超人日記・俳句

自作俳句を中心に、自作短歌や読書やクラシックの感想も書いています。

<span itemprop="headline">バルトークと嘘のない音</span>

2008-12-23 20:24:36 | 無題

輸入CD店でイヴァン・フィッシャー指揮のバルトーク・オーケストラル・ミュージックという三枚組のフィリップスのCDが安く売っていて、ジャケットも美しかったので、これを聞こうと決めた。前にバルトークのピアノの弟子のシャンドールのバルトーク・コンプリート・ソロ・ピアノ・ミュージックを聞いて心地よく知的な響きを味わえたので、今度はオーケストラルだと手を出した。家に帰って聞いてみたところ、まず合唱曲の素晴らしさに心を打たれた。ブルガリア合唱にも似た野趣のあふれる野の花のような歌が、オーケストラと見事に融合している。村の情景BB87bである。他のオーケストラ曲も民謡のメロディーを吸収して、独自の語法で新しい命を吹き込まれている。
若い頃バルトークはドイツ・オーストリア式の音楽を叩き込まれ、ハンガリーがオーストリアの属国であることに憤って、愛国の交響詩を作ってはみたが、その作曲法はドイツ・オーストリア流の枠を出なかった。そのことを友人コダーイに指摘され、コダーイの指導で地方の民謡の採集を始めた。
コダーイが言うには、田舎の人はなかなか都会人に心を開かない、だが、いったん心を許して民謡を歌い始めると、次から次へと歌のなる木に実がなるように、貴重な埋もれていた民謡があふれ出てくるという。
間もなくバルトークも同じことを幾度となく経験し、その掛けがえのない瞬間に心を強く動かされた。バルトークは民謡を消化して独自の曲として魂を入れる作曲法を身につけ、民族音楽学者として、作曲家として開花した。けれどもハンガリー民謡とルーマニア民謡の共通性を指摘したことから偏狭なハンガリー中心主義者に大いに批判された。
ナチスの影響が強くなったハンガリーから身を切る思いでアメリカに亡命し、コロンビア大学の客員助手として半年ごとの契約でユーゴスラビア民謡の資料の整理をして貧しく過ごし、友人たちの頼みで全米作曲家協会の助けを得て病床で作曲を続けた(ひのまどか「バルトーク」を参照)。テレビでブルガリア民謡をもとに合唱曲の作曲をする老人(フィリップ・クーテフの友人)が、「民謡は作り物ではない、民謡は嘘をつかない」と言っていた。バルトークからは、ヨーロッパの忘れ去られた古い旋律が、尽きることなく聞こえてくる。



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<span itemprop="headline">「戦場のメリークリスマス」と野の詩人イエス</span>

2008-12-18 17:46:09 | 無題

季節にちなんで、久し振りに「戦場のメリークリスマス」に接してみた。CDを聞いたのでもなく、DVDを見たのでもなく、思索社から出ていた原作「影の獄にて、映画版」を読んでみた。「戦メリ」はヴァン・デル・ポストの二つの小説を原作としている。映画ではたけしが演じていたハラ軍曹を中心にして描いた「影の獄にて」と、デヴィッド・ボウイの演ずるジャック・セリアズ及びサカモト演じるヨノイ大尉を中心とした「種子と蒔く者」である。ハラ軍曹という癇癪持ちで残酷だが憎めない日本兵は捕虜収容所でさんざん残酷な行為に及んで、今戦犯として死刑になる前にかつての捕虜だったローレンスと面会する。鬼のようなハラ軍曹だが、かつて処刑されるはずのローレンスたちを自分はファーザー・クリスマス(サンタクロース)だと言って釈放してくれたことが、二人の数少ない良い思い出だ。処刑されるハラ軍曹がかつての束の間の聖夜を思い出して、大声で「めりーくりすます、みすたーろーれんす」と笑う。
「種子と蒔く者」は、捕虜収容所の異端者ジャック・セリアズの物語である。ジャック・セリアズは学生時代に、背中に瘤がある心のきれいな弟が、新入生のいじめの儀式でさらしものにされるのを、見て見ぬふりをした。それ以来、歌の好きだった弟は歌わなくなってしまった。セリアズは、心のきれいな弟を見捨てる罪を犯したことに悩んでいる。命知らずのセリアズの行動は、その後悔の念から来ている。大勢の収容所の人々が命の危険にさらされたとき、彼は自分に想いを寄せていた禁欲的なヨノイ大尉の前に歩み出てヨノイに頬ずりをする。ヨノイは動揺で倒れてしまい捕虜たちは救われたが、セリアズは生き埋めの刑で殺される。死んだセリアズの髪を、ヨノイは故郷の神社に奉納する。セリアズの行為は明らかに、キリスト教の核にある贖罪(罪のあがない、つみほろぼし)の行為である。弟を見捨てた罪をあがなって、捕虜を救って死んでいったのである。一方ハラ軍曹の「めりーくりすます」は、贈与の物語である。聖なるものがハラ軍曹を通して、捕虜たちに無罪放免というクリスマスの贈り物を与えた。キリスト教のテーマである贈与と贖罪の二つの物語が、この映画ではうまく映像化されている。この贈与と贖罪の物語の中で、ヨノイ大尉のセリアズへの禁じられた想い(フォービドゥン・カラーズ)が耽美的に描かれている。そこを強調した大島渚の美的感覚は凄い。野の香りに満ちた詩人イエス(ルナンの表現)の残影が、耽美的なこの映画を背後から支えている。



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<span itemprop="headline">グスタフ・マーラーとヨーロッパの陰影</span>

2008-12-13 23:25:22 | 無題

クリスマスが近くなると輸入CD店の店頭に並ぶ逸品のひとつに、ハイティンク指揮の「マーラー・クリスマスマチネコンサート」がある。あの今では巨匠のハイティンクが、一年に一度クリスマスの昼にマーラーの交響曲を毎年一曲だけライブ録音してきた、その蓄積がこのボックスセットで聞ける。交響曲全曲ではないが、ほとんどが聞ける。私はクリスマスの昼に心ときめかせて厳粛な気持ちでマーラーを聞きに集まってくるヨーロッパの人々を想像するだけでうれしくなってしまう。日本では年末は第九だが、ヨーロッパではマーラーなのか。そういえばマーラーの曲のなかには、聖なる感覚が微妙に混じっている。
ケン・ラッセルの映画『マーラー』を始めとして、マーラーの曲を精神を病んだ男の紡いだ作品のように解釈する人が絶えない。その路線で全集を作ったのがテンシュテットのマーラー全集である。これを聞くとマーラーの躁鬱的な世界が垣間見られてこれはこれで卓見である。私が初めて聞いたマーラー全集がこのテンシュテットの指揮だったので、マーラーって天国と地獄を生きたひとなのだと印象づけられた。ケン・ラッセルの映画が日本で初公開されたとき、私はこの映画を何も知らずに見ていたが、その映画のコピーが「冴えわたる狂気」だったのも思い出される。ブラスバンドのマーチに耳をふさぐマーラーが脳裏に焼きついた。だが、その後ノイマンのボヘミア的なマーラーを聞き、またクーベリックのマーラーも聞き、バーンスタイン、ベルティーニらの正統派の独墺的なマーラーを聞き、ハイティンクのクリスマスマチネを聞くに至って、病的で躁鬱的なマーラー像は一面的な見方だと思うに至った。
ハイティンクの「マーラー・クリスマスマチネコンサート」のマーラーは、背後に静寂な底なしに深い闇を感じさせるマーラーである。底なしの闇から聖なる調べがかすかに聞こえてくる。それに老若男女が集まってきて耳を澄ましている。何と奥ゆかしく微笑ましい光景ではないか。ハイティンクのライブ録音に聞くことができるマーラーは、ヨーロッパの陰影である。私もクリスマスが近くなるとこの「クリスマスマチネ」に静かに聞き入ることが多くなった。一年を振り返りながら、嬉しかったこと、悲しかったことが音の力で清められていくのを感じることができる。奥深いCD集である。



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<span itemprop="headline">金枝篇を深読みする</span>

2008-12-10 01:18:24 | 無題

人類学者ジェイムズ・ジョージ・フレイザーの『金枝篇』はヨーロッパ文化の古層の知識の宝庫である。ローマの近くのネミの森では、祭司を務めていたのは代々森の王と呼ばれる人物だった。森の王になるためには、金色の枝を切り取って、現在の森の王を殺し、自分がその座に就くのだ。この奇妙な風習の謎をフレイザーはあらゆる角度から解き明かそうとする。まず、自然の力に働きかけることができるという信仰を太古のものとして挙げ、それから、しばしば王とされる人間神の登場を挙げる。人間神は自然の力をつかさどる神の代理である。そしてヨーロッパの神々の古い形が樹木霊であったと証言する。
樹木霊は冬に死んで春に再生する。このことから神の死と再生がテーマに上る。ヨーロッパのフォークロアの残る祝祭では、緑の男、五月の王、緑のゲオルギウスなどと呼ばれる緑の繁茂力を宿した男が死と再生を演じる。これは古い神を殺して蘇らせる儀式を人間に肩代わりさせた復活劇だった。王や祭司は自然の運行を左右するものとして丁寧に扱われ、さまざまなタブーによって幾重にも守られている。だが、その力が衰えてきたら、象徴的に死んでもらって、古い嫌なものはついでに持ち去ってもらって、新しい王に挿げ替えようという発想になる。ここから身代わりのために受難に合う者、すなわちスケープゴートのテーマも加わる。
 『金枝篇』は長いこと古臭い書物として人類学者に置き去りにされていた。その時代的制約はいくつかある。『金枝篇』は膨大な例証を挙げるが、それが余りに広い地域に無節操に言及していること。人類が呪術→宗教→科学へと進化する定めにあり、乗り越えられる過去の遺物として民間信仰を見ていること。フレイザーは実はキリスト教をこの死んで蘇る神のヴァージョンだと言いたいのだが、差し障りがあるのでそれを前面に出すのは控えている。キリスト教も太古の心性の名残だということで彼は、キリスト教を相対化して脱ぎ捨てようという意図がある。
そのような制約に縛られた『金枝篇』であるが、今読んで価値のある特徴がいくつもある。ヨーロッパの古層にある信仰の構造(死んで蘇る自然神)を浮き彫りにしたこと。その証明を文献及びフォークロアに求めたこと、キリスト教と異教を同じ土台の上に並列したことなどである。西洋古典も現在に至るフォークロアと通底していると考えることで、古代の神々が異様に生々しく身近なものとして実感できるようになる。



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<span itemprop="headline">新約聖書とイエスの胸中</span>

2008-12-01 18:35:57 | 無題

クリスマスも近いので聖書の話をしよう。
私は大貫隆の『新約聖書ギリシア語入門』を愛読している。ギリシア語の文法書は何冊も読んだが、この本がいちばん読みやすい。ギリシア語の文法書では田中美知太郎・松平千秋の『ギリシア語入門』が定番なのだが、この本はわからないところがあると§何ページを読めとタライ回しにされるのと、練習問題に答えが付いていないところが不満である。その点大貫隆の文法書は解答がばっちり付いていて、独学者でも少しずつステップアップできる。文法的には私の学んだ限り、古典ギリシア語と新約聖書の文法は大きく違わない。違うのは主に出てくる単語の違いである。
また、大貫隆の文法書には、ところどころに新約の要所要所のコラムがギリシア語原文とともに載っていて、これを読むのが楽しいのである。「鳥には巣があり、狐には穴がある、けれども人の子には頭を横たえる場所もない」などイエスの寄る辺ない気持ちが吐露されていることが書かれ、「私はサタンが天から転がり落ちるのを見た」という言葉がイエスの神秘体験として印象的に述べられたりする。このコラムがあるから文法書を読み進める気になる。大貫隆さんは『イエスという経験』というイエス論を書いていて、「イエスはすでに天界では神の国が実現されて、もうすぐその余波で地上にも神の国が実現される、自分が生きているうちに神の国が実現されると確信していた、それがイエスの布教の原動力だった、それなのに十字架に架けられて死のうとしている今なぜ神が沈黙しているのかわからずに死んだ、」という信徒が聞いたら怒られそうなことを書いている。逆にP.Dウスペンスキーはイエスは命がけで秘教の秘蹟劇を演じて見せたのだと言っている。どちらも極端な説ではある。
私はイエスにはメシアを「無力に殺される子羊」として予言した『イザヤ書』がいつも念頭にあって、それを神意として自分で引き受ける覚悟をしていたのではないかと想像している。新約聖書をギリシア語で読むにはthe New Greek-English Interlinear NewTestament、(tyndale社 )が英語ギリシア語対訳で読みやすい。また、Loreto社のNovumTestamentumが珍しい英語ラテン語対訳新約聖書で便利である。時には原語を読みかじってみたりして、イエスの胸中をああだろうか、こうだろうかと想像してみると、クリスマスが身近に感じられてくる。



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