超人日記・俳句

自作俳句を中心に、自作短歌や読書やクラシックの感想も書いています。

<span itemprop="headline">レヴィナス対ハイデガー</span>

2009-02-26 09:34:42 | 無題

笠井潔の「哲学者の密室」は、実質的にレヴィナスとハイデガーの対決を描いたミステリーである。主人公は、「現象学的推理法」によって密室殺人の謎を解き明かす。レヴィナスが良心の人、ハイデガーが偽神秘家として登場する。
実際のところはレヴィナスは現象学に対して、ハイデガーに対して何を言っていたのか。レヴィナスは難解だと言われているが、理解への糸口はあるのか。
サロモン・マルカとの対話が群を抜いてわかりやすい。それによれば、レヴィナスの現象学のとらえ方はこうだ。
現象学は、「対象をめざす行為そのもの」のうちに隠されている仕掛けの一切を探究する。現象学では、対象をその世界に改めて置き直す。フッサールが薦める現象学的方法の全部を採り入れなくとも、思考のプロセスに対する特別な関心があれば、人はフッサールの弟子であると称することができる。
つまりフッサールは意識が対象をとらえる過程を一からたどり直そう、と呼び掛けたのであり、そのことにインパクトを感じたと言っているのだ。
このレヴィナスのハイデガーへの態度は尊敬と拒絶の両方の面を備えている。レヴィナスはハイデガーの「存在と時間」をとりわけ評価する。というのも、「この本の一連の分析が現象学に何ができるかをみごとな仕方で提示した」からだ。
けれどもレヴィナスは、ハイデガーの政治的態度を敢然と批判する。「1933年にハイデガーがなにものであったかを私たちは知っている、人間はどんなものであることも許されるとしても、たとえ一時の過失からにせよ、ヒトラー主義者になることだけは許されない」と断固として言う。
戦争経験からレヴィナスは「他者に対する倫理」の思想を深める。存在の公正さは他者の優位性を認めることで保たれる。人は他者に対して有責で、他者は私とつねに関係し、他者の顔とは私をつねにみつめている。だから私は「他者を放置できない」という呼びかけを感じるという。そして、他者の顔の先には神がいる。
ハイデガーが物事を在らしめる働きへの畏敬を強調するのに対し、レヴィナスは他者の顔の倫理的な呼びかけを重視する。どちらも利己性からの飛躍を思索し、一方は在らしめる働きに、他方は他者の顔に答えを求めた。政治的責任の点でハイデガーには落度があるが、双方とも深淵に触れた哲学だと言える。(サロモン・マルカ「レヴィナスを読む」を参照・引用)



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<span itemprop="headline">日記の領分</span>

2009-02-19 23:05:35 | 無題

自分は日記マニアで、毎日欠かさずつけている。もう十年以上続いている。
日記を書くコツは自分の中ではつかんだ。嫌なことは詳しく書かない。読んだ本の感想は最小限に抑える(後で恥ずかしいから)。人から聞いた面白い話や、隣の猫が入り込んできたなどの何気ない話は詳しく書く。なるべく事実を淡々と書く。極端な感情は書きつづらない、などが続けるコツである。
日記を書くと日記のように思考する癖がつく。物事が起こった順に思い出す、行った店の名前などを覚えておく、人に聞いた話は後でメモする、など日記を書くことを前提に暮らしている。日記は心の目安でもあり、日記からいろいろな文章が生まれる。見た夢なども日記に書く。そうするとじぶんの無意識がどこに向かっているかが分かる。
ジョン・レノンは空想ではなく自分のことをリアルに語った曲が好きだ、とよく言っていた。自分教にはまるのも危ない罠だが、ジョン・レノンが自分らしい素直な曲が好きだというのは共感できる。すなわち日記的な曲にいい曲が多い。「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」がその代表である。ソロ・アルバムも日記的な曲が多い。ジョージ・ハリスンも自分にとってリアルなことを書くという態度をジョンから吸収したところが多分にある。遺作の「ブレインウォッシュド」は自分の病気の事や世の中への違和感などを率直に書いた曲が多く、すばらしい出来である。ジェフ・リンのビートルマニア的な音づくりも見事。
日記について書かれた本の中では、荒川洋治の「日記をつける」が平易でかつ日記をつける人の心情に寄り添って書かれていて微笑ましい。記憶の謎、記憶の仕組みには興味がある。劇団サーカス劇場に「ノスタルジア」という記憶の不思議に迫った演劇があり、古代には記憶係という仕事があった、などと本当かどうかわからない面白い話が聞けた。
カウリスマキに「過去のない男」という記憶喪失の男の映画があり、カウリスマキらしくたいへんおもしろかった。その映画の上映の時に「記憶の仕組み」という本が並べて売っていて、面白いところに目をつけたと思った。日記は自分の記憶と対話する金のかからない娯楽である。何度も読み返すと記憶が濃くなる。時とともに失われていくものは無数にある。岡本太郎氏は人の顔や名前を覚えるのが苦手で、私は記憶を拒むと言っていた。そこまで言い切れれば天晴れだが、日記のなかには幸福の無数の痕跡が垣間見えて、憎めない。



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<span itemprop="headline">ドヴォルザーク、鉄道少年の鼓動</span>

2009-02-10 22:16:27 | 無題

アントニン・ドヴォルザークは苦学の人だった。チェコのネラホゼヴェス村で育った彼は、村の小学校の教師であるシュピッツ先生にバイオリンを丁寧に教えられた。
それからドイツ語を習う名目でズロニツェに行き、オルガンの名手アントニン・リーマンに多くの楽器の奏法と作曲法を習い、さらにプラハのオルガン学校で作曲法を習った。
子どもの頃のドヴォルザークをときめかせたのは、鉄道の開通だった。それ以来ドヴォルザークは駅へ足繁く通い、時刻表を暗記してしまうほど鉄道が好きになった。ドヴォルザークが世界へ躍進するきっかけになったのはスラヴ舞曲で、ブラームスの推薦で、ブラームスのハンガリー舞曲のような作品を、と楽譜出版社に頼まれて書いた作品だった。ブラームスとの交友関係は以来ブラームスが没するまで続く。
ブラームスといえば毒舌の気難し屋で有名だが、ドヴォルザークの音楽の尽きることのない楽想の豊かさに敬意を払い、実直な人柄を愛した一人だった。
ドヴォルザークの先を歩いたスメタナはチェコ人でありながらドイツ語を母国語として育ち、40才頃チェコ語を学び直した人物だった。彼とは正反対にドヴォルザークはチェコ語を日常的に話し、苦労してドイツ語を学んだ。チェコは当時オーストリアの属国であり、こういうねじれ現象が生まれる。
ドヴォルザークはプロテスタントの先駆けとなったチェコ人ヤン・フスの「聖書に帰れ運動」に共鳴していたが、自身はカトリックだった。ヤン・フスを称える「フス教徒序曲」を書いてもいる。
ドヴォルザークは病で三人の子どもを失い、「悲しみの聖母」にその思いを託している。その後子宝に恵まれ、アメリカにわたってハーリー・バーレイという、黒人霊歌の第一人者と親しく付き合い、アメリカに国民音楽を創生するなら、黒人霊歌や先住民の歌から学ぶべきだと考えた。彼は「新世界より」でその持論を実践する。そんな彼の交響曲を堪能するには、ヴァーツラフ・ノイマン指揮チェコフィル演奏の交響曲全集が最適だ。
そのドヴォルザークの交響曲からは、汽車のリズムのような音が聞こえてきたりして、鳩好きで鉄道マニアの少年、トニークの面影が伝わってくる。(黒沼ユリ子「ドヴォルジャーク」等を参照。)



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<span itemprop="headline">ディスコミュニケーションの映画館</span>

2009-02-02 22:04:46 | 無題

ディスコミュニケーションを描いた映画を何か知っているか尋ねられる機会があった。
まず思いついたのはダスティン・ホフマン主演の自閉症の中年男性とその兄弟の関わりを描いた「レインマン」である。アウトサイダー・アートの話にも繋がるし、他者とのコミュニケーションの難しさも描かれている。
それからルイス・キャロルとの危うい距離感を、不思議の国のアリスの動物たちの幻想を交えて年老いたアリスが回想する「ドリームチャイルド」が秀逸だ。同じ傾向の映画に「シベールの日曜日」という、子供に返ってしまった大人が、孤児院の少女に恋をするが変質者扱いされて警察に殺される、美しい映画がある。
もっと異文化とのディスコミュニケーションを描いた映画はないかと問われ、「ポール・ボウルズの告白」とボウルズ原作の「シェルタリング・スカイ」を思いついた。モロッコの異郷の町で消耗して行くアメリカ知識人の孤独を描いた作品およびボウルズのインタビューである。西洋の知識人と現地人は越え難く乖離している。
それから脳科学者ジョン・C・リリーをモデルにしたケン・ラッセル監督の「アルタード・ステイツ」である。これは主人公の脳科学者がアイソレーション・タンクという隔離水槽に閉じこもってトリップする話でここまでは実話である。「ジョン・C・リリー 生涯を語る」という本に詳しい。彼は十字架に架けられたイエスの頭が山羊になっている幻覚を見たりしている。インディオの幻覚サボテンを求めて奥地へ旅したり、幻覚が視覚化されていたりして興味深い。私はジョン・C・リリーやティモシー・リアリーが好きで若いころ熟読した。意識の果てを見たい人々の孤独である。リリーのアイソレーション・タンクに着想を得て「息の音聞こえる闇の万華鏡 孤立深まる隔離水槽」という短歌を書いてみた。
また異文化コミュニケーションの不毛さを描いたコンラッドの「闇の奥」をベトナム戦争に置き換えた「地獄の黙示録」も、人類学の「金枝篇」や聖杯伝説も絡んでいて欠かせない。宗教を描いた映画では「神の道化師フランチェスコ」が無垢な集団生活をするフランチェスコたちと無理解な世間の距離が思い出される。
哲学者がらみではコジマに恋をするがコジマたちの世界についていけないまじめな学者(!)ニーチェを中心にしたシュールな映像満載の「ワーグナーとコジマ」が印象深い。他者との交流の挫折や難しさを描いたこれらの映画は、エマニュエル・レヴィナスの「他者」論などを交えて話すと立派なゲンダイシソウの講義になりそうで、並べて見ただけでわくわくする。



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