「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

メディアの構造 翻弄される好奇心について

2008年04月18日 00時35分27秒 | 妄想
 「駄文にゅうす」に掲載されて以来、アクセス数が上がったままになってます。それでもコメントは一向に増えていないというお話をしました。

「です」さんは昨日くださったコメントの中で自分の当時のコメントを謙遜しておられました。

 それから、複数のHPとかブログにリンクが貼られているというお話もしました。

 何を言いたいんだ、こいつは!って言われそうなんですが、コメントが付かないのは、僕のブログに限定されたことで、僕の記事を紹介してくださっている他のHPには一口ずつコメントがあるんですね。

 あるページでは、「怖いですね」でした。他のページには「難しいですね」って書いてありました。

 ブロガーとしては、「なんだい!それだけかよ。」って突っ込みを入れたくなりますが、それはちょっと違うなとも思うのです。

 その一口感想っていうのは、僕や「です」さんを引っくるめた一般大衆がニュースを聞いたときの反応と似ているのではないかということなんですね。
 
 ニュースを聞いて反射的に出る「へええ~!」とか「ほおお~!」とか「かわいそうだねえ」とかいうのとほとんど変わらない。

 「です」さんのコメントは、本人は卑下してますが、ブログ上のコミュニケーションマナーという暗黙の了解みたいなものに則っているわけで、「怖いですね」とか「難しいですね」というコメントとは性格を異にしているんだろうなと想像できます。ブログでわざわざ「怖いですね」と一言だけコメントを付ける人もいないだろうなと思うのです。

 で、「ですさん」のコメントは長さからいうと、テレビのニュースに差し挟まれる「街角の声」の長さに近いかなと思うのです。
 しかし「街角の声」として取り上げて貰えるかというと、とても無理だなと思うのです。馬鹿にしてるんじゃなくて、街の声とするにはかなり個性的すぎるという意味です。そう考えると、あの「街の声」って、かなり意図的に拾われた、大衆を代表する無個性な「声」を集めているんだなと気が付きます。現実に街頭インタビューしたら、コメンテーターも解説者も舌を巻くような、「街の声」があったって良いわけだし、キャスターや解説者が、「今のインタビューに出てきた人の意見は僕も考えつかなかった素晴らしい意見ですね。」という展開があったって良さそうなのに、そういうのは絶対にあってはならない作り方なんでしょうね。
 大衆の浅くて、反射的な「街の声」だけを拾い集めて、それを見ている人をやや優越感に浸らせて、少しだけ深く、かといって難しくないレベルで、解説者が掘り下げると、視聴者は「ほら!俺の思っていたとおりだ」という満足感が拡がり、視聴率を稼ぐ事ができる。

 最後が少し嫌らしい表現になっていまいましたが、少し考えたら、そういうことなんだろうなって、思えてきました。でも僕も「ですさん」も街の人ですからね。僕らにマイク向けたら大変なんだから…、て言えるかどうか分からないけれども。

 更にいえば解説者やコメンテーターの言葉じゃ満足できない人たち、それなりに知的好奇心の高い人だとは思いますが、可燃性の高い人は「たけしのTVタックル」とか「朝まで生テレビ」とかを見てくれっていうことになるんでしょうね。

 ニュースっていっても、構造自体が既に、恣意的なものなんだなって事に気づくとかなり怖いものに感じます。


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