超人日記・俳句

自作俳句を中心に、自作短歌や読書やクラシックの感想も書いています。

ガンダム読本で脳を遊ばす

2021-10-29 21:12:43 | 無題
今日は、道内の古書店から、ガンダム・オリジン読本が来て
熟読した。絵が多いので疲れなくていい。
気晴らしは子どものころ読んだマンガやアニメや特撮の
まとめ本に限る。
気力・体力が底をつきそうなので、前向き系はちょっと
休んで、児童娯楽系ムックに走る。
意識の水準が落ちているとも言うが、気散じしないと
持たない。
ガンダム・オリジンは話はよく出来ているが、
安彦良和氏の後付けの創作ばなしである。
逸話のエピソードの種は、原作に蒔かれている。
それをもとに、安彦良和氏が作話・作画して、
込み入った話の種明かしをして見せている。
気晴らしとしては、相当楽しめる。
明日は、ガンダムVSザクというムック本が来る。
いい大人が何やってるんだろうと思うが、
時には逃避しないと持たない。

懐かしいマンガの糸を手繰り寄せそうだったのかと脳を遊ばす
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秋只中に作る数句

2021-10-26 06:51:36 | 自作俳句
秋真っただ中なので俳句歳時記で作句する。

故郷を遠く離れて火も恋し
北風に吹かれて歩く冬支度
弥勒面 子の手を引いて豊年祭
カーテンを開けると見える朝の月
ボロ雑巾バスを乗り継ぎ紅葉見る
面影を忘れられない秋思い
心なし消え入りそうな秋の蝶
自然から甘露滴る熟し柿
ふさぐ日もなぜか嬉しい栗の菓子
街角で行き交う頭上七かまど
通勤の悩みを忘れ秋桜花
お御籤の待ち人来たり白粉草
一枚の葉も胎蔵のさや隠元
雪が降る前の幕間に 草紅葉
思い出を繋いで見せる数珠玉花

お御籤の待ち人来たり白粉草忘れられない思い止まらず
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エデンの園的な世界観

2021-10-25 20:35:29 | 無題
中古で買った、名言集「はじめての大拙」読み耽る。
自然ということ。あるがままに伸び、溌剌として生きる。
禅とは、その核心はことばにできぬものである。
蜜を舐めたことのない人に、その甘さを伝えることはできない。
ヒマラヤの山で修行しなくても、道端の葉っぱを見て
この世の深いところに触れることもある。
禅とは、生命の核心をつかむことである。
等、書いてあった。
私が思うには、禅の修行をすることだけが、
心の目を開く道ではないはずだ。
闇や苦悩や理不尽を経てきて、
挫折したものを乗り越える人は、
寺で座っていなくても、世界の奥の
エデンの園に気づき、現実の背後のエデンの園に触れ、
一個人として生き、没するだろう。


万物はエデンの園より生まれ出てエデンの園へ帰り安らぐ
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賢者コヘレトの虚無と神

2021-10-24 10:01:23 | 無題
札幌は、秋晴れ。
最近は織り柄のダークグレーの秋冬ジャケットを着て、
上に、茶系の混毛のコートを着て、町を歩いている。
昨日は、コヘレトの言葉という旧約聖書の一篇の話を
Eテレのこころの時代で観て、そのあと手持ちの聖書で
コヘレトの言葉を読む。
コヘレトは、預言者ではなく、知恵者で、
私は生涯を勉強に捧げ、賢者になった、と本人が言っている。
こういうのは珍しいのではないか。
哲学史でそういうことを大っぴらに自慢するのは
ニーチェぐらいである。(ヘーゲルやハイデガーも内心では思っていた)。
このコヘレトが、すべては空しい、私はあらゆることを学び、
経験した。一切は流れゆく。だから、神に頼るしかない。
神はすべてのことをなす。神の定めた道を生きるのだ、という
結論になる。翻訳の問題で新共同訳では、一切は空しいとされていたのが、
最近の(新)教会訳では、すべては、空。に直されている。
空というと、色即是空の空みたいで、仏教的なニュアンスが入る。
一長一短ではないか。コヘレトの言葉を意識していなかったので触れてよかった。

一切は全て空しく流れゆく最後は神に心委ねる
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それは、それとして。

2021-10-21 19:57:42 | 無題
今日は一日中、雨だった。
私はシンドいな、と思いつつ、テレワーク。
その後、リアルワークの準備に追われ、
それから、聖ベルナルドの原文を訳文と照らし合わせて読む。
私が学生の頃、照明のテレビ広告で
薄暗い灯りのなか、中世ラテン語の朗読が流れるのを見て、
心惹かれた思い出がある。
自分もいつかそういう世界に近づきたいと思った。
流暢なラテン語の朗読は叶わないが、
聖ベルナルドの中世の説教を訳文と照らし合わせて読む
ところまできた。
最近、「はじめての鈴木大拙」という
名言集を注文した。
大拙記念館に行くと、「それは、それとして。」
という書が額に掛けてあるという。
人の悩みをじっくり聞いたあと、「それは、それとして」と
言ってから、何気なくヒントになる話をして終わるという。
それは、それとして。なるようになる。あるべきようは。
ちょっと投げ出してみるのも、いい手かもしれない。
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