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エドワード・バーネイズ『プロパガンダ』
http://www.amazon.co.jp/dp/4880862681
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エドワード・バーネイズ『プロパガンダ』
「同調圧力(ピア・プレッシャー:Peer pressure)」について、集団力学では、ゲシュタルト心理学者ソロモン・アッシュ(Solomon Asch:1907- 1996)が発見した「アッシュ・パラダイム(Asch Paradigm)」「アッシュ同調実験(Asch conformity experiments)」があります。ソロモン・アッシュは、人は集団から強要されると間違った発言であっても、それを正しいとみなすようになるということを度々実験で実証したことが業績です。ソロモン・アッシュは、「アイヒマン権威服従実験」で有名になった社会心理学者スタンレー・ミルグラムの博士論文を指導しました。
もともと「集団力学」はユダヤ人のクルト・レヴィン(Kurt Lewin 1890- 1947)がナチスドイツの台頭した時代にアメリカに亡命した頃に始まります。クルト・レヴィンはアイオワ大学児童福祉学部でリーダーシップの実験研究を行い、独裁型・民主型・放任型を比較した実験を行いました。これはドイツのナチス政権が独裁型リーダーシップであり、それが集団に大きな影響を与えたことを分析したことから集団力学の研究が始まりました。このリーダーシップ実験では、小学生にマスクをつくらせる作業をしたところ「民主型リーダー」を持った集団が最も質の高いマスクをつくります。
同時に、「態度変容」「思想改造」「洗脳」の方法として、有効なのは、参加意識を持たせることと、集団の中で自分で選択したことを表明させることです(集団決定法Group decision making)。
第2次世界大戦中に、アメリカでは牛の内臓を食べる習慣が無かったのですが、戦争中の物資不足から牛の内臓を食べることを普及しようとしました。クルト・レヴィンは、まず、主婦を集めて、6グループに分け、戦時中の物資不足についてデータを使って説明します。次に、専門家が内臓の栄養価の高さや匂いを消す調理法を説明します。そして、現実に牛の内臓を調理できるかどうかを討論させます。それらの討論を楽しい雰囲気で行わせたうえで、自分たちで「週に1回、牛の内臓料理を食べる」と決めたグループは実際に32パーセントが実際に内臓料理を実行しました。講義だけのグループで料理したのは3パーセントでした。「集団の中で自己決定した」行動は、実際に行われます。講義だけでは行動変容は起こりません。自己決定と意思表明が必要なのです。
エドワード・バーネイズは26歳の頃、1917年から1919年まで「アメリカ広報委員会(Committee on Public Information)」に加わります。これはウッドロー・ウィルソン大統領のキモいりで、「アメリカを第一次世界大戦に参戦させるためのプロパガンダ」を担当しました。また、BBCの報道によれば、1954年にバーネイズはユナイテッド・フルーツ社(そして米軍とCIA)によるグアテマラ政府転覆のプロパガンダを担当しましたし、タバコ会社など多くの企業の広告を担当しました。アメリカは、プロの社会心理学者を戦争プロパガンダに使った最初の国です。エドワード・バーネイズは社会心理学を大衆に応用してみせた歴史上、最初の人物です。ナチス・ドイツよりも早くプロパガンダの有効性に気づいていました。
フェスティンガーは、単調な作業を行わせた学生に対して報酬を支払い、次に同じ作業をする学生にその作業の楽しさを伝えさせる実験を行いました。すると、報酬が少ない学生のほうが、単調でつまらない作業を「本当は楽しかったのかも知れない」と自分の認知を修正する傾向がありました。これは、新興宗教の勧誘などで使われる心理テクニックになりました。新入りの宗教入信者に、他の信者の勧誘をさせることで、新入りの入信者に「自分が入ったのは本当は素晴らしい宗教かも知れない」と思い込ませるのです。
1997年のメル・ギブソンとジュリア・ロバーツが共演した映画『陰謀のセオリー』で、主演のメル・ギブソンは「MK-ウルトラ計画」で記憶を消された暗殺者という設定になっています。「MKウルトラ計画」は、アメリカのポップカルチャーにも大きな影響を与えました。
2017年1月10日
「シーボルト:ドイツの19世紀長崎にいた自然科学者」
Siebold: A German Naturalist in Nineteenth-Century Nagasaki
以下、引用。
「シーボルトは、彼の鳴滝塾の生徒たちに、オランダ語でレポートを書かせました」
Siebold assigned each of his students to study a particular area in each field and had them submit reports to him in Dutch.
「戸塚静海と石井宗謙は、4部の日本の東アジアでのお灸を治療として書いた論文を翻訳して提出しました」
Totsuka Seikai and Ishii Sōken submitted a translation of a four-part Japanese treatise on the ancient East Asian use of moxibustion as a medical treatment.
以上、引用終わり。
「ライデン所蔵資料等によるシーボルトの鍼灸研究に関する再検討」
町 泉寿郎『日本東洋医学雑誌』Vol. 62 (2011) No. 6 P 695-712
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kampomed/62/6/62_6_695/_pdf
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シーボルトが持ち帰った戸塚清海らの翻訳「灸法略説」は、いまでもオランダのライデンの博物館にあります。これは日本で将軍・徳川家斉の御殿医・法眼であった鍼灸医、石坂宗哲(いしざか・そうてつ:1770ー1841)の翻訳です。
石坂流鍼術について、シーボルトは「刺鍼部位は病のあるところ、どこに刺しても良い」と記述しています。石坂流鍼術は蘭学の影響を多大に受けました。経絡経穴を否定し、脳脊髄による神経伝達のことを「宗気」と呼び、背骨(督脈)を整えることを第1として背部兪穴を用います。「硬結即病」と考え、触診によって、見つけた硬結の中心に刺鍼するというのが「石坂流鍼術」です。
指で硬結・反応を探して刺すというのは、日本鍼灸の特徴だと思います。
以下、引用。
「ババリア地方のヒトとして、シーボルトは、ドイツ北部とオランダで話されている『低ドイツ語』と違うドイツ語を話して成長した(シーボルトはオランダ人ではなくドイツ人)。」
As a Bavarian, Siebold had grown up speaking a variety of German quite different from the Low Germanic dialects spoken across northern Germany and the Netherlands.
「彼が日本に着いたとき、日本語通訳たちは、彼の話すオランダ語がずいぶん違い、シーボルトがどこから来たのかを疑った。当時はオランダ人だけが日本に滞在するのを許されていた」
When he arrived in Japan, the Japanese interpreter who interviewed him was suspicious of his impenetrable way of speaking and interrogated him closely on where he was from.
Only Dutchmen were allowed to enter Japan at the time.
「オランダ館の館長が、シーボルトはオランダの山岳地帯の『山オランダ人』であって、奇妙な方言を話すと説明する事で、シーボルトを追放から救った」
It was left to the Dutch opperhoofd (chief factor) to save the day by explaining that the new arrival was “one of the mountain Hollanders (yama Orandajin), and speaks a strange dialect.”
以上、引用終わり。
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「神は世界を創ったが、オランダはオランダ人が創った」・・・。
オランダは、海を埋め立てた埋立地なので、山は無いです(笑)。『山オランダ人』は居ないです!
シーボルトは、日本人が最初に出会ったドイツ人です。ドイツ語とオランダ語は方言のように似ている部分があります。「独逸(ドイツ)」は、江戸時代のオランダ語「ドイツ(Duits)」が語源のようです。
シーボルトの出身国は、正確には、中世から続く「ドイツの神聖ローマ帝国(ハイリゲス・ロミシェス・ライヒ・ドイチャー・ナティオン:Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation)」です。
例え、江戸時代の日本人にシーボルトが「ドイツの神聖ローマ帝国」出身ですと、正直に伝えても、伝わらないと思います。いまの日本でも「シーボルトはどこの国の出身か?」と聞かれても、答えられるヒトは居ないと思います。
シーボルトから、ドイツと日本の交流が始まりました。
明治維新期の日本は、ホーエンツォエルン家のヴィルヘルム一世(1797-1888)の「プロイセン王国(ケーニヒライヒ・プロイセン:Königreich Preußen)」をモデルに大日本帝国憲法をつくりました。
この「プロイセン王国」のヴィルヘルム一世が「ドイツ帝国(ドイチェス・カイザライヒ:Deutsches Kaiserreich)」、の皇帝(カイザー:Kaiser)となりました。 戦前の日本では、医学領域以外でもドイツ語が外国語で選択されました。近代日本とドイツは関係が深いです。
第1次世界大戦(1914-1918)以前のユーラシア大陸には、
「ドイツ帝国(ドイチェス・カイザライヒ:Deutsches Kaiserreich)」、
「オーストリア=ハンガリー帝国(エスタライヒッシュ・ウンガリッシェ・モナルヒィ:Österreichisch-Ungarische Monarchie)」、
「ロシア帝国(ラッシースカヤ・インペリーヤ:Российская империя:)」、
「オスマン・トルコ帝国(オスマニッシェス・ライヒ:Osmanisches Reich)」
の4つの中世から続く帝国があり、そのうち「ドイツ帝国」と「オーストリア帝国」はドイツ語を使っていました。
明治維新の日本がモデルにした「プロイセン王国=プロシア(Prussia)」は、のちのポーランドとソ連(現ロシア領カリーニングラード)とリトアニアとなりました。特に、プロイセンの中でも現在のロシア領カリーニングラードは、旧名「ケーニヒスベルク(Königsberg=王の都市)」であり、ケーニヒスベルク大学の哲学教授イマニエル・カント(1724-1804)を生んだ旧ドイツの土地です。旧プロイセンであるケーニヒスベルクは現在、ロシア領なのです・・・。
日本人にとって、ヨーロッパ大陸のドイツ・オーストリア・スイスのドイツ語文化圏やヨーロッパ大陸の歴史は、いまだに『山オランダ人』の世界であり、正直にいって、理解しがたいです。
ドイツは「プロイセン王国(ケーニヒライヒ・プロイセン:Königreich Preußen)」から「ドイツ帝国(ドイチェス・カイザライヒ:Deutsches Kaiserreich)」となりましたが、
第1次世界大戦(1914-1918)で、ヨーロッパ大陸は激変します。
1917年「ロシア革命」が起こり、ロシア帝国は滅びて、ソ連になります。
1918年「ドイツ革命」が起こり、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命し、ドイツ帝国は崩壊します。
1918年にチェコスロバキアが独立し、「オーストリア=ハンガリー帝国」のカール一世はスイスに亡命し、オーストリア帝国は滅びます。
1919年にオスマン・トルコ帝国でもアタテュルクによる革命運動が起こり、最終的に「オスマン・トルコ帝国」は滅びました。
第1次世界大戦以降、世界は激変しました。