【中医学・創成期「孟河学派」への旅:「国医」から「中医」へ】
2017年9月26日
《老中医》陈宝国陈月末父子变师徒默契情深
↑
中国の俳優、陳宝国(チェン・バオグオ:陈宝国:Chén bǎoguó)主演のテレビドラマ『老中医』は、中医学の「孟河学派(孟河医派:mènghéyīpā)」を描いたドラマだそうです。
「孟河学派」の代表は、1865年に『医方論(医方论:yī fāng lùn)』を著した、費伯雄(ひはくゆう:费伯雄:fèi bó xióng:1800-1879年)です。西太后を治療した馬培之(马培之:mǎ péi zhī:1820-1903年)、巢崇山(1843-1909年)、巢渭芳(1869-1927年)、丁甘仁(dīng gān rén:11865-1926年)などの、費・馬・巣・丁の孟河四大医家が有名です。
「孟河学派」の丁甘仁(dīng gān rén:1865-1926)先生は、1917年に「上海中医専門学校(上海中医专门学校)」を創立しました。この学校には1919年に秦伯未(しんはくみ:qín bó wèi:1901ー1970)先生が入学し、秦伯未先生は1949年に北京中医学院の教務長となります。秦伯未先生の『中医入門』は日本語訳もある名著です。
上海中医専門学校は、後の上海中医学院、上海中医薬大学であり、南京中医学院と上海中医学院の教科書が「中医学」を形成しました。日本の中医学鍼灸も、浅川要先生が上海中医学院の『針灸学』を翻訳して始まりました。
当時の中華民国では、「中医」ではなく、「国医」と呼ばれ、丁甘仁先生は1920年に「上海国医学会」の会長となり、『国医雑誌』を出版します。
この陳宝国のドラマ『老中医』は、まさに、1920年から1940年の上海を舞台にしているそうです!!!
現代の中医学鍼灸弁証論治を創った陸痩燕(りくそうえん:陆瘦燕:lù shòu yàn:1909-1969)先生は、たしか、1920年代の上海にいたはずです。陸痩燕先生のお父さんは、「三伏天」を提唱した鍼灸家、李培卿(lǐ péi qīng:1865-1947)先生です。確か、1926年の上海には、「火神派(huǒshénpài)」の祝味菊(しゅくみぎく:祝味菊:zhù wèijú:1884一1951)先生もいたはずです。
1930年代の上海は日本人アヘン王、里見甫(さとみ・はじめ)が活躍し、青幇、上海マフィアの杜月笙(とげつしょう)が支配する「魔都・上海」です。
1928年には、大阪医科大学で学んだ旺企張(おう・きちょう)が中医廃止案を提案し、
1929年2月に、大阪医科大学で学んだ余雲岫(よ・うんしゅう)が『医学革命論集』を出版して提案した「旧医学の廃止」が衛生部(厚生労働省)の会議で決議されます。
1929年3月17日に、これに反発した中国全土の伝統医学グループが上海で会議を行い、中医薬連合会を組織し、「中医廃止案」をひっくりかえしました。これ以降、伝統医師は組織化され、1931年3月には『国医館(国医研究所)』が南京につくられました。
1932年1月からの日本軍の上海爆撃(上海事変)は、西洋医学優位の流れを変えました。
1933年12月に「中医条例」が頒布されました。このとき、『国医』が『中医』となりました。
1935年に「中国医学と西洋医学に対する同等の取り扱い」の決議となり、1936年に『中医条例』となりました。
Brazil’s Ministry of Health Incorporates Ayurveda, Chiropractic, Yoga and Shantala