歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

「餘」か「余」か。

2005年07月13日 | 気になることば
『虞美人草』の「十七」。友人の浅井を連れ出した小野清三が、恩師の娘である井上小夜子とは結婚する気がないということを井上家に言いに行ってくれるよう、浅井に頼むところ。浅井が小野に向って言うせりふ。文庫本と岩波書店の『漱石全集』を並べて書いてみる。

「君は始終こんな上等な煙草を呑んどるのか。よほど余裕があると見えるの。少し貸さんか」(ちくま文庫『夏目漱石全集4』)

「君は始終こんな上等な烟草を呑んどるのか。餘程餘裕があると見えるの。少し借さんか」(岩波書店新書判『漱石全集』第五巻)

「君は始終こんな上等な烟草を呑んどるのか。余程余裕があると見えるの。少し借さんか」(岩波書店最新版『漱石全集』第四巻)

「煙草」「よほど余裕」「貸さんか」に異同。

文庫本が、「烟草」を「煙草」と書き換えたり、「借さんか」を「貸さんか」としたりするのは、本文の改変することへの批判はさておいて、いちおう意図は分かります。現在一般的な用字法に従ったってことでしょ。「餘程餘裕」を「よほど余裕」とされるのはなんかイヤだなあと思いますけど。

しかし岩波の『漱石全集』はもっと問題が深刻だと思う。新書判の「餘程餘裕」が最新版で「余程余裕」になっている。この「餘(余)」に注目するのは、漱石だと当然、一人称の「余」もあるからだ。最新版全集では、「餘」の意味の「余」と、一人称の「余」が、同じ活字に均されてしまうことになる。流布本たる文庫本ならそれも許されるかもしれないが、岩波の『漱石全集』がそれでは困る。

もしかしたらほんとに漱石は原稿に「餘程餘裕」ではなくて「余程余裕」と書いているのかもしれない。最新版の『漱石全集』は自筆原稿を底本にしているのだから。しかしこの最新全集は、同時に、常用漢字に含まれる漢字は常用漢字の字体を用いる方針なのである。けっきょく、漱石が原稿に書いた字体が「餘」だったのか「余」だったのか、最新全集の本文からは分からないのである。