alternativemedicine

Studies about acupuncture and moxibustion and Massage.

ファイヤアーベントと中医学と科学哲学

2018-06-01 | 中国医学の歴史

 実は、「鍼灸」や「東洋医学」の凄さや歴史的意味に気づいていないのは、当の鍼灸師なのです。

 「パラダイム」というコトバは「科学哲学(philosophy of science)」の用語です。

 科学哲学を個人的に研究していた際に、夢中になったのが、カルファルニア大学バークレー校教授の科学哲学者ポール・ファイヤアーベント(Paul Feyerabend)の『方法への挑戦ー科学的創造と知のアナーキズム』(新曜社、1981年)です。

以下、科学哲学の『方法への挑戦』より引用。
「いかに古くばかげたものであっても、われわれの知識を改良する能力をもたない概念は存在しない」

「政治的干渉も拒否されない。現状に対抗するものに抵抗する科学の熱狂的排外主義を克服するために、政治的干渉が必要とされることもあり得る」(『方法への挑戦』45ページ)

「もっと興味深い実例が、共産主義中国における、伝統的医学の復活に見られる」

鍼療法灸療法、および、その底い流れる哲学は過去のものであって、もはや真面目に受けとることはできない。これが1954年頃までの(中国の)態度であったが、この年保健省におけるブルジョワ的要素の弾劾とともに、伝統的医学の復活に向けてのキャンペーンが始まった。疑いもなく、このキャンペーンは政治的に扇動されたものであった」

「この政治の側から強制された二元論は、中国においても西洋においても極めて興味深く、かつ謎めいた発見へと導き、また現代医学では再現することもできず、説明することもできないような診断の効果や手段が存在するという認識へ導いた。それは西洋医学にぽっかりと開いた、かなりの大きさの空隙を暴露した

「通常の研究方法は二つの段階から成る。最初に薬草の調合を化学的に分析する。次いで各々の成分に特有の効果が決定され、特定の器官に対する全体的効果がこれに基づいて説明される。このことは、全体として考えられた場合、薬草は有機体全体の状態を変えるという可能性、および病変した器官を癒すのは薬草調合の何らかの特定成分ではなく、むしろ有機体全体のこの新しい状態であるという可能性を無視している」(『方法への挑戦』47-49ページ)

「1950年代に共産主義者が病院や医学校に『黄帝内経』に含まれている思想や方法を教え、それを患者の治療に用いることを強制したとき、多くの西洋の専門家はあっけにとられて中国の医学の凋落を予言したものである。が実際に起こったことは全く正反対なのであった。はり療法、きゅう療法、脈診断法は西洋の医者に対しても中国の医者に対しても、新しい洞察、新しい治療法、新しい諸問題へと導いた」

「この観察を科学は特殊な方法をもっていないという洞察と結び付けるとき、われわれは科学と非科学の分離は人工的であるのみならず、知識の進歩のために有害でもあるという結論に達する」(『方法への挑戦』424ページ)
以上、引用終わり。

 科学哲学者ポール・ファイヤアーベント(Paul Feyerabend)は、中国伝統医学や鍼灸から影響をうけて、『科学哲学(philosophy of science)』という学問全体をまったく新たなステージに到達させました。
これは「科学哲学」だけでなく、「西洋哲学」全体における思想史的大事件なのです・・・。
「科学と非科学の境界線はなにか?」という問題は、『(科学と非科学の)線引き問題』という名前で、科学哲学が100年以上論争を続けている領域であり、ウィキペディアにも載っている用語です。
「(科学と非科学の)線引き問題(demarcation problem)」で、現代の科学哲学が到達した結論は、「科学と疑似科学を分ける明確な基準は存在しない」ということです。
これは、やっぱり、西洋哲学だけじゃなくて、人類の思想の歴史の中でも、ものすごい大事件だと思います。みなが「認知的不協和(Cognitive Dissonance)」を起こしてしまい、30年以上たっても、その現実を受け入れられないだけです(笑)。

 日本における「科学(science)」の根本問題は、国際基準の「科学哲学(philosophy of science)」の知識をきちんと持っているヒトが皆無に近いということです。


医療概論と村岡潔先生

2018-06-01 | 中国医学の歴史

 村岡潔先生は、東洋療法学校協会の『医療概論』を中川米造先生と共に書いた共著者で、刊々堂出版の上海中医学院『針灸学』を浅川要先生や池上正治先生とともに翻訳されました。

以下、引用。
「中国の会は人を集める求心力があり、親友の池上正治さん(中国研究者・翻訳家)や妻(後に鍼灸師)をはじめ、学生・社会人たちとの出会いの場でした。」

「医学関係で最も衝撃を受けたのは雑誌『中国』に載ったノーマン・ベチューンの伝記です。」

「中国の戦時下で人々に医療指導を行ない、短期間の訓練で医師になれることを示したその精神は「はだしの医者」に引き継がれていきます。
 医学生だった私はベチューンや「はだしの医者」で医師の方から患者のそばに行くことの重要性と誰もが医療者になれることを学びました。また、医学概論(医学・医療のあり方、医師のあるべき姿を問う学問)という今日の私の研究領域の原点となったのです。

 そして学生や研修医の時代には、鍼灸師の浅川要さんらと自分たちで相互に針灸をし合う「ベチューンに学ぶ会」で活動したり、彼や池上さんたちと『針麻酔』や『針灸学』という中医学書の翻訳出版にも携わりました。この過程で、医学は西洋医学だけではないこと、また中国医学も西洋医学も病気という山を征服するルートのひとつに過ぎないという視点を得ました(これは医療人類学の「多元的医療体系」の考え方につながります)。」

「その後、私は救急医療や脳外科の臨床医として病院をいくつか廻っていきます。皮切りの大学病院では学会発表のいざこざで教授に嫌われ『白い巨塔』の世界も体験しました(笑)。

こうした青年期の様々な出会いが医師としての私の原点をつくり上げたと思っています。そして86年から大阪大学大学院の中川米造先生の所で念願の医学概論の研究を始めます。私が佛教大学に来られたのは先生が本学専攻科の仏教看護コースで最後に教鞭をとられた縁です。
 学生の皆さんには、予防(中国医学でいう「未病」のうちに対処すること)や心身相関(心身一如)の考えにたって自己の心身の力に興味と自信をもってほしいと思います。」
以上、引用終わり。

中医学鍼灸を最初に日本に紹介した、上海中医学院の『針灸学』(刊々堂1978年)は村岡潔先生や浅川要先生、池上正治先生によって、日本語に翻訳されました。
 村岡潔先生は、1969年に日本医科大学に入学、「中国の会」で毛沢東の「ベチューンを記念する」に出会います。「ベチューンに学ぶ会」をつくり、鍼灸を学ばれました。医大を卒業後は脳外科となりました。

 中川米造先生は、大阪大学医学部で、森永砒素ミルク事件や公害事件にも関わり、医療倫理を問う『医学概論(医療概論)』を創り、アーユルヴェーダや鍼灸にも深く関わった偉大な医学者です。


医療概論

2018-06-01 | 中国医学の歴史

 日本のアーユルヴェーダ導入の歴史は、日本の鍼灸学校の教科書『医療概論』と密接な関わりがあります。
 日本の『医療概論』の教科書の著者は、中川米造先生です。中川米造先生と丸山博先生が大阪大学医学部で、ずーっと「アーユルヴェーダ・ゼミ」をしていました。これは、大阪大学医学部における丸山博先生と中川米造先生のキャリアと関係があります。

 1955年森永砒素ミルク事件が起きました。森永乳業のミルクに工業廃棄物のヒ素が混入し、死者131人、中毒者1万2,344人の大惨事となりました。当時の大阪大学医学部の西沢義人教授は、「被災者の今後の大きな不安は後遺症にあると思うが、私の手がけた数百例からしてその心配はない」と西沢基準をつくりました。
 1967年に、大阪大学医学部の丸山博教授が大阪府堺市の養護学校教諭から神経症状などの後遺症を相談され、養護学校の教諭や保健師さんたちと、森永砒素ミルク事件の後遺症を調査し、1969年に『14年目の訪問』を出版しました。
 1969年に、日本公衆衛生学会で、森永砒素ミルク事件の「西沢基準」をつくった西沢義人教授と、後遺症の存在を疫学調査した丸山博教授が激論します。小児科医・西沢義人教授は『わたしは被害者に対して心から同情申し上げます。しかし、今回の丸山報告に対して、医師としては、なんら責任を感じません』と答弁しました(※1)。
 
 1969年に、大阪大学医学部内で、丸山博教授と中川米造教授が一般人を含めた「アーユルヴェーダ・ゼミ」を開始します。1968年に幡井勉(はたい・つとむ)先生とインドを訪問した丸山博先生はアーユルヴェーダに深い感銘を受けていました。
 この時代は、大阪大学医学部をモデルに『白い巨塔』が1963-1965年に連載され、1966年に映画化された時代です。1973年に丸山博教授は退官し、普通は名誉教授の称号をもらうのですが、丸山博教授だけが名誉教授になれませんでした。これが『白い巨塔』大阪大学医学部で起こったことです。日本における森永砒素ミルク事件の調査、救済、責任問題に道を開いたのが丸山博先生です。「アーユルヴェーダ・ゼミ」は中川米造教授が1984年まで引き継ぎました。
 1971年に丸山博先生は、食品添加物・農薬問題に警鐘を発する「日本有機農業研究会」をつくりました。丸山博先生がアーユルヴェーダを本当の意味で、最初に日本に輸入した人物であり、その背景は森永砒素ミルク事件でした。

 鍼灸学校の教科書『医療概論』の著者である中川米造(なかがわ・よねぞう:1926-1997)先生は、師である澤瀉久敬(おもだか・ひさゆき:1904-1995)の『医学概論』という考え方を受け継ぎ、1969年より「森永砒素ミルク中毒追跡調査会」で丸山博先生とともに患者の側に立ち続け、一般市民と共に学ぶアーユルヴェーダ・ゼミを開きました。日本中の大学で行われている医療倫理や医学史に関する学問である『医学概論(医療概論)』という学問は、中川米造先生によって基礎をつくられました。中川米造先生は鍼灸雑誌にも多数、寄稿されており(※3)、鍼灸師に期待していました。
 1991年に中川米造先生は、針灸学校の教科書『医療概論』を監修されました。

 丸山博先生と中川米造先生という一流の医学者の先生方が、日本にアーユルヴェーダを紹介したり、鍼灸師に期待をかけた背景は以上のようなものでした。 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※1:「森永ヒ素ミルク中毒事件50年目の課題」
中島 貴子
『社会技術研究論文集』Vol. 3 (2005) P 90-101
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sociotechnica/3/0/3_0_90/_pdf

※2:「医学概論とは何か -その歴史的意義と使命-」
藤野 昭宏
『産業医科大学雑誌(Journal of UOEH)』
Vol. 37 (2015) No. 4 pp 273-291
https://www.jstage.jst.go.jp/article/juoeh/37/4/37_273/_pdf

※3:「80年代の鍼灸」
中川米造
『日本鍼灸治療学会誌』
Vol. 30 (1981) No. 2 P 83-85
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsam1955/30/2/30_2_83/_pdf


プライマリ・ケア:Anton JAYASURIYA先生とアルマ・アタ宣言

2018-06-01 | 中国医学の歴史

「科学的鍼の原理と実践」
Principles and practice of scientific acupuncture
by Anton JAYASURIYA
January 1, 1978
http://amzn.com/B0007C7TR8

アントン・ジャヤスリヤ先生は、1978年の「アルマアタ宣言(DECLARATION OF ALMA-ATA)」を出したカザフスタン・アルマアタのWHOの会議に参加しました。
「アルマアタ宣言」とは、以下のようなものです。

以下、引用。
「この会議は健康(単に病気がないのではなく、身体的にも精神的にも社会的にも健康な状態)は基本的人権であると、強く、再確認する」
The Conference strongly reaffirms that health, which is a state of complete physical, mental and social wellbeing, and not merely the absence of disease or infirmity, is a fundamental human right .

先進国と発展途上国の間の健康状態の不平等は、政治的にも社会的にも経済的にも受け入れられない。そして、全ての国の関心事である」
The existing gross inequality in the health status of the people particularly between developed and developing countries as well as within countries is politically, socially and economically unacceptable and is, therefore, of common concern to all countries.

「人々は、個人でも、集団でも、ヘルスケアをする計画と実行に参加する権利と義務があります。」
The people have the right and duty to participate individually and collectively in the planning and implementation of their health care.

「プライマリ・ヘルスケアは、地域レベルのヘルスワーカー、医師、看護師、助産師、助手そしてコミュニティー・ワーカーが、ニーズに応じた伝統医療プラクティショナーと一緒に、持続的に、社会的にも技術的にも、地域社会のニーズに応じたヘルスチームとして働く」
Primary health care:relies, at local and referral levels, on health workers, including physicians, nurses, midwives, auxiliaries and community workers as applicable, as well as traditional practitioners as needed, suitably trained socially and technically to work as a health team and to respond to the expressed health needs of the community.

「2000年までに、世界中の全ての人々に受け入れられるレベルの健康を、現在、かなりのレベルで武器と軍事粉争に浪費している資源を用いて、より良い使い方をすることで成し遂げよう」
An acceptable level of health for all the people of the world by the year 2000 can be attained through a fuller and better use of the world's resources, a considerable part of which is now spent on armaments and military conflicts.
以上、引用終わり。

「健康は基本的人権である」

「先進国と発展途上国の健康の不平等は受け入れられない」

「プライマリ・ヘルス・ケアは西洋医学も伝統医療プラクティショナーもチームとして共に働く」

軍事紛争に浪費されている資源をより良い使い方をすることで、2000年までに世界の人々に健康を達成する

これが、1978年の「アルマアタ宣言」の内容です。『医療概論』の授業中、「アルマアタ宣言」を読みながら、涙が出そうになりました。

1978年「アルマアタ宣言」で宣言された「プライマリヘルスケア」の思想は、実は、文化大革命期の中国の「はだしの医者(赤脚医生:Barefoot doctor)」から始まりました。これは、世界中のプライマリヘルスケアの思想を説明した文章には、かならず書いてあります。

 第2次世界大戦前の中国は、富裕であるはずの中国人の海外留学生の6割が結核菌保持者という記録もあります。アヘンなどの麻薬と売春が横行し、性病と栄養失調と結核が蔓延していたのが戦前の中国なのです。魯迅先生の言う「人が人を食いものにする社会」でした。

 戦後の毛沢東の「はだしの医者」は、農村に衛生状態の指導を行いました。政策的にも麻薬中毒と性病が激減し、衛生状態が劇的に改善しました。これは共産中国が成し遂げた否定できない偉業です。最近ではアフリカのルワンダは、虐殺で医師のほとんどか海外逃亡しましたが、農村に衛生知識をもった女性たちを教育し派遣したところ、衛生状態が劇的に改善し、平均寿命が飛躍的に伸びた事例があります。医師がいくら増えても、都市部の富裕層だけがかかれるというのが、かつての医療でした。
 これは許俊(ホジュン)の時代の李氏朝鮮も明清の中国も同じです。プライマリ・ヘルス・ケアという考え方を最初にしたのは、文化大革命の時期の中国でした。毛沢東は、カナダ人医師ノーマン・ベチューン(Henry Norman Bethune、白求恩、1890 -1939)の影響を受けたようです。ベチューンは、貧しい人たちに医療を提供しようと中国に渡り、毛沢東の八路軍の兵士や中国人を治療し続けました。ベチューンが中医を使うべきだと進言したことが毛沢東に影響を与えたようです。ノーマン・ベチューンの思想と生き方が世界を変えたのです。

 スリランカのアントン・ジャヤスリヤ(Anton Jayasuriya)教授の業績についての文章を読むと、必ず「アルマアタ宣言」のことが書かれています。きっと、いまの私なんて、比べ物にならないぐらい、ジャヤスリヤ先生も「アルマアタ宣言」に感動したのです。

以下、引用。
「アントン・ジャヤスリヤは、高価な薬を用いる医療で単純な問題を解決するということを信じたりはしなかった。彼は意思として、伝統・代替医療の発展に興味をもっていた。この情熱は、貧しい人たちを助けること、病人を効果的に安価に治療することを探求することに彼を導いたのだ」
Anton Jayasuriya did not believe in using expensive drugs to deal with simple problems of the body, and during his early days as a Doctor an interest in Traditional and Alternative Medicines developed. This passion to help the poor and needy led to him seeking affordable and effective methods for treating sick people.

「1974年に、スリランカ政府とWHOは、アントン・ジャヤスリヤ教授に中華人民共和国で鍼を学ぶための奨学金を与えた。これこそ、彼の探し続けた効果的で安価なヒーリングシステムだったのだ」
In 1974, the Government of Sri Lanka and the W.H.O. granted Anton Jayasuriya a scholarship to study Acupuncture in the People’s Republic of China. Here was the affordable and effective healing system he had been looking for.
以上、引用終わり。

アントン・ジャヤスリヤ教授は、鍼麻酔の専門家となり、1978年に『日本鍼灸治療学会誌』にも、論文を寄稿しています。西洋医学に基づく鍼の臨床であり、スリランカのコロンボ総合病院で、どのような鍼治療をしていたのかが、よくわかります。

「モーターゲート理論  鍼の運動効果を説明するための新説」
ジャヤスリカ アントン
『日本鍼灸治療学会誌』 Vol. 27 (1978-1979) No. 3 P 270-281
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsam1955/27/3/27_3_270/_pdf


はだしの医者とともに

2018-06-01 | 中国医学の歴史

写真は『はだしの医者とともにーイギリス人医師の見た中国医療の17年』1972年東方書店

これは1954年から1969年まで、北京で診療したロンドン医科大学の外科医ジョシュア・ホーンさんの貴重な記録文献です。中国伝統医学のミッシング・リンクを埋めてくれます。ホーンさんは外科医ですが、中国伝統医学には、肯定的で、当時の中医の様子を教えてくれます。
ジョシュア・ホーンさんは1930年代にロンドンで医学教育をうけますが、その様子も興味深いです。ジョシュア・ホーンさんは1936年に船医として上海を訪れます。それは日本人アヘン王、里見甫が活躍し、上海マフィアの杜月笙(とげつしょう)が支配する「魔都・上海」でした。その腐敗しきった上海の描写が凄まじいのですが、里見甫さんの描写とピッタリ一致していてビックリしました。

ジョシュア・ホーンさんは、その後、イギリス軍医として1944年のノルマンディー上陸作戦に参加!フランス・レジスタンスやオランダのナチス将校の描写が素晴らしいです。軍医を辞めた戦後はバーミンガムで外科医をしていたジョシュア・ホーンさんは1954年に北京に移住し、17年を中国で過ごしました。

興味深いのは、中医の描写です。ジョシュアさんが治せなかった難病の出血症を治した中医の描写もあります。はだしの医者は、農民に6ヶ月間の教育で50個のツボと鍼灸治療の基本を教えただけですが、ジョシュア・ホーンさんは、肯定的に描写しています。


以下、引用。

「中国の医学界で、はるかに多数を占めていたのは、やはり伝統的中国医学を奉じる中医たちであった。医師の登録制度がなかったため、その正確な数字はわかっていないが、その数はおそらく40万人程度であったろう。彼らの中には、ヒゲをはやし、最高の教養と学識を備え、太医院を卒業した学者医師で、古典医学書をそらんじ、優雅このうえない書体で処方箋を書く者から、かろうじて読み書きのできる流し医者までいた。」

「これら中医の上層部は、中国の旧社会ではもっとも教養のある階層に属していた。彼らは広い知識と洗練された趣味の持ち主であり、古い詩や文学、絵画、磁器の鑑識家でもあった。金持ちであったし、大地主の家に生まれた有力者でもあったから、文化的にも思想的にも封建制度と密接なつながりがあったのである」

以上、引用終わり。

ショウキ先生に『中国傷寒論解説』を書いた北京中医学院の劉渡舟先生について尋ねたら「劉先生は書がうまく、漢方の処方も硯と筆で達筆で書いていました」とおっしゃっていました。劉渡舟先生も文化大革命でヒドイめにあったそうです。

以下、引用。
「高名な医師のもとで年季奉公をして独立開業したものもいたし、また、先祖代々の家伝の秘法を受け継いで、その医学知識を門外不出とするものもいた。根っからの農村育ちで子ども時代から山の中で薬草さがしをしているうちに煎じて用いるすべを学んだものまでいた」

これは江戸時代の日本も同じ、1990年代以前の中国も医師免許は無かったのです。

以下、引用。
「下層の中医は比較的、人民にとって身近な存在であった。彼らは多くが地方の都市に住み、そこから広大な農村に出かけて行った。彼らの料金は貧窮な農民には高いものであったが、途方もなく高いというわけではなく、場合によっては支払いを延期したり免除してくれることもあった」

「中国はこれまでずっと農業を主軸としてきた国であり、人口の80パーセントは農村に住んでいる。解放前は中国の農民の大部分が、事実上、西洋医学を全く知らず、中国伝統医学ともたまに接触を持つだけであった。西洋医学の医師たちは都市に群がって金儲けをしていた。」

「中医の多くは地方の小都市に住み、農村では希少価値があったので、一般大衆の手の届かぬほどの料金をふっかけることが出来た。彼らが治療に用いる薬草はだいたいにおいて非常に値段が高かった」

「往診料は無料で村人の家へ出かけて行く中医もいたが、その他の中医たちは往診料と適当な乗り物を用意しなければ動こうとしなかった。」

「よく村には鍼灸や指圧に天賦の才能を示す農民がいて、だんだんと噂にのぼるようになり、病人の治療を頼まれるようになるのだった。そういう農民はたいてい息子に自分の知識と技術を仕込むので、息子のほうは薬草の見分け方や煎じ方を学んで、得意な分野を広げるのだった。これらの農村の医師たちは文盲で、中医たちからは馬鹿にされていた。そして、後に真の農村の医者を育成する社会的土壌を形成した」

「中華民国の支配者たちは西洋医師の数がまったく足りないにも関わらず、中医の診療を禁止しようとした。この試みが失敗に終わると、あらゆる種類の制限を加えて中医の診療を妨害し、いくつかの都市から中医を追放した」


「1950年8月全国衛生労働者会議が開かれ、毛沢東主席は中医と西医の結合を呼びかけた」


「中医たちが人民の健康保持に貢献できるであろう事は疑いなかった。この中医集団にかわりうる良いものが現れる以前に、それを切り捨ててしまうことは愚の骨頂であり、無責任極まりないことだった」

以上、引用終わり。

1935年の中国人の平均寿命は28歳!!!です。
これは現代のアフリカ並です。富裕であるはずの中国人の海外留学生の6割が結核菌保持者という記録もあります。アヘンなどの麻薬と売春が横行し、性病と栄養失調と結核が蔓延していたのが戦前の中国なのです。魯迅先生の言う「人が人を食いものにする社会」でした。

 そこで、戦後の毛沢東の「はだしの医者」は、農村に衛生状態の指導を行いました。政策的にも麻薬中毒と性病が激減し、衛生状態が劇的に改善しました。これは共産中国が成し遂げた否定できない偉業です。最近ではアフリカのルワンダは、虐殺で医師のほとんどか海外逃亡しましたが、農村に衛生知識をもった女性たちを教育し派遣したところ、衛生状態が劇的に改善し、平均寿命が飛躍的に伸びた事例があります。医師がいくら増えても、都市部の富裕層だけがかかれるというのが、かつての医療でした。これは許俊(ホジュン)の時代の李氏朝鮮も明清の中国も同じです。

 「はだしの医者とともに」の著者のイギリス人、ジョシュア・ホーンさんは、巻末にカナダの外科医ノーマン・ベチューン医師の文章を掲載しています。ベチューンは、貧しい人たちに医療を提供しようと中国に渡り、毛沢東の八路軍の兵士や中国人を治療し続けました。ベチューンが中医を使うべきだと進言したことが毛沢東に影響を与えたようです。
ジョシュア・ホーンさんは、文化大革命の中国と毛沢東を絶賛しています。当時の中国では、ものすごい数の死者や政治的問題が続出し、毛沢東もけっして聖人ではなかったことも、いまではわかっています。当時の中国国内では報道されずに完全に隠蔽されていたようです。

 それでも、「貧しい人たちにこそ医療アクセスを」という思想や、医師でなくとも自分たちの健康は自分たちで守ろうという「はだしの医者」の理想は、世界中の人たちを感動させ、世界の多くの人々が中国鍼灸と「はだしの医者」をリスペクトしたのです。
 もし、「中医」が明清時代や中華民国時代のまま、富裕層のための高級サービス業のみの存在なら、魯迅先生の見解がそうだったように、「中医」は単なる軽蔑の対象のままだったと思います。