超人日記・俳句

自作俳句を中心に、自作短歌や読書やクラシックの感想も書いています。

<span itemprop="headline">悲劇、祝祭、能華茶</span>

2011-01-31 16:59:56 | 無題

最近思うところがあってカール・ケレーニイの「ディオニューソス、破壊されざる生の根源像」を理解しようと思って読んでいる。
他にワルター・F・オットーの「ディオニューソス、神話と祭儀」、アンリ・ジャンメールの「ディオニューソス、バッコス崇拝の歴史」も山積みしてある。
野心はないが、ディオニュソスをもっと詳しく知りたい。
私が思うにはディオニュソス信仰の特徴は「上辺ではない、裸の境地」である。
だから破壊されざる生の根源像であり、狂気の淵を覗き込んだ者の神であり、秘儀の神でもあるのである。
先日新聞の広告で見た、「花と死者の中世、キヨメとしての能華茶」が気になって本屋さんに注文してしまった。
穢れの清めとして能華茶があり、差別の装置と深く関わっている、という視点は深い。
西洋でも、ディオニュソスの祭りで上演されるギリシア悲劇などは、完全に穢れの清めの装置である。
それをアリストテレスは「詩学」のなかで、悲劇とはカタルシスである、と言い換えている。
親殺し、子殺し、夫殺し、近親相姦、といったありとあらゆる禁忌を祝祭時に野放しにして、最終的に清めるのである。
穢れと清めの深い理解なくしてギリシア悲劇は理解できない。
穢れを身にまとった人物とは節分のときの鬼と同じである。
ありとあらゆる穢れを身にまとった疫病神的な人物に登場してもらって、暴れるだけ暴れさせて、豆をまいて退散させる、厄払いの行事である。
行事の時に上辺の常識のふたをいったん外して、深層にあるものを解放する、そのあとに退散させて穢れを祓う。
「キヨメとしての能華茶」は「キヨメとしての悲劇」に通じるところがあるのではないか。
そう考えると私の興味があるものが次々と繋がって見えてくる。

東西を越えた清めの空間が 悲劇 祝祭 能華茶



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<span itemprop="headline">ロシア未来派歌曲の謎</span>

2011-01-21 18:51:00 | 無題

友人がラジオから録音したテープにロシア未来派の歌曲があって、題名はクレインの三つのイディッシュ語の歌。
テープをダビングして貰って聞いてみると浮遊感のある不思議な旋律。
そもそもイディッシュ語って何だろうと思って調べてみるとユダヤ系移民のことばであるようだ。
では一体クレインとは誰だろう。
そう思って自分の持っているアルテ・ノヴァのロシア未来派のCDをよくよく見てみると、Julian Kreinの名が載っている。
このCDには歌物はないが、調べてみると言葉なきユダヤの歌などを作っているらしい。
だが歌物の録音は見当たらない。しかし確かにロシア未来派にクレインという人物がいることは判った。このクレインか。
他日、Yiddish songs, kreinと検索すると、Alexander KreinというJulian Kreinの血縁がいて、ユダヤの歌曲を作って録音していることが判った。
特にSongs from the GhettoというCDがタワーレコードでもかつて売っていたことが判明。
このCDは現在取り扱い終了、すなわち廃盤なのが極めて残念。
けれども、このAlexander KreinのSongs from the Ghettoはタワーレコードのホームページで試聴できた。
聞いてみるとユダヤの歌と呼ばれる歌曲のなかに、問題の三つのイディッシュ語の歌と似た不思議な旋律の、浮遊感のある曲が確かにあった。問題のクレインは、このAlexander Kreinである可能性が高い。
この兄弟にGregory Kreinというjulianの父親の音楽家がいる。
この三人を含む家系は、ユダヤ音楽の収集をしていたらしい。
クレイン一家はロシア未来派の全盛期に熱心にユダヤ音楽やイディッシュ語の歌曲を作っていたが、スターリンの時代に入り、ロシア民族的ということが強調され、求められてイディッシュ語の歌を言葉なきメロディなどと改作して発表していたらしいことが判った。
あとは友人がCDをどう探すか、である。
浮遊するユダヤ移民のメロディが歌曲に似合うロシア未来派



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<span itemprop="headline">夢見る先生の横顔</span>

2011-01-14 18:03:51 | 無題

フランスの哲学者、ガストン・バシュラールの書を手に取る夢を見た。
夢のなかでは至高存在の書みたいな題名の本だった。
眼が覚めて不審に思ってそんな本があるのか調べると、やはりなかった。
けれども、バシュラールの肉声の講義のCDがあることを発見してしまった。
題名が詩学と諸元素、目覚めて夢見る人、というおもしろそうな題名である。
何よりあのバシュラールの肉声が聞きたい、ということで注文してしまった。
私の父はタワーレコードの現代音楽等のコーナーで、記号学者のロラン・バルトの講演集を見つけて狂喜乱舞して買い、ポータブルCDプレーヤーに入れて聞いていたから、何やら似ていなくもない。
私は学生時代バシュラールを講読していて、スピノザやデカルトの研究で有名なフランス哲学の大家から、せめてバシュラールぐらい読みこなせるようになってください、という宿題を与えられたまま、その先生は逝ってしまったので、私の部屋にはバシュラールの原書が四冊置いてあった。
今日改めてバシュラールの「蝋燭の焔」の原書を手にとって、翻訳と突き合わせて読みふけってしまった。
「簡素な夢想の小著のなかで、知識を付け足すことなく、探究方法の統一性に縛られることなく、一連の数章のなかで、孤独な焔の凝視の最中にいかなるイマージュの刷新を夢想家が受け取ることになるのかを私たちは語ろうとした。
夢想を誘う対象のなかでも、焔は第一のイマージュの起動因である。焔は私たちにイマージュすることを強いる。焔を前にしていったん人が夢見ると、人が知覚するものはイマージュするもののまえで無と化すのである。
豊富な瞑想の領域で、焔は隠喩とイマージュの独自の価値を有する。生を表現する動詞の主語として焔を選べば、焔は動詞に十分な活気を与えるのがわかるだろう。一般性に走る哲学者は独断的冷静さを以て断言する。創造のなかの生と呼ばれているものは、全ての形と在り方において同一の精神、ひとつの独特な焔なのだ、と。
けれどもそのような一般化は結論を急ぎ過ぎる。私たちが想像の焔の想像力の動因の機能を感じるのはイマージュのあれこれの多様性においてなのだ。
焔が燃えるという動詞はそれゆえ、心理学の用語に数えなければならない。それは表現の世界の一角を占める。燃え立った言葉のイマージュは精神作用を燃え立たせ、詩の哲学者が明確にしなくてはならない興奮の色調を与える。
夢想のオブジェとしてとらえられた焔によって最も冷たい隠喩が真のイマージュになる。しばしば隠喩はよりよく言おうとする思考の言い換えなのに対し、イマージュ、真のイマージュは、それが想像力のなかの原初的な生である限り、現実界を離れ、想像された世界、イマージュ独自の世界へ向かうのである…」原書の息遣いが伝わるだろうか。
私はこのバシュラール先生の夢想の哲学が昔から大好きである。バシュラールの写真が、亡きフランス哲学の先生の笑顔と重なる。
夜更けまで屋根裏部屋に揺れている夢見る焔ひとり詩を書く



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<span itemprop="headline">聖書を閉じて街へ出かける</span>

2011-01-13 00:54:19 | 無題

マゼール&バイエルン放送響のブルックナー全集を聞く。響きが深く間合いが絶妙である。
ブルックナー全集を聞きながらギリシア語英語対訳新約聖書を読む。
ユダヤ教の長老たちと祭司長がエルサレムで教えを説くイエスに向かって、「一体何の権威でこのようなことをしているのか」と尋ねる。
イエスは「私の問いに答えたら私も答えよう」と言った。「バプテスマのヨハネの洗礼は天からのものか、人からのものか。」
長老たちと祭司長は話し合って言った。
「もし天からのものだと答えたら、それではなぜ彼を信じなかったのかと言うだろう。もし、人からのものだと答えたら群衆が怖い。というのは人々は皆ヨハネを預言者だと信じているから、彼らは怒って私たちを襲うだろう。」
そこで長老たちと祭司長は「分からない」と答えた。
そこでイエスも「では私も何の権威で語るか言わないでおこう」と言った。スリリングなやり取りである。
エルサレムに近づき、エルサレムに入ってからのイエスは並みならぬ緊張感で行動している。
死を覚悟しているから只ならぬ空気である。
あたかも旧来の論理と私の柔和な詩的な働きのどちらが天に届くのか、と問うているようだ。
そこまで読んで本を閉じ、チェット・ベイカーのメンブラン社の10枚組マイ・ファニー・ヴァレンタインを聞く。50年代の録音だがいい雰囲気を醸し出している。
そのあと、友人から電話があり、新宿で飲む。
スティーヴ・ウィンウッドはブルー・アイド・ソウルの天才だ、
金沢で行くのは着弾点観測所跡だ、金沢のタウン誌はいい、
寺尾沙穂はライヴで聞いたら号泣ものだ、
はっぴいえんどの「風を集めて」を和田アキ子が歌うのか、
映画「ビートニク」は主題歌が可笑しい、「たまの映画」には興味があるなどと語っていた。
帰ってルドルフ・ケンペのミュンヘン・フィルとのブラームス全集を聞く。
止まらない柔和な声の働きが何光年も越えて波打つ



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<span itemprop="headline">チェコ情緒あふれるカフェ</span>

2011-01-04 23:00:10 | 無題

昼はハイティンク&コンセルトへボウの「大地の歌」をオーディオ・テクニカのヘッドフォンで聞く。
そして教文館で出ているキリスト教の事典を拾い読みして過ごした。
銀座の教文館書店は世界各国の聖書や関連書があり、楽しめる。
夕方家を出て、新宿の中古CD店の初売りセールを見る。
クレンペラーの「復活」を何種類も手に取る。
私が持っているメンブラン社のvocal symphoniesに入っている、フェリアー独唱の「復活」もあった。
何も買わなかったが楽しかった。
新宿で友人と待ち合わせて、四谷三丁目のチェコ料理店だぁしぇんかに行く。
だぁしぇんかはチェコの絵本を店内に置いたカフェふうのお店。
友人とビールを飲む。ブドヴァル・ビールとエーデル・ピルス。
友人はブドヴァル・ビールを飲んで、ビール本来の味がする、と言っていた。
カマンベール・チーズのマリネをつまみに食べたが、変わっていておいしい。
ブランボラークというハッシュドポテトを焼いたような料理を食べ、
ビール煮込みのグラーシュというビーフシチューのような料理を食べて談笑した。
トム・ウェイツふうの曲が掛かるチェコのラジオ放送が店内に流れていた。
そこで友人に冬の金沢や京都の旅の話を聞き、
金沢のトーチカで歌って録音した話を聞き、シベリウスのフィンランディアを日本語で歌った話を聞き、市場で買ったくわいと餅をお土産にもらう。
それから、四谷三丁目のフレッシュネス・バーガーでコーヒーを飲み、
友人がオルガンジャズ倶楽部で歌ったウォーキング・オン・ザ・ムーンや
リトル・ドラマー・ボーイやエイント・ザット・ア・グッド・ニュースなどの曲の説明を聞き、
友人と別れて帰宅する。
だぁしぇんかは料理もビールも美味く、チェコ情緒満載で素晴らしい。
私は前からカレル・チャペックの絵本ダーシェンカが好きでチェコ前衛絵画展にも行った。
チェコの指揮者ラファエル・クーベリックやヴァーツラフ・ノイマンも好きでこの店を応援したい。
チェコ情緒あふれるカフェで一呼吸 痛みを忘れしばし語らう



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