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alternativemedicine

Studies about acupuncture and moxibustion and Massage.

宋・金・元

2021-01-05 | 中国医学の歴史

960年:趙匡胤(初代、太祖)が宋(Sòng)、北宋(Bĕisòng)を建国。
976年:二代皇帝、太宗(976-997)が皇帝として即位する。
997年:三代皇帝、真宗(997-1022)が皇帝として即位する。
1004年:「遼」と澶淵の盟を結ぶ。
1022年:四代皇帝、仁宗(1022-1063)が皇帝として即位する。
1026年:
王惟一(おういいつ:王惟一:wáng wéi yī:987-1067)著、
銅人腧穴鍼灸図経(どうじんしゅけつしんきゅうずけい:铜人腧穴针灸图经:tóng rén shù xué zhēn jiǔ tú jīng)』 

1032年:五代皇帝、英宗(1063-1067)が即位。

1057年:北宋政府の校正医書局の林億(りんおく:林亿:lín yì)は、『傷寒論』を出版します。

1067年:六代皇帝、神宗(1067‐1085)が即位。
※1070年:王安石(Wáng Ānshí:1021-1086)の改革がはじまる。
張横渠(ちょうおうきょ:張載:ちょうさい:张载:zhāng zài :1020-1077)が「太虚とは、形が無く、気の本体である」という「太虚論」「気一元論」を論じます。
周敦頤(しゅうとんい:周敦颐:Zhōu Dūnyí:1017-1073)が『太極図説』を著わします。
程顥(ていこう:程颢:chéng hào:1032-1085) は、「理」を唱えます。
程頤(ていい:程颐 :chéng yí:1033-1107)は、兄である 程顥(ていこう)の「理」を一歩すすめて、「理気二元論」とします。「格物致知(かくぶつちち)」「隔物窮理(かくぶつきゅうり)」によって、人間の内面から外部へと向かいます。
  程頤(ていい)には、厭世主義の老荘思想や個人主義の禅宗に代わって、社会と関わる「宋代儒学」の芽生えがあります。「格物致知」「格物窮理」の思想により、 内向的だった思想が、政治や本草学など外交的に社会に応用されていきます。

1085年:七代皇帝、哲宗(1085-1100)が即位。
1086年に 韓祗和(かんしわ:韩祗和:hán chù hé)が『傷寒微旨論(しょうかんびしろん:伤寒微旨论)』を出版します。

1094年:蘇軾(Sū Shì:1037‐1101)が左遷される。

1099年:劉温舒(りゅうおんじょ:刘温舒:liú wēn shū)が、
素問入式運気論奥(そもんにゅうしきうんきろんおう:素问入式运气论奥:sù wèn rù shì yùn qì lùn ào)』を著わします。

1100年:龐安時(ほうあんじ:庞安时:páng ān shí:1042-1099)著
傷寒総病論(しょうかんそうびょうろん:伤寒总病论:shāng hán zǒng bìng lùn)』

1118年:朱肱(しゅこう:朱肱:zhūgōng:1050-1125)が『類証活人書(るいしょうかつじんしょ:类证活人书:lèizhènghuórénshū)』を出版します。

1119年:銭乙(せんいつ:钱乙:qián yǐ)著
小児薬証直訣(しょうにやくしょうちょっけつ:小儿药证直诀:xiǎo ér yào zhèng zhí jué)』


1128年:宋代、荘綽(そうたく:莊綽:zhuāng chāo)
  『灸膏肓腧穴法(きゅうこうこうしゅけつほう:灸膏肓腧穴法: jiǔ gāo huāng shù xué fǎ)』

1132年:劉昉(liú fǎng)著『幼幼新書(幼幼新書:yòu yòu xīn shū)』

1146年:窦材(とうざい:dòu cái)著、
扁鵲心書(へんじゃくしんしょ:扁鹊心书:biǎn què xīn shū)』

1153年:金代、何若愚(かじゃくぐ:何若愚:hé ruò yú)撰、
閻明広(えんめいこう:阎明广:yán míng guǎng)注釈
『子午流注針経(しごるちゅうしんけい:子午流注针经:zǐ wǔ liú zhù zhēn jīng)』


許叔微(きょしゅくび:许叔微:xǔ shū wēi:1079-1154)
『普済本事方(ふさいほんじほう:普济本事方:pǔ jì běn shì fān)』

1172年:金代の名医、成無己(せいむき:成无己:chéng wú jǐ:1066-1156)著『注解傷寒論(ちゅうかいしょうかんろん:注解伤寒论:zhù jiě shāng hán lùn)』が出版されて、  この成無己(せいむき)の『注解傷寒論』の解釈が流行します。

1174年:宋代、陳言(ちんげん:陈言:chén yán:1131-1189)著
三因極一病証方論(三因极一病证方论:sān yīn jí yī bìng zhèng fāng lùn)』

1175年:鎌倉時代、法然(ほうねん:1133ー1212)が浄土宗をひらく。

1182年:金代、劉完素(りゅうかんそ:刘完素:liú wán sù:1120-1200) 著、
『素問玄機原病式(そもんげんきげんびょうしき:素问玄机原病式:sù wèn xuán jī yuán bìng shì)』

金代、張元素(ちょうげんそ:张元素:zhāng yuán sù)著『医学啓源(医学启源)』

1185年:鎌倉時代がはじまる。

1189年:崔嘉彦(さいかげん:崔嘉彦:cuī jiā yàn:1111—1191)著、
脈訣(みゃくけつ:脉诀:mài jué)』

1199年:鎌倉初代将軍、源頼朝が死去。
1204年:鎌倉二代将軍、源頼家が暗殺される。

1206年:チンギス・カァン(Чингис хаан:Genghis Khan:1162-1227)がクリルタイを開く。モンゴル帝国の西夏(1038-1227)に侵攻を開始します。

1211年:モンゴル帝国が金朝に侵攻。1215年金朝を攻撃し、耶律楚材(Yēlǜ Chǔcái)を得る。

1212年:鎌倉時代、浄土宗の法然(ほうねん:1133ー1212)が亡くなります。
1214年:臨済宗の栄西(えいさい:1141-1215)が『喫茶養生記』を著わします。
1218年:ホラズム朝へモンゴル帝国の侵攻。

1220年:南宋代、王執中(おうしっちゅう:王执中:wáng zhí zhōng)著
鍼灸資生経(しんきゅうしせいきょう:针灸资生经:zhēn jiǔ zī shēng jīng)』

1221年:鎌倉時代、承久の乱。

1224年:南宋代、張杲(ちょうこう: 张杲:zhāng gǎo)著、
『医説(いせつ:医说:yī shuō)』

1226年:南宋代、聞人耆年(ぶんじんきねん:聞人耆年:wén rén qí nián)著
備急灸法(びきゅうきゅうほう:备急灸法:bèi jí jiǔ fǎ)』

1227年:チンジス・カァン死去。丘処機(きゅうしょき:丘处机:1148-1227)が、チンギス・ハンと養生問答を交わし、道教の全真教が保護を得ます。丘処機は『鍼灸大成』の『馬丹陽天星十二穴歌』の馬丹陽(またんよう:马丹阳:1123一1183)の師匠です。
1228年:金の名医、張従正(ちょうじゅうせい:1156〜1228)が『儒門事親』を著します。
1232年:モンゴル帝国のオゴデイ・ハンが金を滅ぼします。

1237年:南宋代、陳自明(ちんじめい:陈自明:chén zì míng :1190-1270)著、
婦人大全良方(ふじんたいぜんりょうほう:妇人大全良方:fù rén liáng fāng dà quán)』

1241年:南宋代の医家、施発(せはつ:施发:shī fā)著、
『察病指南(さつびょうしなん:察病指南:chá bìng zhǐ nán)』

1244年:「攻下派(こうげは:攻下派:gōng xià pài)」の
張従正(ちょうじゅうせい:张从正:zhāng cóng zhèng:1156-1228))著
『儒門事親(じゅもんじしん:儒门事亲:rú mén shì qīn)』

1249年:モンゴル帝国支配下の李東垣(りとうえん:1180-1251)が『脾胃論』を著わします。

1259年:モンゴル帝国は高麗を服属させます。

1260年:クビライ=カァン(Хубилай хаан:忽必烈)が第5代のモンゴル帝国皇帝となり、「大元大蒙古国」を建てます。

1262年:浄土真宗の親鸞(1173-1207)が亡くなります。  

1264年:南宋代、楊士瀛(ようしえい:杨士瀛:yáng shì yíng)著、
仁斉直指方論(じんさいじきしほうろん:仁斋直指方论:rén zhāi zhí zhǐ fāng lùn)』

1274年:モンゴル・高麗連合軍が日本を攻撃します。元寇、文永の疫です。
1276年:モンゴル帝国は南宋を滅ぼします。  
1281年:モンゴル・高麗連合軍は、降伏した宋人を含めた軍隊で、日本を攻撃します。元寇、弘安の疫です。
1295年:マルコ・ポーロが帰国します。
1295年: 窦漢卿(とうかんけい:窦汉卿:dòu hàn qīng)が、『鍼経指南(しんけいしなん:针经指南:zhēn jīng zhǐ nán)』を著わします。モンゴル帝国時代=元代を代表する『扁鵲神応鍼灸玉龍経(へんじゃくしんのうぎょくりゅうきょう)』を書いた王国瑞の父親である王開(王开)は、窦漢卿(とうかんけい)の弟子でした。さらに、易水派を代表する羅天益(らてんえき:罗天益:1220~1290)も、漢方は李東垣(りとうえん:1180-1251)を師匠として、鍼は窦漢卿(とうかんけい)に学んだようです。羅天益は「東垣鍼法」を残しています(『鍼灸聚英』)。

1304年頃に、梶原性全(かじわら・しょうぜん:1266-1337)が『頓医抄』を著わしたとされています。
1330年に、忽思慧が『飲膳正要』を著わします。
1333年に、後醍醐天皇が建武の親政をおこないます。
1336年に、室町幕府がはじまります。
1336年から、南北朝時代(1336-1392)となります。
1341年に、滑寿(かつじゅ:1304-1386)が『十四経発揮』を著わします。
 1349年頃、吉田兼好が『徒然草』を著わします。
 1351年、白蓮教徒の紅巾の乱がおこります。
 1359年に、滑寿(1304-1386)が『診家枢要』を著わします。
 1363年に、有隣(ゆうりん:?-1410)が『福田方』を著わしたといわれています。
 1366年に、滑寿(1304-1386)が『難経本義』を著わします。

 1368年に、洪武帝が明を建国します。
 1369年に、竹田昌慶(たけだ・しょうけい:1338-1380)が渡明します。
 1392年に、李成桂が李氏朝鮮(1392ー1897)を建国します。
 1404年に、足利義満が明と勘合貿易をはじめます。


民間療法の歴史

2018-07-17 | 中国医学の歴史
15世紀 パラケルスス(Paracelsus:1493-1541)による「磁気治療」
17世紀 アタナシウス・キルヒャー(
Athanasius Kircher:1601-1680)の「マグネティズム」

1774年 フランツ・アントン・メスメル(Franz Anton Mesmer:1734-1815)が催眠法である『動物磁気(アニマル・マグネティズム:Animal magnetism)』を発見。

1874年(明治7年)にアメリカのアンドリュー・テイラー・スティル(Andrew Taylor Still:1828-1917)がオステオパシーを創始しました。オステオパシーは山田信一が1920年(大正9年)に日本に紹介しました(『山田式整体術講義録』)。1934年(昭和9年)に田野倉快泉が『無薬医術 指圧療法』を出版します。これがスポンディロセラピー・オステオパシー・カイロプラクティックなどを統合した日本の指圧の源流であると言われています。

1895年(明治28年)にダニエル・デビット・パーマー(Daniel David Palmer :1845 –1913)が創始したカイロプラクティックは1907年(明治40年)には日本の森久保繁太郎がウィスコンシン州で開業している記録があるし、1916年(大正5年)に川口三郎がカイロプラクティックを日本に紹介しました。

1876年 ジョン・ハーヴェイ・ケロッグ博士(John Harvey Kellogg:1852-1943)がアメリカで、シリアルによる朝食や菜食主義、浣腸療法などを提唱しました。

1885年(明治18年)に雇い外国人医師ベルツが、「狐憑病説」を発表しています。
1892年(明治25年)に精神科医、島村俊一が政府の命令で「島根県下狐憑病取調報告」を発表しています。

1896年に、石塚左玄(いしづか・さげん1851-1906)が、『化学的食養長寿論』を出版します。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/836793


1894年(明治27年)、浜口熊嶽17歳が気合術を始めます。

1898年(明治31年)、大本教ができます。

1902年「ナチュロパシー」の創始者ベネディクト・ルストさんは、ドイツのセバスティアン・クナイプさんによって、アメリカのニューヨークに「クナイプ自然療法」の普及のために派遣されました。そして、1890年の世紀末のニューヨークで健康食品店をはじめました。1901年にはニューヨークのホメオパシー大学を卒業し、1902年にはオステオパシーの学位も取得します。そして、すぐに、ニューヨークに世界初の「ナチュロパシー学校」を創設しました。それで、ベネディクト・ルストさんは、「アメリカ・ナチュロパシーの父」と呼ばれます。
1902年(明治35年)に精神科医、門脇真枝(かどわき・さかえ)は「狐憑病新論」を発表しています。
1904年(明治38年)に精神科医、森田正馬(もりた・まさたけ)が「土佐における犬神について」を発表し、犬神、狸、死霊などが憑いた症例を報告しています。
1905年       田中守平が山ごもり。
1906年(明治40年)、松本道別(まつもと・ちわき:1872-1942)が人体ラジウム療法(霊術)をはじめました。1902年にマリー・キュリーがラジウムを発見しています。
1906年(明治40年)、福来友吉(ふくらい・ともきち:1869-1952)が催眠の研究で博士号を取得します。
1907年(明治41年)、日本政府は「催眠取締令」を公布。1911年から福来友吉博士の研究で千里眼ブームが起こります。

1908年(明治41年) 藤田霊斎『心身強健之秘訣 : 実験修養』(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/836952)


1911年(明治44年) 二木謙三『腹式呼吸』(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/837176)

1912年(明治45年)『岡田式静座法』 (実業之日本社:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1087516)

1913年(大正元年) 奥村三策『按摩鍼灸学』

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1024892

1913年       桜沢如一(さくらざわ・ゆきかず:1893-1966)が石塚左玄の大日本食会に入門します。

1913年(大正02年)、田中守平(1884-1929)が太霊道・霊子療法をはじめます。

1913年には、アメリカ人耳鼻咽喉科医ウイリアム・フィッツジェラルド(William H. Fitzgerald:1872–1942)が「リフレクソロジー(Reflexology)」をつくりました。 

 「スポンディロセラピー(Spondylotherapy)」は、アメリカの医師アルバート・エイブラムス(Albert Abrams :1863–1924 )が1910年ー1918年に出版しました。アルバート・エイブラムス医師は、打診の名人で、病気を打診によって発見したことをヒントに、電気診断器「ダイナマイザー(dynamizer)」や「オシロクラスト(Oscilloclast)」を販売しましたが、死後にその効果を否定されています。これらは「ラジオニクス(Radionics)」という波動医学系器械のモトネタになりました。

1916年(大正5年)に、アメリカの偽インド人ヨギ・ラマチャラカ(本名ウィリアム・ウォーカー・アトキンソン)の翻訳『最新精神療法』が出版され、「プラーナ」を「気」と翻訳しています。

ラマチャラカ著『最新精神療法』
国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935059


1916年(大正7年)中井房五郎(1878年 - 1931年)
『自彊術』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935200/2 
国立国会図書館近代デジタルライブラリー

大隈重信、後藤新平などの推薦を得る。

1918年(大正6年) 加藤普佐次郎 「神經性頭痛竝ニ不眠ニ對スルまっさーじ療法術式」『神経学雑誌』 Neurologia. 17(11)


1918年(大正7年) 中村房五郎(なかむら・ふさごろう:) 『自彊術』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935200

1919年 中村天風(なかむら・てんぷう:1876-1968)が心身統一法。

1921年に、松本道別(まつもと・ちわき)は、『人体ラジウム療法』の中で「プラーナ」を「気」と翻訳しています。松本道別の弟子の1人が「整体」をつくった野口晴哉(1911-1976)です。
松本道別著『人体ラヂウム療法講義. 第1冊』
国立国会図書館デジタルコレクション

1922年(大正11年)に、臼井 甕男(うすい・みかお:1865- 1926)が57歳のときに、鞍馬山にこもって断食して、「臼井気療法」、「レイキ(気)」を開発しました。 

1925年(大正14年) 野口 晴哉(のぐち はるちか:1911-1976)が療術の活動をはじめる。
1925年(大正14年) 玉井天碧が出版した『指圧法』では、後半は、「指圧法」として、・催眠・精神療法が詳細に書かれています。後半は般若心経も解説されています。

1925年(大正14年) 築田多吉『家庭に於ける実際的看護の秘訣』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935395

1925年(大正14年) 小山善太郎著『血液循環療法講習録』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/934196

1926年 高橋迪雄
正体術大意 : 健康保全病根一掃
日本正体術協会 大正15(1926年)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/914531

 

1928年(昭和3年) 手のひら療治(一) / 三井甲之 『日本及日本人』 p93~96
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1597092

1928年 野口 晴哉(のぐち はるちか:1911-1976)が自然健康保持会。
1929年(大正8年)、野口 晴哉(のぐち・はるちか:1911年 -1976)が松本道別に学び、野口晴哉は、野口整体を創始します。
1929年 桜沢如一は、シベリア鉄道経由でパリに行きました。

1930年(昭和5年) 療術行為取締規則

1930年(昭和5年) 江口俊博, 三井甲之 編『手のひら療治入門』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050307

1931年(昭和06年)に、平田内蔵吉(ひらた・くらきち:1901-1945)が、『民間治療法全集. 第1巻 (整体指圧温熱・水治療法全集)』を出版しています。

平田内蔵吉著『民間治療法全集. 第1巻 (整体指圧温熱・水治療法全集)』
国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1051062

 
平田内蔵吉は、1930年(昭和05年)に、平田式熱鍼療法を創始し、ヘッド帯を応用した「平田式体表十二反応帯」を提唱します。肥田 春充(ひだ はるみち:1883-1956)の「聖中心道・肥田式強健法」から、平田・肥田合作の経絡式中心操練法という体操を創始しました。奥山龍峰(1901-1986)が1943年に創始した「八光流柔」では、平田内蔵吉の「皇方医学」を伝承して、「皇方指圧http://www.hakkoryu.jp/siatu.html)」を現在でも行っています。
平田内蔵吉著『心療医典』
国立国会図書館デジタルコレクション
 
1931年(昭和6年)に、浄土真宗大谷派の僧侶であった釈長生(しゃく・ちょうせい)=柴田純宏(1899 -1954)氏が「脊椎矯正法」を編み出し、仏教精神を基盤とした独自の脊椎矯正(整体)による治療法を「長生療」と名付けて、全国各地を治療や布教にまわりました。この「長生医学」にプラーナ療法がありました。

1931年 桜沢如一は、パリでマクロビオティックを創始した本Le Principe Unique de la Philosophie et de la Science d’Extrême Orientを書いてベストセラーになっています。

1932年(昭和7年) 西勝造(にし・かつぞう:1884-1959)『西式触手療法と保健治療法 : 理論応用』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050607

1932年(昭和7年)福永天礎『福永式整体術講義録 : 霊の不死より肉の長生へ』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1036371


1934年(昭和九年) 栗山謹造著『指圧療法と生理学』慶文堂書店 ※浪越徳次郎
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1106391

1934年 桜沢如一は、フランス人鍼師スリエ・ド・モーラン(Soulié de Morant1878-1955)と共著で
「日本からの漢方の鍼」Acupuncture et médecine chinoise vérifiées au Japon,‎ 1934.を出版しています。

1934年の田野倉快泉の『無薬医 指圧療法』には、指圧の起源としてカイロプラクティック・オステオパシー・スポンディロセラピーをあげています。ナチュロパシーも挙げられています。

1935年(昭和10年)に「岡田式神指圧療法」の岡田茂吉(1882ー1995)が「手かざし」を、「浄(jourei)」と称して指圧治療院を経営しはじめ ました。

1935年(昭和10年) 柴田和通『自在健法と手足根本療法』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1030622

1937年(昭和12年)無薬療術佐々木式指圧秘法図解
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1024892

 

1940年(昭和15年)に浪越徳次郎(1905-2000)先生が、日本指圧学校を開校します。
1940年(昭和15年)東京指圧療法学会『指圧療法秘伝書 : 図解説明無薬医術』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053774

1941年 橋本敬三、温古堂医院を開業

1947年(昭和22年) 療術の禁止→全国療術師協会の設立。

1949年(昭和24年)に釈長生=柴田純宏(1899 -1954)氏は、浄土真宗長生派総本山・長生寺を立ち上げて、整体師養成の「長生学園」をつくりました。
1949年 山川霊嶽著 無薬療法整體術

1955年(昭和30年) 浪越徳次郎:全国指圧師総決起大会で指圧法制定のためにデモ行進

1956年(昭和32年)に、厚生大臣認可の専門学校「長生学園」を設立し、「あん摩師」の国家資格者の専門学校となりました。

1957年(昭和32年)に日本指圧学校が厚生大臣認可と公認を取得し、厚生労働省医務局医事科で『指圧の理論と実技』という教本がつくられ、指圧が定義されます。
1957年 小川惟精著『指圧療法読本 : 最新綜合』医道の日本社, 1957.4
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA8506340X


1960年(昭和35年) 最高裁判決
1961年に栗山三郎が『指圧療法と生理学』(いわしや中山医療器本舗出版部, 1961.6)を出版しています。

1962年 国分壮『手技整形学ー指圧と整体』 新星出版社

1963年 加藤 普佐次郎著『指圧療法原理―基本・診断・治療』第一出版 (1963)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1379968

1964年(昭和39年)には「按摩師」が「按摩マッサージ指圧師」と改称されました。この1964年には日本指圧学校副校長であった井沢正が『按腹図解と指圧療法』(1964年)を出版し、経絡指圧を提唱します。

1964年にルディ・パロンビーニ(Rudy Palombini)氏がローマで「イタリア指圧学校(Scuola Italiana Shiatsu)」を創立しました。現在も子息のフルビオ・パロンビーニ(Fulvio Palombini)氏がローマ・ラ・サピエンツァ大学で日本指圧学校と提携しています。

1965年 山口久吉, 加藤普佐次郎『指圧療法臨床』 第一出版
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1381359
http://amzn.asia/aOk7Cvs

1967年に 高橋晄正(たかはし・こうせい:1918-2004)が『漢方の認識』を出版し、木下晴都・出端昭男の統計派と、竹山晋一郎の経絡治療の脈診をめぐる論争があった際に、増永静人は「経絡の認識」という経絡を肯定する論文を『医道の日本』に投稿されました。

1968年に東京都台東区に指圧研究所「医王会」を設立されます。

1971年 中山鋭三著 指圧整体法

1975年 フランスのThierry Riesser (1950-2010)さんが、1975年に京都で「皇方指圧」を学び、最初の指圧組織である「フランス伝統指圧連盟(FFST:Fédération Française de Shiatsu Traditionnel :http://www.ffst.fr/)」を設立する。

1984年 国分壮、橋本敬三『鍼灸による即効療法―運動力学療法』
1984年(昭和59年)に、日本指圧学校を卒業した小野田茂先生は、スペイン・マドリッドに移住し、‘Aze Shiatsu(阿是指圧)’を普及しています。

1986年(昭和61年)に、日本指圧学校を卒業した池永清(いけなが・きよし)先生はカナダに移住し、経絡と切り離した‘Tsubo Shiatsu(ツボ指圧)’を提唱しました。

1986年「キアツドー:裸足の指圧」(イタリア語)
Kiatsu-do. Shiatsu a piedi nudi
Shizuko Yamamoto
Edizioni Mediterranee (1986/1/1) http://amzn.asia/0s0udN7

この1986年に 「インターナショナル・マクロビオティック・指圧協会(IMSS:International Macrobiotic Shiatsu Society)」が設立されました。
 

 1990年には「マクロビオティック指圧」の本がフランス語で出版されます。
1990年「裸足の指圧」(フランス語)
Shiatsu aux pieds nus 
Yamamoto Shizuko 
Tredaniel (1990/1/1)

幕末の養生法

2018-07-16 | 中国医学の歴史

平野元良(ひらの・げんりょう:1790-1867)。
多紀元簡(たき・もとやす)に学ぶ。
1832年『病家須知』
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=KEIO-00458

1835年『養生訣』
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ya09/ya09_00213/index.html


1811年平田篤胤(ひらた・あつたね:1776-1843)
『志都能石屋』志都能石屋 : 一名・医道大意
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/833239
※丹田呼吸

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ya09/ya09_00672/index.html

平田篤胤の醫書『志都能石屋講本』について
坂出, 祥伸.大阪府立大学人文学会
『人文学論集』. 2012, 30, p.1-14
http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/bitstream/10466/12543/1/2012000025.pdf

 


小児推拿の歴史

2018-07-12 | 中国医学の歴史
1601年 楊継洲(杨继洲:yáng jì zhōu:1522-1620)
『鍼灸大成(zhēn jiǔ dà chéng)』
《针灸大成》保婴神术(按摩经)
http://zhongyibaodian.com/zhenjiudacheng/
 
1604年  龔廷賢(きょうていけん:龚廷贤:gōng tíng xián) 
『小児推拿秘旨(しょうにすいなひし:小儿推拿秘旨:xiǎo ér tuī ná mì zhǐ)』
 
1612年 周于蕃(しゅううはん:zhōu yú fān)
『小児推拿秘訣(しょうにすいなひけつ:小儿推拿秘诀:xiǎo ér tuī ná mì jué)』
 
1676年 熊応雄(ゆうおうゆう:熊应雄:xióng yìng xióng)
『小児推拿広意(しょうにすいなこうい:小儿推拿广意:xiǎo ér tuī ná guǎng yì)』
http://zhongyibaodian.com/xiaoertuinaguangyi/

1691年 骆如龙(luò rú lóng)
『幼科推拿全書(ようかすいなぜんしょ:幼科推拿全书:yòu kē tuī ná quán shū)』
http://zhongyibaodian.com/youketuinamishu/

1684年 林正且『導引体要』
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00004299#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-8451%2C-209%2C22517%2C4160

1692年 竹中通庵『古今養性録』
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00002508#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-9069%2C-224%2C24153%2C4462

1709年 大久保道古(おおくぼ・どうこ)の『古今導引集』京都鍼灸振興会昭和12
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1101978
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00002499#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-9069%2C-224%2C24153%2C4462


1713年 宮脇仲策(みやわき・ちゅうさく)の『導引口訣集(1713)』

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=KYOT-00180

1805年 香川修庵(かがわしゅうあん:1683-1755)
『一本堂行余医言(1805年)』
10巻のみ
http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/200021613/

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ya09/ya09_00511/index.html

1827年 太田晋斉の『按腹図解(1827)』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/832949

1843年 周松齢(しゅうしょうれい:周松龄:zhōu sōng líng)
『小児推拿集要(しょうにすいなしゅうよう:小儿推拿辑要:xiǎo ér tuī ná jí yào)』
 
1889年 張振均(ちょうしんきん:张振鋆:zhāng zhèn yún)
『厘正按摩要術(りせいあんまようじゅつ:厘正按摩要术:lí zhèng àn mó yào shù)』
http://zhongyibaodian.com/lizhenganmoyaoshu/

体癖の科学的基盤

2018-07-10 | 中国医学の歴史

 

体量配分移動測定による無意運動の分析 (その2)
柳田 利昭
体育学研究 1961 年 6 巻 1 号 p. 123-
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpehss/6/1/6_KJ00003401670/_pdf/-char/ja

体量配分移動測定による無意動作の研究
柳田 利昭
体育学研究 1963 年 7 巻 1 号
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpehss/7/1/7_KJ00003393491/_pdf/-char/ja

体量配分測定による体運動偏り習性矯正法の研究 : 整体体操について
柳田 利昭
体育学研究  1965 年 10 巻 1 号 p. 191-
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpehss/10/1/10_KJ00003404592/_pdf/-char/ja

体量配分に関する基礎研究(2) : 挙上動作とおじぎ動作の関係性について(5.バイオメカニクス,一般研究A)
樋田 洋一, 両角 泰成, 野口 裕之, 柳田 利昭
日本体育学会大会号 / 第39回(1988)


近現代日本伝統医学

2018-07-09 | 中国医学の歴史
「野口整体の史的変容 : 近現代日本伝統医学の倫理生成過程」
田野尻 哲郎
『医学哲学 医学倫理』2009 年 27 巻 p. 1-12
https://www.jstage.jst.go.jp/article/itetsu/27/0/27_KJ00006714833/_pdf/-char/ja

「近現代日本伝統医学」という捉え方が秀逸であるし、内容も非常に勉強になりました。