おにぎり2個の里みち歩き 農山漁村の今昔物語

おにぎりを2個持って農村・山村・漁村を歩き、撮り、聞き、調べて紹介。身辺事象もとりあげます。写真・文章等の無断転載禁止

渡良瀬遊水地の「黄茅白葦」に思う

2013年01月11日 00時00分00秒 | 景観

写真1 黄の茅(カヤ)、白の葦(アシ)が茂る渡良瀬遊水地の冬


写真2 黄茅、白葦の遥か彼方に筑波山を望む渡良瀬遊水地の冬


写真3 黄茅、白葦の遥か彼方に男体山など日光連山を望む渡良瀬遊水地の冬


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1.渡良瀬遊水地の冬景色に思う
 田中正造翁が「黄茅白葦満目惨憺の荒野となれり」と記す地(荒畑寒村著『谷中村滅亡史』67頁・岩波書店・2005年)
 現在、渡良瀬遊水地

 冬は、まさに「黄茅白葦」、ヨシとオギの原野、荒野の感あり(写真1~写真3)
 他方、野鳥が集まり、人びとが集まり楽しむ地、ラムサール条約認定地

 この現実を田中翁は想い描いただろうか?
 このように考えることは不遜?

2.悲憤と権力がせめぎ合った渡良瀬遊水地への道
 渡良瀬遊水地を歩くとき
 「満目惨憺の荒野となれり」と田中正造翁が慷慨した原因や経緯を思わずにはおれない
 わが国の明るい将来を見定める道標になる可能性大

 その道標は次のようである(有馬洋太郎著「第4章 日本の産業発展を支えた渡良瀬川 2.足尾銅山の坑水・選鉱用廃水の排出先、渡良瀬川」<『平成22年度 渡良瀬川の農業水利と施設管理に関する変遷資料作成委託事業報告書』41-43頁、財団法人農村開発企画委員会、平成23年3月>)
 1 1900(明治23)年8月23日 渡良瀬川洪水
                足尾鉱毒による田畑被災で社会問題化
 2 1901(明治34)年12月10日 田中正造翁が天皇直訴
 3 1903(明治36)年 内務省は第2次鉱毒調査会の提言により、渡良瀬遊水地造成を含む渡良瀬川改修工事費を見積る。
            鉱毒沈澱地として谷中村に遊水地を計画。
 4 1904(明治37)年 栃木県は渡良瀬川堤防を工事名目で破壊→谷中村に洪水頻発
            栃木県議会は非公開で谷中村買収を決議
            谷中村:人口2,500人・戸数387戸・面積1,000町歩(谷中村遺跡を守る会の算定)
 5 1906(明治39)年5月   栃木県知事は谷中村廃村を告示
 6 1906(明治39)年7月1日 谷中村は廃村となり藤岡村に合併
 7 1907(明治40)年6月29日~7月5日 栃木県は谷中村残留19戸131名に家屋取壊しの強制執行
 8 1911(明治44)年5月 内務省は渡良瀬遊水地に係る約2,700町歩の買収開始
              栃木県は谷中村に係る約1,000町歩の買収開始
 9 1917(大正6)年2月 旧谷中村跡の仮小屋6戸18名が藤岡村に移住し、旧谷中村は無人となる。
 10 1918(大正7)年8月 藤岡台地開削により新渡良瀬川が通水
              渡良瀬川を真っ直ぐ渡良瀬遊水地へ繋ぐ
 11 1922(大正11)年   渡良瀬遊水地完工


 引用・参考文献等:荒畑寒村著『谷中村滅亡史』67頁・岩波書店・2005年
 執筆・撮影者:有馬洋太郎 撮影年月日:2013年01月03日 撮影地:栃木県・渡良瀬遊水地









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