超人日記・俳句

自作俳句を中心に、自作短歌や読書やクラシックの感想も書いています。

<span itemprop="headline">梅雨のバースデイ</span>

2009-06-30 20:15:42 | 無題

私は蟹座なので誕生日の頃は梅雨である。
紫陽花が通り道に咲き始めるとそろそろ誕生日だな、と思う。
誕生日の前日には普段と違ったことがしたくなる。花屋で季節の花、たとえば青いデルフィニウムを買って部屋に飾ったりする。
それから必ずと言っていいほど、ベートーヴェンやシューベルトのピアノソナタを聞く。
ベートーヴェンのピアノソナタ30番、31番、32番など心が落ち着く。CDではシュナーベルをよく聴く。私はこの三曲をサントリーホールでヴァレリー・アファナシエフの演奏で聞いたことがある。アファナシエフは指を立てずに、鍵盤に平たく指を伸ばして、度外れにゆっくりと弾く。アファナシエフのCDでは「ブラームス後期ピアノ作品集」が瞑想的でよい。
今年の誕生日はアンドラーシュ・シフのシューベルトのピアノソナタ集を取り寄せて聞いた。
シフは顔が貴公子然としてついていけないが、演奏は目映い。
シューベルトのピアノソナタでは、ヴィルヘルム・ケンプが定番で、朴訥とした味わいは格別だ。
その他、ミヒャエル・エンドレスも骨太で優しい。
誕生日の前日に、そんなピアノソナタを聞きながら、買ってきた青い花を見る。
それが私の誕生日の定番である。
「届かない思いを胸に抱くひとの野生のソナタ一人一人の」
「終わらない歌を頼りに暮らしゆくシューベルト弾きここにあそこに」
などの短歌はそんな経験から生まれた。ジョージ・ハリスンは「パイシズ・フィッシュ」という自分の魚座の人生を振り返る歌を遺作「ブレインウォッシュド」に収録している。
そこで「静かなる魚座の人の遺言が60億の闇を照らして」という短歌を書いた。星座の占いは当たらないが、人々の想いを乗せる受け皿になっている。



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<span itemprop="headline">父と歌曲と忘れ物</span>

2009-06-30 14:14:18 | 無題

父は病で会話ができなくなってしまったが、最後に交わした会話は知り合いの心理学の先生についてだった。
父が倒れる前、電話で何気なく話したのだが、その心理学の先生は日本映画マニアで、子どもの頃から見た映画を細部まで記憶している、という驚異的な人物だった。
私はあの先生はまだ映画の本を書いていないが、話し出すと止まらないので、インタビューの上手い編集者にインタビューしてもらったら、相当な量と質の本ができるんじゃないかな、と父に話した。父はそうだな、考えてみるといいかも知れないな、と普通に受け答えしていた。
それから二、三日して父が倒れて「遠い人」になってしまった。
それでも初期の頃は「桜が見たい」「アビアント」など断片的な言葉を発していた。頭の回線が繋がるときがたまにあり、メモ書きに「街の景観の再考」とか「友との邂逅」など、往年の父を思わせる難しいアイディアがひょっこりと飛び出してくることもあった。けれども最近では誰が誰だかさえわかっていない様子だ。
入院して間もない頃は判っているのかいないのか知らないが、プロコフィエフの「三つのオレンジの恋」のDVDを黙って見ていたと言う。最近では聞かせて貰っているバッハの無伴奏フルート曲や小沢昭一の歌う昭和の流行歌やプーランクの歌曲を穏やかな顔で聞いている。
食事も摂れない今、ポータブルCDから流れてくる響きに耳を傾けるのが数少ない楽しみである。
全てにおいて自信家であった父と、教室の隅で短歌を書いているような性質の私とは様々な葛藤があり、最近の多くの高校生のように「尊敬している人は父です」などと簡単には言えない関係だった。
けれども桜が満開の時に母と車椅子を押して、病院の近くの脇道の、駐車場の前の大きな桜まで連れて行くと、普段は意志が通じない父が笑顔で見上げていたのが、せめてもの救いである。
ブリティッシュ・ポップの大御所XTCのアルバムに「オレンジズ&レモンズ」というのがあり、その中の曲「ホールド・ミー・マイ・ダディ」の歌詞を思い出してしまう。「お父さん、しっかりして、僕はこれまでこんなに洪水みたいに泣いたことはなかった、お父さん、しっかりして、僕Ilove youというのを忘れていたよ。」私も父に愛情を伝える機会を逸してしまったようだ。



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<span itemprop="headline">ミナック・シアター、稀有な絶壁</span>

2009-06-22 18:04:54 | 無題

今までいくつもの劇場に足を運んだが、最高の絶景だったのは、イギリスのペンザンスの近くのランズエンド付近にある、ミナック・シアターという劇場である。
この劇場は断崖絶壁に作られた野外劇場で、後ろに海が見え、波の音が聞こえるという奇跡のロケーションである。
後ろにはポースカーノ湾が広がっている。
この劇場はロエナ・ケイドという婦人が、60年掛けてほとんど一人で石を運んで作ったという稀有な劇場で、ロエナ・ケイドさんのこの孤高の振る舞いは、トーベ・ヤンソンの登場人物みたいである。
私はここで「ジャバウォッキーに気をつけろ」という児童劇を見た。
見に行くと大勢の子どもと引率の先生だけで、ふつうの大人はほとんどいない。
何やら大きな芋虫のお化けみたいなのが登場して大暴れする、これと言って筋もない話なのだが、子どもたちには大受けで、みんな、キャーキャー言って手を叩いたり、足を鳴らしたりして喜んでいる。
何か子どもの五感を刺激するツボがこのタイプの児童劇にはあるらしい。
イギリスの子どもの幸せな歓声に包まれて、場違いな感じではあったが、こちらまで楽しくなってしまった。
そのあとポースカーノ湾に降りて行って、ビーチコーミングをしたりして過ごした。
今思えば夢のような光景である。一人の女性が手作りで仕上げた断崖絶壁の劇場など、ほとんど他に例がないだろう。地元の人にも大切にされ、子どもにまで親しまれている隠れた名所である。
今でもあれは夢ではなかったか、と思われるほど、幻想的な風景だった。
変わったところで劇を見てみたい、という人には是非お勧めしたい。
今まで長い間忘れていたのだが、今日思い出して無性に懐かしくなってしまった。ヨーロッパにはマザーグースをもとにした子ども向けの荒っぽい道化芝居「パンチとジュディー」のような、ナンセンスな子どものツボを刺激する娯楽の伝統があり、少しうらやましいぐらいの楽しい空間が時折広がるようだ。



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<span itemprop="headline">ネヴァー・ノウズな日々</span>

2009-06-10 00:13:35 | 無題

「トゥモロウ・ネヴァー・ノウズ」はビートルズの中でとりわけ好きな曲だ。ジョン・レノンがティモシー・リアリーの「サイケデリック版チベット死者の書」の文章を引用して詞を書いている、最も飛んだ曲である。イギリスのことわざ「トゥモロウ・ネヴァー・カムズ」をリンゴが言い間違えてしゃべったのを、これはいけてる、とジョンが題名に頂いた。曲は単純なようだが、ブライアン・ジョーンズやポール・ボウルズの影響か、モロッコのジュジュカ音楽を意識していると予想される。ヒュンヒュンヒュンと鳴る効果音はチベット僧が大勢で歌っているように、というジョンの注文で、ジョージ・マーティンに作ってもらったテープのルーピングの音である。
この歌は、一言で言えば狂っている。狂うという字は王型の呪具を足で踏んでいる象形文字で、そのことで呪具の力を貰い神がかりになるということだと白川静氏の「回思九十年」の対談の部分で述べられていた。私はこのビートルズでいちばん狂った曲が好きで、いつかこの題で何か書きたいと思っている。
今日友人に会って思い出したが、私は若い頃この曲を録音している。
と言ってもスタジオ録音とか、そういう高級な録音ではなく、貰ったラジカセに、激安の殿堂で買ったキーボードを伴奏で弾いて、リズムボックスに合わせて歌っている。伴奏と言っても私はキーボードが弾けないので、不協和音の即興演奏である。このめちゃくちゃな感じがこの曲には合っている、という直感の産物なのだが、この録音が非常に私の過去で印象的だったとその友人は言う。あれこそ無心ではないか、と言ってくれた。この友人は私が迷っていると、そういう小さなエピソードを例に出して私を原点に戻す。
この迷録音の件もあって、この曲は私の心に深く根を降ろしている。私がいちばん迷走していた時期に、私の頭で常に鳴っていた音楽である。その頃のスピリットは私のなかで今も生きていて、ふとした時に顔をのぞかせる。ティモシー・リアリー、ジョン・C・リリー、ポール・ボウルズなどの話題を目にすると、私の迷走期の記憶が鮮烈によみがえってくる。そう言えば、ティモシー・リアリーは「フラッシュ・バックス」という回想録を書いている。この曲は私の脳にある記憶を再燃させる、フラッシュバックの導線の働きをしているようだ。



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<span itemprop="headline">シベリウス、幸福な原風景</span>

2009-06-04 20:12:28 | 無題

シベリウスの作品の特徴は何だろう、と考えてみると、密やかで情熱的な、鬱蒼とした空気だと思い当たる。シベリウスは実際、情熱的な人物だった。けれども同時にバイオリニストに成ろうとしても人前で上がってしまう、気の弱い所が多分にあった。彼が当初望んでいたバイオリニストではなく、作曲家の天分を持つと見抜いたのは、同じく音楽好きな、叔母のエヴェリーナだった。ヤンネの愛称で呼ばれた少年ジャン・シベリウスはロヴィーサの海で小舟に乗り、海鳥と対話しながら尽きることなくバイオリンの即興演奏を楽しんでいた。この幸福な原風景がシベリウスを生涯支えることとなる。シベリウスはスウェーデン語を日常的に話し、フィンランド語はどちらかというと不得手だった。後にフィンランド人の母国愛を代表する作曲家シベリウスだが、フィンランドは長い間スウェーデン領であった過去があり、その後はロシアの属国だった。当時、育ちのいい家ではスウェーデン語を話し、大人になってから母国愛でフィンランド語を改めて学ぶのである。
 そういう複雑な政治環境にあるフィンランド人の心の支えは英雄叙事詩「カレワラ」だった。「カレワラ」は民族学的にも興味の尽きない民話の宝庫であり、古代北欧のルーン文字で綴られたフィンランド人の心の故郷であった。ヘルシンキ大学を中退しヘルシンキ音楽院で学んだシベリウスはベルリンに留学し、「カレワラ」に出てくる悲劇の英雄クッレルヴォが自ら知らずに妹と近親相姦を犯し、死を決意して一族の敵ウンタモを殺害して自害する神話をもとに「クッレルヴォ交響曲」を作曲し、これが彼を有名にした。この作品や交響詩「フィンランディア」がフィンランド人の母国愛を代表する作曲家シベリウスの名を不動にした。
 美しい女性アイノと結婚し子どもにも恵まれたシベリウスだが、浪費癖とアルコールが作曲に欠かせなかった。酒と煙草の力を借りて、心血を注いで作曲に専念した。彼は平たく言えば躁鬱であり、第七交響曲を書いてから没するまで約三十年間、スランプに悩みながらフィンランドの顔として、アイノラ荘で社交に努めた。彼の交響曲の母国愛的な傾向は第二番で頂点に達し、次第に内省的な作風へ移行した。フィンランドは長い冬の暗い気候もあって、自殺率が高いと言う。内省的な作風は長く暗い冬の国にふさわしい。だが暗い冬を抜けた爽快な夏に、小舟で即興演奏を続ける少年シベリウスの幸福な横顔が、彼の作品に通奏低音として響いている。(ひのまどか他参照。)



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