れません。いちどこのザ・シクスティーンの演奏をお聴きくださいませ。力のこもった、中身の濃い音楽にきっとびっくりするから。このCDに収められた第7~9番は合唱曲がとくに充実していて、聴くたびにいい気持ちになれます。70分を超える演奏時間ですが、聴き終えるまで退屈しないので、あっという間ですよ。

ザ・シクスティーンはS5、A4、T4、B4。メンバーでは、Sally Dunkley、Christopher Royall、Mark Padmore、Simon Birchal、Francis Steele、Jeremy Whiteなどが目ぼしいところ。アルトは全員男声で、ところどころ低い音のところはテナーの発声で歌っています。つまり「SATB」ぢゃなくて「STTB」になるわけね。このシャンドス・アンセムの場合、ヘンデル自身もほんらいSTTBのOVPPで歌われる前提で書いたんぢゃいでしょうか。なんかおもろいね、STTBのOVPP。

だって、アルトのソロを例のボウマンが歌ってるんですが、地を這うようなアルトの声で、ものすごく無理して低い音を出しているのよ。気の毒すぎてちょっとニヤニヤしてしまうほど。これはカビィクランプあたりを呼んで、ハイ・テナーの発声で歌わせたほうがよかった。シャンドス公のお邸ではソプラノ、ハイ・テナー、テナー、バスの四人で歌われたんだと思います。ソプラノは美人のパトリツィア・クウェラで、この人はいまいちメジャーになり切れなかったけど、ここではちゃんと責務を果たしていると思います。わたしはリン・ドーソンよりはクウェラのほうが好きです。

第7番冒頭のソナタ(序曲)は、コンチェルト・グロッソOp.3-3の始めのふたつの楽章と同じ音楽で、ソロのオーボエとバイオリンの掛け合いが印象に残るものですが、クリストファーズはこれ以外ないと思える理想のテンポ設定で心地よく進めていきます。その後、Op.3のCDをいくつか聴きましたけど、クリストファーズほどの満足感を与えてくれる演奏にはまだ行き当たらない。

われわれが歌わせてもらった〈Your voices raise〉について、依拠したハーバード大学のグリークラブの楽譜集には"from The 6th Chandos Anthem"とか書いてあった。のちに──というのはこのCDを店頭で見たときに──判明したのですが、ほんとは"6th"ではなくて、"9th"なのでした。天神で、このCDのケース裏のトラック25のところに〈Your voices raise〉って書いてあるのを見つけたときはうれしかったなあ。

〈Your voices raise〉を歌った当時、すでにわたしは相当なヘンデリアンだったんですが、まだぴぃぴぃの学生で、原典を調べる手づるも才覚もなかったし、当時はまだ輸入盤を簡単に手に入れられる時代でもなかったので、どんな音楽なのかぜんぜん分からなかった。その後も『シャンドス・アンセム』はずっとわたしにとって幻の曲だった。それと出合わせてくれたのがこのザ・シクスティーンのCDでした。

カークビー&ルーリー『Time Stands Still』

2009年04月09日 | CD ルネサンス-イギリス
Time Stands Still
Emma Kirkby
Anthony Rooley

1985年ライブ録音。45分56秒。Hyperion。サブタイトルが"Lute songs on the theme of mutability and metamorphosis by John Dowland and his contemporaries"。'mutability'は「無情。変わりやすさ」ですと。'metamorphosis'は「変容」。

カークビーの声のコンディションは最高。ちょっとした表情の変化がじつに魅力的で、けっして大袈裟にならない表現ながら説得力は無類。いちいちピタリと決まります。カークビーのすべてのCDのなかでもっとも完成度の高いのが、この録音。わたしはそう思うし、そういう意見をwebでも複数読みました。

カークビーが全盛期に遺したすばらしいプロダクション。ダウランドがすばらしいのは言うまでもないことですが、トーマス・キャンピオンやジョン・ダニエルなど、ダウランドのライバルたちの曲もなかなか心にくく、エリザベス朝の音楽の稔りを垣間見ることができます。

ルーリーのリュートはあくまでもカークビーを引き立てるサポートに徹していて、頼もしく、好ましい。最後に拍手が入っているのですが、これがなぜかね、じーんと心を打つんです。ああ実際にこんなすばらしいプログラムでカークビーが歌い、それを聴いた聴衆がいたんだ、というそのことになぜだか心が温かくなるんですよ。

カバー写真は、古楽の録音にしばしば使われる、イギリスはドーセットのフォード・アビーだそうです。

トナカイの角

2009年04月08日 | メモいろいろ
だいぶ前に松尾貴史が新・話の泉で言っていたことなんですが、せんと君の頭にはえているのは、あれは形態上、鹿の角ではなくてトナカイの角ですてね。言われてみるとたしかにそうです。鹿ではない。最近ますますメジャーになってきたせんと君の着ぐるみをテレビやwebで目にするたびに、それがどうも引っかかる。せんと君の作者はどういうつもりでトナカイの角を生やしたんでしょうか。鹿のつもりでうっかりトナカイにしちゃったのか。それとも鹿の角を生やしてみたけどピンと来なかったので、あえてトナカイの角にしたのか。まあ、着ぐるみにする時は、先のとがった鹿の角よりもやや角張ったトナカイの角のほうが「安全」なのかもしれませんけど──。わたしも松尾貴史が言うのを聞くまで気がつかなかったんで、案外まだ、あれはトナカイだと気がついていない人、多いのかもしれません。それにしても、奈良の人で、もう気がついてる人たちは、あのトナカイの角をどう思ってるんですかね。

ほそすぎる

2009年04月07日 | MacとPC
MacOSXでは文書作成の際に標準になる明朝体はヒラギノ明朝W3です。ふつうはこれを本文に使うわけ。画面上でも、プリントアウトしても、じつに美しい。ただし不満がないわけではありません。この前、ヒラギノ明朝W3で作ってあった文書を、フォントだけ小塚明朝Rに変えてプリントアウトしてみたら、かなが大ぶりでとても見やすかった。美しさでは圧倒的にヒラギノが上ですが、小さめのポイントを使ったときの字の読みやすさでは小塚だと思います。

InDesignについてきた小塚明朝はそれぞれのウェイトの名前がイニシャルで区別されていて、EL(ExtraLight)がW1、L(Light)がW2、R(Regular)がW3、M(Medium)がW4。ここまではたぶんあってると思いますが、その先はどう対応するんですかね。Mよりも太いのが、B(Bold)、H(Heavy)、とあるんですが、Wの数字でいうと、BはW5ではないと思う。でもW6なのかW7なのかわからない。Hも、W8のようなW9のような。でもとにかく軽いほうの、LがW2、RがW3、MがW4、これは間違いないと思います。

ヰンドウズはあまり使わないとはいえ、よそから回ってくる文書はほぼ100%にちかく、ヰンドウズ上のWordまたは一太郎で作成された書類なので、当然のごとくMS明朝を使ってあるわけです。これが違和感あるのよ。なぜか。細すぎるんですよ。MS明朝はもともとリョービの本明朝-Lを母体とするフォントです。(わたしにはどういう意味か分かりませんが、MS明朝は本明朝-Lを一部簡略化してあるんだそうです。)素性は悪くないんです。ただ、細すぎる。MacではOS9まで本明朝-Mが標準でついてきていて、わたしは平成明朝が好きではなかったんで、よく本明朝-Mで書類を作ってました。まあ本明朝-Mはこれはこれでちぃと太すぎのようには思ってたんですけどね。でも気に入っていた。しかし、親戚関係にあるとはいえ、本明朝-MとMS明朝とではまるで感じが違う。むかし気に入っていた本明朝-Mとどこか似ていて、しかしなおかつ別人なので、なおさらイライラする感じ?

ディック・フランシス『混戦』

2009年04月06日 | 本とか雑誌とか
ディック・フランシス/菊池光訳『混戦』(ハヤカワ文庫)読了。1970年に書かれた第9作目。この作者は騎手以外にパイロットの経験もあったんですね。今回は空のタクシー(というかハイヤー)みたいな小型旅客機のパイロットが主人公。マット・ショア。37歳。もとはより大型機の機長をしてたのに、陥れられて、離婚もして、いまはうらぶれている。でも好男子。主人公のキャラクターの魅力は相変わらず。そしていつも同様、危機一髪のシチュエーションを乗り切っていくカタルシス。今回はフーダニット、ホワイダニットとしての楽しみもありました。

ただ人間関係の組み上げ方は、フランシスにしてはややあっさりめ。今回、主人公の庇護者の役割を担うのはだれかなあ。チャンピオン騎手のコリン・ロスか。このコリン・ロスの妹のナンシイがヒロインです。本作に登場する富豪の公爵は、フランシスのほかの作品に出てくる貴族とちがって、やや間が抜けてるのが異色。人柄はとてもいいけど頭の回転は遅いの。洞察力もない。そしてその後継者であるまだ子どもの甥のほうが人を見る目がある、というのも皮肉なもの。

「ヒショータイ」

2009年04月04日 | 気になることば
NHKのラジオを聞いていました。(これはひとまづ誤報だったとあとから分かったんですが、)昼十二時のニュースが終わって『昼のいこい』になってしばらくしたとき、番組が中断されて、「政府は先ほど北朝鮮からヒショータイが発射されたもようだと発表しました」と横尾アナが何度も何度も繰り返しました。これはテレビと同時に放送する速報で、テレビだと字幕が出るんでしょうが、ラジオでは耳からの情報しかありません。「ヒショータイ」ってはじめて聞くことばを何回も繰り返されて、わたしは不愉快でした。「ヒショータイて何?」とわたしは何度も大声で──独りで聞いてたので──ツッコミました。

こういう同時放送のとき、NHKはラジオの聴取者に対して非常に冷淡なんですよ。あまりにも無神経で冷淡。大災害の時など、その渦中にあっては、むしろラジオで情報を得ようとする人のほうが多いと考えるべきなのに、なっていないのですよ。

こういうとき、ラジオ用に補足説明をするアナウンサーが控えているもので、今日はベテランの末田アナがいたんですが、末田さんも「ヒショータイ」についてはなんの補足も加えませんでした。

そりゃあね、今日の場合、北朝鮮のミサイルについてはさんざん事前に聞かされていましたから、冷静に考えりゃ、たぶんミサイルのことだったんだろうなあとは分かりますよわたしだって。だから「ミサイルのようなものを発射しました」とでも言ってくれたら、情報伝達上、何の問題もないんですよ。わざわざなんでここで、「ヒショータイ」なんて耳慣れないことばを使うんですか。まあ、ことばの意味からすれば「ヒショータイ」のほうが精密なんでしょうが、ことばは時と場合を考えて使わなければなりません。

あとで新聞社のwebサイトを見たら、「ヒショータイ」は「飛小体」ではなくて「飛翔体」だそうですね。そんなことば、いきなりラジオのニュース速報で言われても、さっぱり分からん。NHKの人は、家で聞いていた家族にアンケートを取ってみなさい。

「球をほうる」

2009年04月04日 | 気になることば
新かなでもたまに、どう書くのか迷ってしまうことばがあります。たとえば「放る」。「球を放る」とかの。これは「ほおる」ではなくて、「ほうる」なのですよ。なぜかというと、旧かなで書くと「はふる」だから。発音は「ホオル」「ホール」ですけどね。

そういえば「酔う」は旧かなでは「ゑふ」だと思ってたんですが、現代語の「酔ふ」は「よふ」と書いていいそうですね。まあそうでしょうね。「酔っぱらった」は「よつぱらつた」であって、「ゑつぱらつた」とは書けんですもん。それにつけても、「よふ」は「ゑふ」の転だそうですが、「ゑ」と「よ」とでは、行も段も違うのに、「ゑふ」がどうやって「よふ」に変化したのか、もう研究されて分かってることかもしれませんが、オモシロイですね。そういやほかに「あふぐ」が「あおぐ」になった、とかいうのもありますね。

ああPageMaker

2009年04月03日 | MacとPC
いまだに書類づくりはegword universal 2だのみなのですが、egwordの後継と期待する物書堂さんのエディタもどういうものになるのか分からない現状で、egwordでしか開けない書類を作り続けることに躊躇いを感じはじめたのも正直なところです。それで、InDesignをCSからCS4にバージョンアップしました。こう見えてもわたし2.0以来の正規ユーザーなのですよ。しかしなにしろ高いソフトですし、これまではegwordをフルに使っていてInDesignの出番もなかったので、CSにいっぺんバージョンアップしただけで、後はほうっておりました。DTPなどという大それたことをするつもりも予定もぜんぜんないんですが、Macでちょっとでも見栄えのよい縦書き文書をつくろうとすると、先のないegwordに頼るか、いっきにInDesignにまで飛ばないとどうしようもないというこの現状、まともではありません。

InDesignは、わたしのようなシロウトにはなんぼなんでも大仰すぎるんですよ。ちょっと街まで買い物に行くのに高級リムジンに乗るようなもんで。以前はねえ、PageMakerという、何とも使い心地のよいソフトがあったんです。これは高級リムジンではなくて、使い勝手のよい自家用車でした。ワープロよりちょっと気のきいたことができて、なおかつほかのDPTソフトのような重々しさはなくて。そもそも発売元のAdobe自身が、「あなたはまだワープロソフトを使ってるんですか」とかなんとかいうキャッチフレーズで、PageMakerをビジネス文書作成ソフトと位置づけて売り込んでいましたもん。

Adobeは、せめて、PageMakerのOSX版を出してから開発終了するべきでした。PageMaker文書はInDesignで開けるわけですから、先のないegwordとは安心感が違いますわ。動きさえしていたら、わたしはきっと今もPageMakerを使い続けていたと思います。

それにしてもAdobeは罪なことをするもんですよ。PageMakerも、FreeHandも、GoLiveも、Adobeが開発会社を買収したうえで、やがてつぶしちゃったソフトです。

タリス・スコラーズ『ジョスカン/ミサ・シネ・ノミネ, ミサ・アド・フガム』

2009年04月02日 | CD ジョスカン
Josquin
Missa Sine nomine / Missa Ad fugam
The Tallis Scholars
Peter Phillips
CDGIM 039

2007年ごろ録音。68分47秒。Gimell。タリス・スコラーズによるジョスカン第3弾。これまでに出た2枚からだいぶ間をおいて出たものですが、タリス・スコラーズも円熟してきましたねえ。テクニックで聴かせない。いやもちろんテクニックは相変らず素晴らしいんですが、それよりもまづ、ちゃんと曲そのものを味わわせてくれます。タリス・スコラーズのCDを買ったの自体、久しぶりだったんですが、わたしの知らない間にタリス・スコラーズの演奏スタイルが変わっちゃってたってことでしょうか。

なにが変わったかというと、ソプラノですね。『パンジェ・リングァ』のころは、ソプラノが耳に突き刺さるように聴こえてきたでしょ。このCDでは、ああいう、圧倒させられるような聴かせかたはしません。ごく自然に、ジョスカンのミサ曲の濃密な旨みを味わうことができます。そして聴き終わった後に、「ああタリス・スコラーズ、良くなったなあ」という共感というか満足感というか、そういうものがひたひたと胸迫ってくる。

メンバー表を写しておきます。
Missa Sine nomine
Superius: Sally Dunkley, Caroline Trevor
Tenor: Steven Harrold, Tom Raskin
Altus: Philip Cave, James Gilchrist
Bassus: Donald Greig, Francis Steele
Missa Ad fugam
Superius: Sally Dunkley, Tessa Bonner
Altus: Caroline Trevor, Steven Harrold
Tenor: Philip Cave, Tom Raskin
Bassus: Donald Greig, Francis Steele

写し間違いぢゃないんですよ。シネ・ノミネは上からS-T-A-B、アド・フガムは上からS-A-T-Bという表記になってます。そしてシネ・ノミネでは、ふだんはカウンターテナーといっしょにアルトの声部を歌うキャロライン・トレバーが最上声部に入っています。そのため特にこの前半のミサは中低声でじっくり聴ける感じです。

このCDが出ると同時に、タリス・スコラーズがジョスカンのミサ曲全集をリリースする計画があるとHMVなんかにアナウンスが出たんですが、さてほんとに実現するんでしょうか。2009年3月末現在で、まだCD4枚、ミサ8曲分しか出てないんですけどね…。Tessa Bonnerが亡くなったのはつくづく残念ですが、今後、できるだけピッチを上げて全集完結へむけてがんばってください。

『妖精の女王』とパートリッジ

2009年04月01日 | 音楽について
久しぶりにハリー・クリストファーズの指揮した『妖精の女王』を聴いてすっかり感心しているところです。わたしはこの曲はこの演奏とガーディナーのとアーノンクールのを持ってるんですが、このザ・シクスティーンのがいちばん安心して聴けます。

このクリストファーズ盤にはエインズリーとパートリッジ、テナーのソリストがふたり使われているんですが、パートリッジが歌うのはAct4だけで、あとはぜんぶエインズリーが担当しています。そのAct4もエインズリーとパートリッジがいっしょに歌う曲はないので、つまるところ、全曲エインズリーがひとりで歌ってもよかったんですよ。もしかしたら、Act4を録音していたときにエインズリーが歌えない事情ができて、それでイアン・パートリッジが呼ばれたのかも。というのも、Act4には、一曲、Ct/CtまたはCt/TまたはT/Tで歌う二重唱の曲がありまして、それをこの演奏では合唱団のふたりのテナーに歌わせているんですよ。テナーのソリストをふたり使っておきながら、ここだけ合唱団の人に歌わせているので、ちょっと変だなあと思います。

そのイアン・パートリッジなんですが、この人、1970年にブリテン指揮で録音された『妖精の女王』にも加わっていたそうです。ザ・シクスティーンのは90年代の前半ですから、20年以上前ですわな。そのブリテン盤にはほかにノーマ・バロウズ、ジェームズ・ボウマン、チャールズ・ブレットも参加していたそうですよ。