alternativemedicine

Studies about acupuncture and moxibustion and Massage.

プロパガンダの歴史

2018-06-15 | メモ
情報操作や検閲の歴史を調べると、第1次世界大戦の頃から、アメリカは検閲制度を全面的に取り入れています。
「イエロー・ジャーナリズム(Yellow Journalism)」というコトバが英語で出来たのは、1890年代の「米西戦争(Spanish–American War)」の頃です。
 
1890年代(明治23年~明治33年頃)は、
新聞王ハースト(William Randolph Hearst:1863-1951)の『ニューヨーク・ワールド』紙と、
新聞王ピューリッツアー(Joseph Pulitzer:1847-1911)の『ニューヨーク・ジャーナル』紙が、
競争し、
彼らの新聞の捏造記事から「米西戦争(Spanish–American War)」が起こりました。
ピューリッツアーの新聞の部数が伸びて、ジャーナリズム最高の栄誉である「ピューリッツアー賞(Pulitzer Prize)」の基金が出来ました・・・。
 
アメリカは米西戦争のあとの、第1次世界大戦の頃から、情報操作を徹底的に研究して、検閲制度をつくりました。
 
第1次世界大戦から始まったアメリカの検閲制度は、江藤淳さんの『閉ざされた言語空間』に詳細に書かれています。
『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』
江藤 淳 文春文庫 (1994/1/10)
 
 第1次世界大戦の頃、1917年から1919年まで、フロイトの甥であるエドワード・バーネイズ(Edward Bernays:1891-1995)は、「アメリカ広報委員会(Committee on Public Information)」に加わります。これはウッドロー・ウィルソン大統領のキモいりで、「アメリカを第1次世界大戦に参戦させるためのプロパガンダ」を担当しました。英語版のウィキペディアの「アメリカ広報委員会(Committee on Public Information)」の記述は、まさにプロパガンダの教科書です。
 
 第1次世界大戦前後のアメリカでは、スパイ防止法と検閲制度(Central Censorship Board)が出来て、すべての新聞メディアは、検閲されました。
 「PR(パブリック・リレーションズ)の父」と言われるように、「PR(Public Relations)」というコトバはバーネイズがつくりました。ウイーン生まれのバーネイズはアメリカ・ニューヨークに渡り、「キング・オブ・プロパガンダ」、「スピンの父」と言われました。バーネイズの1928年の著作『プロパガンダ』は、2010年に日本語訳が出るほどの名著です。


エドワード・バーネイズ『プロパガンダ』 

2010年成甲書房(原著は1928年)
http://www.amazon.co.jp/dp/4880862681
 
  同時代のドイツ生まれのユダヤ系アメリカ人、ウォルター・リップマン(Walter Lippmann:1889-1974)は、1922年に出版された名著『世論(Public Opinion)』の中で、メディアによってつくられた人間のアタマの中の現実を「擬似環境(pseudo‐environment)」と呼び、「ステレオタイプ(stereotype)」という偽りのイメージが戦争を起こすことを指摘しています。これは世論操作が可能なことを述べています。
 ウォルター・リップマンは第一次世界大戦中は陸軍大尉として参戦し、担当したのは、対ドイツの「心理戦(Psychological War)」です。
 そして、ウォルター・リップマンは、第1次世界大戦後、新聞王ハーストの『ニューヨーク・ワールド』紙の編集長として、ピューリッツアー賞!!!を2回受賞しています。この第1次世界大戦の頃から、新聞メディアは軍事諜報員だらけになります。これは現在でも変わりません。
 そして、ウォルター・リップマンは、1921年に、「外交問題評議会(CFR:Council on Foreign Relations)」の創設者となります。現在の「外交問題評議会(CFR)」の名誉議長は帝王デビッド・ロックフェラー(David Rockefeller:1915-)であり、『フォーリン・アフェアーズ』という超一流雑誌を発行しています。
 
 世界中の検閲システムの歴史を調べると、1910年代の第1次世界大戦こそが転換点です。
 1917年にアメリカではスパイ防止法と、「中央検閲協議会(Central Censorship Board)」とプロパガンダのための「アメリカ広報委員会(Committee on Public Information)」が出来ました。
 第1次世界大戦中、イギリスは全ての郵便を開封したし、イギリス、ドイツ、オーストリア、フランスは、全てのエンターテイメント、劇場、映画、シャンソン、キャバレー、サーカスを検閲しました。新聞はもちろんです。
The censors also invited themselves to numerous entertainments. Theatre plays, films, chansons, cabarets, and circus performances in Britain, Germany, and Austria had already been censored before the war, whereas in France censorship  was now reintroduced immediately.
もちろん、日本も同じです。第2次世界大戦の情報操作を調べていく最中に、これらの制度の起源はすべて、第1次世界大戦にあることが判明しました。
これらの検閲制度の歴史、情報操作の歴史は、第1次世界大戦と第2次世界大戦の情報戦を徹底的に分析する事で、初めて理解できた歴史的事実です。
検閲制度の歴史、情報操作の歴史を調べていくと、世界の権力構造が浮き彫りになる瞬間が訪れます・・・。
 
 1896年(明治29年)に、新聞王といわれた「初代ノースクリフ子爵」アルフレッド・ハームズワース(1865-1922)さんが創刊した世界最初のタブロイド新聞が『デイリーメール』です!アルフレッド・ハームズワースさんは、後に、『タイムズ』と『オブザーバー』というイギリスを代表する新聞を買収して手に入れます。
 
 イギリスの新聞王アルフレッド・ハームズワースさんは、『(第1次世界大戦)戦争が始まる前からドイツの脅威を警告し、軍備増強の必要を説き、好戦的な世論の形成に寄与』した人物です。
 第1次世界大戦中、『デイリーメール』の新聞王アルフレッド・ハームズワースさんは、ウェリントンハウス(Wellington House)別名、戦争プロパガンダ事務局(War Propaganda Bureau)をつくり、新聞王ハームズワースさんの弟ハロルド・ハームズワース子爵(Harmsworth, 1st Viscount Rotherme)は、ロイド=ジョージ内閣の航空大臣になり、イギリスの戦闘機スピットファイヤを製造しました。
 
 兄アルフレッド・ハームズワースさんの「戦争プロパガンダ事務局」はコナン・ドイルやHGウェルズやキプリングなどのイギリス有名作家を集めて、戦争プロパガンダの文章を書かせ、これらの作家の協力は長年、秘密とされました。
 
 兄アルフレッド・ハームズワースさんは、初代「クリューハウス(Crewe House)」の長官も務めました。これは、イギリスの第1次世界大戦の際の、秘密の対ドイツ・オーストリアのプロパガンダ組織です。『クリューハウス』にもHGウェルズは協力しました。
 
 イギリス新聞『デイリー・エクスプレス』の創業者、新聞王マックス・エイトキン男爵は、英連邦カナダの大富豪だったのですが、第1次世界大戦中、カナダの戦争PR部隊長官(Canadian troops’ chief publicist)を務め、カナダの戦争芸術を振興した人物と、カナダ政府の記録に残っています。『デイリー・エクスプレス』創業者のマックス・エイトキン男爵は、ロイド=ジョージ内閣の情報大臣(Ministry of Information)となり、ハームズワース兄弟と協力しました。
 
 『デイリーメール』の創業者、新聞王アルフレッド・ハームズワースさんは、後に、アメリカのウッドロー・ウィルソン大統領の肝いりで始められた、アメリカを第一次世界大戦に参戦させるプロパガンダ担当の『クリール委員会(Creel Committee)』、『アメリカ広報情報委員会(Committee on Public Information)』にも参加します。このアメリカのプロパガンダ組織には、『世論』のウォルター・リップマン(Walter Lippmann)や、『PRの父』エドワード・バーネイズ(Edward Bernays)が参加していました。
 ウォルター・リップマンの『世論(1922年邦訳は岩波書店)』は、人類は『擬似環境(pseudo environment)』の中に生きており、ステレオタイプを使うことで戦争を起こすことが可能だと指摘しました。
 エドワード・バーネイズは名著『プロパガンダ(Propaganda 、1928年)』を書いた『キング・オブ・プロパガンダ』です。
 
 『デイリーメール』の創業者、新聞王アルフレッド・ハームズワースさんは、イギリスの第1次世界大戦の秘密のプロパガンダ組織『ウェリントンハウス』や『クリューハウス』に属し、アメリカの『クリール委員会』とともに、戦争を煽った第1次世界大戦の情報操作の責任者なのです・・・。
 
 世界中の検閲システムの歴史を調べると、1910年代の第1次世界大戦こそが転換点です。1917年にアメリカではスパイ防止法と、「中央検閲協議会(Central Censorship Board)」とプロパガンダのための「アメリカ広報情報委員会(Committee on Public Information)」が出来ました。第1次世界大戦中、イギリスは全ての郵便を開封したし、イギリス、ドイツ、オーストリア、フランスは、全てのエンターテイメント、劇場、映画、シャンソン、キャバレー、サーカスを検閲しました。新聞はもちろんです。
 
 いまでは、これらの情報操作、プロパガンダの歴史は、誰も知らず、振り返られることも無いです・・・。情報操作の技術は、第1次世界大戦後の、1920年ー1930年代には、かなり完成の域に近づいていました。
 それらの技術は、1930年代のドイツ・イタリア・日本を中心に世界中で使われました。
 ちょうど、100年前の1917年頃から、人類は、「擬似環境(pseudo‐environment)」の中で生きるようになりました。

集団力学(グループ・ダイナミクス)

2018-06-15 | メモ
「態度変容・思想改造における集団技法について」
西山 美瑳子『社会評論』Vol. 18 (1967-1968) No. 4 P 33-49,119
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr1950/18/4/18_4_33/_pdf

 「集団力(グループ・ダイナミクス)」と「同調圧力(ピア・プレッシャー:Peer pressure)」と「洗脳」について調べていたら、まさか、西山先生の論文が、日本語の唯一の論文だとは想像の外すぎました(笑)。偶然すぎる!この論文は、社会心理の『集団力(グループ・ダイナミクス)』の技術・技法を、「態度変容」・「思想改造」にどのように用いるか?を、宗教集団の入信と中国における思想改造(=洗脳)という実例から分析したものです。テーマがアブナ過ぎるやろー。日本における実在する某宗教団体(現在、日本の政権与党の団体)を分析した方法といい、39歳の頃の西山先生の論文は、無茶をし過ぎです・・・。1967年という時代もあると思います・・・。

 「同調圧力(ピア・プレッシャー:Peer pressure)」について、集団力では、ゲシュタルト心理者ソロモン・アッシュ(Solomon Asch:1907- 1996)が発見した「アッシュ・パラダイム(Asch Paradigm)」「アッシュ同調実験(Asch conformity experiments)」があります。ソロモン・アッシュは、人は集団から強要されると間違った発言であっても、それを正しいとみなすようになるということを度々実験で実証したことが業績です。ソロモン・アッシュは、「アイヒマン権威服従実験」で有名になった社会心理者スタンレー・ミルグラムの博士論文を指導しました。

 もともと「集団力」はユダヤ人のクルト・レヴィン(Kurt Lewin 1890- 1947)がナチスドイツの台頭した時代にアメリカに亡命した頃に始まります。クルト・レヴィンはアイオワ大児童福祉部でリーダーシップの実験研究を行い、独裁型・民主型・放任型を比較した実験を行いました。これはドイツのナチス政権が独裁型リーダーシップであり、それが集団に大きな影響を与えたことを分析したことから集団力の研究が始まりました。このリーダーシップ実験では、小生にマスクをつくらせる作業をしたところ「民主型リーダー」を持った集団が最も質の高いマスクをつくります。

 同時に、「態度変容」「思想改造」「洗脳」の方法として、有効なのは、参加意識を持たせることと、集団の中で自分で選択したことを表明させることです(集団決定法Group decision making)。

 第2次世界大戦中に、アメリカでは牛の内臓を食べる習慣が無かったのですが、戦争中の物資不足から牛の内臓を食べることを普及しようとしました。クルト・レヴィンは、まず、主婦を集めて、6グループに分け、戦時中の物資不足についてデータを使って説明します。次に、専門家が内臓の栄養価の高さや匂いを消す調理法を説明します。そして、現実に牛の内臓を調理できるかどうかを討論させます。それらの討論を楽しい雰囲気で行わせたうえで、自分たちで「週に1回、牛の内臓料理を食べる」と決めたグループは実際に32パーセントが実際に内臓料理を実行しました。講義だけのグループで料理したのは3パーセントでした。「集団の中で自己決定した」行動は、実際に行われます。講義だけでは行動変容は起こりません。自己決定と意思表明が必要なのです。

 また、服の工場の実験も有名です。服の流行によって、工場のラインを変える必要があります。会社が熟練工社員に説明をせずに勝手にラインの配置換えをしたり、商品を変えると、熟練工が「私は会社にとって必要な いのでは」と辞めるということが続発していました。そこで工場内の配置替えが必要になったときに色んな事情を説明し。売れすじの服と売れない服を見せて社員に選ばせる。新しい仕事に替わらなくてはならない、でもそれを決めたのは自分たちであると自己決定させると、熟練工が辞めることが少なくなりました。
 
 こういった「集団力」の技法を組み合わせたのが、共産中国における「思想改造」や「洗脳」でした。全員で、真剣に討論して、反省や気づきを与え、「同調圧力」によって、方向付けながら、自己決定させて自己表明させます。これはアルコール中毒における断酒会のような自助グループも同じ技法を良い方向で用いています。アルコール中毒や薬物中毒への有効な行動変容法は、カウンセリングよりは自助グループのような「集団療法」です。
 
 自分たちがあたかも、自分で選択肢を選んだのだと、思い込むことがコツなのです・・・。
 
 クルト・レヴィンと弟子のレオン・フェスティンガー(認知的不協和)やソロモン・アッシュと弟子のスタンレー・ミルグラム(アイヒマン権威服従実験)、フィリップ・ジンバルド(スタンフォード監獄実験)などの社会心理者・集団力者たちが発見したことは、現代の日本社会でも社員研修などに応用されまくっています。 

【大衆操作の技法の歴史】
 現代のアメリカ社会心理は、ドイツ系ユダヤ人がつくりました。もともと、ドイツはフロイトやユングを産んだ国です。
 エドワード・ルイス・バーネイズ(Edward Bernays:1891-1995)は、フロイトの甥です。「PR(パブリック・リレーションズ)の父」と言われるように、「PR(Public Relations)」というコトバはバーネイズがつくりました。ウイーン生まれのバーネイズはアメリカ・ニューヨークに渡り、「キング・オブ・プロパガンダ」、「スピンの父」と言われました。バーネイズの1928年の著作『プロパガンダ』は、2010年に日本語訳が出るほどの名著です。

エドワード・バーネイズ『プロパガンダ』 2010年成甲書房(原著は1928年)
http://www.amazon.co.jp/dp/4880862681

 エドワード・バーネイズは26歳の頃、1917年から1919年まで「アメリカ広報委員会(Committee on Public Information)」に加わります。これはウッドロー・ウィルソン大統領のキモいりで、「アメリカを第一次世界大戦に参戦させるためのプロパガンダ」を担当しました。また、BBCの報道によれば、1954年にバーネイズはユナイテッド・フルーツ社(そして米軍とCIA)によるグアテマラ政府転覆のプロパガンダを担当しましたし、タバコ会社など多くの企業の広告を担当しました。アメリカは、プロの社会心理者を戦争プロパガンダに使った最初の国です。エドワード・バーネイズは社会心理を大衆に応用してみせた歴史上、最初の人物です。ナチス・ドイツよりも早くプロパガンダの有効性に気づいていました。

 同時代のドイツ生まれのユダヤ系アメリカ人、ウォルター・リップマン(Walter Lippmann:1889-1974)は、名著『世論(Public Opinion)』の中で、メディアによってつくられた人間のアタマの中の現実を「擬似環境(pseudo‐environment)」と呼び、「ステレオタイプ(stereotype)」という偽りのイメージが戦争を起こすことを指摘しています。これは世論操作が可能なことを述べています。ウォルター・リップマンは第一次世界大戦中は陸軍大尉として、フランスのインテリジェンス部門で働いていました・・・。

 また、1930年代にベルリン大で「ゲシュタルト心理(Gestalt Psychologie)」が提唱されました。1930年代ベルリン大の「ゲシュタルト心理(Gestalt Psychologie)」から、フリッツ・パールズ(Fritz Perls)の「ゲシュタルト療法」が生まれました。
 ゲシュタルト心理の提唱者の1人である、ユダヤ人のクルト・レヴィン(Kurt Lewin:1890-1947)は、1933年にナチスに追われてアメリカに亡命しました。
 クルト・レヴィンが提唱したのは「集団力(グループ・ダイナミクス:Group dynamics)」、「感受性訓練(センシティヴィティ・トレーニング:Sensitivity training)」、「Tグループ(Training group)」です。これらの技術は、善用すれば、「グループ・セラピー」や「企業研修」などに使われています。しかし、一方で、軍隊や諜報機関などの訓練で、人格変容にも使われました。「自己啓発セミナー」という名前の洗脳セミナーにも使われました。

 「社会心理の父」クルト・レヴィンはアイオワ大で、レオン・フェスティンガー(Leon Festinger:1919-1989)を指導しました。レヴィンの弟子のレオン・フェスティンガーは「認知的不協和(cognitive dissonance)」の理論をつくりだしました。

 フェスティンガーは、単調な作業を行わせた生に対して報酬を支払い、次に同じ作業をする生にその作業の楽しさを伝えさせる実験を行いました。すると、報酬が少ない生のほうが、単調でつまらない作業を「本当は楽しかったのかも知れない」と自分の認知を修正する傾向がありました。これは、新興宗教の勧誘などで使われる心理テクニックになりました。新入りの宗教入信者に、他の信者の勧誘をさせることで、新入りの入信者に「自分が入ったのは本当は素晴らしい宗教かも知れない」と思い込ませるのです。

 1963年にはスタンレー・ミルグラム(Stanley Milgram:1933-1984)がイエール大で、「アイヒマン権威服従実験」を行います。これは生に権威的に命令して被検者の生に電気ショックをかけさせるという実験です。権威に命令されることで責任転化が起こり、「普通の平凡な市民が、一定の条件下では、冷酷で非人道的な行為を行うこと」を証明する結果となりました。スタンレー・ミルグラムの博士論文を指導したのは、「同調圧力」、「アッシュ・パラダイム」のソロモン・アッシュです!!!
 
 そして1971年には「スタンフォード監獄実験」が行われます。「スタンフォード監獄実験(Stanford prison experiment)」とは、社会心理者のフィリップ・ジンバルト(Philip Zimbardo)が行った実験です。生を「囚人役」と「看守役」に分けて、監獄の中に入れてビデオで観察したところ、「囚人役」は囚人らしく、「看守役」は看守らしく振舞うようになり、1週間もたたないうちに看守側は囚人側を暴力で虐待しだしたという実験です。「普通の人が特殊な肩書きや地位を与えられると、元の性格など関係なく、その役割に合わせて行動してしまう事」を証明したといわれています。この業績により、フィリップ・ジンバルトは1971年にスタンフォード大の終身教授となり、2002年にはアメリカ心理会の会長となりました。「人間は、環境さえ変えれば、どんな残酷なことでもやるようになる」のです。

 これらのアメリカの社会科、人文科の精華、「社会心理(social psychology)」の実験結果は、核兵器なみに危険な知識でした。デーブ・グロスマンの『戦場における人殺しの心理』によれば、アメリカ軍は新兵のトレーニングに社会心理の成果を応用しています。
デーヴ グロスマン 『戦争における「人殺し」の心理』ちくま芸文庫2004年
http://www.amazon.co.jp/dp/4480088598

 「洗脳(Brainwashing)」や「大衆操作(Mass manipulation)」の技術は、アメリカ政府によって研究され続けました。実は、戦後、1945年にナチス・ドイツの洗脳や大衆操作を研究していた心理者たちをアメリカに連れ帰って研究が始まりました(ペーパークリップ作戦)。
 1950年代に中国に捕虜になったアメリカ兵が共産主義者になったことからアメリカ軍による「洗脳(Brainwashing)」の研究が本格化しました(プロジェクト・ブルーバード、プロジェクト・アーティチョーク)。
 CIAの「MK-ウルトラ計画(Project MKーUltra)」では、カナダ精神医会の会長だったドナルド・キャメロンという精神科医がカナダのマギル大の病院で洗脳のための秘密の人体実験を繰り返しました。1974年にこの「MK-ウルトラ計画」は『ニューヨークタイムズ』で報道されました。1975年にはネルソン・ロックフェラー副大統領が委員長のロックフェラー委員会が開かれ、CIAが洗脳実験を繰り返していたことが公式に確認されました。洗脳実験の犠牲者たちはロックフェラー財団がいまでも財政援助して助けています。ドナルド・キャメロンは世界精神医会の初代議長でした。ニューヨークで1930年代に精神科医として診療していたドナルド・キャメロンが、ロックフェラー財団の招きでカナダのマギル大に招聘されたのは、もちろん、ただの偶然です。MKウルトラ計画の犠牲者がどうなったのかは、ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』にも描かれています。

 1997年のメル・ギブソンとジュリア・ロバーツが共演した映画『陰謀のセオリー』で、主演のメル・ギブソンは「MK-ウルトラ計画」で記憶を消された暗殺者という設定になっています。「MKウルトラ計画」は、アメリカのポップカルチャーにも大きな影響を与えました。

 1930年代にアメリカに来たドイツ系ユダヤ人たちの「ゲシュタルト心理」、「社会心理」は世界を変えました。現在、ISISやアフリカの武装組織は、子どもたちを洗脳して「子ども兵士」にしていますが、明らかに、社会心理の洗脳テクニックが使われていると感じます。また、アメリカ大統領選挙を見ても、ハイテクノロジーによる大衆操作テクニックは極限まで達しています。
 
 メディア者マーシャル・マクルーハンが言うには、1910年代の第1次世界大戦のときと、1930年代のドイツ・ファシズムが高揚したときに、ラジオや新聞といったメディアによる情報操作社会が到来しました。
 
『ジョージ・オーウェルの小説「1984年」は、1930年代に起こったのだ!われわれが忙しすぎて、それに気づかなかっただけなんだ!』 
 
 1910年代から1930年代のドイツには、「フランクフルト/ベルリン派」と呼ばれる心理者たちが集結していました。ドイツのベルリン大(Humboldt-Universität zu Berlin)には、ウルフガング・ケーラー、マックス・ヴェルトハイマー、クルト・コフカ、クルト・レヴィンがいました。
 クルト・レヴィンはアメリカに渡り、「集団力」によって、世界を変えました。
 ドイツのフランクフルト大(Universität Frankfurt am Main)には、フリッツ・パールズ、エーリヒ・フロム、ヘルベルト・マルクーゼ、ジョルジュ・ルカーチ、マックス・ホルクハイマー、テオドール・アドルノと綺羅星のような「フランクフルト派」がいました。そして、その「フランクフルト派」の者グループを調べている際に、「ソ連のスパイ」リヒャルト・ゾルゲ(Richard Sorge:1895-1944))の名前があるのを発見したときは、驚愕しました。あわてて、当時のフランクフルト大を調べなおすと、フランクフルト大を設立したメンバーに以下の名前がありました・・・。
ハンナ・ルイーズ・フォン・ロートシルト(Hannah Luise von Rothschild:1850-1892)
 考えてみれば、初代マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(Mayer Amschel Rothschild:1744-1812)は、フランクフルトのユダヤ人ゲットーの生まれなのです。
 
 われわれにできるのは、手品のタネを知ることだけです。手品のタネ「同調圧力(ピア・プレッシャー:Peer pressure)」の原理を知れば、集団力のマニピュレーションに対しても、少しだけ免疫ができます。
 
※:三島倫八著「集団のダイナミズムと小集団活動」
『龍谷大経営論集』第43巻第1号 2003
http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/bitstream/10519/3089/1/KJ00000707161.pdf

人文科学・社会科学のマンハッタン計画

2018-06-15 | メモ
『「国際歴史探偵」の20年 : 世界の歴史資料館から』
加藤哲郎
法政大大原社会問題研究所
『大原社会問題研究所雑誌』
 (670), 1-25, 2014-08  
加藤哲郎教授は、旧ソ連のKGB文書館やアメリカ公文書館、ドイツ、中国など世界中の公文書館を周り、公文書の山から歴史の真実を掘り起こしてきました。その結果、日本共産党の野坂参三のスパイ行為が判明しました。さらに加藤教授はCIA秘密解除指定公文書を日本語訳して2014年に出版されました。

   2014年に発表された加藤哲郎教授の講演を読んで、唸りました。加藤哲郎教授がおっしゃっているのは、アメリカで戦前に全ての自然科者を集めて原爆開発をさせた『マンハッタン計画』と同じような人文科・社会科の超巨大プロジェクトを、アメリカは政府として秘密にやっていた実態が、アメリカ公文書館の文書を分析する過程で、おぼろげに見えてきたというのです(16ページ)。まさか、私と全く同じことを感じていたヒトがいたなんて!

   アメリカによる「人文科・社会科のマンハッタン計画」!!!

    その証拠の一つがルース・ベネディクトがOSS(CIA)に提出した『菊と刀』というのも同じ意見です。この時期にアメリカは人類者など全ての人文科・社会科者を総動員して、ドイツや日本を分析し、徹底的な「エリア・スタディー」を行うことで、戦後ドイツ・戦後日本の支配に活用しました(論文の17ページ)。

    さらに言えば、加藤哲郎先生が気付かれていないこともあります。特に心理の「集団力(グループ・ダイナミクス)」という分野で、アメリカは徹底的な研究を行い、大衆操作情報操作の技術を確立しました。その成果は、アメリカ大統領選挙などで垣間見えます。アメリカは、社会心理の帝国でもあります。
   さらに、現代世界に拡がった「新自由主義」のシカゴ派経済とMBAシステムもあります。シカゴ派の社会も世界の頂点を極めました。
  アメリカで年間に最も取られる博士号は実は「教育」です。アメリカは教育大国として世界中の才能を引き寄せています。
   何よりも、アメリカ企業と議会の真の支配者は、ロースクール出身の弁護士たちです。
   アメリカは、人文科・社会科が支配する国であり、ハリウッド映画とポップミュージックに代表される「ソフト・パワー」の国なのです。その秘密は、第二次世界大戦中の対ドイツ・対日本のために開発した「人文科・社会科のマンハッタン計画」にあるというのが加藤哲郎教授の仮説です。

    加藤哲郎、春名幹男、有馬哲夫、山本武利といった私立大の社会科者・メディア者たちが1990年代から2000年代にかけて、旧ソ連KGB公文書館やアメリカ情報公開法によるCIA秘密解除指定公文書を研究し、戦後日本の謎を次々と解いていきました。秘密解除指定された政府の公文書という最高品質の証拠に基づく研究です。
   これは世界的にも特異な現象です。例えば、フランスには私立大は存在せず、全てが国立大なので、「支配に奉仕する研究」は出来るのですが、「支配システムそのものの研究」は原理的に不可能なのです。

   日本の私立大の社会科者たちが証拠に基づいて解明した「アメリカによる戦後日本の支配システム」は、今まで信じていたことが崩壊する未知の世界です。
   何しろ自民党だけでなく、その対立勢力や新聞テレビなどのメディアもGHQ支配時から戦後にかけて、日本社会に埋め込まれた支配システムの一部なのですから。

   既にアメリカの公文書公開から20年以上が経ったのですが、これらの解明された知識は、全く日本社会に流通しません。それは日本人にとって信じがたい真実であるために「認知的不協和」を起こしてしまうからなのです。
   そのため、おそらく、この情報は今後の日本社会で広く流通することはないです。加藤哲郎教授と山本武利教授は、既に定年退職されて名誉教授です。
   国立大から人文科・社会科を排するという2015年の文部科省の決定はボディブローのように今後の日本社会に禍根を残すでしょう。

   それでも、一度、解明されたことは本として出版されています。
   未来に日本の若者が「なぜ、日本の社会はこうなったのか?」と問いかけた時に、加藤哲郎・山本武利・春名幹男・有馬哲夫らの著作にいつかたどり着くはずです。1990年から2010年代にかけて、日本の私立大の社会科者たちが行った研究は、世界最高品質であり、ものすごい価値があると思います。

シーボルト

2018-06-15 | 中国医学の歴史

2017年1月10日
「シーボルト:ドイツの19世紀長崎にいた自然科学者」
Siebold: A German Naturalist in Nineteenth-Century Nagasaki 

以下、引用。

「シーボルトは、彼の鳴滝塾の生徒たちに、オランダ語でレポートを書かせました」

Siebold assigned each of his students to study a particular area in each field and had them submit reports to him in Dutch. 

 

「戸塚静海と石井宗謙は、4部の日本の東アジアでのお灸を治療として書いた論文を翻訳して提出しました」

Totsuka Seikai and Ishii Sōken submitted a translation of a four-part Japanese treatise on the ancient East Asian use of moxibustion as a medical treatment. 

以上、引用終わり。

 

「ライデン所蔵資料等によるシーボルトの鍼灸研究に関する再検討」

町 泉寿郎『日本東洋医学雑誌』Vol. 62 (2011) No. 6 P 695-712

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kampomed/62/6/62_6_695/_pdf

 シーボルトが持ち帰った戸塚清海らの翻訳「灸法略説」は、いまでもオランダのライデンの博物館にあります。これは日本で将軍・徳川家斉の御殿医・法眼であった鍼灸医、石坂宗哲(いしざか・そうてつ:1770ー1841)の翻訳です。

 石坂流鍼術について、シーボルトは「刺鍼部位は病のあるところ、どこに刺しても良い」と記述しています。石坂流鍼術は蘭学の影響を多大に受けました。経絡経穴を否定し、脳脊髄による神経伝達のことを「宗気」と呼び、背骨(督脈)を整えることを第1として背部兪穴を用います。「硬結即病」と考え、触診によって、見つけた硬結の中心に刺鍼するというのが「石坂流鍼術」です。

 指で硬結・反応を探して刺すというのは、日本鍼灸の特徴だと思います。

 

以下、引用。

「ババリア地方のヒトとして、シーボルトは、ドイツ北部とオランダで話されている『低ドイツ語』と違うドイツ語を話して成長した(シーボルトはオランダ人ではなくドイツ人)。」
As a Bavarian, Siebold had grown up speaking a variety of German quite different from the Low Germanic dialects spoken across northern Germany and the Netherlands.

 

「彼が日本に着いたとき、日本語通訳たちは、彼の話すオランダ語がずいぶん違い、シーボルトがどこから来たのかを疑った。当時はオランダ人だけが日本に滞在するのを許されていた」

When he arrived in Japan, the Japanese interpreter who interviewed him was suspicious of his impenetrable way of speaking and interrogated him closely on where he was from. 

Only Dutchmen were allowed to enter Japan at the time. 

 

「オランダ館の館長が、シーボルトはオランダの山岳地帯の『山オランダ人』であって、奇妙な方言を話すと説明する事で、シーボルトを追放から救った」

It was left to the Dutch opperhoofd (chief factor) to save the day by explaining that the new arrival was “one of the mountain Hollanders (yama Orandajin), and speaks a strange dialect.” 

以上、引用終わり。

「神は世界を創ったが、オランダはオランダ人が創った」・・・。

オランダは、海を埋め立てた埋立地なので、山は無いです(笑)。『山オランダ人』は居ないです!

 

 シーボルトは、日本人が最初に出会ったドイツ人です。ドイツ語とオランダ語は方言のように似ている部分があります。「独逸(ドイツ)」は、江戸時代のオランダ語「ドイツ(Duits)」が語源のようです。

    シーボルトの出身国は、正確には、中世から続く「ドイツの神聖ローマ帝国(ハイリゲス・ロミシェス・ライヒ・ドイチャー・ナティオン:Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation)」です。

例え、江戸時代の日本人にシーボルトが「ドイツの神聖ローマ帝国」出身ですと、正直に伝えても、伝わらないと思います。いまの日本でも「シーボルトはどこの国の出身か?」と聞かれても、答えられるヒトは居ないと思います。

 

 シーボルトから、ドイツと日本の交流が始まりました。

   明治維新期の日本は、ホーエンツォエルン家のヴィルヘルム一世(1797-1888)の「プロイセン王国(ケーニヒライヒ・プロイセン:Königreich Preußen)」をモデルに大日本帝国憲法をつくりました。

 この「プロイセン王国」のヴィルヘルム一世が「ドイツ帝国(ドイチェス・カイザライヒ:Deutsches Kaiserreich)」、の皇帝(カイザー:Kaiser)となりました。  戦前の日本では、医学領域以外でもドイツ語が外国語で選択されました。近代日本とドイツは関係が深いです。

 

第1次世界大戦(1914-1918)以前のユーラシア大陸には、

「ドイツ帝国(ドイチェス・カイザライヒ:Deutsches Kaiserreich)」、

「オーストリア=ハンガリー帝国(エスタライヒッシュ・ウンガリッシェ・モナルヒィ:Österreichisch-Ungarische Monarchie)」、

「ロシア帝国(ラッシースカヤ・インペリーヤ:Российская империя:)」、

「オスマン・トルコ帝国(オスマニッシェス・ライヒ:Osmanisches Reich)」

の4つの中世から続く帝国があり、そのうち「ドイツ帝国」と「オーストリア帝国」はドイツ語を使っていました。

 明治維新の日本がモデルにした「プロイセン王国=プロシア(Prussia)」は、のちのポーランドとソ連(現ロシア領カリーニングラード)とリトアニアとなりました。特に、プロイセンの中でも現在のロシア領カリーニングラードは、旧名「ケーニヒスベルク(Königsberg=王の都市)」であり、ケーニヒスベルク大学の哲学教授イマニエル・カント(1724-1804)を生んだ旧ドイツの土地です。旧プロイセンであるケーニヒスベルクは現在、ロシア領なのです・・・。

 

 日本人にとって、ヨーロッパ大陸のドイツ・オーストリア・スイスのドイツ語文化圏やヨーロッパ大陸の歴史は、いまだに『山オランダ人』の世界であり、正直にいって、理解しがたいです。 

 ドイツは「プロイセン王国(ケーニヒライヒ・プロイセン:Königreich Preußen)」から「ドイツ帝国(ドイチェス・カイザライヒ:Deutsches Kaiserreich)」となりましたが、

第1次世界大戦(1914-1918)で、ヨーロッパ大陸は激変します。

1917年「ロシア革命」が起こり、ロシア帝国は滅びて、ソ連になります。

1918年「ドイツ革命」が起こり、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命し、ドイツ帝国は崩壊します。

1918年にチェコスロバキアが独立し、「オーストリア=ハンガリー帝国」のカール一世はスイスに亡命し、オーストリア帝国は滅びます。

1919年にオスマン・トルコ帝国でもアタテュルクによる革命運動が起こり、最終的に「オスマン・トルコ帝国」は滅びました。

第1次世界大戦以降、世界は激変しました。


サミュエル商会

2018-06-15 | メモ
「英国サミュエル商会のグローバル展開と日本 」
山内 昌斗
『広島経済大学経済研究論集』
29(4), 113-136, 2007-03 
   ロイヤル・ダッチ・シェル石油は2012年の売上1位、純利益4位の世界一の企業です。このシェル石油の貝殻マークは日本製であり、ロイヤル・ダッチ・シェル石油が「サミュエル商会」として日本からスタートした歴史はあまり知られていません。

 ロイヤル・ダッチ・シェル石油の創業者であるマーカス・サミュエル(Marcus Samuel1853ー1927)は、1853年にロンドンの裕福なイラク系ユダヤ人の家に生まれました。

 1871年(明治4年)に18歳のマーカス・サミュエルは開港したばかりの横浜に5ポンド(現在の5万円程度)のお金だけを持って、やってきました。そして、湘南の海岸で、漁師たちが取った後の貝殻(シェル)を集めて、父親の商店があるロンドンに送りました。

 1876年(明治9年)に、23歳のマーカス・サミュエルは、横浜に「サミュエルサミュエル商会Samuel Samuel & Co)」横浜支店を開業します。 

 1890年(明治23年)に「サミュエル商会」は、兵庫県菟原郡都賀浜村(現在の神戸市灘区、阪神・大石駅あたり)に「有限責任会社 都賀浜麻布会社」を設立し、輸出用米の麻袋を海外に輸出しました。これは現在も「六甲サザンモール」を経営する「小泉製麻株式会社」として現存しています。

 1891年(明治24年)、マーカス・サミュエル38歳のとき、「サミュエル商会」は、ノーベル兄弟とロスチャイルド家のロシア産バクーの石油を扱う会社「ブニト(Bnito)」と契約します。ロシア産の「ブニト(Bnito)」の石油を東洋でのみ1900年まで独占的に販売できる権利です。
これは、1875年(明治8年)に、スウェーデンのアルフレッド・ノーベル(Alfred Nobel:1883-1896)などノーベル兄弟がロシア・アゼルバイジャンのバクー油田を「ノーベル兄弟石油会社(Branobel)」で開発したものです。
   この際に、ノーベル兄弟はフランス・ロスチャイルド家のアルフォンス・ド・ロチルド男爵(Alphonse de Rothschild:1827-1905)から融資を受けました。
 ちょうどアメリカでも初代ジョン・ロックフェラー(John Rockefeller:1839- 1937)が1870年にオハイオ州で「スタンダード石油(Standard Oil)」を創業しました。1880年代は、ヨーロッパ石油市場で、ロスチャイルド系の「ノーベル兄弟石油会社」とロックフェラー系の「スタンダード石油」の争いがありました。
 1882年から「スタンダード石油」は海外でも樽(バレル)に詰めた石油を売りはじめたからです。

 1892年(明治25年)、マーカス・サミュエル40歳のとき、「サミュエル商会」は、石油タンカー「ミュレックス号(Murex)」を世界で初めて注文しました。
 それまで、石油を運搬するには、樽(バレル)で運搬していたのですが、火災を起こしやすいため、スエズ運河を通行できませんでした。そこで、マーカス・サミュエルは石油運搬専門のタンカーを開発しました。スエズ運河を通って、神戸からアジア中に石油を売りました。

 1893年(明治26年)、マーカス・サミュエル40歳のとき、「サミュエル商会」は、神戸、和田岬・油槽所を完成させます。この和田岬から、日本全国に販売網がつくられ、ロシア産の石油・灯油が関西に売られました。

 1897年(明治30年)、マーカス・サミュエル44歳は「自分は、若いとき、日本の海岸で貝殻(シェル)をひろっていた貧乏な青年だった。そのことを絶対に忘れない」ために、タンカー会社の名前を「シェル・トランスポート・アンド・トレーディング・カンパニー(Shell Transport and Trading Company)」と名づけ、ロンドンに本社を置きました。これが「シェル」です。 
 この時期1897年に「サミュエル商会」は、日清戦争(1894-1895)の軍事公債4.300万円を引き受けて日本政府の信用を得ています。

 1899年(明治32年)、「サミュエル商会」は、日本政府から1908年まで植民地・台湾の樟脳の販売の独占利権を得ます。

 1900年(明治33年)、「サミュエル商会」は、「ライジング・サン石油会社」を創業します。日本国内で照明用の灯油、ケロシンを販売しました。

 1903年(明治36年)、「サミュエル商会」は、日露戦争の軍事公債を引き受けています。この日露戦争の外債の借金を日本政府が完済したのは1986年(昭和61年)です!!!。

 1907年(明治40年)、マーカス・サミュエルの会社「シェル」とロスチャイルド・フランス家の「ロイヤル・ダッチ」が合併し、「ロイヤル・ダッチ・シェル石油」が生まれました。
   1870年から1900年にかけて、ロスチャイルド家のロシア・バクーの石油とロックフェラー家のスタンダード石油の市場争いがあったのですが、サミュエル商会マーカス・サミュエルの「シェル」のタンカー輸送力により、ロスチャイルド家が勝利したという歴史が、「ロイヤルダッチ・シェル石油」の創設につながりました。
   マーカス・サミュエルは、貧しい20代に横浜で拾っていた「貝殻(シェル)」をマークにして、神戸を基地にして日本全国にロシア産石油を、販売することで、後の「ロイヤルダッチ・シェル石油」の基礎をつくりました。

ロンドン金市場

2018-06-15 | メモ
2011年に書かれた、『東北学院大学経済学論集』のサイモン・ジェイムス・バイスウェイ 先生の日本語論文には、驚愕しました。これは最初の1ページ目だけでも読む価値があります。ロンドン金市場の400年の歴史の研究です。PDFファイルで全文が読めます。
『ロンドン金市場の金融史研究、1600-2004年-とくに両大戦間期に関して-』
A Financial History of the London Gold Market
サイモン・ジェイムス・バイスウェイ Simon James Bytheway
『東北学院大学経済学論集』第177号(東北学院大学、2011)pp.195-210.
http://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2011/pdf/bk2011no09_11.pdf

書き出しを読んでビックリしました。

「ロスチャイルド商会のニュー・コート事務所で毎日平日の午前中に行われる5人の匿名ブローカーによる風変わりで面白い特有な取引」が「ロンドン金市場(The London Gold Market Fixing Ltd)」だと言うのです!!!

調べると、確かに20世紀初めから2004年までは、ロスチャイルド商会の事務所内に5人が集まるのが、「ロンドン金市場(The London Gold Market Fixing Ltd)」だったのです!なんじゃ、そりゃあー?!!!

信じられん!! けど、英語のウィキペディアにも全く同じことが書いとる!!!

以下、2011年論文から引用。
「実際には、1852年から『ロスチャイルド商会(N M Rothschild & Sons)』が所有していた王立造幣局は、イングランドに輸出される、精練されていない金の大半を扱っていた」論文197ページ

「イングランド銀行は、ロスチャイルド商会とともに、ロンドンの『自由金市場』を形成するために、直ちにその準備に入ったが、そのさい自由金市場を管理するにあたってイングランド銀行の示した願望は、ロスチャイルド商会がその自由金市場の議長になること、そしてそれによって将来の日々の金価格への投機を招かないようにすることであった」論文199ページ
以上、引用終わり。
この論文は、驚愕の記述がえんえんと続きます・・・。もう、本当に驚きの連続です!
   ロンドン金市場における、ロスチャイルド商会以外の4ブローカーの1つは、「モカッタ・アンド・ゴールドシュミット社(Mocatta & Goldsmid)」でした。

ゴールドシュミット(Goldsmid)!!! 

もう笑えてきました・・・。ロンドン金市場は、ロスチャイルド商会の事務所内にあり、参加者はゴールドシュミット(Goldsmid)さんです。インドや南アフリカなどイギリス植民地から送られてきたゴールドは、ロンドン市場のたった5人の参加者が決めていました・・・。

 そして、たった5人の参加者のロンドン市場で価格が決まった金は、ロスチャイルド商会からニューヨークに送られ、「クーン・ロエブ商会(Kuhn Loeb and Company)」がニューヨークの販売を担当していました。

 クーン・ロエブ商会は、日本と縁が深いです。1904年の日露戦争の際に井上馨(いのうえ・かおる)は高橋是清を英米に派遣し、クーン・ロエブ商会のジェイコブ・シフ(Jacob H.Schiff)の仲介によって、日露戦争の戦費を外債として調達しました。このユダヤ人大富豪ジェイコブ・シフこそは、ドイツ・フランクフルトのユダヤ人ゲットーで「緑の楯の家(ハウス・ツム・グリューネン・シルト:Haus zum Grünen Schild)」という場所、「赤い楯の家(ハウス・ツム・ローテン・シルト:Haus zum Roten Schild)」初代マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(Roth Schild=赤い楯)の隣に住んでいた一族の末裔です。
   当時のロスチャイルド家は「BNITO(ロイヤル・ダッチの前身の一つ、ノーベル石油会社)」が経営するロシア領アゼルバイジャン・バクー油田からの収入が大きく、帝政ロシアと表面上は敵対できませんでした。しかし、赤い楯ロスチャイルドと、緑の楯ジェイコブ・シフは帝政ロシアが東欧で行っているユダヤ人大虐殺ポグロムに激怒しており、帝政ロシアを倒すために革命家レーニンを支援しつつ、日露戦争で日本を支援しました。ユダヤ人大富豪ジェイコブ・シフの紹介により、ウォール街とロンドン・シティで日露戦争のポンド建て外債は、売り出されました。この日露戦争の外債の借金を日本政府が完済したのは1986年(昭和61年)です!!!。

 また、ニューヨークのクーン・ロエブ商会のジェイコブ・シフは、神戸のユダヤ人コミュニティの成立にも関わっています。

以下、引用。
「1917(大正6)年のボルシェヴィキ革命のときに何千というユダヤ人亡命者に、横浜と神戸のユダヤ人たちは日本政府の協力を得て意味のある援助をした。しかし、多くの亡命者たちは必要な資金がなかったため日本に上陸できなかった。この問題は、ニューヨークのクーン・ロエブ金融会社の社長であり、アメリカ・ヘブライ人移民救済協会の会長であったジェイコブ・シフのおかげで解決した。彼が日露戦争のときに、日本に金融面の重要な援助をしていたので、横浜と神戸に乗り継ぎセンターを設立するという要求がすぐに承認された。」
以上、引用終わり。
History of Jewish Kobe, Japan 「神戸のユダヤ人」May 18, 2015
杉原千畝がユダヤ人難民に「命のビザ」を発行したときに、シリア出身のラーモ・サッスーンさんの「神戸ユダヤ人教会」に居た数百人のユダヤ人難民を助けたのもジェイコブ・シフゆかりのニューヨークのユダヤ人団体でした。

 『ロンドン金市場の金融史研究』の論文著者のサイモン・ジェイムス・バイスウェイ 博士はイギリスで多くの賞も受賞し、現在、日本大学の教授です。日本大学の教授が2011年の『東北学院大学経済学論集』に書いた論文に、「ロンドン金市場は、ロスチャイルド商会の事務所で行われる」、「イギリス王立造幣局(The Royal Mint)は、ロスチャイルド商会の所有である」と書かれているのです(笑)。

 この「イギリス王立造幣局(ロイヤル・ミント:The Royal Mint)」の歴史は、日本・神戸にも関係しています。アヘン戦争後、1866年から香港では、イギリスの「香港造幣廠(ホンコン・ミント:Hong Kong Mint)」によって銀貨「香港ドル」貨幣が鋳造されます。
 1869年(明治2年)に「オリエンタル・バンク・コーポレーション(英国東洋銀行:Oriental Bank Corporation)」が日本の明治新政府と契約を結び、香港造幣局長トーマス・ウィリアム・キンドル(Thomas William Kinder)の提案を受けて、大阪造幣寮(大阪造幣局)が創られました。香港造幣局の鋳造機械がジャーディン・マセソン商会の仲介で6万ドルで明治政府に売却され、香港から大阪に運ばれました。 
 1871年(明治4年)に、明治政府のお雇い外国人トーマス・ウィリアム・キンドルは大阪造幣局で明治政府最初の「一円銀貨幣」を鋳造します(参考文献※1)。1871年(明治4年)にトーマス・ウィリアム・キンドルは フリーメーソン「神戸ライジングサン・ロッジNO1401」を神戸外国人居留地81番地のフリーメーソン・ビルに設立しました。 ここは、現在、日本銀行・神戸支店になっています。1872年(明治5年)にトーマス・ウィリアム・キンドルは神戸ライジング・サン・ロッジの最初のマスターになっています(first Master of Rising Sun Lodge)。
 キンドルや日本最初の一円銀貨と関係の深いオリエンタル・バンク・コーポレーションは、スリランカの紅茶プランテーションへの投資で失敗し、1893年のベアリング恐慌(Barings Panic of 1893)で倒産しました。1893年に倒産するまで、オリエンタル・バンク・コーポレーションは日本国債の発行を引き受けていました。これらは、明治維新以降の日本の歴史、神戸の歴史を調べて、はじめて見えてきたことです。
 神戸旧居留地にあった会社は、オリエンタル・バンク・コーポレーション、香港上海銀行(HSBC)、ジャーディン・マセソン商会、グラバー商会、キルビー商会(神戸ビーフ)、ハンター商会(ハンター坂・ハンター邸宅)、サミュエル商会(のちのロイヤル・ダッチ・シェル)、サッスーン商会(サッスーン邸)でした。

 最初に作られた銀貨の香港ドル(HKD)は「1圓(いちえん)」と印刷されていました。日本の最初の一円銀貨も「1圓(いちえん)」と印刷されています。韓国の通貨ウオン(Won)は「圓(Won)」という漢字を韓国語読みしたものです。中華民国で最初に発行されたのも「壹圓(いちえん)」銀貨でした。現在の中華人民共和国の「人民元」通貨も毛沢東の顔の図柄に「100圓」と書かれており、¥マークを使っています。中国の「100元(100圓)」の表記は「¥100」なのです!日本も中国も韓国も同じ通貨単位なのは何故なのでしょう?おそらく、各国の「造幣局(Mint)」成立の歴史と関係しているのです。この当時の世界は江戸時代のように、銀本位制で、銀貨中心だったのが、18世紀末から世界は、「金本位制」の兌換紙幣となります。

※1:「大阪造幣局の建設とオリエンタル・バンク」
立脇, 和夫 長崎大学 東南アジア研究所
『東南アジア研究年報』 (28), pp.49-83; 1986

神戸外国人居留地

2018-06-15 | メモ
「神戸外国人居留地と福原遊女・新撰組 : 神戸大学附属図書館所蔵コレクション『神戸開港文書』の可能性
添田 仁『海港都市研究』 (5), 75-87, 2010-03

 茨城大学人文科学部教授の添田仁(そえだ・ひとし)先生が書かれた論文です。  
 
【神戸外国人居留地と福原遊郭】 
1868年(明治元年)に神戸港が開港したときに、福原遊廓も同時にできました。福原遊廓は最初、いまのアンパンマン・ミュージアムがある神戸ハーバーランドあたりにありましたが、1870年(明治3年)に京都ー神戸線としてJR神戸駅の前身の駅が出来た際に湊川、現在の福原に移転しました。  1870年(明治3年)に湊川に移設された福原遊廓は、神戸外国人居留地の外国人のためにつくられました。遊廓では日本人は金1分に対し、西洋人は金2分を支払いました。西洋人が娼妓を見請けする「ラシャメン(洋妾)」という制度もありました。
    当時の神戸は、北前船で函館市や択捉島の開発をした高田屋嘉兵衛の「兵庫津(ひょうごのつ)」と、「神戸外国人居留地」があり、その間に「福原遊廓」が出来ました。    兵庫津(ひょうごのつ)は船着き場なので、江戸時代からの花街「佐比江」「柳原」が有りましたが、神戸開港の際に、外国人向けに福原遊廓を新設したのです。福原遊郭が外国人向けにつくられたことは知りませんでした。
 
  【神戸・花隈の花街】 
 さらに、1868年(明治元年)ー1869年(明治2年)まで、伊藤博文が初代兵庫県知事として、「花隈(はなくま)」に居住します。現在、神戸市中央区花隈町3にあったニツ茶屋村の庄屋、橋本藤左衛門の別邸である橋本花壇(後の花隈の料亭吟松亭)を仮住居として、周りの花街に入り浸っていました。伊藤博文が去ったあと、伊藤の滞在していた橋本花壇で伊藤博文の妹が料亭・吟松亭を開業し、花隈に芸者の置屋や料亭が集まってきます。 伊藤博文の遺産により、花隈には花街が形成されました。
 
 1963年にイギリスに留学した伊藤博文は27歳でしたが、神戸港のために英語ができるということで県知事(県令)となり、神戸税関を設置しました。伊藤博文が在任中に1868年1月27日に三宮神社前で「神戸事件」が起こり、備前藩が大名行列を横切ったフランス兵2人を槍で負傷させます。イギリス公使のパークスは激怒し、アメリカ海兵隊、イギリスの警備隊、フランスの水兵は神戸外国人居留地外まで備前兵を追撃し、生田川で銃撃戦となり、外国人が神戸中心部を占拠することになりました。2月2日には備前藩の武士が切腹することで解決し、当時の日本の「攘夷」の方針が「和親開国」へと転換した契機の事件と歴史的に位置づけられています。
    イギリス留学経験があり、英語ができるとは言え、27歳の伊藤博文と神戸の中心部を占拠したアメリカ・イギリス・フランスの軍隊はどのような関係だったのでしょうか?
    のちに「キルビー商会」のエドワード・チャールズ・キルビーとエドワード・ハズレット・ハンター がこの頃に、伊藤博文を神戸ビーフで接待しました。
 
 伊藤博文は県知事を辞任した後も亡くなるまで、兵庫県の大倉財閥の大倉喜八郎がつくった別邸を自分の別荘のように使っていました。この大倉喜八郎の別邸は現在の神戸市立図書館前の「大倉山公園」で、ここには伊藤博文の銅像がありました。現在も銅像の台座のみ残っています。伊藤博文が自分の名前をつけたのが神戸旧居留地の神戸税関近くの「神戸市中央区伊藤町」です。 
 伊藤博文の住んだ神戸・花隈には芸者の置屋や料理屋が発達し、花隈町には1885年(明治18年)に東郷平八郎(1848-1934)が住んでいました。東郷平八郎は花隈から神戸の小野浜造船所に通い、初代「戦艦大和」の建造を監査するのが仕事でした。神戸・小野浜造船所で初代「戦艦大和」を建造していたのが、「キルビー商会」のエドワード・チャールズ・キルビーです。東郷平八郎は1871年(明治4年)から1878年(明治11年)まで、イギリスのポーツマスに留学していたので、英語ができました。
   東郷平八郎は1905年(明治38年)に日露戦争で連合艦隊司令官としてロシアのバルチック艦隊に勝利します。  
 
    さらに興味深いのは、神戸「ハンター邸」のハンターが、台湾の総督、後藤新平からの依頼で大阪鐵工所において「アヘン精製機」を製造していることが調査で判明したことです。日本軍が中国大陸でアヘンを密売するようになったのは、台湾での後藤新平のアヘン統治政策が原因です。

   ジャーディン・マセソン商会、グラバー商会、キルビー商会、ハンター商会は面白い関係です。
   グラバー商会は坂本龍馬や岩崎弥太郎に武器を売った武器商人でした。グラバー商会は軍艦をつくる三菱重工業・長崎造船所の基礎を作りました。文字通りの「死の商人」「武器商人」でした。トーマス・グラバーはアヘン戦争の「ジャーディン・マセソン商会」の代理人でした。
   神戸居留地のキルビー商会は神戸・小野浜造船所で初代「戦艦大和」を建造していました。エドワード・チャールズ・キルビーは最初はグラバー商会で働いて、独立した武器商人でした。
   神戸居留地のハンター商会は1877年の西南戦争で薩摩藩に武器を売る武器商人としてスタートし、日立造船を創業し、「範多(ハンター)財閥」をつくりました。エドワード・ハズレット・ハンターは若い頃にキルビー商会で働いていました。
 
    神戸居留地のグラバー商会、キルビー商会、ハンター商会を調べていると、なぜか『伊藤博文』『井上馨』『大倉喜八郎』『東郷平八郎』『後藤新平』の名前が頻出します。

【伊藤博文:朝鮮支配と朝鮮銀行と旧千円札】
   伊藤博文と井上馨は、「長州五傑」としてジャーディン・マセソン商会の資金でイギリスに留学しました。この留学資金は現在の貨幣価値で10億円に相当します。イギリスではジャーディン・マセソン商会のヒュー・マセソンが世話したため、「マセソン・ボーイ」と呼ばれていました。
   伊藤博文は1868年に神戸外国人居留地の神戸事件の解決で出世の糸口をつかみ、1885年には日本国初の初代内閣総理大臣に44歳で就任します。1884年の日清戦争を経て1885年には日清戦争の講和条約である下関条約を調印しています。1905年には初代韓国統監に就任し、1909年に韓国銀行(朝鮮銀行)を創設し、これは韓国における日本銀行のような立場となり、「ウォン(圓)」を1950年まで発行し続けました。1909年に安重根に暗殺されました。伊藤博文の人生は「植民地」に彩られています。
 
【井上馨:台湾支配と台湾銀行の設立】
  もう一人の「マセソン・ボーイズ」井上馨(いのうえ・かおる)は、西郷隆盛には「三井の番頭さん」と呼ばれました。
  井上馨は1862年に長州藩の命令でジャーディン・マセソン商会から長州藩の鉄製蒸気船軍艦「ランスフィールド」を横浜で購入しました。
  1963年には長州五傑「マセソン・ボーイズ」としてイギリスに留学します。1965年にトーマス・グラバーから武器を購入し、坂本龍馬の仲介で薩長同盟を、つくり第二次長州征伐に勝利します。
1869年(明治2年)に大阪造幣局知事となります。
   1876年には江華島事件の収拾で、日朝修好条規を朝鮮と結びます。1882年からは鹿鳴館をつくり、鹿鳴館外交を繰り広げます。1885年からは伊藤博文初代内閣の外務大臣となり、1894年の日清戦争直後の朝鮮公使と、1895年閔妃暗殺直後の朝鮮公使を勤めます。
   1897年に井上馨は台湾銀行の設立に関わり、台湾銀行は台湾の紙幣「台幣」を発行しました。井上馨のキャリアも「植民地人生」です。
 
   1904年の日露戦争の際に井上馨は高橋是清を英米に派遣し、クーン・ローブ商会(Kuhn Loeb & Co.)のヤコブ・シフ(Jacob H.Schiff)から日露戦争の戦費を外債として調達しました。このユダヤ人大富豪ヤコブ・シフこそは、フランクフルトのユダヤ人ゲットーで「緑の楯の家(ハウス・ツム・グリューネン・シルト:Haus zum Grünen Schild)」という場所に初代マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(Roth Schild=赤い楯)の隣に住んでいた一族の末裔です。
   当時のロスチャイルド家は「BNITO(ロイヤル・ダッチの前身の一つ、ノーベル石油会社)」が経営するロシア領アゼルバイジャン・バクー油田からの収入が大きく、帝政ロシアと表面上は敵対できませんでした。しかし、赤い楯ロスチャイルドと、緑の楯ヤコブ・シフは帝政ロシアが東欧で行っているユダヤ人大虐殺ポグロムに激怒しており、帝政ロシアを倒すために革命家レーニンを支援しつつ、日露戦争で日本を支援しました。ウォール街とロンドンで日露戦争のポンド建て外債は、売り出されました。この日露戦争の外債の借金を日本政府が完済したのは1986年(昭和61年)です!!!。
 
【大倉喜八郎:死の商人とロスチャイルド】
大成建設、帝国ホテル、ホテル・オークラを創った大倉喜八郎は鉄砲商としてスタートし、1874年台湾出兵、1877年西南戦争、1894年の日清戦争では陸軍御用達、1904年の日露戦争では軍御用達として、財閥を形成し、伊藤博文に仕えた「死の商人」でした。1900年にはロスチャイルド家から招待を受けました。日本人で、ロスチャイルド家から招待を受けた例を他に知りません。
 
【後藤新平:台湾のアヘン政策】
1898年に後藤新平は台湾民生長官となり、台湾を統治し、旧・五千円札の新渡戸稲造に台湾製糖業という植民地ビジネスを起こさせました。1906年から満鉄総裁となり、諜報機関・満鉄調査部をつくります。また、後藤新平の台湾アヘン政策は、遼東半島の関東軍に影響を与え、これが関東軍による満州・内蒙古でのアヘン栽培につながっていきます。
   後藤新平も職業は「植民地経営者」です。「ハンター邸」のハンターに「アヘン精製機」を発注していました。
 
   神戸外国人居留地「キルビーホール」のエドワード・チャールズ・キルビーと、「ハンター邸」のエドワード・ハズレット・ハンターという「神戸ビーフ」コンビの謎を追いかけていくうちに、明治時代の征韓論や日清戦争・日露戦争の謎が見えてきました。

居留地

2018-06-15 | メモ
リンク先は 
 山内 昌斗 広島経済大学
『経済研究論集』   30(3・4) 275-296   2008年 
↑  
   この論文では「グラバー邸」のトーマス・グラバーの「グラバー商会」が、ジャーデイン・マセソン商会、サッスーン商会、香港上海銀行の代理店を兼ねていたと書かれています(278ページ)。  トーマス・グラバーの邸宅は、現在「グラバー園」という観光地になっています。 
 
  ジャーディン・マセソン商会、サッスーン商会、香港上海銀行は、神戸居留地だけでなく、横浜居留地、長崎居留地、上海租界や天津租界にもありました。これは、アヘン戦争やアジアの植民地と関係します。   
 
ジャーディン・マセソン商会」は、神戸外国人居留地83番地にありました。これは、日本銀行・神戸支店の南側の現在の神戸KDCビルの場所です。 
  イギリス東インド会社のスコットランド人ウイリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンが1832年に創った会社が「ジャーディン・マセソン商会」です。 http://oldkobelove.web.fc2.com/kyuukyoryuuti1.html  
 
 「サッスーン商会」は、神戸市明石町48番地にありました。これは大丸の前で、現在の東京三菱UFJ銀行の場所です。 
 
香港上海銀行(HSBC)」は、神戸外国人居留地2番地にあり、神戸では「ウォルシュ・ホール商会」が代理店をしていました。1872年にアメリカ人のトーマス・ウォルシュは長崎から神戸に移住し、1876年に神戸三ノ宮一丁目に「神戸製紙所」を創業します。ウォルシュは1897年に三菱創業者・岩崎弥太郎の長男である岩崎久弥に「神戸製紙所」を譲渡し、これが現在の「三菱製紙」となりました。1897年にアメリカ初代長崎領事で弟だったジョン・ウォルシュが亡くなったことにショックを受けたトーマス・ウォルシュはスイスに移住します。 
 
【アヘン戦争と香港と神戸・大阪】  
 オスマントルコ帝国のバクダットに在住していたユダヤ人ダーウィード・サスーン (David Sassoon:1792 - 1864)は、1832年にインドのボンベイに移住し、「サッスーン商会」を創業します。
 同じ1832年に 「ジャーディン・マセソン商会」が創業されました。  
 
 この「サッスーン商会」と 「ジャーディン・マセソン商会」は、イギリス領インドの阿片を中国で売りまくりました。
   1839年に中国・清国の官僚・林則徐は「サッスーン商会」と 「ジャーディン・マセソン商会」の阿片を没収して、これにより中国清国とイギリスのアヘン戦争(Opium War)が起こりました。
  アヘン戦争を起こしたのが、「サッスーン商会」と 「ジャーディン・マセソン商会」です。 
 
  1842年に「南京条約」で、イギリスへの香港の割譲と、広州、福州、廈門、寧波、上海の5港の開港が決まりました。 
 
  1865年に「サッスーン商会」 「ジャーディン・マセソン商会」などのアヘンの利益をイギリス・ロンドンに送金するために「香港上海銀行(HSBC)」が創業されました。  
 
 1866年から香港では、「香港造幣廠(Hong Kong Mint)」によって銀貨「香港ドル」貨幣が鋳造されます。 
 
  1869年(明治2年)に「オリエンタル・バンク・コーポレーション(英国東洋銀行)」が日本の明治新政府と契約を結び、香港造幣局長トーマス・ウィリアム・キンドル(Thomas William Kinder)の提案を受けて、大阪造幣寮(大阪造幣局)が創られました。香港造幣局の鋳造機械がジャーディン・マセソン商会の仲介で6万ドルで明治政府に売却され、大阪に運ばれました。 
 
  1871年(明治4年)にトーマス・ウィリアム・キンドルは大阪造幣局で明治政府最初の「一円銀貨幣」を鋳造します(参考文献※1)。   
 
   1871年(明治4年)にトーマス・ウィリアム・キンドルは フリーメーソン「神戸ライジングサン・ロッジNO1401」を神戸外国人居留地81番地のフリーメーソンビルに設立しました。 ここは、現在、日本銀行・神戸支店になっています。
  1872年(明治5年)にキンドルは神戸ライジング・サン・ロッジの最初のマスターになっています(first Master of Rising Sun Lodge)。
 
  ※1:「大阪造幣局の建設とオリエンタル・バンク」 立脇, 和夫 長崎大学 東南アジア研究所 『東南アジア研究年報』 (28), pp.49-83; 1986 
 
 【ジャーディン・マセソン商会と薩長】
  1832年に 「ジャーディン・マセソン商会」が創業され、1839年にアヘン戦争が起こり、1842年に香港が割譲されると、 「ジャーディン・マセソン商会」は香港を本拠地にします。 
 
 1844年には上海に「ジャーディン・マセソン商会」が出来ます。  
 
   1859年(安政5年)には、創業者ウイリアム・ジャーディンの親類ウィリアム・ケズウィック(William Keswick)が「ジャーディン・マセソン商会」を横浜・山下町居留地1番館(英一番館)につくりました。  
 
 1863年(文久3年)5月12日には、「ジャーディン・マセソン商会」ウィリアム・ケズウィックは「長州五傑」をイギリス留学に送り出します。「長州五傑」とは、伊藤博文、井上馨、野村弥吉、山尾庸三、遠藤謹助です。遠藤謹助は後に大阪造幣局長となり、「桜の通り抜け」をつくりました。  
 
 1863年(文久3年)5月18日には、伊藤博文などの「長州五傑」は上海に着き、ジャーディン・マセソン商会上海支店の支店長と会談し、11月にロンドンに着きました。旅費と留学費用はすべて「ジャーディン・マセソン商会」が負担しました。   
 
   1865年(慶応元年)に「長州五傑」は、ロンドンで「薩摩藩遣英使節団」と出会います。「薩摩藩遣英使節団」とはトーマス・グラバーの船でロンドンに密航した留学生です。グラバー商会の親会社は「ジャーディン・マセソン商会」です。
 
  1866年(慶応2年)に帰国した「薩摩藩遣英使節団」の薩摩藩士・五代友厚(ごだい・ともあつ)は、トーマス・グラバーと共同事業で長崎小菅に現存する「そろばんドック」をつくり、ここから三菱重工業・長崎造船所が発展し、2015年に世界遺産に登録されました。  
 
   1868年(明治元年)に、「薩摩藩遣英使節団」の薩摩藩士・五代友厚(ごだい・ともあつ)は明治新政府の参与職外国事務掛となり、大阪に赴任して、大阪造幣局!!!を創り、トーマス・ウィリアム・キンドルを香港から招聘し、初代大阪税関長となります。この五代友厚(ごだい・ともあつ)が、大阪商業会議所をつくったので、大阪商工会議所前には五代友厚(ごだい・ともあつ)の銅像があります。 
 
 【サッスーン商会】 
  オスマントルコ帝国のバクダットに在住していたユダヤ人ダーウィード・サスーン (David Sassoon:1792 - 1864)は、1832年にインドのボンベイに移住し、「サッスーン商会」を創業します。この「サッスーン商会」がアヘン戦争を起こしました。 
 
 ターウィード・サッスーンの長男アルバート・アブドラ・サッスーン初代男爵(Sir Albert Abdullah David Sassoon:1818ー1896)は、「インドのロスチャイルド」と呼ばれました。アブドラの代の1865年に「香港上海銀行(HSBC)」が創業されます。
 
  子孫のエドワード・サッスーン2代目男爵(Sir Edward Albert Sassoon:1856-1912)がアリーン・キャロライン・ド・ロスチャイルド(Aline Caroline de Rothschild:1867–1909)と結婚しました。本物のロスチャイルド一族となったエドワード・サッスーンは「新サッスーン商会(E.D.Sassoon & Co:新沙遜洋行)」を創りました。 
 
  この時期の上海・香港を支配したのは、
ジャーディン・マセソン商会(Jardine,Matheson & Co:怡和洋行)、
サッスーン商会(E.D.Sassoon & Co:新沙遜洋行)、
香港上海銀行(HSBC:Hongkong & Shanghai Banking Corporation:匯豊銀行)、
バターフィールド&スワイヤ商会(Butterfield & Swire Co.:太古洋行)でした。
  バターフィールド&スワイヤ商会も、神戸の北野町2丁目3の「三本松広場」にありました。スワイヤは、現在、「香港上海銀行(HSBC)」の個人筆頭株主でキャセイパシフィック航空のオーナーです。バターフィールド&スワイヤ商会は横浜・山下町居留地7番館に1867年(慶応3年)に開業しています。 
 
 現在、サッスーン財閥の当主ジェームズ・メイヤー・サッスーン男爵(James Meyer Sassoon, Baron Sassoon)は、2010-2013年にイギリスの財務大臣を務め、ジャーディン・マセソン商会の取締役でマンダリンホテルのオーナーです。2005年にはホテル「マンダリンオリエンタル東京」が開業しました。