超人日記・俳句

自作俳句を中心に、自作短歌や読書やクラシックの感想も書いています。

<span itemprop="headline">クレンペラーと雪の結晶</span>

2010-12-24 19:19:30 | 無題

今日はポータブルCDプレイヤーにシューベルトのミサ曲を入れるかブルックナーのミサ曲を入れるか迷った末、ヨッフム指揮のブルックナーの四つのミサ曲を入れて電車に乗り、タワーレコードに行った。
店員の人に聞いて、クレンペラー、ボールト、ライナー、ストコフスキー指揮のマーラーの交響曲2番、3番、4番、8番の四枚組セットの vocal symphoniesというメンブラン社のCDを手に入れた。
前から自分への贈り物として目をつけていたのだが、今日ようやく手にすることができた。
帰って冷凍のピザをアルミホイルで焼いて食べ、ゲヴァントハウス四重奏団のベートーヴェン弦楽四重曲集を聞いた。これもメンブラン社である。
母と喫茶店で待ち合わせてカシスオレンジを飲んで話した。帰りに雑貨店に寄って雪の結晶の柄のスリッパをプレゼント用に買った。母には讃美歌集二枚組をプレゼントした。
帰って vocal symphonies のクレンペラー指揮の「復活」を開封して今聞いている。録音が古いがたいへん古雅な良い演奏である。残りの3枚も楽しみだ。
その他ホグウッドのベートーヴェン交響曲全集もこの時期聞くことにしている。
ホグウッドは古楽器の演奏で私は古楽器関係には疎いのだが、ホグウッドはモーツァルトが定番だがベートーヴェンも捨てがたいという評判である。古楽器はひそやかな時季にふさわしい。
それから今月はズスケ四重奏団のモーツァルト四重曲集を聞いて過ごした。
ズスケ四重奏団はベートーヴェンが素晴らしいのだが、モーツァルトもなかなかのものだ。
このところエリアーデの宗教学の本を数冊読んだ。
特に法政大学出版局のエリアーデの「聖と俗」が素晴らしい。宗教がこの世に立ち現われてくる瞬間を追体験して記述しようとするもので、宗教的人間の原初の意識を垣間見ることができる。
それから高尾利数の「ソシュールで読む聖書物語」もイエスを囚われのない言葉で話す人だと説明していてハッとさせられる。
クレンペラーの「復活」もヴォーカルの部分に入った。
今日も「ソシュールで読む聖書物語」を読んで、一日を終えようと思っている。

一年を無事に過ごした安堵感分け合うような雪の結晶



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<span itemprop="headline">クリスマスと束の間の音楽</span>

2010-12-21 20:30:24 | 無題

最近よくアンセルメを聞く。アンセルメのベートーヴェン交響曲全集や、ドビュッシーやラヴェルを聞く。アンセルメのベートーヴェン交響曲全集は音色が変わっているというので一時評判になったという。確かに金管楽器が前面に押し出されていて、多少金属的に響く。フランス語圏では冷たい演奏とされ、ドイツ語圏ではその音色が歓迎されたというから不思議なものだ。ドビュッシーやラヴェルもいい。
今日は実家でストーブを買うというので百貨店に付き合った。私が持っているヤマゼンのカーボン・ヒーターをお勧めした。
昨日は回転ずしで食べて友人と話した。この友人はサイレント・ナイトやリトル・ドラマー・ボーイを自分でアレンジしてバンドで歌っている。その歌詞の話などを聞いた。
今日はギリシア語英語対訳新約聖書を読んで、イエスが自分の受難を予告し、あなたが天の国の王座に着いたら私の息子たちをあなたの隣に座らせてくださいと言われて、あなたたちは自分が何を望んでいるのか判っているのか、私がこれから飲む杯を飲めると言うのか、といさめた部分を読んだ。
それから本を置いて、小澤征爾指揮ボストン交響楽団のマーラーを聞き、それからモーリス・アブラヴァネルのか弱いマーラーを聞き、最後にエド・デ・ワールトのマーラーを熱心に聞きこんでいる。デ・ワールトは感動ものだ。
クリスマスに自分へのプレゼントを贈りたいのだが、相応しいものが見つからない。
タワーレコードで見かけたマーラーのvocal symphoniesというのが気になっているのだが、再び行く機会がないままになっている。
そこで今日は自分の持っているマーラーの復活の聞き比べをして、小澤征爾、アブラヴァネル、エド・デ・ワールトというふだんはあまり聞かない数品を取り出してみたのである。
なかでもアブラヴァネルなどよほどの物好きでないと聞かない代物なのだが、私はかなりの物好きとみえてオケの弱いアブラヴァネルに抒情さえ感じた。
一年でいちばん特別な時季をそのようにして、自分が持っている懐かしい音源を聞き返し、ギリシア語英語対訳新約聖書をひもとき、シュトーレンをちびちび食べて過ごしている。私がこれから飲む杯を飲めると言うのかと詰め寄るイエスの悲愴な覚悟に思いを馳せながら、年末の貴重な時をひっそりと暮らしている。



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<span itemprop="headline">レノンと達磨の掛け軸</span>

2010-12-12 14:07:01 | 無題

ジョン・レノンの命日の深夜、テレビで映画「イマジン」を放映していたらしく、友人が映画「イマジン」に白隠禅師の達磨図らしき掛け軸が映っていたとメールをくれた。私は宝島社で出た追悼本に載っていた記事で確認し、羽黒洞という骨董店で買い求めたらしいと返事を打った。すると「ジョン・レノンと日本のこころ」というサイトに羽黒洞のことやオノ・ヨーコが鈴木大拙の講義に出席してそこでジョン・ケージと出会ったりして、ジョン・レノンに影響を与えていた旨が書いてあることを教えてくれた。オノ・ヨーコが鈴木大拙の講義を受けていたとは知らなかった。ジョンはオノ・ヨーコに「白隠のどこがいいの?」ときいて、ヨーコは「西洋の画家は絵を完成しようとして何度も線をなぞるでしょう。白隠は一度書いたらそのままで良しとするの、」と答えたという。ジョンはその話が気に入って、その後パパッと絵を書くようになり絵がすっきりした、という逸話がそのサイトに載っていて、オノ・ヨーコの凄さが伝わってくる。
オノ・ヨーコは背景に禅を含む東洋の教養を背負い、しかもマルセル・デュシャンの流れを汲む前衛の旗手として活躍していた。アート・スクールに通ったことはあったが、アート・スクールではヴァン・ゴッホまでしか教えて貰えなかったジョンは、自分の知らない東洋や禅画や俳句や前衛芸術をよく心得ているオノ・ヨーコの凄さに打たれ、恋に落ちた。
オノ・ヨーコとの恋愛は単なる再婚ではなく、価値観を丸ごと引っ繰り返される革命的な出会いだった。
後年、ジョンは言っている。私にとって最高の詩は俳句であり、最高の絵は禅画である。
ジョン・レノンにとって、東洋と禅とは装飾を取り払い、裸の眼で見て、裸の自分を表現することだった。オノ・ヨーコと出会って作風がどんどんシンプルになり、表現が裸になって行った。その代表例がアルバム「ジョンの魂」であり「イマジン」である。また晩年の「ダブルファンタジー」や「ミルク&ハニー」には飾らぬジョンの禅画のように洒脱な軽みがあり、日本文化を消化したジョンの到達点が窺える。
イマジンも日本の批評家は色々揶揄するが、臨済録の一ページのような世界をジョンとヨーコふうに表現した歌なのである。
ジョン・レノンの心の軌跡を綴る日記風な表現、俳句と禅画と前衛を心得たヨーコとの出会いによる裸の自分の探究、そういった要素が結晶してジョン・レノンの独自な世界がかたちを成し、難解なオノ・ヨーコよりビートル的な親しみやすさも加えた魅力的な作品群が残ったのである。
奥底の心の叫び呼び覚ます出会いが生んだ地声での歌



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<span itemprop="headline">クリスマスと冬の旅</span>

2010-12-04 16:33:44 | 無題

汝の富を天に築きなさいという意味のギリシア語を確かめようとして、マタイによる福音書を開いたら、しおりにしていたジョージ・ハリスンの「慈愛の輝き」というCDの帯がはらりと落ちてきた。慈愛の輝きか、とふと思った。
ギリシア語英語対訳新約聖書(Tyndale House社)を読んで、幼子がイエスに触ろうとするのを弟子が制止すると、幼子が私に触るのを止めてはいけない、天の国はこのような者たちのものだから、と諭した所まで来た。
先日新宿の中華料理屋で友人と酒を酌み交わし、中華を食べて談笑した。そこの中華は安くてうまいので気に入っている。イカとセロリの炒め物、トリ皮ピーマン、ソース炒飯、木須肉とビールを注文した。
それに先立って中古CD店に行き、アビー・ロード・テクノロジー処理をしていないフルトヴェングラーの国内盤ベートーヴェン全集を手に取ったが、私はすでにアビー・ロード・テクノロジー処理をしていないイタリア盤を持っている。
yamagishi kenichi氏のサイトに、フルトヴェングラーのベートーヴェン全集はアビー・ロード・テクノロジー処理をした物は音のふくよかさが失われていてよくないと書いてあったのを記憶している。最近はギュンター・ヴァントと北ドイツ放送響のベートーヴェン全集を愛聴している。極めてドイツ的で、余裕ある音作りで何度聞いても飽きない。
先日別の友人と喫茶シュベールで会い、白隠の坐禅和讃の「長者の家の子となりて」というのは、生まれつき宝が備わっているのだから外に求めるなという意味ではないかという話を聞き、ディランとザ・バンドのベースメント・テープスと梅原猛氏の書画展画集「母心仏心」と友人のオリジナルの入ったCD―Rを貰った。
このところよく父の見舞いに行き、帰りに鯛焼きを買って帰る。
今年のクリスマスは例年よりも天国がより近く感じられる。クリスマス前のひとときに、ハイティンクのクリスマスマチネコンサートのライヴ音源のマーラー選集のCDを聞くのが好きだ。慈愛の輝き、イエスと幼子の話、宝を外に求めるなという話、富を天に築けという話が帯のように繋がって季節を彩る。



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