alternativemedicine

Studies about acupuncture and moxibustion and Massage.

シーボルト

2018-06-15 | 中国医学の歴史

2017年1月10日
「シーボルト:ドイツの19世紀長崎にいた自然科学者」
Siebold: A German Naturalist in Nineteenth-Century Nagasaki 

以下、引用。

「シーボルトは、彼の鳴滝塾の生徒たちに、オランダ語でレポートを書かせました」

Siebold assigned each of his students to study a particular area in each field and had them submit reports to him in Dutch. 

 

「戸塚静海と石井宗謙は、4部の日本の東アジアでのお灸を治療として書いた論文を翻訳して提出しました」

Totsuka Seikai and Ishii Sōken submitted a translation of a four-part Japanese treatise on the ancient East Asian use of moxibustion as a medical treatment. 

以上、引用終わり。

 

「ライデン所蔵資料等によるシーボルトの鍼灸研究に関する再検討」

町 泉寿郎『日本東洋医学雑誌』Vol. 62 (2011) No. 6 P 695-712

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kampomed/62/6/62_6_695/_pdf

 シーボルトが持ち帰った戸塚清海らの翻訳「灸法略説」は、いまでもオランダのライデンの博物館にあります。これは日本で将軍・徳川家斉の御殿医・法眼であった鍼灸医、石坂宗哲(いしざか・そうてつ:1770ー1841)の翻訳です。

 石坂流鍼術について、シーボルトは「刺鍼部位は病のあるところ、どこに刺しても良い」と記述しています。石坂流鍼術は蘭学の影響を多大に受けました。経絡経穴を否定し、脳脊髄による神経伝達のことを「宗気」と呼び、背骨(督脈)を整えることを第1として背部兪穴を用います。「硬結即病」と考え、触診によって、見つけた硬結の中心に刺鍼するというのが「石坂流鍼術」です。

 指で硬結・反応を探して刺すというのは、日本鍼灸の特徴だと思います。

 

以下、引用。

「ババリア地方のヒトとして、シーボルトは、ドイツ北部とオランダで話されている『低ドイツ語』と違うドイツ語を話して成長した(シーボルトはオランダ人ではなくドイツ人)。」
As a Bavarian, Siebold had grown up speaking a variety of German quite different from the Low Germanic dialects spoken across northern Germany and the Netherlands.

 

「彼が日本に着いたとき、日本語通訳たちは、彼の話すオランダ語がずいぶん違い、シーボルトがどこから来たのかを疑った。当時はオランダ人だけが日本に滞在するのを許されていた」

When he arrived in Japan, the Japanese interpreter who interviewed him was suspicious of his impenetrable way of speaking and interrogated him closely on where he was from. 

Only Dutchmen were allowed to enter Japan at the time. 

 

「オランダ館の館長が、シーボルトはオランダの山岳地帯の『山オランダ人』であって、奇妙な方言を話すと説明する事で、シーボルトを追放から救った」

It was left to the Dutch opperhoofd (chief factor) to save the day by explaining that the new arrival was “one of the mountain Hollanders (yama Orandajin), and speaks a strange dialect.” 

以上、引用終わり。

「神は世界を創ったが、オランダはオランダ人が創った」・・・。

オランダは、海を埋め立てた埋立地なので、山は無いです(笑)。『山オランダ人』は居ないです!

 

 シーボルトは、日本人が最初に出会ったドイツ人です。ドイツ語とオランダ語は方言のように似ている部分があります。「独逸(ドイツ)」は、江戸時代のオランダ語「ドイツ(Duits)」が語源のようです。

    シーボルトの出身国は、正確には、中世から続く「ドイツの神聖ローマ帝国(ハイリゲス・ロミシェス・ライヒ・ドイチャー・ナティオン:Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation)」です。

例え、江戸時代の日本人にシーボルトが「ドイツの神聖ローマ帝国」出身ですと、正直に伝えても、伝わらないと思います。いまの日本でも「シーボルトはどこの国の出身か?」と聞かれても、答えられるヒトは居ないと思います。

 

 シーボルトから、ドイツと日本の交流が始まりました。

   明治維新期の日本は、ホーエンツォエルン家のヴィルヘルム一世(1797-1888)の「プロイセン王国(ケーニヒライヒ・プロイセン:Königreich Preußen)」をモデルに大日本帝国憲法をつくりました。

 この「プロイセン王国」のヴィルヘルム一世が「ドイツ帝国(ドイチェス・カイザライヒ:Deutsches Kaiserreich)」、の皇帝(カイザー:Kaiser)となりました。  戦前の日本では、医学領域以外でもドイツ語が外国語で選択されました。近代日本とドイツは関係が深いです。

 

第1次世界大戦(1914-1918)以前のユーラシア大陸には、

「ドイツ帝国(ドイチェス・カイザライヒ:Deutsches Kaiserreich)」、

「オーストリア=ハンガリー帝国(エスタライヒッシュ・ウンガリッシェ・モナルヒィ:Österreichisch-Ungarische Monarchie)」、

「ロシア帝国(ラッシースカヤ・インペリーヤ:Российская империя:)」、

「オスマン・トルコ帝国(オスマニッシェス・ライヒ:Osmanisches Reich)」

の4つの中世から続く帝国があり、そのうち「ドイツ帝国」と「オーストリア帝国」はドイツ語を使っていました。

 明治維新の日本がモデルにした「プロイセン王国=プロシア(Prussia)」は、のちのポーランドとソ連(現ロシア領カリーニングラード)とリトアニアとなりました。特に、プロイセンの中でも現在のロシア領カリーニングラードは、旧名「ケーニヒスベルク(Königsberg=王の都市)」であり、ケーニヒスベルク大学の哲学教授イマニエル・カント(1724-1804)を生んだ旧ドイツの土地です。旧プロイセンであるケーニヒスベルクは現在、ロシア領なのです・・・。

 

 日本人にとって、ヨーロッパ大陸のドイツ・オーストリア・スイスのドイツ語文化圏やヨーロッパ大陸の歴史は、いまだに『山オランダ人』の世界であり、正直にいって、理解しがたいです。 

 ドイツは「プロイセン王国(ケーニヒライヒ・プロイセン:Königreich Preußen)」から「ドイツ帝国(ドイチェス・カイザライヒ:Deutsches Kaiserreich)」となりましたが、

第1次世界大戦(1914-1918)で、ヨーロッパ大陸は激変します。

1917年「ロシア革命」が起こり、ロシア帝国は滅びて、ソ連になります。

1918年「ドイツ革命」が起こり、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命し、ドイツ帝国は崩壊します。

1918年にチェコスロバキアが独立し、「オーストリア=ハンガリー帝国」のカール一世はスイスに亡命し、オーストリア帝国は滅びます。

1919年にオスマン・トルコ帝国でもアタテュルクによる革命運動が起こり、最終的に「オスマン・トルコ帝国」は滅びました。

第1次世界大戦以降、世界は激変しました。


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