「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

父の同級生名簿

2005年03月07日 23時05分04秒 | 日記
 今年6月で73歳になる父親から同級生名簿をPCで打ってくれと頼まれた。昭和7年生まれの父は昭和20年に小学校を卒業した。終戦の年である。父は終戦前、当然のごとく自分も兵隊になると考えていたそうである。それを疑ったこともなかった。戦車に乗ろうと思っていたのだと言う。僕の街の東海道線の駅の北側には大きな鉄工所があり、軍需工場として稼動していた。太平洋上から飛来したB29爆撃機は遠州浜から真っ直ぐ北に北上し、その工場と線路を狙って爆弾を落としたそうである。そしてその帰りに余ったやつを僕の家付近で落としたそうである。すくなくとも父はそう思っている。

 迎撃のための高射砲は全く届かず、牧の原飛行場から飛び立った戦闘機が高高度になるほど動きが悪くなって、いとも簡単に打ち落とされるのを見て嫌な気分になったそうである。
 戦車乗りを希望したのも、その辺りが原因かと思われるが「ブリキ」と米軍からバカにされた装甲の薄い、中戦車シャーマンの弾丸に簡単に打ち抜かれた日本軍の軽戦車の実情を知っていたら高射砲部隊か、後方支援を志望したかもしれないと同じ血を持つ息子は考えるのである。


 グラマン艦上戦闘機も良く飛来したそうである。グラマン独特の甲高い飛行音が聞こえると有無を言わず田んぼの泥の中に飛び込んで行ったそうだ。そうするとピシッピシッという乾いた音が脇を通り過ぎて行ったそうである。

 そういえば父の卒業したのは正確に言うと小学校ではない。国民学校である。そして学校の高等科2年を終え農学校に進学を決めた父だが学制改正で農学校併設の中学校3年に編入。次の年晴れて農業高校に進学したのである。

 小学校の同窓生名簿には45名の名前がある。現在娘が同じ小学校に通っているが同級生は33名。父親の名簿には8名の物故者の名前があるから全員揃えば53名がいたことになる。聞けば皆元気で2月の末に同級会を催したそうで父はその時に名簿作成の役を仰せつかったそうだ。

小学校の通学地域は当時と変わらない。軒数はむしろ倍増している。

少子高齢化の現実を目の当たりにする思いでパソコンに向かった夜である。

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