alternativemedicine

Studies about acupuncture and moxibustion and Massage.

間中喜雄先生年譜

2018-06-20 | 間中喜雄先生

間中 喜雄(まなか よしお、1911年4月11日 - 1989年11月20日)

1911年:明治44年 小田原生まれ
1935年:昭和10年 京都帝国大学医学部卒業。
1937年:昭和12年 間中外科病院
1940年:昭和15年 召集。
1941年:昭和16年 30歳で沖縄に召集。
1944年:昭和19年 沖縄、宮古島空爆開始
1945年:昭和20年 降伏。捕虜となり沖縄本島へ。
1946年:昭和21年 35歳。復員。温知会間中病院。


1948年間中喜雄『鍼灸講演集』
刺戟療法と鍼灸(間中喜雄),中神琴渓と"[コレラ]病"(間中喜雄),医道の日本社
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001722620-00

1950年 日本東洋医学会設立。
1950年には岩手医科大学出身の谷義雄(なかたに・よしお1923-1978)先生が良導絡を発見し、1954年に笹川久吾門下・京都大学生理学教室に入り、1957年に「皮膚通電抵抗と良導絡」で医学博士を取得しました。

1951年赤羽幸兵衛が知熱感度測定法を開発

「知熱感度測定による経絡の変動の観察第1報 知熱感度測定法と臨床的応用に就いて」
赤羽 幸兵衛
『日本東洋醫學會誌』2 巻 (1951) 2 号 p. 49-53
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kampomed1950/2/2/2_2_49/_article/-char/ja



1953年3月27日ヘルベルト・シュミットが来日。
 ヘルベルト・シュミットが訪日を希望し、駐日ドイツ大使館から東大の板倉博士に連絡がいき、さらに岡部素道先生の患者だった緒方竹虎を通じて、ヘルベルト・シュミットは来日したという経緯があります(『経絡治療』「追悼座談会 岡部素道先生と経絡治療の展開」)。そして、ヘルベルト・シュミットは喜雄先生の自宅に4ヶ月滞在し、京都の細野聖光園の坂口弘先生のところに3ヶ月滞在し、柳谷素霊・岡部素道・井上恵理・本祥白・代田文誌・藤田六郎・赤羽幸兵衛に鍼を、大塚敬節と細野史郎に漢方を習いました!ヘルベルト・シュミットはドラフュイ(Roger Allote de la Fuÿe:1890-1961)に鍼を学びました。(1953年 月刊「医道の日本」 5月号8~9ページ)。

ヘルベルト・シュミット「東洋医学に対する私見」『日本鍼灸治療学会誌』Vol. 11 (1961-1962) No. 3 P 6-8

坂口弘「日本東洋医学会45年の歴史を振り返って」『日本東洋医学雑誌』Vol. 45 (1994-1995) No. 4 P 731-744

1953年 ヘルベルト・シュミットが公募した金鍼と銀鍼の違いについての論文を研究する過程でイオン・パンピング療法を創案

1953年 ドイツの医師ラインホルト・フォル(Reinhold Voll :1909–1989)が、フォルの電気鍼(Elektroakupunktur nach Voll:フォルの電気鍼:Electro-Acupuncture according to Voll)を提唱します。ドラフュイ(Roger Allote de la Fuÿe:1890-1961)の弟子にあたります。

1954年 『医家のための鍼術入門講座』間中 喜雄、ヘルベルト・シュミット 医道の日本社 (1954)

1957年 「内臓体表部反射及び体表部内臓反射に関する臨床的研究 (一)」間中 喜雄『自律神経雑誌』6 巻 (1957) 4 号 a17-a34_19

1960年 『万病にきくお灸―家庭でできるすえ方 』間中 喜雄 日本文芸社 (1960)
1960年 東洋針灸専門学校長就任。

1962年 『随筆・鍼・灸・漢方 』医道の日本社 (1962)
1962年 『PWドクター―沖縄捕虜記』金剛社 (1962)
1962年 『カイロプラクテツク―脊椎手技療法』医道の日本社 (1962)

1964年 『灸とはりの効用』主婦の友社 (1964) 
1974年北里研究所附属東洋医学総合研究所客員部長に就任。

1989年11月20日肝臓癌のため死去、享年78。