ギュンター・ヴァントのケルン放送響とのブルックナー全集、ブダペスト四重奏団のベートーヴェン四重奏集、ジェームズ・レヴァインのマーラー選集と立て続けに聞く。ヴァントは重厚で凄絶、ブダペストは温厚なステレオ盤、レヴァインは清冽な爽やかな名演揃いである。特に私はインバルを除いてマーラーのクック補筆完成版の10番を聞いたことがなかったので新鮮である。
どれも一時は一万円前後で売っていたものが、今では二千数百円。時代の価格破壊の流れとは恐ろしいものだ。レヴァインの選集は復活と千人の交響曲が入っていないのが残念なところだ。レヴァインの選集は三番がフィラデルフィア管と表記されているが正しくはシカゴ響である。そういうこともあって発売が一時延期されたのであろう。
ベートーヴェンの四重奏集は私はズスケ四重奏団の演奏が一番気に入っているが、古い所ではバリリ四重奏団やウィーン・コンツェルトハウス四重奏団のウィーン訛りのある演奏も捨てがたく思っている。ブダペスト四重奏団の全集はステレオ盤は高くて買えず、モノラル盤をユナイテッド・アーカイヴス社の廉価盤で持っている。モノラル盤はイヤホンで聞くと粗さが目立つが、スピーカーでなら充分鑑賞に値する音質だった。高かったステレオ盤が今回輸入盤で格安で発売されたので気に入って聞いている。
レヴァインの選集はアメリカ的明朗さで異彩を放っている。バーンスタインのアメリカ流とは全く流儀が異なっている。バーンスタインはマーラーの喜怒哀楽を余すところなく表現しているが、レヴァインの選集は飽くまで清澄である。
ヴァントもブダペストもレヴァインもソニーの同じシリーズでどれも過去の定評ある演奏を破格の値段で、しかも初回限定生産なのですぐに売り切れることを歌って市場に躍り出た。国内盤は、FM東京の付加価値の高いカラヤンのベートーヴェン交響曲の全曲ライヴなどを比較的割高で売り出す商戦に出ているが、輸入盤は高値で手が出なかった定番を8枚組9枚組10枚組で激安で提供している。この戦術には中古屋さんも勝てないほど魅力的なラインナップで攻めてくる。一枚当たり250円で売り出されては、国内盤も中古屋さんも裸足で逃げ出す勢いである。ソニーはデザインも統一感があってきれいな写真をうまく活用しているので思わず手が出てしまう。というわけでヴァントのブルックナーに戦慄し、ブダペストのベートーヴェンに癒され、レヴァインのマーラーに心洗われる日々である。
ハイデガーの「ニーチェ」の芸術論の部分を読み終わる。存在者全体の真義である力への意志は、芸術家の創造という形で如実に代表される。芸術とは鎮静剤ではなく刺激剤であり、感覚的な美のなかの陶酔であるだけでなく、自分の今を越え出る力の充溢感である。
ニーチェ哲学はプラトニズムの逆転であり、ニーチェの芸術論もプラトニズムの逆転、超克である。ではプラトン自体はどのような芸術観を持っていたのか。それがハイデガーによって、国家篇とパイドロス篇を読むことで示される。国家篇で語られる芸術論はこのようなものだ。
まず寝椅子なら寝椅子のイデアがあり、イデアを真似て有用なものを職人すなわちデミウルゴスは作り、その個々の制作物の一面を曇った形で写し取るのがミメーシス(模倣)という画家の仕事である。
神の作ったと思われるイデアがあり、イデアを真似た個物があり、個物を曇った形で模倣する芸術がある。というわけで芸術はイデアから遠く離れ、序列が下なのである。ニーチェにとっては許せない所である。続けてハイデガーはプラトンのパイドロス篇をこう解釈する。
人間は生まれる前に存在を見ていたのであり、存在の本質を覚えているから物事を理解できる。けれども普通ひとはそのことを忘れている。美こそが存在忘却から人を目覚めさせ、存在へ目を向けさせる。美しいものは感性的であるが、超感性的なものへ道を開いているのだとハイデガーは説明する。かなりプラトンを自分の存在説へ引き寄せた読みである。さてプラトニズムを逆転させるとはどういうことか。
超感性的世界の廃絶。それとともに仮象と呼ばれる世界もそう呼ばれる必要がなくなる。超感性的世界の廃絶の後に残るのは何か。それはリアルなもの、存在的なもの、すなわちパースペクティヴ的にその都度開けてくるこの世界である。ニーチェの意図したことは何か。学問すなわちハイデガー的には真理への関与を芸術家のパースペクティヴのもとで見ること。そして芸術を「存在は生成する」というパースペクティヴのもとで見ること。芸術といわれている創造は、存在の深みへ及ぶ根源性に照らして評価される必要があるとハイデガーは言う。
結論的に言えば、存在とは力への意志であるというニーチェのことばは、存在は展開した各自の領域で生成すると言い換えが効く。芸術的創造とは、真理への関与の度合いで、存在の根源にどれだけ食い込んでいるかで価値が決まる。力への意志を体現する芸術家とは、ハイデガーのような存在の根源へ食い込む思索者や詩人である。ここに至ってハイデガーはニーチェの理論に自分の居場所をみつけるのである。
ギュンター・ヴァント指揮のケルン放送響演奏、ブルックナー全集を聞いている。入手しやすいボックスセットになって慶賀の至りである。ヴァントのブルックナーはベルリンフィルが一番だという宇野功芳氏のような人、北ドイツ放送響が一番だという許光俊氏のような人もいるが、私はこのケルン放送響のブルックナー全集に愛着がある。広大な空間で遠大な演奏が繰り広げられていて、脱帽である。
私は北ドイツ放送響とのDVDも持っていて、それもヴァントの厳しく優しい素顔がうかがえて素晴らしいのであるが、ケルン放送響のはスタジオ録音で、しかも全集である。完璧を求めたヴァントの本領が発揮されていることは疑いない。スケール感ではベルリンフィルに敵わないとよく言われるが、テンポは晩年より若干速いものの、ブルックナーらしい雄大さは充分堪能できる。
私はかつて音作りで完璧なブルックナー全集は何かとクラシック歴の長い友人に聞かれて、リッカルド・シャイーのブルックナー全集ではないかと答えたものだ。彼はヨッフムとスクロヴァチェフスキとアイヒホルンの全集を聞いて、どれも音作りに満足できないと言って私に尋ねてきたのである。私は、ベルナルト・ハイティンクもこのギュンター・ヴァントも捨てがたいと思いつつ、一番録音の懐が深いと思われる、リッカルド・シャイーの全集を一押ししたのだった。
シャイーのブルックナーはなぜか余り評価されないと言うと、オペラが得意な指揮者だからだろう、と友人は言っていた。値段を考えるとシャイーのブルックナー全集は無理にお勧めできないとその時は言ったが、その友人はシャイーを聞いてみただろうか。今、値段のことを考えると、パーテルノストロという手もあるが、やはりケルン放送響のヴァントだろう。教会のオルガン奏者でもあったカトリック教徒のブルックナーの神の臨在を告げるのが彼の交響曲なのである。
ブラームスに交響曲の大蛇と罵られ、ウィーン人にあか抜けない紳士と陰口を叩かれても、ブルックナーは神の臨在の深淵を音に託した。オルガン的な響きが交響曲に転用されていたり、シューベルトの「グレイト」のような繰り返しを多用した長大な作風になっていたり、聞きどころは山ほどあるが、やはりブルックナーは深淵を覗き込んだ者のみが持つ遠大な楽想が魅力である。
シャイーと合わせて今やはり音作りの入念さで万人に勧めたいのが、この廉価盤のギュンター・ヴァントとケルン放送響のブルックナー交響曲全集である。
今朝はインゲンとおにぎりを食べて、京王多摩川河川敷のフリーマーケット、もみじ市に行く。
皆普段着だがどことなくおしゃれをしている。もみじ市は造形作家、音楽家、絵本作家、料理店主、カフェなどが店を出す大人の文化祭で方々から大勢集まってくる。出店者の多くは自家製のものを売っている。只だけどどことなく芸術の秋を楽しめるのどかなイベントなのであった。
昼過ぎからコトリンゴとイトウゴロウさんのユニットが演奏していて、ポットに入れた紅茶を飲みながらライヴを見る。コトリンゴは何といっても有名なオリジナルの「こんにちは、またあした」が印象的である。最近カヴァーアルバムを出したらしく、EPOの「うふふ」を会場で合唱させるべく歌っていた。
皆、飲食店は大盛況で長蛇の列ができていたが、首尾よくワインを手に入れ、サンドイッチを食べている人もいた。コトリンゴは「イパネマの娘」でライヴを終えていた。オリジナルの曲数が少ないのかなと思った。
一時40分頃からお目当ての栗コーダーカルテットの演奏が始まった。川口君お勧めのトラッドを二曲、竹中直人監督の「山形スクリーム」のサウンドトラックから「ボンネットバス」、「カントリー・ロード」、「アパオの海外出張」、カルピスのCMで流れているラヴェルの「亡き王女のためのパバーヌ」、子どもも思わず振り向く「ピタゴラスィッチのテーマ」「ポルカ」「うれしい知らせ」ジャム・ザ・ハウスネイルの「ワンダフルデイのテーマ」「おじいさんの十一カ月」と40分ほど演奏した。陽射しを避けるためにスカーフを巻いている女性が多く、女性に連れられて来た草食男子もちらほらいて、よちよち歩きの子どもも多かった。中高生などは少ないらしく、ソトコトやクウネル世代の男女が多い。
出店者と客の壁が余りなく、こんなの作ったんですねなど自然に会話が交わされるところがよかった。
去年は中村まりさんもライヴをしていてよかった。去年は和泉多摩川駅近くの河川敷だったが、今年は京王多摩川駅近くの河川敷で場所が移動したのがわかりづらい。
けれども丁度良い気候のなか、秋の心地よい陽射しを浴びて、大人の文化祭の気分を満喫できたのはよかった。帰って菓子パンを食べてコーヒーを飲み、いいイベントだったとしみじみ思う。かつて私の隣人が庭に業務用オーブンを買って、自家製パン屋さんを何カ月かやっていたのを思い出す。あの隣人さんが参加するのにぴったりのイベント何だがなと思う。ついでにその隣人が飼っていたネコがよくうちに遊びに来ていたことを懐かしく思い出す。そんな大人の文化祭だった。
ハイデガーの「ニーチェ」を途中まで読む。先取りすると、情動的な、存在者の本性としての力への意志は、存在の発露であり、存在性の主体性への転化だというのがハイデガーの意見である。
「力への意志(生成)=永劫回帰(永遠)」と結びつけたのがニーチェ哲学独特のくふうと言える。
永劫回帰は歴史上同じパターンが繰り返されるというような比喩ではなく、文字通り今ここの同じ瞬間が過去も何回となく繰り返されてきたし、未来も全く同じ瞬間が幾度となく無限に繰り返されることなのだ。
永劫回帰は証明できるような命題ではなく、君は永劫回帰に耐えられるか、と問いで語られるニーチェの反復観念的ヴィジョンである。
ハイデガーによればテクネーとしての芸術はピュシス(自然)を呼び来たらし、招き入れる技ということだ。
力への意志はなかったものを存在のなかに招来する芸術家という存在によく見てとれる。ショーペンハウアーにとって芸術は鎮静剤(ダウナー)だが、ニーチェにとって芸術は興奮剤(アッパー)である。
ニーチェの芸術観はプラトニズムの転倒である。超越的真実在の美の幻視を重視したプラトニズムに対し、ニーチェはこの現実世界の感覚的な美を作り出す芸術家を新しい哲学者と重ね合わせた。
この世を天界より低く見るプラトニズム、キリスト教を弱者による価値観の倒錯だとニーチェは考え、そのような価値観の根底からの転覆のかなめに力への意志を置いた。
力への意志と言うと人間的な特徴に思えるが、ニーチェは自然をはじめ森羅万象に力への意志を見ていた。
ハイデガーはニーチェを最後の形而上学者だと言い、存在忘却だと言うが、詳しく読んでみるとニーチェの思索が形而上学に躍入せざるを得なかったのは、存在が固有の本質を力への意志として映発させたからだと言う。ハイデガー的にみると人間にできるのは存在の片鱗に触れ、存在の恩恵に思いを巡らせることのようだ。
ハイデガーの存在は人間にとって他力であり、ニーチェの力への意志は各々にとって自力である。
力への意志を存在が立ち現われる潜勢力として見ると対決が回避できるように思える。
存在と意志のきずなを見出すことが必要だ。
ポーセリンとタスマニア交響楽団のベートーヴェン全集を聞いて眠る。(ピアノ伴奏つき)
無垢な児がまっすぐ立つと決めたとき 野の花たちに笑みがこぼれる