超人日記・俳句

自作俳句を中心に、自作短歌や読書やクラシックの感想も書いています。

<span itemprop="headline">ピアノソナタとロシアの四次元</span>

2010-07-24 23:36:59 | 無題

最近、オルフェオのグルダの50年代のベートーヴェンのピアノソナタを聞いている。
50年代の演奏はイヤホンで聞くと粗さが目立つが、スピーカーなら充分楽しめる。
これはグルダなのに軽くない。まじめなグルダを聞いてみたい人は必聴である。
ベートーヴェンのピアノソナタでまずお勧めなのはヴィルヘルム・ケンプである。
芯が太く訴えかけてくるモノラル盤も捨てがたいし、廉価盤のステレオ盤も静かな詩情があふれる。
その他アマデオ原盤のグルダのピアノソナタは軽快で、これぞグルダの真骨頂と言える。
それからクラウディオ・アラウのベートーヴェンのピアノソナタはゆったりとした余裕のテンポで、聞く人を夢想に誘う。
私は10年以上前から日記を書いていて、眠れないときに読み返している。日記を読むと今は聞いていないCDを熱心に聞いていたりして、思い出して古いCDを引っ張り出して聞いている。
マゼール&クリーヴランド響のベートーヴェンの交響曲全集は音がかすれていて響きが古雅でいいとか、ビエロフラーベクのブラームス交響曲全集は調和が取れていて美しいとか、スクリャービンのピアノソナタは革命前夜の神秘的な空気を伝えている、など今は忘れてしまった一行の感想が記憶を呼び覚まして追体験の音楽鑑賞へ誘われることも多い。
最近読んでいる亀山郁夫氏の「終末と革命のロシア・ルネッサンス」もいよいよ佳境に入り、ロシア未来派のフレーブニコフとか神秘と道化の革命叙事詩「ミステリヤ・ブッフ」のマヤコフスキーとか、白地の上の白い正方形の画家マレーヴィチなど、ロシア革命を代表する芸術家たちの花盛りである。
彼らに共通しているのはフレーブニコフの言う地球のヴェリミール化すなわち「ぼくの革命」に地球全体が呑み込まれてゆく感覚の共有である。
マレーヴィチの場合、それは見えざる四次元の可視化・顕在化と不可分だった。
半ば祝祭的、半ば青春悲喜劇的な加藤直演出のミステリヤ・ブッフを神奈川県民ホールで興味深く見た記憶がよみがえってきた。
ピアノソナタを聞き、ロシアの四次元感覚に思いを馳せる真夏の暑い夜である。

残像や思いが闇を駆け巡り 眠れぬ夜に誰の詩を読む



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<span itemprop="headline">ロシア象徴派とツァラトゥストラ</span>

2010-07-21 00:52:51 | 無題

最近、亀山郁夫氏の「終末と革命のロシア・ルネッサンス」を読んでいる。
今日はロシア象徴派の詩人アンドレイ・ベールイとアレクサンドル・ブロークの項を読んだ。
彼らはともに哲学者ウラジミール・ソロヴィヨフのもうすぐ世界の終りが来るという預言に心を奪われた。そして世界の終わりを待望し、終末に現れる理想の女性ソフィアを熱望した。
彼らはそれぞれに、自分の憧れの女性に理想の女性ソフィアのイメージを投げかけ、彼女たちを崇拝した。
ベールイはアルゴナウタイ、つまり「古代ギリシアの黄金の羊毛を求めるアルゴ船の乗組員」という名の芸術団体を結成し、世の終わりを待ち望んだ。今日の夕陽の色はただ事ではない、この世の終わりの予兆に違いない、などと話し合った。
彼らにとっては何もかもが世界の終りの兆候となりえた。彼らは兆候知の病に取りつかれたと言ってもいいだろう。何気ない出来事がこの世の終わりの前兆に感じられ、尋常ではない時間を生きていることに陶然とした。
けれどもいくら待ってもソロヴィヨフの説いた時間の終わりは到来しない。ベールイもブロークも、世の終わりを待望し、理想の女性ソフィアを待ち望み、やがては失望に終わるプロセスを捉え直し、自分たちの悲喜劇を笑うアイロニーの視点を持つに至るのである。
そこでブロークは神秘家や理想の女性や道化が登場する狂想曲的なコメディー、「見世物小屋」を書き、
これをメイエルホリドが演出した。
もはやブロークは世の終わりを待ちわびる神秘家ではなく、苦悩を通じて歓喜へ至るディオニュソスに自分をなぞらえていた。
ここで決定的な影響を果たしたのはニーチェ愛好家のロシア最大の古典学者イワーノフである。
私は一人のディオニュソス研究家イワーノフが、ロシア象徴派とその後のロシア・アヴァンギャルドの芸術家たちを動かす立て役者となった時代の面白さに思いを馳せた。
異様な光を放つ夕暮れの空を見ながら、ルドルフ・ケンペのリヒャルト・シュトラウス集を取り出して、「ツァラトゥストラかく語りき」を真摯に聞きたくなって本を閉じた。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<span itemprop="headline">裸の脳で夜に飛び込め</span>

2010-07-18 18:42:43 | 無題

先日、昔からの友人と喫茶シュベールで会い、様々な雑談をした。この友人は白隠禅師の座禅和讃が好きで、バンドで歌っているという。スティーヴ・ライヒのCDとインドのラーガのCDと奥村一郎氏の著書「断想―足元を深く掘れ」を貸してくれた。奥村一郎氏は神父だが仏教に造詣が深い。そしてエッセイの達人である。こんなふうに、芯がぶれずに話を突き詰めてゆくエッセイが書けないものかと思う。
奥村一郎氏は小さなエピソードから話を始めて、信仰者の確信を揺さ振り、信仰をより深めるための根本的見直しを迫る。これが「断想」の基本である。
だが話は自在に飛び、水のなかでは生きられるが氷のなかでは生きられない、とか海は母だが母には負の面があるなどと切り込んでゆき、マリアやイエスを思って生きることの肝要さに思い至るのである。
このようなエッセイが言葉を切り詰めて行く仕事をしている友人には訴えるものがあったのだろう。
そういう世界のおすそ分けを貰った気分である。
寝る前にこの「断想」をめくりながら過ごしているが、研ぎ澄まされた良い感じの文章である。
夜、あふりらんぽのホームページでプロモーション映像を見た。先日坂田明氏と共演したあふりらんぽのPIKAのドラミングとインプロビゼーションのボーカルが強烈だったので、あふりらんぽに興味を持ったのである。そこにはやりたい放題のガールズロックの世界が広がっていた。新作のウィ・アー・ウチュウノコはヨーロッパで絶賛発売中だという。だがこのあふりらんぽはもう解散したらしい。もったいないが、PIKAとユニットを組んでいたギター&ボーカルのONIのソロも良い。お互い一人で充分爆裂できるようになったのだろう。坂田明氏と共演したときのPIKAも、「いいな、いいな、ここにいるみんなの顔がいいな」で始まり「私もいい顔しているかしら」で終わる強烈な即興ソングだった。
最近、また前衛的なものを求めて、亀山郁夫氏の「終末と革命のロシア・ルネッサンス」を読んでいる。こういう世界を仕事に生かせたらと切に思う。前衛というと私はダダとかシュルレアリスムとか未来派とか構成主義とかフォルマリズムを持ち出してしまうが、現代の前衛は坂田明氏とPIKAの世界である。
「断想」の世界とPIKAの世界はかけ離れているが、どちらも上辺の自分を脱ぎ捨てている点が似ている。
掘り下げてどこに向かうか宇宙の子 裸の脳で夜に飛び込め



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<span itemprop="headline">多難な日々の軽い抜け口</span>

2010-07-07 23:25:45 | 無題

音飛びのするCDを研磨するサービスに送付したら、新品同様になって返って来た。便利な仕組みである。今年の誕生日はアンドロメダのワルターの旧ベートーヴェン全集を聞き、第九には特別感を味わった。このアンドロメダのCDは良いことを再発見。その他成城学園のエルヴェという料理屋さんでハンバーグ・ランチを食べた。エルヴェは鶏肉と五穀米のカレーが美味しかったのだが昼のメニューから消えていた。前の日にレカミエのショートケーキを買って食べた。誕生日当日にはクラウディオ・アラウのショパン・ピアノ曲集のノクターンを聞いて涙腺が緩んだ。アラウのノクターンは泣ける。普段の暮らしで堪えていることがたくさんあるので、アラウのショパンのノクターンを聞くとどっと来る。
今日は梅園のわらび餅を買って帰り、シンプルライフで羽織るための薄手のシャツを30%オフで買って来た。やはりたまにはおしゃれしたいのである。ここ数年おしゃれのために服を買うことがなかったので小さな変化である。
最近は毎日仕事以外はマーラー三昧である。シノーポリの激安全集をはじめとして、ハイティンクのアダージョ~マーラーに聞き惚れ、また初心に帰ってヴァーツラフ・ノイマン&チェコ・フィルのボヘミア的なマーラー全集に没頭している。私はなぜこんなにマーラーが好きなのだろう。思うにメロディのおもちゃ箱をひっくり返したような曲の多様性がワンダーランド的で好きなのである。陰翳があるところも堪らない。
そう言えば最近バルトークとコダーイの管弦楽集六枚組を手に入れた。梅雨の晴れ間にウォーク・マンに入れて川のほとりを散歩すると詩的な情感たっぷりでいい感じである。特にバルトークのダンス組曲が気に入った。戦場のメリークリスマスの映画音楽に入っていても違和感のない曲が多い。思うに坂本龍一氏は芸大で教わった日本のバルトーク、民族音楽学者小泉文夫氏の強い影響で曲作りを行い、映画音楽で民族音楽的な西洋音楽を追求したのだろう。飽くまで西洋音楽のフィルターを通して聞こえる民族音楽を志向している。川辺でそんなことを考えながら、バルトークの微妙にフォークロア的な旋律に身を委ねて歩いた。そういう時間があるのは幸せなことだが、人生の万華鏡はときに辛辣で、ときに悲しい。
私が音楽の話ばかりしているのは多難な時を忘れる夢の抜け口であるからだろう。

出口なき多難な日々の乱気流 音楽だけが夢の抜け口



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする