超人日記・俳句

自作俳句を中心に、自作短歌や読書やクラシックの感想も書いています。

一遍語録を読むツボ

2022-08-30 05:20:49 | 無題
おどり念仏の一遍上人のことばを解説した、「一遍語録を読む」を読んだ。
金井清光、梅原繁樹著、法蔵館文庫 1320円である。
最初にごく簡単な、一遍の略伝が平易なことばで綴ってある。
それから、一遍の名言で、一遍の念仏観をたどる、本編が続く。
南無阿弥陀仏を唱えて踊り歩き、南無阿弥陀仏の札を配り歩いて、阿弥陀の縁を一人でも多くの人と結ばせようとした。
信心のない人にもお札を配るか悩んで熊野のお宮で床に就いた。
すると熊野権現が夢に現れて言った。
①「御房のすすめに寄りて、一切衆生はじめて往生すべきにあらず。信不信をえらばず、浄不浄を嫌わず、その札を配るべし。」そこで一遍は迷いが消えて、札を配って歩いた、とある。
一遍は「捨聖」すてひじりとよばれ、一切法下して念仏に徹する聖として有名だった。
この「捨てる」志は、先人の空也から一遍が学んだものだった。
②「むかし空也上人へある人念仏はいかが申すべきやと問ひたれば、「捨ててこそ」とばかりにて何とも仰せられず。これ誠に金言なり。念仏の行者は知恵も捨て、善悪の境界も捨て、貴賎高下の道理も捨て、地獄をおそるる心も捨て、極楽を願ふ心も捨て、又諸宗の悟りをも捨て、一切のことを捨てて申す念仏こそ、弥陀超世の本願にかなひ候へ。」
一遍はそれを短歌でこう詠んでいる。
③「捨ててこそ見るべかりけれ世の中をすつるも捨てぬならひ有りとは」捨ててこそ見えてくる世の中なのに、捨てても捨てきれぬのが世の習いとは!
④熊野権現のお告げを、「信不信をいはず、有罪無罪を論ぜず、(唱える人と一体となった)南無阿弥陀仏(そのもの)が往生するぞ」と要約し、常日頃から支えとしていたとある。
一遍の晩年の歌は
⑤「主なき弥陀の御名にぞ生まれける となへすてたるあとの一声」
我執のない念仏にこそ生まれる、唱え切ったあとの弥陀の清らかな息吹き。
明恵の自力の研鑽も凄かったが、一遍の他力念仏の境地も奥深い。

信不信有罪無罪を区別せず唱えるたびに弥陀が深まる

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