超人日記・俳句

自作俳句を中心に、自作短歌や読書やクラシックの感想も書いています。

<span itemprop="headline">この音楽と本で耐える</span>

2011-03-26 21:29:32 | 無題

注文したフルトヴェングラー・ザ・レガシーの発売日が大幅に遅れることになった。震災の影響なので止むを得ない。けれども戦後の廃墟のなかで音楽という希望を与えたフルトヴェングラーを今聞きたいという思いは結構切実である。未曾有の大惨事を背景に指揮棒を振り続けたフルトヴェングラー。発売が遅れたのは残念でならない。
いつ停電するか判らない状況なので、ローソン100で単三電池四本式のランタンを買った。単三電池はようやく売り場で散見できるようになったが、単一電池は全く見掛けない。例の水道汚染報道で買い置き用の水も姿を消した。ラーメン、パン、米の不足は解消に向かっている。トランジスタ・ラジオは品切れのままだ。スーパーもようやく品数が増えてきた。
私の母は慢性肺炎で入院している。私が貸してあげたメンブラン社のグスタフ・マーラー交響曲と大地の歌10CDを病院に持って行って、消灯後にポータブルCDプレーヤーでフェリアー独唱のクレンペラー指揮の復活を聞いて眠りに入るという。今、何が欲しいのか尋ねたところ、作曲家の生涯が載った本とモーツァルトのレクイエムが欲しいという。早速昨日、講談社α文庫の「死因を辿る―大作曲家たちの精神病理のカルテ」とソニーのワルター指揮のレクイエムを持って行った。この難局に、しかも病床で、慰めとなるのはやはり音楽なのだ。
私は中断していたハイデガー著「ニーチェ」の読書を再開した。政治的に判断を誤って挫折を経験し、戦時下でハイデガーが苦難に耐えて心血を注いでいたのが、ニーチェの批判的読み解きだった。ニーチェは超感覚的世界を廃絶し、世界を生成する自然だと考えた。ここまではハイデガーも賛成する。そう、存在は生成するものに違いない、とハイデガーは言う。
けれども、ニーチェは真理は価値判断だと言い、真理は真であるとは限らないと言い、真理は人が信を置く幻想の一種だと言った。ニーチェの哲学では真理は人間が決める。真理の人間化。これこそ西洋形而上学の末期であり、ヨーロッパのニヒリズムの行き付く場所である。ハイデガーはニーチェの思考に寄り添い、補足に補足を重ねながら、それは近代の落とし穴であり、存在忘却であり、存在遺棄に他ならないと警鐘を鳴らす。ハイデガーにとって、真理とは、存在の開かれた様態なのだ。
ハイデガーはニーチェを語りながら近代の人間の専制化や技術の暴走の危機と格闘していた。後発者の後出しのような不公平感がこのニーチェ観にはあるが、非常時の必死の格闘としては胸に迫るものがある。音楽と読書を糧にこの難局に耐えたいと願う日々である。
難局にたたずんで聞く鎮魂歌 音楽と本が胸を支える



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<span itemprop="headline">余震のなかで聞く音楽</span>

2011-03-13 23:34:58 | 無題

地震時は仮眠していたので無事だった。本の山とCDが散乱していた。強く大きな地震の揺れが長く続いた。津波の映像が脳裏に焼きついた。都内の電車は止まっている。テレビで見る地震の現状ひどい。やがて原発が破損しているという情報が流れる。コスモ石油のタンクは炎上。大惨事である。
昨日は中古CD店もさすがに休み。今日の朝ブリリアントのブラームスの40CD、同ドヴォルザークの40CD、セルのオリジナル・ジャケット・コレクション、インバルのショスタコーヴィチ全集、ケンプの国内盤ベートヴェンのピアノ・ソナタ全集をお店に買い取って貰った。
その代金でフルトヴェングラー・ザ・レガシーとジンマンのマーラーを買うことにする。
スーパーに行くと米がない、パンがない、ラーメンがない、玉子がない、究極の品薄状態。オイルショックを思わせる物資不足のスーパーでとりあえずスパゲティと蕎麦、うどん、チーズ、クラッカーを籠に入れる。
こういう時に聞いてしまうのがミヒャエル・ギーレンのベートーヴェンと、ローマン・コフマンのショスタコーヴィチ。これとフルトヴェングラー・ザ・レガシーとジンマンのマーラーで全部である。
インバルは売ったがローマン・コフマンは手離せない。フルトヴェングラーも国難を背負っている。
夜六時に隣町のタイ料理屋さんで友人と近況を語る。友人は地震当日の2時46分に地下鉄の九段下にいた、死ぬかもしれない恐怖を感じたと報告した。
こんな時にスーパーに人が殺到するのは人間心理としてやむを得ない、物流は混乱している、CDの配送何か後回しだ、スーパーは東北に優先的に供出している、新幹線も当分復旧しない、明日の仕事は臨時休業か判らないなどと話す。
東京電力が順次停電をするという。昼時と夕方から夜に掛けて明日は停電だという。今後のことは判らない。仕事は日中に済ませるしかない。明日予定していた同窓会も地震の影響で中止。
けれどもno music, no life、こんな時だからこそ早くフルトヴェングラー・ザ・レガシーを繰り返し聞いて困難に耐えたい。被害は甚大、原発は危機的である。風評に惑わされず、チーズとクラッカーをかじって、冷静に対応したい。こんな時にCDの話ばかりで申し訳ないが、ハイティンク指揮の大地の歌を聞いて、遠くの友、近くの友に祈りを捧げたい。living life in peaceな日々が早く復旧しますようにと願うばかりである。
襲い来る余震にふるえ眠る友 笑顔に帰るその時を待つ



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<span itemprop="headline">アルマ・マーラーの歌曲集</span>

2011-03-05 13:36:15 | 無題

かなり古いショスタコーヴィチ全集とイタリア盤のベートーヴェン全集を売って、ベームのモーツァルトのレクイエムのDVDを買った。
それからラベットラ・ペルトゥッティ新宿本店というイタリア料理の店で大学の後期課程の同窓会。
皆、それぞれ覚えていることが違って面白い。ある女性は私と高田馬場のactミニシアターでアンジェイ・ワイダの映画を見たといい、ある人は私がジム・ジャームッシュのストレンジャー・ザン・パラダイスにはまっていたという。私がデ・ワールトのマーラーのCDを捜してあげた友人は、デ・ワールトは見た目より派手に盛り上がって良い、テンポを変えたり、シンバルを爆音で鳴らしたり色々なことをやっていて面白い、と言う。女性の一人は、グスタフ・マーラーと、アルマ・マーラーの曲を聞き比べたいと言う。
帰ってインターネットで調べたら、auditeからアルマとグスタフ歌曲集というのが出ていた。そのCDとメンブラン社の寄せ集めのマーラー音源を注文して来るのを待っている。
バスで隣町へ行くときに、CDウォークマンを使うのだが、今持っているイヤホンの左の音が出なくなったので、電器店でオーディオ・テクニカのイヤホンを買ったが、すごく良い音だ。
前に同じ店でオーディオ・テクニカのヘッドホンを買った時も満足した。オーディオ・テクニカすごい。
昨日は病院に父の見舞いに行く。父は痩せこけていて、自分の目を開くのがやっと。目は虚ろで声が聞こえているのかさえ判らない。帰ってモーツァルトのレクイエムのDVDを見て、金子みすずの童謡を読む。
今朝は友人も持っているマーラーを聞いて、珈琲を飲んで、宅配でアルマとグスタフ歌曲集が来るのを待っている。それとハイティンク指揮の大地の歌を同窓生に貸してあげるつもりである。
と、書いていたら宅配でauditeのアルマとグスタフ歌曲集が来た。さっそく開封。
アルマ8曲、グスタフ8曲が順番に収録されている。歌は清楚なザビーネ・リッターブッシュ。
アルマのロマンティックな夢や憂愁が万華鏡のように流れる。ツェムリンスキーの影響で、半音階や転調が多いという。グスタフの曲はお馴染みのもの。そのまま交響曲の一節になりそうだ。
二人の愛の時間が時を越えて運ばれてくる。
珍しいものを聞いた。時空を越える小さな旅である。

二色の浪漫溢れる魂が時空を越えて歌を届ける



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<span itemprop="headline">長い冬と戦慄の音楽</span>

2011-03-01 15:03:13 | 無題

ブリュッヘンのベートーヴェン交響曲全集を取り寄せて聞いた。マッケラスやホグウッドに似ているが、より背景に陰翳を感じさせる奥深い趣きだ。古楽系は学者系が多く避けていたのだが、評判が良いのはうなずける。
どちらかと言えばマッケラスとスコットランド室内管弦楽団のエジンバラ音楽祭ライヴのほうがヴィヴィッドに感じられるし、ホグウッドの方が耳に新鮮に聞こえるということはある。
だが、ハイティンクに通じる押し出しの弱い奥深い感性は確かに聞くに値する。演奏も抑えがちに控えめに素人っぽく弾いているように感じる。また一つ世界が広がった気がする。
でも私がよく聞くのはミヒャエル・ギーレンの演奏である。一見冷血系だが泣かせ所は外さない。yamagishi kenichi 氏のサイトでも「オリジナル派に対抗できるのは、ギーレンの現代音楽的演奏しかない」と言っていた。
ショスタコーヴィチでは最近手に入れたローマン・コフマンが素晴らしい。
演奏も堂々としたドイツ式で、録音も最高である。ギリギリとショスタコ節で攻められると戦慄が走る。なかなか良い演奏である。
私はショスタコーヴィチとマーラーの全集が出るとじっとしていられない性格である。
最近、ローマン・コフマンのショスタコーヴィチと並行して聞いているのが、スヴェトラーノフのマーラー交響曲全集である。スヴェトラーノフのマーラーも耳をギリギリと攻め立ててくる、緊迫系演奏で、何度も聞いていると癖になる。
戦車の行進を思わせるマーラーで、非常に現代的な響きがする。
ローマン・コフマンのショスタコーヴィチにやられ、エフゲニ・スヴェトラーノフのマーラーに打たれ、
寒い孤独な冬をしのいでいる。
ブリュッヘンは若い時から白髪で枯れていて、年取って見える。その学究肌から生まれたオリジナル派の演奏は一時代前のものとも言われるが、その擦れていない演奏が私たちの心を打つ。最近グールドのゴルトベルク変奏曲を聞いたが静かな空気に浸ることができた。私はヴィルヘルム・ケンプの演奏を好むがグールドも一世を風靡しただけのことはある。ケンプのステレオ盤ベートーヴェンのピアノソナタは感涙ものである。ブリュッヘン、マッケラス、ギーレン、コフマン、スヴェトラーノフ、グールド、ケンプ、どれも捨てがたい、孤独な日々の友である。
奥深い影を感じる音楽が 冬を凌いで春待てと言う



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