平和の歌・核兵器絶滅へと戦った英雄の歌

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核兵器廃絶へ

2022年08月14日 | Weblog

   

        戦争の悲劇

 

    体験者のインタビュー 2007年3月


 壮年 (南方へ戦争へ行く)
 壮年 米がない、ご飯がないんだよ。

 聞き手 御飯ないことは、戦が出来ないですね。腹がへって出来ないですね。

 壮年 ご飯がない。ひどいものだった。

 

インパールでは日本兵、72,000人死傷。26,000が死亡、多数が飢餓、熱病で苦しんだ

参考 インパール作戦は1994年開始された。作戦は、日本兵がほとんど亡くなる。史上最悪の作戦と言われる。インパールは氷山の一角、他の作戦も日本兵が悲劇だった。米国は、近代武器、日本は、話にならない武器であった。日本が負けて、戦略国の奴隷によくならなかった。昔は、他国では、牛、馬より安く、奴隷として売買された。日本は、米国、ロシアに感謝すべきだ。しかし、今度、戦争をして、負けたら、奴隷としてなるだろう。故に、指導者はこの点を考えて、指導すべきである。

  解説  戦争で負けたら、その国の人は奴隷化になり、牛などより安く売買されたことは他国である。故に、日本人が、奴隷はしのびない。故に、戦争はすべきでない。敗戦後、ロシアは北海道を狙っているという。信じがたいが、今、ウクライナ問題で、ロシアは、ミサイルを日本に向けている。EU側の日本だから当然である。もっとも、ロシアは敗戦時、日本半分は占領する力があった。故に、ならなかったのは、米国のおかげ、また、ロシアの心である。故に、日本は両国に感謝は大切だ。この点、忘れている人は少なくない。話は変わるが、現在 映画など戦争はかっこいいと思っている青年もいるが、実際は悲しみの日々ですね。どうして、御飯や物質なものがなくて戦争が出来るだ。当時、日本は何もなかった。銃だってひどいもの。米軍の連発銃はすごかったが日本はぜんぜん駄目だった。物がなかったのだ。命令の違反者はびんた。
 
 南方ではたくさんの日本兵が飢えで亡くなっている。道路には飢えで亡くなった人が多数いたという。
                2007年08月26

 

核問題   戸田平和記念館

横浜 戸田平和記念館  (反戦 平和と生命尊厳の哲学を発信する拠点会館)
1979年オープン
来訪者100万人へ

 戸田城聖が1957年9月、原水爆禁止宣言を発表する。その弟子の池田大作が、恩師の精神を受け継ぎ、核兵器廃絶へと、世界を舞台に反核展示、提言とう行動されてきた。戸田平和記念館は平和への発信の拠点として誕生させた。記念館には、戸田城聖の貴重な草稿及び核兵器の恐さしる資料、パネル等展示されている。現在、来訪者は100万人近くに。

 交通 桜木町(JR)
からバス 石川町駅(JR)徒歩15分他あり

解説 原爆は広島、長崎で多大の人が亡くなった。一発で何十万人も。家、ビルの姿もない。赤ちゃん、年配者、青年も無差別に。その無残さを、創価学会会長の戸田城聖は悲しみ、原水爆禁止誓言をされた。その弟子の池田大作は、師の戸田の精神を受け継ぎ行動した。世界へ、国連へ、原子爆弾廃絶へと行動した。その発信の拠点が戸田平和記念館である。まもなく、100万人になる。会館には原爆の恐ろしさをわかり易く解説されている

                             2010年08月04日 作品