超人日記・俳句

自作俳句を中心に、自作短歌や読書やクラシックの感想も書いています。

<span itemprop="headline">オルフェウス、詩人と蜜蝋</span>

2008-10-30 19:46:22 | 無題

最近、眠る前にケレーニイの「ギリシアの神話 英雄の時代」を読んでいる。神話の有名なものばかりではなく、多様な異説を盛り込んだ本で、入り組んでいて難解だが、自分の興味を持っている話だと頭に入る。おもしろいのは固有名詞の原義がところどころに書かれていて、オデュッセウスは憎まれっ子という意味だ、とかアルゴスというのは明るい国という意味だとか意表を突かれる。そういうことは辞書にも載ってないので、貴重である。オイディプスの話、ヘラクレスの話、など込み入った異説を斜め読みしたが、芸の肥やしになった。なかでもオルフェウスの話は興味が尽きない。
プラトンの国家篇でオルフェウスとムーサイオスの書の山を築いた人々は、「清らかな生を送った人の死後の褒美は永遠の陶酔である」と言っている、と書かれている。このムーサイオスというのは何者かよく知らなかったのだが、時にオルフェウスの息子と言われることもあるが、むしろ有力なのはオルフェウスの弟子だったという説である。ムーサイオスというからミューズの血筋であるといわれる。
オルフェウスは蜂飼いアリスタイオスに襲われて毒蛇に咬まれて死んだ妻エウリュディケを取り戻しに冥界へ降りて行き、竪琴と歌で冥王ハデスを説得し、妻を連れ帰る許しを得た。ただし地上に上がるまでは決して妻のほうへ振り返ってはならないと言われ、心配の余り振り返って妻を再び失った。冥界へ行って生きて帰ってきた、そのこと自体、シャーマンの特徴である。音楽で万物を操る音楽系呪術師である。対する蜂飼いアリスタイオスは、蜂蜜や蜜蝋の薬効は古代に強調されていたし、医神としても信仰されていたので薬物系呪術師である。
古代ギリシアのシャーマニズムの痕跡を留めるオルフェウスだが、あの世の知識があるとみなされて、徐々に秘教の教祖とされた。オルフェウスは地上に戻ってから女を軽蔑して暮らしていた。そのことがトラキアの女たちの反感を買い、バッコスの秘儀でオルフェウスは八つ裂きにされた。オルフェウスの頭部は川に流され、レスボス島に流れ着いたが、彼の頭部はアポロンがやめさせるまで予言の歌を歌い続けていたという。トーキング・ヘッドである。オルフェウスという名は「切り離された者」というのが原義で、彼は妻から、胴体から、切り離されることになるのである。オルフェウスは詩人や楽人のイメージの元型を成し、今日に至る。デヴィッド・シルヴィアンやヨゼフ・ボイスの作品にはその秘教の香りが漂っているように思える。



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<span itemprop="headline">ルーツ学の系譜、あるいは、ハードダイヴィング</span>

2008-10-29 19:35:40 | 無題

最近、フォークソングやカントリーやゴスペルなどを含めてルーツミュージックという言葉がよく使われる。ボブ・マーリーはレゲエをルーツロックの一つだという。これを学問の世界にあてはめてみたらどうだろう。最近友人に、今気に入っている研究者はいるかどうか聞かれて迷った。何か流行りの人は除外しよう。ではどんな学者が好きなのか。白川静、梅原猛、五来重である。
白川静さんの、漢字の象形文字の本来の意味を説明する面白さは、格別である。老人ながら私と同じで呪術やシャーマニズムが好きなところも肌に合う。文化の呪術的起源を探る。ずばり狙いはそこだ。「字解」や「字訓」では多くのことを気づかされた。漢字だけでなくやまとことばの元来の意味にまで踏み込んでいて、魅惑的だ。土橋寛氏の「日本語に探る古代信仰」を読んでこういうことをさらに知りたいと思ったことがあるが、その願いは「字訓」で満たされた。
それから梅原猛さんも、縄文文化とアイヌ文化などに日本の原郷を見て、そこから日本人の信仰を大局的に腑分けしてゆく、多少力技だが貴重な学者さんである。さらに私は宗教民俗学の五来重さんの、民間信仰を起点に日本の信仰の豊饒さを語る著作に魅かれ続けている。エリートの仏教の世界とは違った山伏や聖や無名の人々の民間信仰こそ日本人の精神の核心なのだと言い切る五来重さんは卓見の人物である。
これらの雑多な信仰を純粋ではないとして禅者の秋月龍氏は嫌うが、仏陀になる純粋な道だけを認めるとなると民俗の豊かさを切り捨てることになる。ちなみにそのような潔癖な禅者秋月龍氏のひたむきさも、それはそれで好きである。
このように、自分の好きな学者たちを並べてみると、まさに一人一人がルーツ学の道を歩む人々であることがわかる。私が学生時代、ディオニュソスの研究に時間を費やしたのも、文化の上部構造ではなく、より古層へと向かおうとする傾向の結果だった。ルーツミュージックやルーツロックがあるように、学問にもルーツ学とでもいうべき流れがあり、どうしても私はそちらのほうに魅かれてしまう性質らしい。青山陽一さんの「キング・オブ・ダイヴィング」という歌の歌詞に、「やるならハードダイヴィング、そう言うなって」という一節があるが、私の好みの傾向は、やはりハードダイヴィングである。



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<span itemprop="headline">照屋林助、亜熱帯の七福神</span>

2008-10-25 23:04:24 | 無題

学生の頃、映画「ウンタマギルー」に出てきた、沖縄言葉と本土言葉と英語を交えて三線を弾いて、奇妙な歌を歌う床屋(バーバーテルリン)を演じていた「てるりん」こと照屋林助氏が強烈な印象だった。何しろこの人面白い、変ってる、バイタリティがある、いろんな沖縄の背景を体現している、ということで魅力的だった。こんな人物を輩出する沖縄って凄いなと思った。そのてるりんの自宅兼スタジオが、普通に観光ガイド雑誌に載っている。コザの町だ。「ウンタマギルー」の影響で沖縄を訪れた。
映画の中でパスティシュに混ぜこまれていた黒糖、山羊、豚、聖なる森(うたき)、アメリカ兵などが普通に目に入る。ああ、凄い。「ウンタマギルー」は作りはシュールだが素材は本物だ、魔術的リアリズムだと妙に感心した。ウンタマギルーふうのゴムのカツラをかぶって、海辺で写真を撮った。特に気に入ったのが、竹富島だ。景観保存指定地区だけあって村落も海も美しい。私にとって天国に一番近い島は竹富島だ。現地に行って知ったのは種取り祭という民俗芸能満載の祭りを毎年秋に執り行っているという。これは行かなくてはと思い翌年だったか種取り祭を見に行った。芸能や祭祀の起源を思わせる祭りだった。普段は土産物を売っていたりするおばさんが、実は神司という偉い神職だったりする。
最初に竹富島に行った帰りにてるりんの自宅兼スタジオを訪れた。幸いてるりんさんがいて、客は二人しかいないのにライブをやってくれるというのだ。すっかり感激して、その日のジェット機をキャンセルして心行くまでライブを楽しませてもらった。これが、今はCD化されているが、民俗学や国文学の含蓄に富んだ漫談とオリジナル曲で、その造詣の深さに心打たれた。ライブスタジオからは書庫も垣間見え、折口信夫や伊波普猷の本がぎっしり詰まっていた。
てるりんは、ポリカインという水虫の薬の宣伝で本土でも多少有名だったが、会ってみるとまさに笑いの巨人である。自らワタブーショーというその芸は、沖縄で一世風靡した後、不遇だったころ竹富島の民謡などを懸命に採取して磨きを掛けたものだ。それから沖縄の国際大学の国文科で先生が説明しててるりんが歌うという貴重な経験を積んだ蓄積もある。そうしたすべてのものが、その時のワタブーショーには結晶していた。思えば映画「ウンタマギルー」と照屋林助氏からは多くのものを与えられた。てるりんこそ、亜熱帯にふさわしい七福神の一人ではないかと私は思う。



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<span itemprop="headline">変性意識の現象学</span>

2008-10-25 01:26:57 | 無題

ヨーロッパの哲学史の難問に主体は客体を正確に捉えているかという問いがある。けれども、フッサールはこの問いは不毛で答えが出ないからやめようと言った。そのかわり、ノエシス(能動的意識)とノエマ(受動的意識)に主観を分けて、物事がどのように意識に現われてくるのか、その瞬間を先入観なしに記述しようとフッサールは提唱した。フッサールはこれを厳密学として諸学の基礎に位置づけようとした。だが、フッサールの唱えた現象学はその後数々の個性的な学者たちによって盛んに応用された。
まず、「先入観なしに」というのが魅力的だった。既成の知識に頼ることなしに、原点に返って、意識に物事が立ち現われてくる瞬間を記述する。それまで精神分析の方法論で詩人のイメージを分析していたバシュラールが、詩人の意識にイメージが初めて立ち現われるその瞬間を追体験してそれを記述しようと提唱した。「夢想の詩学」と「空間の詩学」でバシュラールはこれを実践した。また原住民の眼に人類学者がどのように立ち現われてくるのか先入観なしに記述しようと言った小川ただし氏の「現象学と文化人類学」もある。
現象学は他者の意識をいかにして知るかを課題とした。そこで各分野の人々が、たとえば歴史家ヴァン・デン・ベルグが「ルネッサンスの解剖図には画面正面を見ている解剖医が描かれているのに対し、中世の解剖図は解剖医が申し訳なさそうに死者の顔を見ている、こうした違いから、解剖が歴史の中で意識にどう立ち現われてきたのかを先入観なしに知ることができる」と考えた。現象学はフッサールばかり読んでいても普通の人は近寄りがたい。むしろ先入観なしに他者の意識に物事がどう現れるかに具体的な分野で取り組んだ人々の著作が、スリリングである。
たとえば、精神異常の人にカメラを持たせたら、彼らの意識の一端が窺えるのではないか、とか、犬がどのような目線で物事を見ているのかとか、宇宙飛行士にどのような意識の変化があるか、赤ん坊の世界はどう開けてくるかなど、現代日本の大多数の大人よりちょっとずれた存在者の意識を先入観なしに知ることができたら、多くの人にとって何よりの朗報ではないか。このような視点は「周縁の現象学」の糸口になり得ると私は思う。意識の果てを見てみたい、というとジョン・C・リリーに近くなってくる。「周縁の現象学」のその先は、アルタード・ステイツ(変性意識)の現象学なのだ。



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<span itemprop="headline">ニーチェ対ハイデガー</span>

2008-10-23 23:41:01 | 無題

ハイデガーはナチスに期待して期待を裏切られてから、ニーチェの本格的な研究に入った。よく言われるようにニーチェの「力への意志」に近代戦争の起源を見たとまでは言い切れない。けれどもある種の憤りがニーチェ研究に向かわせたことは間違いない。
ハイデガーは人々の存在忘却を憤る。人々は、そして形而上学さえも、ひとつひとつの個物を成り立たせている在るという働きを、物事を在らしめるという働きを忘れている。私が、木立が、教会の建物が、小鳥が、何気なく成り立っているのも、この在るという働きのお陰ではないか。それなのに形而上学者でさえそのことを深く考えずに存在忘却している。
そもそも近代の技術文明自体が存在忘却のために危機に瀕している。近代技術は自然から資源を搾取する。それがテクノロジーである。だが、古代ギリシアではその語源テクネーはもっと違った意味合いを持っていた。テクネーはポイエーシス(創作・詩作)の手助けをすることだった。ポイエーシスとは、ピュシス(自然)の立ち現われを迎え入れることだった。自然が無限の形で現象界に立ち現われてくるその神秘に立ち会うのがテクネーの原義だった。この場合の自然とは、ほぼ自分の言う存在の働きと同一である。それなのに近代技術は自然を物質としてみて資源を取り出すことしか考えていない。これこそ近代人の存在忘却の証である。最後の形而上学者ニーチェも結局のところ存在忘却している。そんなふうにナチズムに裏切られたハイデガーは思索した。
だが、後の世から公平に見て、それはニーチェを過小評価しているのではないか。ニーチェこそ、なぜ本質世界と現象界を分けて前者を良しとし、現象界を、このリアルな地上を貶めるのか、むしろ現象界の微妙な差異を探究することで十分ではないか、天国ではなく地上を、この生を肯定して、何度でも何度でもこの生を繰り返すとしても、この生を自分で引き受けようと言った形而上学の否定者であった。
それに私はニーチェの「力への意志」が存在忘却だとは思えないのだ。すべてのものには力への意志がある。私が、木立が、教会の建物が、小鳥が、何気なく成り立っているのも万象を貫く力への意志があるからだ、とニーチェは言った。だとすれば、この潜在的な力への意志とは、万物を在らしめている働きと極めて近い作用ではないか。おそらく意志は自力で存在は他力という点ですれ違っているだけではないかとさえ私には思える。ハイデガーがニーチェを存在の哲学の先駆者とみなしていたら、実り豊かな結論へ導かれたのではないかと思えてならない。



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