超人日記・俳句

自作俳句を中心に、自作短歌や読書やクラシックの感想も書いています。

<span itemprop="headline">ダリウス・ミヨー作品集を聞いて</span>

2016-02-25 00:10:22 | 無題

ダリウス・ミヨー作品集「幸福だった私の一生」のCD集を聞いている。
ダリウス・ミヨーはフランシス・プーランクと同様フランス6人組の一人。
フランス6人組はエリック・サティを父とし、ジャン・コクトーを兄とする1920年代の芸術家群像。
晶文社の「フランス6人組」を読んだが6人に共通する作風というのは判然としない。
リヒャルト・ワーグナーとクロード・ドビュッシーの影響からの逃亡、フランスらしさへの回帰、歌の復権、和声の気紛れな結びつき、不協和音を多用した調性音楽、曲想を展開させるのではなく立て続けに並べて見せる手法、家族的作風、などと評される。
同じ6人組でも聞いてみたところ、フランシス・プーランクとダリウス・ミヨーはかなり印象が異なる。
プーランクはサティの延長線上にあるピアノ曲を書く。そうしてシャンソンの民衆性を小粋に取り入れて
短い歌曲を多数書いた。
ダリウス・ミヨーはもっと奔放でリズミカルで、時折ジャズの影響も聞こえ、何より現代音楽により近い。
屋根の上の牛やバレエ音楽、オーケストラ作品で調子っぱずれな陽気な激走を見せる。
協奏曲で、現代音楽に近い響きを鳴らして見せる。
プーランクのように照れながら戯れるシャイなエスプリは感じられない。
だが、線の太い独特の実験精神がどの作品からも聞き取れる。
ジャン・コクトーの声明「雄鶏とアルルカン」、それに続く6人組の声明「ル・コック」の内容を読む。
彼らにはストラヴィンスキーは物凄い一撃だった。加えてジャズの席捲が彼らを見舞う。
ジャズは私たちを目覚めさせた、だが私たちは違うことをやろうと懸命に言っている。
プーランクはシャンソンの小粋さに出口を見出し、ダリウス・ミヨーは曲にジャズを使った。
6人組精神というものに確かな共通性は判然と見当たらない。
だが、新時代の息吹を感じさせる家族的な実験精神と言ったところが6人組らしい要素だろうか。
私が聞いたところ、ダリウス・ミヨーの調子っぱずれもいい感じである。
「幸福だった私の一生」という自伝と同じCDタイトルもいい感じだ。

思い切り羽目を外して激走しその幸福な生涯を歌う



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<span itemprop="headline">プーランク作品全集を聞いて</span>

2016-02-20 22:29:28 | 無題

プーランク作品全集を聞いた。
ピアノ作品集、室内楽、協奏曲、交響的音楽、宗教音楽、抒情詩作品(オペラ)、旋律と歌曲(シャンソン)に分かれている。
中でも私はピアノ作品集、室内楽、オルガン協奏曲が気に入った。
ピアノ作品はちょっとサティに似ている。
照れながら戯れて、不安定な旋律に遊んでいるところにエスプリを感じる。
音を揺らしながら半音階に傾く微妙さが聞いていて面白い。
室内楽も同様のエスプリの利いた心地よい音楽である。
びっくりしたのがオルガン協奏曲である。
メシアン張りの深さ、真面目さで激しくオルガン音楽が導く壮絶な協奏曲。
プーランクは宗教的な一面があって、オルガン協奏曲ではブルックナー的法悦も感じさせる。
そういうのもプーランクの意外な一面である。
私の両親が好きだったのはプーランクのピアノ曲、室内楽そしてとりわけ歌曲、シャンソンである。
旋律が不安定で危ういところへ傾きそうな一歩手前で踏みとどまっている。
このシャンソンを私の両親はいつも手元に置いていた。そしてよく失くした。
なので私の両親が愛していたが、結局どこかへ行ってしまったプーランクのCDの空箱を見て、
私がきちんと聞いてあげないといけないような気がして
プーランクの作品全集を敢えて買って失われた時を求めている。
宗教音楽のうちミサ曲は清純な汚れない合唱曲で一見プーランクらしくないが
旋律の豊かさにプーランクの個性を感じる。
スタバート・マテールは悲しみの聖母で、友人も言う通り痛々しくて聞くのが辛い。
シャンソンは不安定な音階に遊ぶプーランクらしい佳作揃い。
晶文社のジャン・コクトーが表紙のフランス6人組という本も拝借した。
遊びの多いプーランクの音世界に光明を見る昨今である。

照れながら微妙に揺れるフランスの光溢れる音に癒され



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<span itemprop="headline">映画「ピロスマニ」を見て</span>

2016-02-19 21:59:52 | 無題

夜、映画「ピロスマニ」を見る。
何をやっても成功せず、乳製品売りの商売にも失敗し、結婚にも失敗し、素朴な動物画や人物画、風景画を町中の居酒屋の壁に描いて生計を立て、一時は名が売れたがこき下ろされて失意の中で放浪の生涯を終えたグルジアの画家ニコ・ピロスマニ。
その悲惨な一生を絵画的構図をふんだんに用いて、暗いトーンの沈んだ色調で淡々と描いた伝記映画の傑作。

絵のモチーフとなった風景が数多く出てくる。私はこの静かな映画が好きだ。
見ていられないほど身を持ち崩し、酒に溺れた悲惨なピロスマニだが、直向きに素朴な絵を描き続けた。
画壇に背を向けて自分の描きたい絵を描き続ける困難さ。
そこのところが泣ける。
ピロスマニの絵が動いているような絵画的情景が垣間見れるのは嬉しいところだ。
灰色の背広を着て、黒の山高帽を被り、画板を片手に抱えて町中を足早に歩き続けるピロスマニの姿が印象的。

絵を生み出したグルジアの風俗、風習、景色、家畜の群れ、食事風景、復活祭の様子などが見て取ることのできる貴重な映画である。
この映画は基本的にリアリズムだが、絵画的風景を生かしたリアリズムという点で高い美意識が窺える。
町を歩き続けるピロスマニの放浪の一生を淡々と映し続ける地味だが心に迫る映画である。

個人的にはピロスマニの絵が大好きで昔この映画を見たとき、その絵画的な映像美がとても印象的で、また見たいと長年願い続けてきた映画である。
人生は孤独で見出される人は数少ない。それでも自分の作風に忠実であったニコ・ピロスマニの堅い意志に敬意の念を感じる。
素朴で地味なピロスマニの絵に興味を持った人には是非見てもらいたい、私のお勧めの三つ星の名作映像作品である。

足早に町を歩いて絵を残す画家の瞳に映る情景



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<span itemprop="headline">パラジャーノフの「ざくろの色」を見て</span>

2016-02-17 22:09:38 | 無題

セルゲイ・パラジャーノフはグルジア出身のアルメニア人。
そのパラジャーノフの「ざくろの色」を久しぶりに見た。
驚異の映像である。
イコンに端を発した演劇的な構図、人形劇のような儀礼的な動き、民族衣装を用いた演劇的な美術、宗教的含意を有する一連の劇の進行、意味が有ったり無かったりする前衛的な映像美。

圧巻である。
民族音楽にリズムを乗せた先鋭的音楽が背後に流れる。民族的な文化に根差した映像によるイコンの詩である。
パラジャーノフは天才過ぎる。
魔術的リアリズムということばも一般化していなかった当時、見事にそれを形にしている。

日本で言えば、寺山修司の「田園に死す」や高嶺剛の「ウンタマギルー」に通じる、民俗に端を発した魔術的な映像詩の世界である。

世界的に見てもこのような完成度の高い映像詩は類い稀である。
絵画的様式美で言えばグルジアの「ピロスマニ」という映画がこれに比肩する。
グルジア人の美意識の高さは特筆に価する。

民俗的なものに根差した個性的な美意識の展開こそが再発見されるべき領域である。
私は「ざくろの色」に芸術に必要なすべての要素を見る。
絵画で言えばリトアニア出身のスタシス・エイドリゲヴィチウスに見られるような民俗に根差した新しいイコンの能動的創造力がセルゲイ・パラジャーノフには見られる。
ロシアのメイエルホリドやボガトゥイリョフの血を引く前衛の息吹がアジア的な民族色と宗教的含意を得て
活き活きと芽を吹いた。
そのような前衛の稀有な花に私は限りなく憧れる。

鮮やかにこの世に咲いた前衛美その底知れぬ富に見惚れる



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<span itemprop="headline">日影茶屋のクッキー、オラトリオ、日々の禍福</span>

2016-02-11 19:03:18 | 無題

一大事も無事済ませ、家に帰って母が正月に呉れた日影茶屋のクッキーを食べている。甥は本を大量に抱えて帰途に着いたようだ。アナキズムって何?と聞かれてとっさに無政府主義と言えた自分に安堵するが、そのうちすぐ私より物知りになるだろう。頼もしいことだ。母の神戸アパレルメーカーの服を休日に貰いに行くつもりである。私が某サイトに載せた長い文章をさっそく読んでくれた若者がいた。難しいことも噛んで含めるように丁寧に書いてあるので面白いと言ってくれた。どうにもならないことは結局どうにもならないが、禍福はあざなえる縄の如しとは言い得て妙である。嬉しいこと、悲しいことが一本の縄を成すように日々の暮らしに訪れる。それでも人生にyesと言える一生でありたいと願う日々である。嬉しいこと、悲しいことが結晶して人生をかたちづくる。母と聞いたヘレヴェッヘのバッハのクリスマス・オラトリオを聞いている。ベツレヘムの星が私と私の親しい人、親しかった人を照らしてくれることを願う。世の定めには抗えないが、開けてくる道もあるだろう。日影茶屋のクッキーは母が同窓生から貰ったことがあって、それから母の贈答品の決定版である。今食べているが、確かに奥ゆかしい味で癖がなくてほんのり甘くておいしい。今後もウルガータ聖書やギリシア語聖書を読んで過去を振り返りつつ、暮らすつもり。このところ根をつめて読んでいた世界の名著や人類の知的遺産をめくる元気が今はない。しばらくは冬眠しながら今後のことを思案するつもりである。訪れる禍福の時を懐かしい菓子を頬張り行けるだけ行く



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