超人日記・俳句

自作俳句を中心に、自作短歌や読書やクラシックの感想も書いています。

<span itemprop="headline">荒野のシュルレアリスム</span>

2009-10-28 09:59:07 | 無題

塚原史の白水社の「シュルレアリスムを読む」を読んだ。なぜこの題かというとシュルレアリスムに関する文献を原文と訳文を載せて説明してゆく形を取っているからだ。読んでゆくとシュルレアリスムの関心の変遷がうかがえる。
最初アポリネールがこの語を発案したとき、現実の模倣を越えた真の現実主義というような意味で使っていた。それをアンドレ・ブルトンは全く違う意味で、つまり超現実を探る主義という意味で使った。その目的は生を変えることにあったと言っている。シュルレアリスムの道を整えたのはダダイズムだった。トリスタン・ツァラの「ダダ宣言1918年」を読むとわかるように、それは拒否と否定の語群であり、無意味の祝祭であった。ダダイズムは価値観の大掃除であった。
それを受けたシュルレアリスムは、夢の復権、無意識の発見とその書き取り、夢と現実の橋渡しを自負していた。シュルレアリストたちは初期に、自動記述という方法を熱心に試みた。心の赴くままに連想したことをスラスラしゃべり、それを記述するというものだ。それはフロイトらがヒステリー患者の無意識を引き出すために用いた自由連想法と発想が極めて近い。自動記述に続いて取り上げられたのは、催眠術に掛けられた芸術家の問答である。
夢を現実に持ち込むことで超現実の世界を呼び出す試みは、絵画や写真に波及した。隔たった異なる現実の思いがけない出会いを知覚して、それを描写することをブルトンは芸術家に求めた。
シュルレアリスムの美学の代表例として彼らが挙げたのが、ロートレアモンの「手術台の上でのミシンと雨傘の偶然の出会いのように美しい」という一節である。
このような出会いにブルトンやマックス・エルンストが与えた命名が「デペイズマン」である。これは塚原氏によれば、存在や事物をその時空から切り離して「超現実」の場面へとワープさせることを指している。エルンストはデペイズマンするためにコラージュの手法を用いる。
デ・キリコのメタフィジックな絵画もシュルレアリストを引きつけた。それは日常的な風景が切り取られて、異次元の時空に宙づりになったイメージだからだ。
事物の意外な出会いを通じて、ありえないイメージを出現させた画家のひとりに、ルネ・マグリットがいる。彼はひらめきによって事物を結びつける類似が、隠れたものを表出させると考えた。加えてサルバドール・ダリは、現実そのものを妄想で変容させる能動的方法を生み出した。シュルレアリスムの向かう所は、超主体の時空であると言われる。けれども私は個人の回想や民俗の記憶からなる、極私的シュルレアリスムに可能性を見出している。行方知れずの荒野のシュルレアリスムである。



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<span itemprop="headline">バッカスの今日的意味</span>

2009-10-20 17:46:36 | 無題

バッカスとして知られるディオニュソスは不思議な神である。人を狂わせ解き放つ。ディオニュソスに憑依された者は、通常なら結びつかない異なるものどうしを結びつける創造性を発揮する。そのためディオニュソスは詩作をつかさどり、詩のジャンルである悲劇と喜劇の守り神となった。
ディオニュソスは今で言えば脳内麻薬の神である。適量に分泌されると創造性を発揮するが、度を超すと発狂してしまう。私は経済もディオニュソスと深い関わりがあると思う。広告を見て気を惹かれるのは、日常性に異質なものが介入した時であり、神経が興奮したときである。人間はむき出しの自然をいったん遠ざけて様々な禁止をもうけることで人間になった。けれども芸術や文学や宗教や祝祭の形で、ひとは決まりからの出口を見つける。そのことで快感サーキットを全開にするのである。買物は祝祭のミニチュア版であり刺激を感じるとそれだけ鼓動が速くなり、欲望が掻き立てられるのである。つまり人はディオニュソスを欲しがるのである。それが経済を回転させている、とも言える。
プルタルコスは「モラリア」のなかで、デメテルが穀物の女神であり、固体の自然であるのに対して、ディオニュソスは液状の自然(ヒュグラ・ピュシス)の神だと言っている。ぶどう酒に加えて川の流れや樹液、血液の流れや体液といったものに古代人はディオニュソスを感じていた。私は都市の物流や貨幣の流通にもディオニュソスの働きを感じる。それらは快感サーキットの具現化であるからだ。
だが、ハイデガーがオットーの著作「ディオニュソス」を絶賛し、ニーチェがディオニュソス的な哲学を主張したことを思えば、ディオニュソスこそ、万物の根底に流れる暴力的な生命力の神であり、物事を立ち現わせる存在の潜勢力の神だということの方がより深い解釈だと言える。そのように文化の根底にある潜勢力として多様な読み方のできるディオニュソスであるが、ローマ人の想像力はより具体的で即物的だった。火山の噴火で埋まった町ポンペイで出土した通称「バッカスとヴェスヴィオ山」と呼ばれる絵には、ヴェスヴィオ山とディオニュソスの象徴の一つで大地の力を表す大蛇とともに、胴体の部分がぶどうの房になっていて、それに顔と手足のついたバッカスの像が描かれている。このリアルで即物的な想像力に驚く他ないが、ディオニュソスという危険な創造性のイコンとして、部屋に飾りたい一枚である。



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<span itemprop="headline">アンドレーエのブルックナー全集を聞く</span>

2009-10-19 20:46:59 | 無題

最近中古CD店ばかり行っていたのだが、久しぶりに新譜輸入CD店に寄って、中古店ではお目に掛かれなかった品をみつけた。Andreaeのブルックナー全集である。ヨッフム、ハイティンク、ヴァント、スクロヴァチェフスキ、ロジェストヴェンスキー、シャイー、カラヤン、バレンボイムなど、目ぼしい全集は大体耳にしたと思っていたが、これは、初めて見た。ウィーン交響楽団との全集録音だという。良く見ると1953年録音。早い。そんな全集知らなかった。顔も上品なおじさんである。薄型紙ボックスである。欲しい、欲しすぎる。けれども値段がやけに高いのだ。パーテルノストロのお買い得セットの約十倍の価格である。この世界の値段の付け方の基準は一体どこにあるのだ。この機会を逃すのも惜しいし、清水の舞台から飛び降りたつもりで購入してしまった。家に帰ってHMVの通販サイトで調べると、指揮者はスイス人のフォルクマール・アンドレーエという人物で、このブルックナー交響曲全集は世界初録音だという。ウィーン響がそんな偉業を成し遂げていたとは驚きである。地味だが凄いウィーン響である。さっそくステレオで聞いてみた(録音はモノラル)。音がきれいだ、雑音がない、ということにまず驚いた。放送録音という性質上だろう、きれいに録れている。肝心の演奏の方も秀逸である。アンドロメダで出ている初期のシューリヒトのブルックナーのようにわけのわからない怪物性はないが、端正でバランスが取れている。全く乱れがない。完璧な構築美で知られるギュンター・ヴァントと比べても遜色ない。ヴァントは自分はブルックナー演奏をするにあたって誰もいいお手本はなかった、楽譜を読み込んで全く一からブルックナー解釈を手探りで行ったと言っているが、それは言い過ぎではないか。少なくともここにアンドレーエの絶好の前例があることは、特筆しておきたい。アンドレーエの演奏は清冽で澱みがなく、的確である。気の向くままにテンポをいじったりしない、厳正な演奏である。その意味でヴァントの先駆け的感性にいたく心を打たれた。全曲一枚のCDに収まっているのもいいが、これもきりりとしたテンポのお陰だろう。このような名全集が09年まで埋もれていたとはもったいない話である。だが、この値段、何とかならないものだろうか。と思っていると、ドキュメント・レーベル等に買収されて激安で売られてしまうのか。ともかく、ブルックナー好きにはたまらない全集であることはまちがいない。



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<span itemprop="headline">柴田南雄のマーラーを読む</span>

2009-10-09 14:59:40 | 無題

柴田南雄氏の「グスタフ・マーラー」を読んだ。マーラー好きの人なら必読書のはずで、すでに読んでいる人も多いだろう。
この本の特徴は、作曲家の眼から見たマーラーの作曲法の面白さを、曲別に縦横無尽に語っているところだ。いわば作曲の常識に照らして、どこが破格で独創的なのかを飽くことなく拾い上げている。
まずマーラーの独創性は、交響詩と交響曲の区別を取り払ったところだと柴田氏は言う。
普通なら標題音楽の交響詩で済ませるところを、敢えて交響曲の分類に入れる。そこで標題音楽的なことを平気でやる。
それからこれはよく言われることだが、錯綜する引用や借用の数々。バロックからロマン派まで、シナゴーグの音楽から幼少時に耳にした軍楽隊の音楽まで、自在に引用する洒脱さ。これはマーラーの楽しみの秘訣の一つである。私も第一番「巨人」に「フレール・ジャック」の楽想が使われているのに気づいて、驚いた経験がある。
洋泉社の「クラシック名盤&裏名盤ガイド」は私の愛読書だが、その中でもマーラーの音楽はいろんなアプリケーションを多数備えてていて、時と場合に応じて立ち上げるウィンドウズのようだと書いてある。これは昔風に言えば、音の宝石箱を引っ繰り返したような音楽ということだろう。
作曲家の眼で見ると「このような思い切った楽想と楽器法で」交響曲を書いた例はなかった、と柴田氏は言う。こうしてマーラーの醍醐味の秘密を次々と言い当てられると、伝記や逸話や聞いた感覚でしか音楽を表現できない、文系の私としては、ことごとく新鮮な説明に思える。
また、現代音楽の作曲家である著者は、現代音楽の萌芽をマーラーに見ているし、音楽史的にも、シェーンベルクの擁護者であり、ツェムリンスキーの楽友であり、リヒャルト・シュトラウスの親しき友人であり、ショスタコーヴィチに影響を与えた接合点としてのマーラーにも光を当てている。
何より音楽好きの一日本人が、戦前、戦中、戦後にどうマーラーの情報を得て、受容してきたかを、生き証人として語り伝えているのが貴重な点であろう。クラシックと日本の郷愁の融合に心を砕き、「府中三景」という連作合唱曲を遺して逝った柴田南雄氏の原点の一つを見た思いがする。



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<span itemprop="headline">生まれたままの眼で見る詩学</span>

2009-10-07 17:07:58 | 無題

私は「トロツキーの音楽論」という論文をロシア文学者の先生から送られてきた夢をみたことがある。革命家の音楽論か、妙だなと思った。ちょうどその頃、ロシア・フォルマリズムとハイデガーの詩論を結びつけ、「世界を見慣れないものに還元して生まれたままの眼で見るのが詩の技術」と位置づけ、そのうえにバシュラールの「詩人のイメージが生まれる瞬間を追体験しよう」という詩学を論じ、さらにエリアーデの「聖と俗」を読んで、宗教的人間の覚醒と詩人の共通点を探ろうという、無謀な論文を仕上げている最中だった。そのイメージが「トロツキーの音楽論」というかたちで夢に出てくる。夢はひょっとしていたずら者ではないかとさえ思う。

詩情というとりとめのないものを理論づける詩学の分野は、アリストテレスの「詩学」まで遡れるが、古代の修辞学者たちは競って「詩学」に挑戦したものだ。それは詩を書く技術を教えます、といった物で古代にはウェルギリウスの「農耕詩」とかオウィディウスの「恋の技法」とか、何かの技術を教える本が盛んに書かれていて、「詩学」もまたその分野の一つなのだった。

現代ではソシュールとローマン・ヤコブソンの言語学・記号学を基にした詩学が盛んで、そこから村落や入れ墨の模様の構造を読み解く、レヴィ=ストロースの構造主義とか、ジャック・ラカンの病理のレトリックを読み解く記号論的精神分析とか、いろいろ面白いものが出てきた。といっても人類学の構造理論は調査の内側からライデン学派が導きだしたことが再評価されてりして、言語学一辺倒ではない。

ガストン・バシュラールの詩学は現象学に基づいていて、意識に物事が立ち現れてくる瞬間を先入観なく記述しよう、というフッサールの考えに沿っている。
ハイデガーの詩論は独自の「存在の立ち現れを事象の根源とする」という哲学から生まれたもので、言葉とは、存在の家である、言葉は相反するものを影として含みこむ、といった考察から展開する。
エリアーデの宗教現象学は、人は聖なるものの立ち現れに直面して、聖なるものを中心としてその周りに世界を築く、といった原初の宗教の出現の瞬間を、比較文化論的に、見てきたように再現して見せる。
そのように詩的発見のような「驚き」が宗教の始まりなのだが、時と共に宗教は制度化・硬直化する。そうすると預言者やイエスのような者が現れて、硬直言語に、詩的な揺さぶりをかける。その辺は高尾利数「ソシュールで読む聖書物語」に詳しく書いてある。
ファリサイ派やサドカイ派の学者たちは、制度化した網目で人々を縛っている。その囚われから、イエスは詩的な仕方で連れ出そうとした。
そんな話を美大で書いたことがある。その他詩学関係の本を訳したりして、センチメントを論理的に語るという課題に取り組んではいるのだが、そこからすり抜けてしまうものは、当然、無数にある。
(I’d love to turn you on).
初出コラボブログ http://blogs.yahoo.co.jp/soularjp/58715209.html



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