alternativemedicine

Studies about acupuncture and moxibustion and Massage.

小野寺殿部圧診点

2018-06-22 | 間中喜雄先生
「圧診点および2, 3の応用」
小野寺 
『日本鍼灸治療学会誌』Vol. 14 (1964-1965) No. 2 P 1-8
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsam1955/14/2/14_2_1/_article/-char/ja/
小野寺殿部圧診点」で知られ、85歳で亡くなられた小野寺(1883-1968)先生の81歳の頃の講演会の内容です。小野寺(おのでら・なおすけ)先生は、1916年(大正5年)に33歳の若さで九州帝国大学医学部の教授となりました。そして、九州大学で理学療法としてマッサージを講義することになった際に、病院に勤務していた小島さんというマッサージ師にマッサージを習いに行ったところ、「お腹の病気のある人は腸骨稜の下3~4cmを押すと痛がる」と聞きました。小野寺先生はさっそく入院患者で調べ、腸チフス患者で細菌培養検査とあわせて診断したところ、殿部の圧痛と感染の有無が相関していることが確認できました。そこから圧診を研究し、診断の名人・消化器専門医として評判をとり、1963年には文化功労者、1964年には勲二等の叙勲を受けます。

小野寺先生81歳のお話は、あまりに面白く、鍼灸師にとって、メモする価値があります。

以下、引用。
「(関連痛・ヘッド帯のヘンリー・)ヘッドはえらいことをみつけたものですが、ヘッドの言うところでは、胃に病気があれば、第9胸髄神経の支配する皮膚までしか知覚過敏帯に現れない。殿部に胃に関係のある知覚過敏のあるということはヘッドは考えていなかったのでしょう。ヘッドは皮膚の表層ばかり検査したのです。ところが深いところを押すというと、お尻のあたりに強く圧痛が現れる。それでわたしはお腹の内臓の病気が殿部の圧痛でわかるはずと考えて、だんだん探していって、お腹のなかに病気のあることはだいたい殿部の圧診でわかるものであると私は信じて今日に至っているのであります」

「前の福岡県の鍼灸師会で話をしたことがありますが、あまり詳しく申しませんでした。なぜ言わないかというと、これは確かだと診断の役に立つ、レントゲンやその他の検査の結果と一致するのだから、これは間違いない。この診断法をあなたたち(鍼灸師)に話せば、これをわたしに教えたのはマッサージ師だから、あなたがた(鍼灸師)はカンがいいから、お腹の内臓の診断は医者よりも確かになるだろう。それでは私の同業(医師)に対して申し訳がたたない。そういうことで、あなたがた(鍼灸師)の会に頼まれてもあまり話さなかった。わたしは今80歳を過ぎたし、いつ死ぬかも分からない。まあ、みなさん興味ある方々(鍼灸師)にお話しをしてもかまわないだろう。医者の同業に対しても悪いことはなかろうというので、お話しようという決心もついたのであります。」

「たとえば右扁桃腺の病気であれば、あたまの右側のてっぺんから右側手の先、足の先まで、からだの右側がずっと痛い。医者はそれを知らないから気づかずにいる。あなたがた(鍼灸師)が手でやれば、なんのことはない。すぐにわかる」

「どこか、からだのひとところにある病気でも全身に影響が出ます。とくにあなたがた(鍼灸師)のように押し方が上手だと、はっきりよく分かるでしょう。お医者さんは押さないものだから気づかずにいることが多いでしょう。局所だけの病気なんて、ほとんど無いです。みんな全身に影響が波及しています。神経は上下ずっとつづいているから、病気のときは全身に影響があるのです」
以上、引用終わり。
「全身に波及する、上下につながる圧痛(関連痛)の連続」は、たぶん、プリミティブな『経絡(けいらく)』だと思います。古代中国にいた、小野寺先生みたいな方が経絡を発見したのだと思います。

 小野寺先生は、1916年(大正5年)にマッサージ師さんに小野寺殿部圧診点をおそわり、1921年(大正10年)には医学雑誌に発表されています。1937年(昭和13年)以降、多くの論文(※1)が消化器系の医学雑誌に発表されています。
 特に、小野寺殿部圧診点の考えられる機序については弘前医科大学の松永藤雄教授による論文「圧診点とその吟味」(※5)が詳細に論じています。

 松永藤雄(まつなが・ふじお:1911-1997)弘前医科大学教授は、小野寺先生の後継者です。小野寺殿部圧診点を追試して、「レントゲン検査で潰瘍が見えなくなるほぼ2~3週間前に、小野寺殿部圧診点は正常に戻る」、「このような成績から圧診点は臨床診断の上に非常に役に立つ」と述べています(※6)。
 松永藤雄先生は、このような圧診法の価値を外国人に客観的に理解させるために、「内臓の病気の場合、内臓の状態を反映する背部兪穴の部分の温度が低下する」という「エアポケット現象」を研究し、『日本消化器病学会雑誌』などで発表しました。松永藤雄教授が鍼灸師から受けた質問の答えも参考になります。

以下、より引用。
「(なぜ鍼のひびきが上下に響くのかという質問を受けて)以前に小野寺殿部圧診点がなぜ、多数、陽性になるかを深く研究したことがございます。そのときにわかりましたのは、胃から出た内臓知覚繊維は、主として剣状突起のすぐ下方の神経節に入りますけれども、それを通って上に行くものも下に行くものもある。あるいは、通らずに接、下にいって脊髄に入るものがあります。それがちょうど、坐骨神経の出る脊髄部とほぼ一致するところに入っていくのであります。そこで、胃潰瘍というのは元来はもっと上の脊髄・胸髄を刺激するはずなのに、足のほうにも過敏の場所が起こることがわかりました。」
「(さらに胆石症における右肩の圧痛点について説明し、)要するに、病的器官からの刺激は一箇所に入るのではなく、脊髄の中に入る場所が非常に複雑であるこということになるわであります。それで一つあとを想像いただきたいと思います」
以上、「内臓疾患と皮膚温度, とくにエアポケット現象を中心として」9ページより引用終わり。

 松永藤雄(まつなが・ふじお:1911-1997)弘前医科大学教授は、小野寺先生の後継者です。小野寺殿部圧診点を追試して、「レントゲン検査で潰瘍が見えなくなるほぼ2~3週間前に、小野寺殿部圧診点は正常に戻る」、「このような成績から圧診点は臨床診断の上に非常に役に立つ」と述べています(※6)。
 松永藤雄先生は、このような圧診法の価値を外国人に客観的に理解させるために、「内臓の病気の場合、内臓の状態を反映する背部兪穴の部分の温度が低下する」という「エアポケット現象」を研究し、『日本消化器病学会雑誌』などで発表しました。松永藤雄教授が鍼灸師から受けた質問の答えも参考になります。

以下、より引用。
「(なぜ鍼のひびきが上下に響くのかという質問を受けて)以前に小野寺殿部圧診点がなぜ、多数、陽性になるかを深く研究したことがございます。そのときにわかりましたのは、胃から出た内臓知覚繊維は、主として剣状突起のすぐ下方の神経節に入りますけれども、それを通って上に行くものも下に行くものもある。あるいは、通らずに接、下にいって脊髄に入るものがあります。それがちょうど、坐骨神経の出る脊髄部とほぼ一致するところに入っていくのであります。そこで、胃潰瘍というのは元来はもっと上の脊髄・胸髄を刺激するはずなのに、足のほうにも過敏の場所が起こることがわかりました。」
「(さらに胆石症における右肩の圧痛点について説明し、)要するに、病的器官からの刺激は一箇所に入るのではなく、脊髄の中に入る場所が非常に複雑であるこということになるわであります。それで一つあとを想像いただきたいと思います」
以上、「内臓疾患と皮膚温度, とくにエアポケット現象を中心として」9ページより引用終わり。
 「圧診」について研究される場合は、間中喜雄(まなか・よしお)先生の『医家のための鍼術入門講座』(※8)が最も参考になります。ここに、1950年に医師の成田夬介(なりた・かいすけ)先生が出版された『圧診と撮診』(※9)という本の重要部分が全て転載されています。皮膚をつまむ『撮診(擦診)点』は、経絡治療の岡部素道先生に取り入れられました。

 1950年の日本では、松永藤雄医師の「圧診」や背部兪穴の温度低下の「エアポケット現象」が発表されました。これらはデルマトームやヘッド帯、内臓体壁反射を基本としています。
 さらに1950年、長浜善夫(ながはま・よしお:1915-1961)医師と丸山昌郎(まるやま・まさお:1917-1975)医師が『経絡の研究』を出版し、「経絡現象」 を問いかけます。長浜・丸山の「経絡現象」は中国でも承淡安に1955年に翻訳され、中国で「経絡ブーム」を起こしました。
 この1950年には、医師の中谷義雄(なかたに・よしお:1945-1978)が良導絡・良導点を発見し、1953年には『日本東洋医学会雑誌』(※10)に「経穴經絡の本態について」を発表しています。金沢大学教授の石川太刀雄(いしかわ・たちお:1908-1973)は父・石川日出鶴丸の内臓体壁反射理論(※11)と中谷良導点を剽窃して(※12)、「皮電点」を提唱しました。
 さらに、医師で北陸大学教授の藤田六郎(ふじた・ろくろう:1903-2004)が1954年に、デルマトームに沿った「丘疹点(きゅうしんてん)」を発見・発表し(※15)、多くの「経絡現象」を写真で発表しました(※16)。

 1950年代の日本の鍼灸業界で流行した、小野寺の「圧診点」、松永藤雄の「エアポケット現象(背部兪穴の温度低下)」、成田夬介の「撮診点」、中谷義雄の「良導点」、石川太刀雄の「皮電点」、藤田六郎の「丘疹点」の特徴は、すべて医師が発見し、西洋医学的な内臓体壁反射・デルマトーム・ヘッド帯を基礎として、「経絡経穴」を現代医学的な視点から理解しようとするものでした。


※1:小野寺「胃癌・胃十二指腸潰瘍診斷例の二, 三」
『消化器病学』Vol. 2 (1937) No. 6 P 1097-1102
※胃ガン・十二指腸潰瘍と小野寺殿部圧診点

※2:「膽嚢炎ノ壓診法竝ビニ二、三事項ニ關スル臨牀的統計的觀察」
納 利隆: 九州帝國大學醫學部小野寺内科教室
『日本消化機病学会雑誌』Vol. 42 (1943) No. 3 P 169-174
※第9肋軟骨付着部(昔の日本の期門穴に相当する)と胆嚢炎の関係

※3:「十二指腸潰瘍に於ける前腹壁圧診点に就いて」
千葉 郁樹: 岩手医科大学第一内科教室
『日本消化機病學會雜誌』Vol. 57 (1960) No. 9 P 1103-1116
※十二指腸潰瘍と胃経の右太乙(ST23)または右滑肉門(ST24)あたりの「D点」

※4:「前腹壁胃潰瘍圧診点に関する研究」
水戸 忠夫『日本消化機病學會雜誌』Vol. 58 (1961) No. 5 P 493-506

※5:「壓診法(圧診法)と其の吟味」
松永 藤雄、 弘前醫科大學
『日本消化機病學會雜誌』Vol. 48 (1950-1951) No. 1-2 P 1-23

※6:「内臓疾患と皮膚温度, とくにエアポケット現象を中心として」
松永 藤雄『日本鍼灸治療学会誌』Vol. 20 (1971) No. 2 P 1-10

※7:間中 喜雄 「医家のための鍼術入門講座」 (1977年) 
 
※8:成田 夬介『圧診と撮診』 (1950年) 
臨牀医学文庫〈第1〉 日本医書出版; 5版 (1950)

※9:『経絡の研究―東洋医学の基本的課題』
杏林書院 (1950)

※10:「経穴經絡の本態について」
中谷 義雄『日本東洋醫學會誌』Vol. 3 (1953) No. 1 P 39-49

※11:「内臓体壁反射について 石川教授父子の功績」
多留 淳文『日本東洋医学雑誌』Vol. 51 (2000-2001) No. 4 P 533-562

※12:「皮電計と陰謀」
中谷 義雄『良導絡』Vol. 1961 (1961) No. 15 P 5
 
※13:「皮電点の電子工学的構造」
石川 太刀雄『日本鍼灸治療学会誌』Vol. 12 (1962-1963) No. 3 P 1-7

※14:「偉大なる遺産 石川大刀雄教授のご業績」
多留 淳文日本鍼灸治療学会誌
Vol. 24 (1975) No. 1 P 1-12

※15:「圧診点と丘疹点に関する諸問題」
藤田 六朗『日本鍼灸治療学会総会論文集』
Vol. 3 (1954) No. 1 P 5-14

※16:『経絡学入門 〔基礎篇〕』
藤田六郎、創元社、1980
 

1952年~1953年経絡論争

2018-06-22 | 間中喜雄先生

「経絡論争期の経絡・経穴についての基礎研究」
山田 鑑照, 尾崎 朋文, 坂口 俊二, 森川 和宥
全日本鍼灸学会雑誌52 巻 (2002) 5 号 p. 529-552


1952年2月『医道の日本』経絡否定論 / 米山博久(1915-1985) / p2~7 

1915年 長野県飯 田市 に生 まれ る。
1935年 鍼灸師資 格取 得 。
1936年 東 方 医学会(大 阪)に 所 属。
1946年 刀根 山鍼灸 医学会設立。
1950年 日本鍼灸師会代議 員(~1971年)。
1958年 明治鍼灸専 門学校講 師 。
1960年 大 阪府 は りきゅ う師試験 委 員(~1971年)(1974年 ~1975年)。
1963年 大阪府鍼灸師会理事(~1975年)。
1963年 中国の はだ しの医者に啓蒙 され私塾の土法の会 を主宰。 日本鍼灸皮電研究会理事 ・大阪府鍼灸師会副会長。大阪鍼灸専門学校(現 森 ノ宮医療学園専 門学校)校 長 などを歴任。
1985年6月9日 逝去(70歳)。



間中喜雄先生年譜2

2018-06-22 | 間中喜雄先生

1945年:昭和20年 降伏。捕虜となり沖縄本島へ。
1946年:昭和21年 35歳。復員。温知会間中病院。

1946年(昭和21年):花田傳、九州連合鍼灸按師会会長に就任

1947年(昭和22年)11月:石川日出鶴丸逝去。

1947年(昭和22年):
石川 日出鶴丸「鍼灸術に就いて (一)」京都醫科大學『自律神経雑誌』Vol. 1 (1948-1951) No. 1 P 4-5
※「従来の鍼灸術は一掃されなければならない」

「鍼灸の病態生理序」
石川 太刀雄『自律神経雑誌』1 巻 (1948-1951) 1 号 p. 13-17
※「直接鍼灸醫界に接觸した事がありません。然る處、偶々父の遺稿を整理して居る間に、多大なる興味を覺えました。」

1948年(昭和23年):「日本鍼灸学会」京大生理学教室。笹川久吾会長。『自律神経雑誌』創刊
1948年(昭和23年)
間中喜雄『鍼灸講演集』
刺戟療法と鍼灸(間中喜雄),中神琴渓と"[コレラ]病"(間中喜雄),医道の日本社
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001722620-00

1949年(昭和24年):本間祥白『経絡治療講話』

1950年(昭和25年)日本東洋医学会設立。
石野信安「異常胎位に対する三陰交施灸の影響」『日本東洋醫學會誌』Vol. 1 (1950) No. 1-6 P 7
長浜善夫『新経絡について「経絡の研究」補遺』『日本東洋醫學會誌』Vol. 1 (1950) No. 1-6 P 7a-11
長浜善夫、丸山昌郎『経絡の研究ー東洋医学の基本的課題』杏林書院1950
※1950年には岩手医科大学出身の中谷義雄(なかたに・よしお1923-1978)先生が良導絡を発見し、1954年に笹川久吾門下・京都大学生理学教室に入り、1957年に「皮膚通電抵抗と良導絡」で医学博士を取得しました。※1950年良導絡を発見。百貨店(高島屋薬品部)で電気のテスター。直本氏から岸田菱山氏に売ったテスター。良導帯。岩手医学専門学校の二井教授→金沢大学の石川太刀雄教授→京都大学の笹川教授。

 

1951年赤羽幸兵衛が知熱感度測定法を開発。
「知熱感度測定による経絡の変動の観察第1報 知熱感度測定法と臨床的応用に就いて」
赤羽 幸兵衛『日本東洋醫學會誌』2 巻 (1951) 2 号 p. 49-53
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kampomed1950/2/2/2_2_49/_article/-char/ja

1951年中国:朱蓮(しゅれん:朱琏:zhū liǎn:1909-1978)が《新针灸学》を出版

1952年2月:経絡否定論 / 米山博久(1915-1985) / 『医道の日本』p2~7 

1953年:
経穴經絡の本態について
中谷 義雄
日本東洋醫學會誌13:18 2018/06/223 巻 (1953) 1 号 p. 39-49

1953年3月27日ヘルベルト・シュミットが来日。

 ヘルベルト・シュミットが訪日を希望し、駐日ドイツ大使館から東大の板倉博士に連絡がいき、さらに岡部素道先生の患者だった緒方竹虎を通じて、ヘルベルト・シュミットは来日したという経緯があります(『経絡治療』「追悼座談会 岡部素道先生と経絡治療の展開」)。そして、ヘルベルト・シュミットは間中喜雄先生の自宅に4ヶ月滞在し、京都の細野聖光園の坂口弘先生のところに3ヶ月滞在し、柳谷素霊・岡部素道・井上恵理・本間祥白・代田文誌・藤田六郎・赤羽幸兵衛に鍼を、大塚敬節と細野史郎に漢方を習いました!ヘルベルト・シュミットはドラフュイ(Roger Allote de la Fuÿe:1890-1961)に鍼を学びました。(1953年 月刊「医道の日本」 5月号8~9ページ)。

ヘルベルト・シュミット「東洋医学に対する私見」『日本鍼灸治療学会誌』Vol. 11 (1961-1962) No. 3 P 6-8
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsam1955/11/3/11_3_6/_pdf

坂口弘「日本東洋医学会45年の歴史を振り返って」『日本東洋医学雑誌』Vol. 45 (1994-1995) No. 4 P 731-744
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kampomed1982/45/4/45_4_731/_pdf

1953年 ヘルベルト・シュミットが公募した金鍼と銀鍼の違いについての論文を研究する過程でイオン・パンピング療法を創案

1953年 ドイツの医師ラインホルト・フォル(Reinhold Voll :1909–1989)が、フォルの電気鍼(Elektroakupunktur nach Voll:フォルの電気鍼:Electro-Acupuncture according to Voll)を提唱します。ドラフュイ(Roger Allote de la Fuÿe:1890-1961)の弟子にあたります。

1953年藤田六脊椎側圧診点及び丘診点を主題こせる研究 
第9報東洋医学的方面 (其の二)」藤田 六朗, 南 義成
日本東洋醫學會誌3 巻 (1953) 1 号 p. 49-50

 

1954年 『医家のための鍼術入門講座』間中 喜雄、ヘルベルト・シュミット 医道の日本社 (1954)

1955年:承淡安(しょうたんあん:承淡安:chéng dàn ān)が長浜善夫・丸山昌郎の『経絡の研究(经络之研究)』を翻訳出版する。

1957年 「内臓体表部反射及び体表部内臓反射に関する臨床的研究 (一)」間中 喜雄『自律神経雑誌』6 巻 (1957) 4 号 a17-a34_19
1957年 「皮膚通電抵抗と良導絡 (二)」中谷 義雄『自律神経雑誌』6 巻 (1957) 4 号 p. 3-12

1960年 『万病にきくお灸―家庭でできるすえ方 』間中 喜雄 日本文芸社 (1960)
1960年 東洋針灸専門学校長就任。

1962年 『随筆・鍼・灸・漢方 』医道の日本社 (1962)
1962年 『PWドクター―沖縄捕虜記』金剛社 (1962)
1962年 『カイロプラクテツク―脊椎手技療法』医道の日本社 (1962)

1964年 『灸とはりの効用』主婦の友社 (1964)
1974年北里研究所附属東洋医学総合研究所客員部長に就任。

1989年11月20日肝臓癌のため死去、享年78。


良導絡

2018-06-22 | 間中喜雄先生

「良導絡の発見とその当時のいきさつ 良導絡の歴史(その1)」
中谷 義雄
『日本良導絡自律神経雑誌』20 巻 (1975) 6-7 号 p. 123-127

1923年大阪市西成区に生まれる。

1945年岩手医学専門学校卒業。
七条 晃正先生が平田式熱鍼療法(「電探による針灸治療法」七条 晃正 医道の日本社 1959)

「平田氏十二反応帯の力感覚的解釈」
七条 晃正『日本東洋醫學會誌』2 巻 (1951) 1 号 p. 13-16
https://doi.org/10.14868/kampomed1950.2.13
※平田内蔵吉(1901-1945)は、1930年に平田氏帯を提唱。
平田内蔵吉 著民間治療法全集. 第1巻 (整体指圧温熱・水治療法全集)春陽堂昭和6
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1051062

1946年医院開業。
近所で「虫ふうじ」。藤本和風先生。田中吉左衛門『素問』。代田文誌『針灸治療基礎学』

1950年良導絡を発見、良導絡の基礎的研究を始める。
※百貨店(高島屋薬品部)で電気のテスター。直本氏から岸田菱山氏に売ったテスター。良導帯。
岩手医学専門学校の二井教授→金沢大学の石川太刀雄教授→京都大学の笹川教授。

1953年:

経穴經絡の本態について
中谷 義雄
日本東洋醫學會誌13:18 2018/06/223 巻 (1953) 1 号 p. 39-49

三叉神經痛の分析
中谷 義雄
自律神経雑誌2 巻 (1953) 3 号 p. 11-12


1954年京都大学生理学教室入室。同年京大鍼灸懇話会を設立、100回幹事を務める。

皮膚通電抵抗の基本について
中谷 義雄
自律神経雑誌3 巻 (1954) 7 号

皮膚通電良導絡について
中谷 義雄自律神経雑誌3 巻 (1954) 8 号 p. 7-12


1957年笹川久吾教授指導のもと「皮膚通電抵抗と良導絡」を京大に提出
し、学位を授与される。

1959年関西鍼灸柔整専門学校講師。

1961年良導絡医学会を設立、副会長に就任。

1966年大阪医科大学麻酔科東洋医学担当非常勤講師。

1978年膀胱ガンのため逝去(54歳)。