超人日記・俳句

自作俳句を中心に、自作短歌や読書やクラシックの感想も書いています。

<span itemprop="headline">ロードムービーとしての仏陀の生涯</span>

2009-07-26 00:15:31 | 無題

「ブッダの悟り33の物語(菅沼晃著)」を読んだ。
すでに知っている話も多いが、驚くのは紹介する場面場面の生々しさ、リアルさである。
仏陀は弟子に不浄観と言って、肉体が腐っていくようすなどを、繰り返しイメージして、肉体の虚しさを身につけるよう説いた。この荒療治が効きすぎた。
不浄観に明け暮れた弟子の一部は生きているのに嫌気が差して自殺したり、人に自分を殺してくれと頼んで死んだりした。そこで仏陀は、自殺してはならない、人を殺してはならないといさめた、とある。
また六群比丘と呼ばれる六人の悪党修行者たちは、他人の妻を横取りしようとして、病弱な夫に死を賛美し、死の甘美さを説いて夫に悪い食べ物を食べさせ、死へ追い詰めた。そこで仏陀は、「死を賛美してはならない、死を甘美だと説いてはならない、」といさめた。
この本は仏教の戒律ができていく過程を中心に初期経典を引いて書いているので、どうしても実例が具体的になり、思わず逃げ出したくなるような状況が数多く出てくる。
それでも、釈迦が「生老病死が誰にでも降りかかってくること」に悩んで出家した、とか、二人の行者に無一物の境地(無所有処の禅定)と無念無想の境地(非想・非非想の禅定)を教わっても満足せず、苦行生活に入り、苦行では道が開けないと気付いてスジャータの供えたミルクがゆを食べ、菩提樹の下で禅定して悟ったという基本線はきちんと描かれている。
仏陀の至った境地は、ベックの「仏教」に載っている、「ラリタ・ヴィスタラ」という私の好きな仏伝では、こう語られる。
生老病死の生まれるもとは迷い(無明)である。この世は無常で意のままにならないことを知り、感覚的なものへの執着を絶ち、迷いのもとを絶てば苦しみも滅する。生存の構成力の本性は無常である。このことを念頭に置いて正しく暮らすべきだ。
「無常迅速、生死事大」という遺言で入滅した仏陀であるが「人生は素晴らしく、この世は美しい」とも遺言したという。自分のわかったことを伝え続けた仏陀の旅は、あたかもロードムービーのようで、胸に迫るものがある。



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<span itemprop="headline">「聖ベルナルド」を読む</span>

2009-07-05 21:36:28 | 無題

 アルバ文庫の池田敏雄の「聖ベルナルド」は愛読書のひとつだ。
 神と対話した神秘家で、聖母や幼な子イエスの慎ましさから学び、ひとの心を動かす蜜のようなことばで話し、神が人間への愛のために十字架で苦しんだことを思う、この聖人に心ひかれる。「神に近づくには、野や岩場のような場所がふさわしい」と手紙で語っているところから見て、自然を通して神の御心を体得するすべを知っていたのだろう。そして聖霊に満たされたように、それをことばにすることができる人物だったようだ。そのような知のかたち、そんなふうに、尽きることなくかけがえのないことばが湧いてくる境地に、あこがれてしまう。
 とはいえ、神のために戦争をすることは罪にならないと説いて、十字軍に参加することを勧める演説をして人々を熱狂させたこと、そして十字軍の失敗で人々に非難された事件は、立ち止まってよく考えなくてはいけないが、それでも聖ベルナルドの達した心の深みを、自分も垣間見てみたい気持ちがする。
 私見となるが、ベルナルドのようにイエスをひとりの神秘家として、みつめなおすことができないかと思っている。そういう眼で見ると、新約聖書もふたたび野性味を帯びてきて、おもしろくなってくる。
 主知主義だったアベラールに対して、身も心も尽くして全人格的に信仰に生きることを第一に考えた聖ベルナルドは、痛烈に批判した。これは、「現世に生きたまま自力で悟りを開くことはできない、末世の人間にできるのは阿弥陀にすがって極楽往生するだけだ」と説いた法然を徹底して攻撃した、明恵の態度に通じるものがある。もちろん法然は主知主義ではないが、この世で、生身の人間が、聖なるものを体現して生きる可能性を疑う者に対して、明恵と聖ベルナルドという二人の神秘家は、戦わなければならなかった。
 教義に疑問を持ち、自分の頭で考えることが必要だと主張したアベラールは、見方によっては進歩的で、宗教家というよりは哲学者に近い。けれども、ヴィトゲンシュタインが言うように、語りえないものには沈黙しなくてはならない。あるいは、こう言ったほうが良いかもしれない。語りえないものには、違ったことばで語らなくてはならない。
 たとえば聖画の意味を記号論で読みとくのも、知的な意味ではおもしろいけれど、それとは違った知恵のかたちが、宗教的な人間には見えている。信仰に生きるひとは慎み深いので、それを敢えてことばにすることにためらいを覚える。けれども、イエスその人や聖ベルナルドのような、聖霊に満たされたことばの話し手は、心ある人なら誰にでもわかるように、語りえないものを言語化することができる。歴史のなかでは、ごくたまに、そういう類い稀な才能がひょっこりとすがたを現すことがある。イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたとき、聖霊が鳩になってお祝いに来たのもうなずける。
 クリスチャン系の幼稚園に通っていた私は、クリスマスを再現するお芝居で、イエスでもなくヨゼフでもなく、ただイエスの誕生を影ながら祝う、無名の牧人の役をするだけだった。そのとき私は、ちょっと傷ついたものだ。せめて、メシアの到来にいち早く気づいた、東方の三博士の役ぐらいさせてもらいたかった。無名の牧人が私の定めだとしても、聖なるひとを陥れたり、売り飛ばしたりする役回りよりは、いくらかましだろう。生涯をかけて、聖なるひとを見つめる、ささやかな人物。それでもよしとしよう。
あなたの富を天国に築きなさい、とイエスは言った。そんなことばが救いとなっている。



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<span itemprop="headline">文字の呪能</span>

2009-07-01 22:18:24 | 無題

漢字学者、白川静氏のお陰で、漢字の原初的な本来の意味がかなり明らかになった。
白川氏は漢字は多かれ少なかれ象形文字かその組み合わせだと言う。
白川氏は殷の時代の、紀元前1400年代の甲骨文字を徹底的に読み解くことで、漢字の形の元の意味を浮かび上がらせた。
白川氏の研究は台湾では有名だが、中国本土ではその道の権威と称する人が多すぎて、認知度が低いと言う。白川氏の最大の功績と言われているのは、言うなどの漢字についている口の字の原義を明らかにしたことだ。口の字はくちの象形文字ではなく、正確にはUに横棒をつけたsaiと呼ばれる字である。
このsaiは祝詞を入れる器の象形文字だと言うことを白川氏は発見した。
例えば、言うという字は、もとは辛の下にsaiを書いた字である。
辛とは入れ墨を入れる針の象形文字で、この辛(はり)を祝詞を入れる器saiとともに置くことで、神への誓いを立て、誓いを破ったら体に入れ墨を入れても構わない、という意味で用いたという。
甲骨文字は占いに用いたのが始まりで、その一文字一文字には呪能があると信じられた。
白川静氏のおもしろいのは、文化の呪術的起源をひも解いて行ったところだ。
有名な話だが、道という字に首があるのは、知らない地を旅する時に異民族の首を手に持って魔除けとして持って歩いたからだという。
文という字は人が大の字で死んでいるようすを表した字で、文の字の空欄の胸の部分に×の字やVの字を書いたのもあって、死体の胸に×の字を書いてお祓いをしたり、蘇りを祈念したのが始まりだという。この意味を留めているのが文身ということばだという。胸という字や凶という字に×がついているのも、死体の胸に×印をつけた名残りである。
また、眉という字はめとまゆのうえに飾りの線を描いた象形文字で、殷の時代には媚女と言われる呪力の強い巫女の集団がいて、国政や戦争を左右するとされた。夢という字は夜(夕)眠っている時に眉を飾った媚女が夢魔として現われているようすだという。白川静氏の著書には皆こういう刺激的な話が満載で、文字の呪能が伝わってくる。(「文字逍遥」ほか参照。)



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