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Studies about acupuncture and moxibustion and Massage.

四診と臓腑弁証の歴史

2018-06-06 | 中国医学の歴史
後漢の張仲景(ちょうちゅうけい)先生が『傷寒論(しょうかんろん)』で六経弁証を創ったのが後漢末期から三国志時代の初期です。

清代の程国彭(1679-?)先生が、『医学心悟』(1732年)で、八綱を提唱したのが、1732年です。
清代の葉天士(1667-1746)先生が『温熱論』(1746年)で、を創ったのが、1746年です。
清代の呉鞠通(1758-1836)先生が『温病条』(1798年)で、三焦を創ったのが、1798年です。
清代の曹炳章(1878—1956)先生が『舌指南』(1924年)で、現代の舌診を完成させたのが、1924年です。

ここで、問題があります。現代中医学の臓腑弁証がいつ出来たのか?です。
「肝は疏泄を主る」というコトバは、元代の朱丹渓(1281-1358)先生が、つくりましたが、当時は「六鬱」の時代でした。当時の気欝は弦脈ではありません。
肝欝気滞(肝郁气滞:gān yù qì zhì)」という臓腑弁証をつくったのは、清代の唐宗海(1846—1897)を参考にした、秦伯未(1901-1970)先生じゃないでしょうか? もちろん、「肝欝気滞」というコトバだけで、多くの病気を治せるようになったので、これは大発展になります。臨床的現実とも合っていますし、鍼灸治療でも「肝欝気滞」の概念なしでは対応しにくいです。

 「痰迷心竅(痰迷心窍:tán mí xīn qiào)」の概念を創ったのは金元四大家の張従正(1156-1228)先生ですし、「心熱(心熱移熱小腸証)」の概念を提唱したのは宋代の銭乙(1032-1113)先生の『小児薬証直訣』なのは判明しました。「胃陰虚(胃阴虚:wèi yīn xū)」は、清代の葉天士(1667-1746)先生の『臨床指南医案』と呉鞠通(1758-1836)先生の『温病条弁』で確認しました。

 何年も前から調べているのですが、臓腑弁証は、隋代の『諸病源候論』と唐代の『備急千金要方』が原型のようです。『中蔵経』の臓腑の記述も、現代の臓腑弁証の元ネタじゃないか?と思えますが、成立年代不祥です。宋代の芸文志に中蔵経は出ていたと思うのですが、テキスト学的にどうなのか?


隋代、巣元方(6-7世紀)、『諸病源候論』の肝の理論。

「肝象木,旺于春;其脉弦,其神魂,其华在爪,其充在筋,其声呼,其臭臊,其味酸,其液泣,其色青,其藏血;足厥阴其经也。与胆合,胆为腑而主表,肝为脏而主里。」

「肝气盛,为血有余,则病目赤,两胁下痛引小腹,善怒」
肝実証なら、目赤く、両脇下から少腹に引いて痛み、善く怒る

「气逆则头眩,耳聋不聪,颊肿,是肝气之实也,则宜泻之。」
肝気逆証なら、めまい、難聴、頬が腫れて、これは肝気の実証なので、瀉法するのがよろしい。

「肝气不足,则病目不明,两胁拘急,筋挛,不得太息,爪甲枯,面青,善悲恐,如人将捕之,是肝气之虚也,则宜补之。」
肝気が不足すれば、目がみえなくなり、両脇がけいれんし、筋肉けいれんをおこし、よく溜め息をつき、爪は枯れて、面色は青く、よく悲しみ恐れて、ヒトに捕らえられるかのようである。これは肝気虚であり、補うのが宜しい。

隋代、『諸病源候論』の肝の理論は、現在の臓腑弁証の肝臓の理論と似ているが、かなり違います。

唐代、孫思邈(581?-682)、『備急千金要方』のなかの臓腑病と針灸は以下です。

「左手関上の陰脈が実のものは肝実である。筋肉痛に苦しみ、よく筋痙攣して、吐く、足厥陰肝経を刺して、陰を治療する。」
左手关上阴实者,肝实也。苦肉中痛,动善转筋,吐,刺足厥阴治阴

「肝病は青色であり、手足がケイレンして、胸下苦満となり、時にはめまいを起こして、脈は弦脈・長脈であるなら、防風竹瀝湯、秦艽散が宜しい。春は太敦、夏は行間、冬は曲泉を刺してみな補法する。土用は太衝、秋は中封を刺し、皆瀉法する。また、当に期門と背中の第9胸椎の筋縮に百壮すべし」
肝病其色青,手足拘急,胁下苦满,或时眩冒,其脉弦长,此为可治,宜服防风竹沥汤、秦艽散。春当刺大敦,夏刺行间,冬刺曲泉,皆补之;季夏刺太冲,秋刺中 ,皆泻之。又当灸期门百壮,背第九椎五十壮。

「邪気が肝にあり、両脇中が痛み、寒に中り、悪血が内にある、よく関節痛となるなら、行間を脇に引き、足三里で胃中を温め、血脈を取って悪血を散じる。耳間の静脈を刺絡して悪血を去る」
邪在肝,则两胁中痛,寒中,恶血在内, 善 ,节时肿,取之行间以引胁下,补三里以温胃中,取血脉以散恶血,取耳间青脉以去其 。
『備急千金要方』 肝脏脉论第一

 これも似ているが、違います。ただ、唐代、孫思邈(581?-682)、『備急千金要方』では、脈診で弁証をしています。中国の胸腹診は、清代の俞根初(ゆこんしょ:俞根初:1734ー1799)が書いた1835年出版の『通俗傷寒論(つうぞくしょうかんろん:tōng sú shāng hán lùn)』の改訂の際に、何廉臣(かれんしん:1861ー1929)が入れたものなので、兪募穴診断も無かったはずです。けっきょく、鍼灸の場合は、切診による『経絡弁証(けいらくべんしょう:经络辨证:jīng luò biàn zhèng)』以外、無かったんじゃないか(笑)?と思えます。

中国は1949年まで国共内戦をしており、1949年にようやく中華人民共和国が成立しました。
1955年に、任応秋(にんおうしゅう:任应秋:rèn yìng qiū:1914~1984)先生が、『中医雑誌』に論文「中医的弁証論治的体系」を発表し、『弁証論治(辨证论治:biàn zhèng lùn zhì)』を提唱します。
1956年に、北京・上海・広州・成都で、中医学院が創設されました。また、西洋医師が、2年間伝統医師のもとで学ぶ制度が始まりました。
1956年に、南京中医資進修学校で、呂炳奎(ろへいけい:吕炳奎:lǚ bǐng kuí)編の『中医学概論』がテキストとして使われます。これは9年後の1965年には日本で『中国漢方概論』(中国漢方医学概論刊行会)として翻訳出版されました。
1957年に、秦伯未(しんはくみ:秦伯未:qín bó wèi:1901-1970)先生が、論文「浅談弁証論治」で弁証論治を中国伝統医学の本質として論じます。
1958年に、江蘇省中医学院で学んだ陸痩燕(りくそうえん:陆瘦燕:lù shòu yàn:1909-1969)が『江蘇中医』が「鍼灸医学的発展道路」を発表します。
1959年に、裘沛然(きゅうはいぜん:裘沛然:qiú pèi rán:1913-2010)が上海中医学院の教科書『鍼灸学』(人民衛生出版社)を出版します。


1959年に、第1版の『中医診断学講義』が北京中医学院・南京中医学院・上海中医学院・成都中医学院・広州中医学院の代表会議で審査・決定されました。
1960年に中国の医科大学は5年制から6年制になりました。
1960年9月に、人民衛生出版社から第1版の『中医診断学講義』が出版されます。八綱弁証、六経弁証、衛気営血弁証、三焦弁証、臓腑弁証、経絡弁証などの内容になっています。
1960年に陸痩燕(りくそうえん)と裘沛然(きゅうはいぜん)が書いた『中国鍼灸学講義』が上海科学技術出版社から出版されます。
1961年に第1版の統一教材『鍼灸学』が人民衛生出版社から出版されます。 

個人的には、鍼灸は、経絡弁証を主にすべきであると感じています。ただ、舌診や「肝欝気滞」などの概念は、臨床には役立ちます。「仮説としての現代中医学」は、相対的には優れた理論モデルだと思います。
 思うに、鍼灸師は、科学哲学における「線引き問題(demarcation problem)」を学んだ上で(笑)、科学哲学者カール・ポパーの「反証可能性(Falsifiability)」と、ギャンブラーであるジョージ・ソロスの態度を真似るべきなのです(笑)。