alternativemedicine

Studies about acupuncture and moxibustion and Massage.

中医学の歴史研究

2015-11-18 | 中医学の歴史

《19世紀の中国伝統医学と中西医汇通(ちゅうせいいかいつう)》
 中国では、清代の王清任(おうせいにん:1768-1831)は解剖の立場から従来の臓腑学説を批判し、活血化オ学説から1830年に『医林改錯』で補陽還五湯(ほようかんごとう)などの処方をつくります。
 さらに王清任の学術を継いだ唐宗海(とうそうかい:1846—1897)はオ血学説を発展させ1886年に『血証論』、1894年には『中西汇通医書五種』を出版しました。中西汇通(ちゅうせいかいつう)とは、西洋医学と中国伝統医学を結合させることです。
 さらに張錫純(ちょうしゃくじゅん:1860-1933)は中薬の石膏に西洋薬のアスピリン(阿斯匹靈)を配合した「石膏アスピリン湯」などを記載した『医学衷中参西録』を1909年に出版します。つまり、19世紀の著名な中医学者は、西洋医学をかなり取り入れていました。


《1911年辛亥革命と日本ブーム》
 辛亥革命の孫文(そんぶん)は西洋医学を学んだ後、日本に留学しました。魯迅(ろじん)も、日本に留学し、西洋医学を勉強しました。清朝を倒した辛亥革命の主役たちは、日本に留学して西洋医学を学んだ者が多かったです。彼らは明治維新で近代化を成し遂げた日本に学ぼうとしていました。1912年には国民政府は早くも「西洋医師のみを医師とする」方針をうちだしてます。

 この時代を代表する医師が、余雲岫(よ・うんしゅう:1879-1954)で、日本の大阪医科大学で西洋医学を学んだ後に帰国して、中国伝統医学を学びましたが、1927年に『医学革命論』を出版し、「日本に学んで中医薬を廃絶すること」を提案しました。
 この辛亥革命から上海事変までの中国は「日本ブーム」でした。中国鍼灸の父、承淡安(しょうたんあん)先生は1929年に江蘇省で中国針灸学研究社をたちあげ、1933年に中国初の『鍼灸雑誌』を出版し、1934年には日本の呉竹鍼灸学校で学びます。これ以降、承淡安先生は中国に日本鍼灸を紹介し続けます。承淡安の弟子が、老中医の楊甲三先生や邱茂良先生です。現在の中医針灸学は日本の影響を受けて形成されました。

 また、この時期に日本の漢方医学書を集めた『皇漢医学叢書(こうかんいがくそうしょ)』が出版されて、中国漢方に多大な影響を与えました。
※「現代中医鍼灸学の形成に与えた日本の貢献」
真柳 誠『全日本鍼灸学会雑誌』Vol. 56 (2006) No. 4 P 605-615
https://www.jstage.jst.go.jp/arti…/jjsam1981/…/56_4_605/_pdf

《1930年代の『国医』運動と1932年上海事変》
 1928年5月に大阪医科大学で学んだ旺企張(おうきちょう)が中医廃止案を提案します。
 1929年2月に、大阪医科大学で学んだ余雲岫(ようんしゅう)の「旧医学の廃止」が衛生部(厚生労働省)の会議で決議されます。
 1929年3月17日に、これに反発した中国全土の伝統医学グループが上海で会議を行い、中医薬連合会を組織し、「中医廃止案」をひっくりかえしました。これ以降、伝統医師は組織化され、1931年3月には『国医館(国医研究所)』が南京につくられました。
 1932年1月からの日本軍の上海爆撃(上海事変)は、西洋医学優位の流れを変えました。
 1933年12月に「中医条例」が頒布されました。このとき、『国医』が『中医』となりました。
 1935年に「中国医学と西洋医学に対する同等の取り扱い」の決議となり、1936年に『中医条例』となりました。
 1943年9月に医師法が公布され、伝統医師は中国医学の学校を卒業し、試験に合格すれば、医師免許を与えられることになりました。

《中華人民共和国:毛沢東と中医学》
 1944年に毛沢東(もうたくとう)が早くも近代医師に「中医師と協力する」ことを勧告しています。
 1949年10月に毛沢東が国共内戦に勝利し、中華人民共和国が成立します。
 1949年10月に公衆衛生管理協議会は「全国の中医師を団結させる」指令を受けます。
 1950年8月の第1回全国衛生会議で郭沫若(かくまつじゃく)が中医学と西洋医学を結合させる必要性を演説します。
 1951年末には、中国衛生部(厚生労働省)は、伝統医師に12ヶ月で西洋医学を学ばせるコースを創設します。
 1953年に『人民日報』が伝統医学を推進するキャンペーンを始めます。
 1954年から、西洋医学者は欧米のブルジョワ医学の影響下にあったために、中国医学を低く見ていると批判されはじめます。西洋医師たちは自己批判をせまられました。
 1956年には、北京・上海・広州・成都で、中医学院が創設されました。また、西洋医師が、2年間伝統医師のもとで学ぶ制度が始まりました。
 この1950年代を代表する針灸家に朱(しゅれん:Zhu Lian:1910~1978)先生という女医さんがいらっしゃいます。1954年に『新針灸学』という文献を出版しましたが、ソ連の西洋医学パブロフ学説の神経学説によるものでした(※1)。
※1:Discussion on Scientificaion of Acupuncture in Hong Kong in 1950s: with special reference to Zhu Lian’s The New Acupuncture
Ka-wai FAN Asian Culture and History Vol.3 NO.2 July 2011
http://www.ccsenet.org/journal/index.php/…/article/view/7078

《百花斉放運動・大躍進政策》
 1956年2月にソ連のフルシチョフ首相によるスターリン批判が起こると、中ソ関係は変化しはじめ、毛沢東は1956年5月から「百花斉放百家争鳴(ひゃっかせいほうひゃっかそうめい)」運動を始めます。この時期は、西洋医師は中西医結合を「強制された結婚はうまくいかない」と批判しました。この時期には3人のソビエト連邦の医師が北京で鍼を学んでいます。
 1958年からの「大躍進政策」の際に、農村に「衛生センター」ができて、伝統医師と西洋医師が共同で働き始めました。毛沢東は「中国医学は偉大な宝庫であり、その発掘と向上に努めるべきである」と声明しています。この時期に創部包帯交換時の劇痛を鍼で予防し、次に扁桃腺の手術で鍼麻酔手術が行われました。1959年に大躍進政策の失敗が明らかになり、毛沢東は失脚します。
 1960年に中国の医科大学は5年制から6年制になりました。

《中国における鍼麻酔(Acupuncture analgesia)の歴史》
1958年8月30日に、上海市第一人民医院耳鼻咽喉科で、尹恵珠主任医師が合谷の鍼麻酔を使い、扁桃腺摘出手術に麻酔薬を使わずに扁桃腺の摘出手術が行いました。
1958年12月5日に、西安第4人民病院の耳鼻科医師、孟慶禄主任医師が、内関と太衝の電気鍼を使って鍼麻酔に成功して、扁桃腺の摘出手術を行いました。
1971年のレストンの鍼麻酔までに、中国は13年の経験の蓄積がありました。1971年7月26日にジェームズ・レストン記者が鍼麻酔について書いた「北京での私の手術について今語る」という記事が『ニューヨークタイムズ』に載ります。

ジェームス・レストン「北京での私の手術について今語る」
James,Reston, "Now, About My Operation in Peking"
, New York Times, July 26, 1971
http://acupunctureworldheadquarters.com/1971acupuncture.pdf

 虫垂炎の手術を受けたレストン記者が、次の日になって、腹痛と吐き気を訴え、手足のツボに鍼されたことで症状がなくなったことを報道しました。ここから、世界的な鍼麻酔ブームが起こります。西洋医学的な鍼(ウエスタン・メディカル・アキュパンクチャー)の歴史はここから始まります。

《文化大革命(1966-1977)》
 毛沢東は失脚して、劉少奇・小平による政策が行われる中、1964年に『毛沢東語録』が出版されます。1966年から紅衛兵たちによる文化大革命が始まります。この時期の大学は1969年まで閉鎖されます。
 医科大学は6年制から3年制となり、卒後は農村に派遣されました。また、中学卒業後に、6ヶ月のコースでプライマリケアを担当する「はだしの医者(赤脚医生)」が生まれました。
 この文化大革命は中医学に深刻な影響を与えています。
以下、引用。
「文化大革命がはじまった1966年から1982年までの中国では、正式に大学を卒業して教師になる大学生はほとんどいなかった。この現象は『教育界断層現象』と呼ばれている」『中国における医学教育の現状』医学教育、第25巻、第4号、1994年8月
https://www.jstage.jst.go.jp/…/mededjapa…/25/4/25_4_240/_pdf

《弁証論治の形成》
1949年10月に毛沢東(もうたくとう)が国共内戦に勝利し、中華人民共和国が成立します。
1950年8月の第1回全国衛生会議で郭沫若(かく・まつじゃく)が中医学と西洋医学を結合させる必要性を演説します。
1953年に『人民日報』が伝統医学を推進するキャンペーンを始めます。
1954年から、西洋医学者は欧米のブルジョワ医学の影響下にあったために、中国医学を低く見ていると批判されはじめます。西洋医師たちは自己批判をせまられました。
1955年に、任応秋(にんおうしゅう)先生が、『中医雑誌』に論文「中医的弁証論治的体系」を発表し、『弁証論治』を提唱します。
1956年には、北京・上海・広州・成都で、中医学院が創設されました。また、西洋医師が、2年間伝統医師のもとで学ぶ制度が始まりました。
1956年には、南京中医資進修学校で、呂炳奎(ろへいけい)編の『中医学概論』がテキストとして使われます。これは9年後の1965年には日本で『中国漢方概論』(中国漢方医学概論刊行会)として翻訳出版されました。
1957年に、秦伯未(しんはくみ1901-1970)先生が、論文「浅談弁証論治」で弁証論治を中国伝統医学の本質として論じます。
1957年に、任応秋(にんおうしゅう)先生は、『中医病理学概論』を出版します。表裏寒熱虚実陰陽の八綱弁証を基本に置いています(注:1732年の古典、程鍾齢著『医学心悟』でも八綱弁証は既に提唱されています。また、弁証ということを言い出したのは、後漢代『傷寒論』の張仲景先生です)。
1958年からの「大躍進政策」の際に、農村に「衛生センター」ができて、伝統医師と西洋医師が共同で働き始めました。毛沢東は「中国医学は偉大な宝庫であり、その発掘と向上に努めるべきである」と声明しています。
1959年に大躍進政策の失敗が明らかになり、毛沢東は失脚します。
1959年に、第1版の『中医診断学講義』が北京中医学院・南京中医学院・上海中医学院・成都中医学院・広州中医学院の代表会議で審査・決定されました。
1960年に中国の医科大学は5年制から6年制になりました。
1960年9月に、人民衛生出版社から第1版の『中医診断学講義』が出版されます。八綱弁証、六経弁証、衛気営血弁証、三焦弁証、臓腑弁証、経絡弁証などの内容になっています。

《鍼灸の弁証論治の形成》
1955年に国で鍼灸ブームが起こります。承淡安が日本の長浜善夫『経絡の研究』を翻訳した影響です。これは上海医薬大学教授の李鼎(りてい)先生によると当時の様子は以下になります。

「この頃、鍼灸界では鍼灸ブームが起こりました。1955年に承淡安が『経絡之研究』を翻訳したのがきっかけです。これが国に非常に大きな影響を与えました。」
 
「経絡現象は日本から提起されました。鍼灸ブームが起こった時、私たちは日本のことを懸命に勉強しました。ですから、鍼灸に関しては日本の貢献が非常に大きいのです。日本には国で失われた書籍が残っていましたし、日本に留学した承淡安は、そうした日本の経験・書籍を国に持ち帰りました。その頃、私たちは日本の本をたくさん読んで勉強しました。」
「李鼎先生に聞く鍼灸教材の変遷と弁証論治の鍼」『医臨床』2014年6月、120〜121

1956年には、北京・上海・広州・成都で、医学院が創設されました。また、西洋医師が、2年間伝統医師のもとで学ぶ制度が始まりました。
1956年には、南京医資進修学校で、呂炳奎(ろへいけい)編の『医学概論』がテキストとして使われます。これは9年後の1965年には日本で『国漢方概論』(国漢方医学概論刊行会)として翻訳出版されました。
呂炳奎(ろへいけい)は全国の医教師を集めて医学校をつくり、北京の衛生部医司司長となりました。呂炳奎(ろへいけい)は北京医学院に講師を派遣し、江蘇省医学校(後の南京医薬大学)の名誉校長となり、校長として承淡安を任命します。
1957年に、秦伯未(しんはくみ1901-1970)先生が、論文「浅談弁証論治」で弁証論治を国伝統医学の本質として論じます。
1957年に、任応秋(にんおうしゅう)先生は、『医病理学概論』を出版します。表裏寒熱虚実陰陽の八綱弁証を基本に置いています。
1957年に呂炳奎(ろへいけい)が江蘇省医学校(後の南京医薬大学)の教科書として『鍼灸学』を出版しました。これは朱(しゅれん)の神経学説の鍼灸学に対抗するためのものでした。
1958年からの「大躍進政策」の際に、農村に「衛生センター」ができて、伝統医師と西洋医師が共同で働き始めました。毛沢東は「医学は偉大な宝庫であり、その発掘と向上に努めるべきである」と声明しています。この時期に最初の鍼麻酔手術が行われます。
1958年に江蘇省医学院で学んだ陸痩燕(りくそうえん)が『江蘇医』が「鍼灸医学的発展道路」を発表します。
1959年に裘沛然(きゅうはいぜん)が上海医学院の教科書『鍼灸学』(人民衛生出版社)を出版します。
1959年に大躍進政策の失敗が明らかになり、毛沢東は失脚します。
1959年に、第1版の『医診断学講義』が北京医学院・南京医学院・上海医学院・成都医学院・広州医学院の代表会議で審査・決定されました。
1960年に国の医科大学は5年制から6年制になりました。
1960年9月に、人民衛生出版社から第1版の『医診断学講義』が出版されます。八綱弁証、六経弁証、衛気営血弁証、三焦弁証、臓腑弁証、経絡弁証などの内容になっています。
1960年に陸痩燕(りくそうえん)と裘沛然(きゅうはいぜん)が書いた『国鍼灸学講義』が上海科学技術出版社から出版されます。
1961年に第1版の統一教材『鍼灸学』が人民衛生出版社から出版されます。
1962年の上海医学院は『針灸学(二)シュ穴学』を出版しました。このに穴性が明記されています。これが、1974年の上海医学院『鍼灸学』(後の刊々堂『鍼灸学』)になります。
1965年からは文化大革命がはじまり、1971年には鍼麻酔ブームがはじまります。
1974年に上海医学院『針灸学』を出版しました。これ穴性が明記され、1977年に浅川要先生により刊々堂出版から翻訳され、日本に医学鍼灸を紹介することになります。
 1980年代には穴性を記載された鍼灸書の出版ラッシュが続きます。
1981年 天津医学院『実用針灸学』
1983年 天津医学院『シュ穴学』
1985年 李世珍『常用シュ穴臨床発揮』
 
上海医薬大学の李鼎先生は以下のように述べています。

「鍼灸の分科で、特筆すべきは天津医学院の発想です。天津では、鍼灸の科目を医内科にならって細分化し、それに合わせて教材も分けていきました。そのことが鍼灸を大げさなものにしてしまったと言えるでしょう」
 
「弁証論治はもともと医内科から提起されたものです。早くは『傷寒論』から弁証という言葉は出てきていますが、それは鍼灸について言ったものではありません。医内科のものを鍼灸にもっていけば、理論的な矛盾を引き起こしてしまいます」
 
「(日本で鍼薬同治の認識が広がっていることについて)日本では李世珍が非常に大きな影響を及ぼしました。彼は教育系の人ではありません。彼は『常用シュ穴臨床発揮』という本を出していますが、いろいろなことを言いすぎてしまっているところがあります。」
 
「湯液は内から、鍼灸は外から治すものですから、同じように考えられるはずがありません。理論的に一致するとは考えづらいです」
 
「李世珍のやり方は完全に方薬の方法を鍼灸に取り込んでいますが、私たちが行っているのは鍼灸本来のやり方です。」
 
「鍼灸療法は煩雑なものではなく、本来は簡単なものです。ですから、それを複雑化する必要は全くありません。」
以上、「李鼎先生に聞く鍼灸教材の変遷と弁証論治の鍼」『医臨床』2014年6月より引用。

【1970年代後半~1980年代:浅川要訳『針灸学』刊々堂の出版】
1970年代後半から、鍼灸師の浅川要(あさかわ・かなめ)先生が多くの中医鍼灸の文献を翻訳出版されました。
中国では、1960年代に上海中医学院が4冊組の『鍼灸学』を出版します。
1974年にこの4冊は合本されて上海中医学院『針灸学』として出版されました。
1976年9月に、浅川要先生は『中国の針灸と新医療法』 刊々堂出版社を出版します。
1977年3月に、浅川要先生は天津中医学院『針灸配穴』刊々堂出版社を翻訳出版されます。
1977年8月に、浅川要先生は上海中医学院『針灸学』刊々堂出版社を翻訳出版されます。これは1974年の上海中医学院の『鍼灸学』の翻訳で、穴性が書かれたものでした。中医学針灸の日本への導入はここから始まりました。

1979年7月に、神戸中医学研究会が、上海中医学院著『中医学基礎』(燎原書店)を翻訳します。
1980年6月に、日本で初の中医学専門雑誌、『中医臨床』が創刊されます。
1981年7月に、神戸中医学研究会が名著『中医学入門』(医歯薬出版社)を出版します。

 日本への中医学の紹介は、浅川要先生による上海中医学院『針灸学』の翻訳、その後で神戸中医学研究会による『中医学基礎』『中医学入門』が出版され、以降の漢方分野は神戸中医学研究会による出版が中心になります。

【1980年~1989年:中医の復権と穴性学の出版ラッシュ】
1982年に、文化大革命で排斥された中医が復権します。湖南省で会議がもたれ、「中医・西医・中西医結合」の3つの勢力をともに尊重し、並存するという政治方針が確定し、中国の憲法にも中医学の発展という文言が入ります。
1980年代には穴性を記載された鍼灸書の出版ラッシュが中国で続きます。
1981年 天津中医学院『実用針灸学』
1983年 天津中医学院『シュ穴学』
1984年 北京中医学院『金針王楽亭』
1985年 李世珍『常用シュ穴臨床発揮』
1985年 高立山『鍼灸心悟』
1988年 鄭魁山『鍼灸集錦』
1989年 楊甲三『針灸学』(高等中医学院教学参考叢書)

【1987年代~1997年:日本における中医鍼灸学の導入】
 日本の兵頭明(1954-)先生が1982年4月に北京中学院を卒業されて、1987年から精力的に日本語に翻訳をされます。
1987年10月 天津中医学院、浅川要訳『針灸経穴辞典』(東洋学術出版社)
1991年5月  天津中医学院・後藤学園『鍼灸学ー基礎篇』(東洋学術出版社)
1993年4月  邵輝、木村律著『鍼灸臨床治療法集』(たにぐち書店)http://t-shoten.com/BASE/HARI/46.HTM
1993年10月 天津中医学院・後藤学園『鍼灸学ー臨床篇』(東洋学術出版社)
1995年5月  李世珍著、兵頭明訳『臨床経穴学』(東洋学術出版社)
1995年10月 石川家明先生グループの国際中医学研究会『図解臨床鍼灸処方の実際』(緑書房)
1997年10月 天津中医学院・後藤学園『鍼灸学ー経穴篇』(東洋学術出版社)

以上、早川 


肩の刺鍼テクニックの理論的整理

2015-11-18 | メモ
関西中医鍼灸研究会の告知】
11月21日(土)関西中医鍼灸研究会のお知らせ
「肩の刺鍼テクニックの理論的整理」
講師:早川敏弘
時間:18:00-21:00
会場:梅田の大阪市立生涯学習センター 第4研修室
http://osakademanabu.com/(大阪駅前第2ビル)
内容:簡易ベットを持ち込み、実技講習します。臨床家の会員もそれぞれ得意のやり方を披露します。