あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

演劇「闇に咲く花」を見て

2012-06-12 09:54:40 | インポート

こまつ座による演劇 井上ひさし作 「闇に咲く花」を見ました。仙台演劇鑑賞会の6月例会の演目でした。重いテーマではありましたが、深刻にならないよう 笑いとユーモアも盛り込んでありました。ギター演奏(ギターの弾き手も出演者)が効果的で、物語に合わせて 怒りや喜びといった心情を表現し、悲しみは レクイエムのように心に響いてきました。

戦後の混乱期の時代の 小さな神社が舞台です。そこで暮らす神主と5人の未亡人が、悪戦苦闘しながらヤミ米の調達をし生計を立てています。そのたくましさに、当時の庶民の生きる強さを感じました。

そんな中、死んだはずの神主の息子が帰還してきて大騒動となります。生きて戻ってきたことをみんなで喜びます。息子は果たせなかったプロ野球選手への夢を叶えます。ところが、そんな喜びもつかの間 息子はGHQによってC級戦犯としてつかまってしまいます。異国の地で裁判を受け、二度と日本に戻ってくることはなかったのです。戦後、敗戦国であるが故に背負わせられた 理不尽な罪 (C級戦犯となった息子)によって 裁かれた人々もたくさんいたのではないでしょうか。 

◆C級戦犯:人道に関する罪~戦前の行為を含む一般住民に対する殺戮、せん滅などの 非人道的行為、または政治的、人種的、宗教的理由による迫害……話の中では、息子が異国の地で行なった野球のゲームでデッドボールを投げ、相手を傷つけてしまったことが、一般住民に対する非人道的行為とされてしまいます。

息子は、つかまる前に 神主である父に、切々と訴えます。

  花は黙って咲いている。人が見ていなくても平気だ。

  人にほめられたからといって奢らない。ましてや人に命令をくだしたりしない。

  神社は 道ばたの 名もない小さな花なんだ。

神社が人の幸せを祈る場所ではなく、死地の場所に人々を送りだすことになったことを 息子は悲しみ、神社本来の姿・役割を 道ばたの花にたとえ、父に訴えます。戦争時代の非を認め、花のような人であり、神社であってほしいことを 強く求めます。

「闇に咲く花」というタイトルの 「闇」は、暗い戦争時代を指していると同時に、人生における闇を表しているのかなと思います。どんな暗い時代であっても、人生の中の辛い時代であっても、花のような存在として生きることの意味や大切さを 作者は伝えたかったのではないかと思いました。

戦争に利用された神道、戦地(死地)に送り出す神社、祈る神主、旗を振って見送った人たち、戦争という海に呑み込まれてしまった過去と向き合いながら、どう生きていくか、こういった重いテーマが 随所にちりばめられていた演劇だったように思います。

演劇を見ながら、小学校国語の教科書にも取り上げられている物語 今西祐行作「一つの花」の 父と娘の別れの場面を思い出しました。

……

おなかをすかせ 「一つだけ、一つだけ。」と言いながら泣きだした 娘のゆみ子を見て、出征する父は 一輪のコスモスの花を あげます。プラットホームのはしっぽの、ごみすて場のような所に、わすれられたようにさいていた、コスモスの花でした。

「ゆみ。一つだけあげよう。一つだけのお花、だいじにするんだよう……。」 

ゆみ子は、お父さんに花をもらうと、きゃっきゃっと、足をばたつかせて喜びました。

お父さんは、それを見て、にっこり笑うと、何も言わずに汽車に乗っていってしまいました。ゆみ子のにぎっている一つの花を見つめながら……

……

花に目を向けることさえ 余裕のない戦争時代。最期の別れに父がおくったものは、一輪のコスモスでした。欲しがる食物ではないのに、娘は体全体で喜んでくれました。娘のにぎる花を見つめながら、父は何を思っていたのでしょうか。物語の最後の場面で、それから10年後のゆみ子が登場します。買い物かごをさげ、スキップをしながら 家のまわりの コスモスのトンネルをくぐって出てきます。父は、そんな娘の成長した姿を 娘のにぎる一つの花の向こうに 夢見ていたのではないでしょうか。

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