alternativemedicine

Studies about acupuncture and moxibustion and Massage.

プロパガンダ

2018-06-13 | world
2017年8月22日
「中国伝統医学コースがいま、フィリピンでスタートした」
Traditional Chinese Medicine courses now in PH
 
 南京中医薬大学とシンガポールで3つの中医学クリニックを経営するシーエン中医学研究所が、フィリピンで、中医学の鍼灸コースをスタートします。
 
以下、引用。
「チョー・チョン医師によれば、『フィリピンの人口の大多数は西洋医学の医師に相談することができない。中医学を学ぶことで、将来は、より安価で良い代替手段を提供できる』」
According to Dr. Cho-chiong, “a great portion of Filipinos does not get the chance to consult doctors anymore. Learning more about TCM can offer cheaper and better alternatives even in the future.”
 
「地域の利益は別にして、中国伝統医学モデルは、中国の世界的な健康分野や保健分野での成長イニシアティブと戦略としてデザインされているのだ」
Aside from its local benefits, the TCM model is also designed for China’s growth initiatives and strategies in terms of health and wellness worldwide.
以上、引用終わり。
 中越戦争を経験し、歴史的にも「ヴェトナム鍼灸」が存在するヴェトナムと、中国との領海問題を抱えるフィリピンは、中国鍼灸に距離を置いていたのですが、これからは変化がありそうです。
 平和と社会貢献の「ソフトパワー」として、中医鍼灸はフィリピン社会でこれから根をはっていくと思います。フィリピンの貧しい人たちにとっては良いことだと思います。アフリカで活躍した中医師の鍼灸によって、アフリカの庶民と中国政府はものすごくメリットを受けています。
 
 戦国時代の日本で、イエスズ会の宣教師たちは、無料の医療を提供することで、京都や大分で根を張りました。伊吹山の薬草園は京都の四条の南蛮寺で布教していたイエスズ会の宣教師がはじめたものだし、大分では宣教師アルメイダが日本初の病院を建て、現在もその理念を受け継いだ「アルメイダ病院」が大分県にあります。
 そして、同時に、イエスズ会=カトリック教会は、日本人の九州の少女たちを奴隷として買い、海外に性的奴隷として販売していました。これはイエスズ会の宣教師の手紙などにも記録されています。
 1587年に、イエスズ会の日本人奴隷貿易を知った豊臣秀吉は激怒して、「バテレン追放令」を出しています。「バテレン」とはポルトガル語の「パードレ(padre)」つまり「神父」の意味です。イエスズ会の神父とポルトガル商人たちは奴隷貿易の首謀者です・・・。
 この「バテレン追放令」を書いたのは、秀吉の主治医である、漢方医・施薬院全宗(せやくいん・ぜんそう:1526-1600)です。施薬院全宗は、丹波康頼の末裔で、曲直瀬道三(まなせどうさん:1507-1594)の直弟子です。曲直瀬道三は鍼灸・漢方に優れ、日本に李東垣・朱丹溪の李朱医学・金元医学を導入しました。日本は、豊臣秀吉と施薬院全宗に救われたわけです。
 
 イエスズ会による日本での無料医療とは何だったのか?
 
  実は、「プロパガンダ(propaganda)=宣伝・布教」というコトバは、当時のカトリック教会・イエスズ会のつくったコトバなのです(笑)。
 「プロパガンダ」の総本山が、カトリック教会とイエスズ会なのです!なにしろ、カトリック教会には「プロパガンダ信頼省」が今でもあり、そのトップは「赤衣の教皇」と呼ばれる枢機卿がつとめています。「世界最強の諜報機関」と呼ばれるカトリック教会は、無料医療、貧しいヒトへの医療という形で、外国に入り込み、その次にポルトガル・スペインの奴隷商人と軍隊がやってきました。イエスズ会の「無料医療」は、プロパガンダの道具であり、最強の「ソフトパワー」文化侵略兵器となりました。
 
 医療提供は、政治的ソフトパワーとして、500年前から使われ続けています。善意の医療プラクティショナーは政治にうとい場合、善意を利用されてしまいます。
 
 善意の医療プラクティショナーであるには、キツネのような狡知が必要なのだと思います。
 
【イタリア語のプロパガンダの語源】
 「プロパガンダ(propaganda)」という言葉は、イタリア語であり、カトリック教会・イエスズ会が創りました。ちなみに、「ファシズム(伊語fascismo/英語fascism)」の語源は、イタリア語の「束(ファッショ:fascio)」であり、イタリア人が創ったコトバです(笑)!われらが、かつてのファシズム同盟国です(笑)。
 
 カトリック教会には、1622年から「サクラ・コングレガーティオ・デ・プロパガンダ・フィデ(Sacra Congregatio de Propaganda Fide:信仰プロパガンダのための聖会議)」という省庁が400年以上、有ります。
 イタリアのカトリック教会こそ、世界を洗脳してきた、プロパガンダという言葉の語源です(笑)。
 『脱病院化社会』を書いた社会学者イヴァン・イリイチ(Ivan Illich:1926〜2002)は、ニューヨークの貧民街でカトリック神父として貧困者救済活動を行なっている際に、1960年代にCIAによって『左翼』という危険思想のレッテルを貼られ、バチカンの地下に呼び出され、カトリック教会の黒頭巾を被った『異端審問官』に尋問されました!1960年代です! この時代のカトリック教会はCIAと一体化し、南米で拷問や人権侵害に関わっていました。イヴァン・イリイチのインタビューを読んで、ビックリしましたョ!(笑)。
 アメリカで珍しい、カトリックのジョージタウン大学には、CIAと一体化している『戦略国際問題研究所(CSIS:Center for Strategic and International Studies)』もあります。
 
 カトリック教会って何なんだ?という疑問が生まれてきます(笑)。
 
「サクラ・コングレガーティオ・デ・プロパガンダ・フィデ(Sacra Congregatio de Propaganda Fide:信仰プロパガンダのための聖会議)」をコントロールしているのは、ローマ法王の最高顧問である「枢機卿(カルディナリス:cardinalis:/kar.diˈnaː.lis/)」です。
 
 戦後のアメリカを「OSINT分析」している際に、面白いことに気づきました。
 
 初期のCIA長官アレン・ダレス(1893- 1969)は、CIA支配者でした。アレン・ダレスCIA長官の兄は、ジョン・フォスター・ダレス(1888-1959)国務長官で、サンフランシスコ条約や日米安保条約を締結し、ヴェトナム戦争に介入しました。1930年代の弁護士時代はナチス・ドイツを支援しました。このWASPエリートを代表するジョン・フォスター・ダレスの息子エイヴリー・ダレス(Avery Dulles:1918-2008)は、プロテスタントからカトリックに改宗しました。
 ダレス兄弟の息子エイヴリー・ダレスは、ハーバード大学ロースクールを卒業して、海軍に入り、第2次世界大戦でフランス軍との連携プレーで活躍して中尉に昇進し、1946年にイエスズ会に突然入って、あっと言う間に、アメリカのカトリック教会のトップに駆け上がり、バチカンの枢機卿となりました(笑)。
 
なんだ、この謎の経歴は?(笑) 海軍中尉という諜報関係者なのか? 枢機卿という聖職者なのか?(笑) 世界中で、小児への性的虐待で訴訟されまくっている、カトリック教会は、OSINT分析しがいのある組織です・・・。
 
【ロシア正教会の秘密】 
ロシアゴスキー」第1回で、クレムリン赤の広場の「ウスペンスキー大聖堂(ウスペンスキー・サボール:Успенский собор)」の映像を見ました。なぜ共産主義=無神論の中心であるクレムリン赤の広場に、ロシア正教の最高権威「ウスペンスキー大聖堂」があるのか?という疑問が解決しました! 

    イヴァン雷帝(Иван Грозный:イヴァン・グローズヌイ:1530–1585)が1547年に「ウスペンスキー大聖堂」でロシア最初の「ツァーリ(царь)」となる戴冠式を行い、それ以来、ロシアの歴代皇帝は、ここで戴冠式を行いロシアの権力を継承してきました。ロシア正教(ギリシャ正教)がロシア皇帝の権力を正当化していたのです。
  もともと、イヴァン雷帝(Иван Грозный:イヴァン・グローズヌイ:1530–1585)が直轄領「オプリーニチナ(опричнина )」制度を創り、この直轄領でマリュータ・スクラートフを長官とする秘密警察「オプリーチニキ(Опричники)」を育てました。 ロマノフ家のロシア帝国秘密警察「オフラーナ(охрана)」の前身が、 イヴァン雷帝の秘密警察「オプリーチニキ(Опричники)」 になります。 
 マリュータ・スクラートフの娘ムコがロシアのツァーリとなったボリス・ゴドゥノフ(Бори́с Годуно́в:1598–1605)です。 ボリス・ゴドゥノフ以外にも秘密警察からロシア王「ツァーリ」になったものがいます。

    ロシア・ツァーリ、ボリス・ゴドゥノフ(Бори́с Годуно́в:1598–1605)の部下であった「ウスペンスキー大聖堂」の「モスクワ大主教」フィラレートの本名はフョードル・ロマノフ(1553- 1633)です。

  ロシア・ロマノフ朝の最初の「ツァーリ」ミハイル・ロマノフ(Михаи́л Рома́нов:1596–1645:在位1613–1645)の父親にあたります。

    ロシア正教のモスクワ大主教は、ロシア皇帝に戴冠式を行うと同時に、ロシア秘密警察の長官を務めました!!!。ロシア教会は、ロシアのどんな田舎にもあります。ロシア中に張り巡らせた秘密諜報網と洗脳ネットワークであり、ロシア・ロマノフ家の権力の源泉だったのです!

  歴史を知ると、ロマノフ家のロシア帝国秘密警察「オフラーナ(охрана)」の優秀さと残忍さというのは、際立っています。レーニンなど革命家たちの組織にスパイを潜り込ませ、内部分裂を煽ります。ほとんど全ての革命家たちの組織に浸透し、組織の幹部となっていました。   

    レーニンとその部下であるジェルジンスキー(Дзержинский)は、ロシア秘密警察「オフラーナ」との闘いから、秘密警察の手口を学んでいきます。そして、ロシア革命後は、共産党の秘密警察チェカ(ЧК)を創設しました。「虐待された子どもが、親になったら同じ虐待を子どもにする」構図そっくりで、秘密警察の手口を「学習」しました。 このチェカ(ЧК)が、秘密警察НКВД(NKVD)に改組され、最終的にKGBとなりました。


金元時代の鍼灸

2018-06-13 | 中国医学の歴史
「中国医学人物伝 その3」
『日本鍼灸良導絡医学会誌』Vol. 10 (1981-1982) No. 2 P 12-21
日本鍼灸良導絡医学会誌
Vol. 10 (1981-1982) No. 2 P 12-21
 「馬丹陽天星十二穴治雑病歌」の代、馬丹陽(ばたんよう:1123-1183)の経歴が載っている珍しい論文です。馬丹陽は道教・全真教の2代目教主で、道教研究などで取り上げられる人物です。
代道教の研究―王重陽と馬丹陽』 
蜂屋邦夫 汲古書院 (1992/03)
 
 中国医学史を研究していると宋代は1つのピークです。
北宋時代、1026年の王惟一(おういいつ:987-1067)の『銅人シュ穴鍼灸図経』
南宋時代、1180年の王執中(おうしっちゅう)の『針灸資生経』
という2つの古典が出版されています。
 
 しかし、時代にも、多くの鍼灸古典が出版されています。
 
 日本で良く知られているのは、経絡の流注を詳細に書いた『十経発揮』の滑寿(かつじゅ:1304-1386)だと思います。滑寿は『史』の編纂者である知識人、宋濂(そうれん:1310-1381)とも付き合いがあったそうで、驚きました。
滑寿(かつじゅ:滑寿:huá shòu)
『十経発揮(十经发挥:shí sì jīng fā huī)』
 
 代の鍼灸医家として、思い浮かぶのは、王国瑞(おうこくずい)著『扁鵲神応鍼灸玉龍経(へんじゃくしんのうぎょくりゅうきょう)』です。この古典はとにかく病気の治療法に徹しており、顔面神経麻痺(口眼喎斜)への「地倉→頬車の透鍼」など非常に面白いです。腰痛に対して、丘墟や商丘を使うなども、現在のわたしのやり方に似ています・・・。王国瑞先生の鍼灸は、いまの目で見ても、参考になります。
王国瑞(おうこくずい:王国瑞:wáng guó ruì)
『扁鵲神応鍼灸玉龍経(扁鹊神应针灸玉龙经:biǎn què shén yìng zhēn jiǔ yù lóng jīng)』
 
 また、代の鍼灸書として、1311年に竇桂芳(とうけいほう)が出版した『鍼灸(针灸书:zhēn jiǔ sì shū)』には以下の4冊が含まれて居ます。
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竇漢卿(とうかんけい:窦汉卿:dòu hàn qīng)
『針経指南(针经指南:zhēn jīng zhǐ nán)』
 
何若愚(かじゃくぐ:hé ruò yú)
『子午流注鍼経(しごるちゅうしんけい:子午流注针经:zǐ wǔ liú zhù zhēn jīng)
 
『黄帝明堂灸経(黄帝明堂灸经:huáng dì míng táng jiǔ jīng)』
 
『膏肓兪穴灸法(膏肓俞穴灸法:gāo huāng shù xué jiǔ fǎ)』
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 竇漢卿(とうかんけい)の『針経指南』は、モンゴル帝国時代を代表する鍼灸文献です。
国家試験にも出題される「奇形八脈交会穴」は、この本で初出します。
『鍼経指南』
「公孫通衝脉 内関通陰維 合於胸心胃
臨泣通帯脉 外関通陽維 合於目鋭眥耳後頬頚肩缺盆胸膈
後溪通督脉 申脉通陽蹻 合於内眥頚項耳戸膊小腸膀胱
列缺通任脉 照海通陰蹻 合於肺及肺系喉嚨胸膈」
 
 
 また、杜思敬(としけい:1235—1320)の『鍼灸節要(しんきゅうせつよう)』『鍼灸適英集(普済方・鍼灸門)』も出版されています。『鍼灸適英集(普済方・鍼灸門)』では、気滞腰痛に腰陽関と行間を使うなど、非常に面白いです。
杜思敬(としけい:杜思敬:dù sī jìng)
『鍼灸節要(针经节要:zhēn jīng jíe yào)』
 
 
 大家、劉完素(りゅうかんそ:1120-1200)は井穴への刺鍼と刺絡を多用しています。
 
 また、劉完素は火熱論(寒涼派)で有名ですが、熱証に灸して良いとして、督脈の大椎への施灸による瀉熱を行っています。
『素问病机气宜保命集・卷中・泻痢论第十九』
「治厥阴动为泻痢者,寸脉沉而迟,手足厥逆,下部脉不至,咽喉不利,或涕唾脓血,泻痢不止者,为难治。宜升麻汤或小续命汤以发之,法云,谓表邪缩于内,故下痢不止,当散表邪于肢,布于络脉,外无其邪,则脏腑自安矣。诸水积入胃,名曰溢饮,滑泄,渴能饮水,水下复泻而又渴,此无药证,当灸大椎。」
 
 張従正(ちょうじゅせい:1156-1228)も刺絡を多用していました。
 
 代の李東垣(りとうえん:1180-1251)も刺絡が多く、足三里や内庭などを多用します。
李東垣(りとうえん)の弟子で、「補土派」の羅天益(らてんえき:罗天益:luó tiān yì:1220~1290)も、「足三里」や「中かん」を多用する「東垣鍼法」を残しており、これは明代『鍼灸聚英』に収録されています。
李東垣・羅天益の『易水学派(yì shuǐ xué pài)』は、(ちょうげんそ:zhāng yuán sù)先生に始まります。張素先生の父、張壁(张璧:zhāng bì=云岐子:yún qí zǐ)先生も、『雲岐子論経絡迎随補瀉法(云岐子论经络迎随补泻法※普济方·针灸に収録)』を書いた鍼灸家であり、張素先生が引経報使学説を提唱したのもうなづけます。
 
 代の医家で、特徴的なのは、整骨を論じた『世医得効方(せいえこうほう)』を書いた危亦林(きえきりん:1277-1347)のような医家や、『飲膳正要』を書いた忽思慧(こつしけい)のような医家が登場することです。
特に、薬膳の原典と呼ばれる、忽思慧の『飲膳正要』は、モンゴル帝国の影響をすごく受けています。
危亦林(きえきりん:危亦林:wēi yì lín)
『世医得効方(世医得效方:shì yī dé xiào fāng)』
 
忽思慧(こつしけい:忽思慧:hū sī huì)
『飲膳正要:饮膳正要:yǐn shàn zhèng yào)』
アフガニスタン産のピスタチオ(必思苔 )など、モンゴル、イスラム・アラビア圏の植物が頻出するので、普通に漢字を読んでいても、まったく理解できません・・・。
『飲膳正要の植物』
北村
『植物分類・地理』 24(3), 65-76, 1969-11-30
 
 時代というと、大家だけがとりあげられますが、実際には、モンゴル帝国時代の鍼灸古典は、あまり取り上げられないので、自分用のメモでした。