alternativemedicine

Studies about acupuncture and moxibustion and Massage.

ストレッチとPNF

2018-04-30 | EBM

リンク先は、2015年2月の『ブリティッシュ・ジャーナル・オブ・スポーツ・メディスン(BJSM)』掲載の論文。
内容は「スポーツ前の高負荷ダイナミック・エクササイズのウォームアップはやったほうが良い」というものです。

「上半身のウォームアップにおけるパフォーマンスとスポーツ障害への効果のシステマティックレビュー」
A systematic review of the effects of upper body warm-up on performance and injury
McCrary JM et al.
Br J Sports Med. 2015 Jul;49(14):935-42.
Epub 2015 Feb 18.
http://bjsm.bmj.com/content/49/14/935.long
(全文無料オープンアクセス)

まず、ストレッチの歴史的には、2011年のコクラン・システマティック・レビュー「運動後の筋肉痛を防止・減少するためのストレッチング」(※1)は運動前後のストレッチングが、運動後の筋肉痛を減らすのに何の効果も無いことを指摘したことが重要です。

※1「運動後の筋肉痛を防止・減少するためのストレッチング」
Stretching to prevent or reduce muscle soreness after exercise.
Herbert RD et al.
Cochrane Database Syst Rev. 2011 Jul 6;(7):CD004577.
http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/14651858.CD004577.pub3/abstract;jsessionid=4ACB61D55032453784F1EB7D8F57EDBF.f01t04

2015年の『イギリス・スポーツ医学雑誌』のシステマティック・レビューは現状の証拠を検討していきます。

【スタティック・ストレッチ(Static Stretching:静的ストレッチ)】
「『スタティック・ストレッチ』は、ひろく、パフォーマンスを強める方法としては、効果的でないことが発見された」
Static stretching was found to be a largely ineffective method for performance enhancement.

※「スタティック・ストレッチ(Static Stretching)」は1975年にボブ・アンダーソンが提唱したストレッチングであり現在、もっとも一般的なものです。
(ボブ・アンダーソン著『ボブ・アンダーソンのストレッチング(初版) 』ブックハウスHD、1981年、http://www.amazon.co.jp/dp/4938335786)

【ダイナミック・ストレッチ(Dynamic Stretching:動的ストレッチ)】
 現在、サッカーなどのスポーツ領域ではからだを温めるウォームアップとして「ダイナミック・ストレッチ」が主流です。しかし、検証された2つの実験は矛盾する結果を示しており、さらなる研究が求められます。

【PNFストレッチ(PNF Stretching)】
「2つの研究が含まれ、上半身のPNFストレッチング・ウォームアップは、ストレングスの結果について何の効果も無かった」
The two included studies ,of upper body proprioceptive neuromuscular facilitation (PNF) stretching warm-ups found that PNF stretching had no effect on strength outcomes

「上半身におけるPNFストレッチング・ウォームアップが柔軟性に与える効果については調査した研究が存在しない、そして、上半身におけるウォームアップ・モードの効用については、効果が不明瞭なままである」
No studies investigated the effects of upper body PNF stretching warm-up on flexibility outcomes—the main reported benefit of PNF stretching—so the utility of this warm-up mode in the upper body remains unclear.

 「『PNFストレッチング(Proprioceptive Neuromuscular Facilitation Stretching:プロプリオセプティブ・ニューロマスキュラー・ファシリテーション・ストレッチング)』は、1940年代に神経学者のハーマン・カバット(Herman Kabat:1913–1995)さんが理論を創始しました。ハーマン・カバット(Herman Kabat1913–1995)さんは、1932年にニューヨーク大学を科学の学士で卒業し、1935年にはノースウエスタン大学で神経学の博士号、1942年には生理学で2つ目の博士号を取得していますが、医師免許も理学療法士免許も持っていませんでした(※2)。

 1940年にハーマン・カバット博士は研究を開始し、1945年にアシスタントだった理学療法士のマーガレット・ノット(Margaret Knott)に出会います。1946年にワシントンDCのカイザー・カボット研究所の部長となり、1946年にカルフォルニア州でカイザー・ファウンデーション・リハビリテーションセンターを創設し、研究を続けます。1951年には最初のPNFセミナーを始めます。1952年には理学療法士のドロシー・ヴォス(Dorothy Voss)が研究に参加しました。1954年にハーマン・カバット博士は研究所を去って失踪し、それから1994年まで40年間消息不明となり、1995年に亡くなりました。

 1956年に理学療法士のマーガレット・ノット(Margaret Knott)とドロシー・ヴォス(Dorothy Voss)が最初の『PNF第1版』を出版します。1968年にノットとヴォスが『PNF第2版』を出版し、ここで現在のようなPNFの形ができたそうです。第2版では、ハーマン・カバット博士の考えよりも、ノットとヴォスの考え方がかなり入っているようです。
 日本でPNFは、1969年に高知リハビリテーション学院の清水ミシェル・ワイズマンさんによって紹介され、1972年に府中リハビリテーション学院のエリック・ビエール(Eric Viel)さんによって「ファシリテーション・テクニック(FacilitationTechnique:促通手技)」という名前で紹介されました(※3)。

日本のスポーツ領域でPNFは、1989年に立花龍司(たちばな・りゅうじ)さんが近鉄のコンディショニング・コーチとして野茂や吉井をPNFストレッチでコンディショニングしたことで有名になりました。立花龍司さんは、大阪商業大学経済学部を1986年に卒業、1987年天理大学スポーツ科学単位取得、同1987年ダイナミック・スポーツ医学研究所(大阪)に入所し、2年後の1989年に近鉄コンディショニングコーチという経歴です。ですから、立花龍司さんは個人的に尊敬していますが、PNFストレッチに関しては、最初は2年程度の独学のはずですし、医療資格は持っていません。

 スポーツ分野の理学療法士さんの間で人気の高いPNFテクニックですが、臨床的なエビデンスは全く無いようです。日本においても「脳卒中ガイドライン」において、PNF法や他のボバース法、ブルンスストローム法を比較していますが、PNF法がリハビリとして優れているという証拠は存在しません(※4、※5)。また、90パーセントの理学療法士学校がPNFを教えていますが、授業時間は5時間から15時間程度で、卒後教育に頼っているのが現状です(※6)。 5時間で出来るわけないやん!

 全体として、PNFは1940年から1954年というわずか14年の間に、臨床経験の無い神経学者のカバット博士が開発した理論を、(カバット博士の失踪後に)理学療法士のノットとヴォスが発展させたものです。PNFは最初の出版から60年が経ちますが、基礎理論が正しいという確証はなく、臨床のエビデンスも無いのです。PNFストレッチは、基礎研究(Basic Reseach)も臨床試験も非常に質が低いですし、他のストレッチと比較しても、優れた結果を残していません。EBMの手法で調査した限りでは、理学療法士さん達の間で、PNFストレッチが人気なのは理解に苦しむ現象だと感じてしまいます。

 あと、日本PNF学会のホームページに「1940年代の後半に、医師であるKabat博士がポリオ後遺症患者の筋収縮を高めるための生理学的理論を構築し、KnottとVossの理学療法士と一緒に開発した運動療法PNF(proprioceptive neuromuscular facilitaition;固有受容性神経筋促通法)である。」と書かれています。
http://www.pnfsj.com/pnf%E3%81%A8%E3%81%AF/

 ところが、人間総合科学大学リハビリテーション学科の学科長である秋山純和(あきやま・すみかず)教授が2003年に『理学療法科学』に書かれた論文「神経筋促通法(PNF)と筋力トレーニング」には、「Kabat博士は医師免許も理学療法士免許も持っていなかった。理学療法士であるKnot氏に協力を求めた原因かも知れない」と明記してあります(24ページ)。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/rika/18/1/18_1_23/_pdf

どちらが本当なのでしょう?

エビデンスを調べていくと、現在の理学療法のエビデンスは「怪しい」ことだらけです。最近は、話半分で眉唾で聞いて、あとでエビデンスを検証するようにしています。おそらく、いまだにアタマの中が「メカニズム派」であり、EBM革命についていけていないのです。あと、かなり大量のウソや捏造をみつけることができます。これが故意なのか単なるミスなのかは、教えられる側、教育を受ける側には重要だと思います。

スポーツ直前に行うストレッチは、スポーツ障害予防効果は無いようです(ストレッチは長期的な柔軟性や関節可動域の改善には効果があるようです)。ウォームアップ・エクササイズはスポーツ障害予防の効果がある可能性が高いようです。
 

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※2:「神経筋促通法(PNF)と筋力トレーニング」
秋山 純和『理学療法科学』Vol. 18 (2003) No. 1 P 23-28
https://www.jstage.jst.go.jp/article/rika/18/1/18_1_23/_pdf

※3:「 ファシリテーション・テクニック」
『リハビリテーション医学』Vol. 11 (1974) No. 1 P 29-31
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjrm1964/11/1/11_1_29/_pdf

※4:「総説  リハビリテーション医学の革新の提案  神経筋促通法の機序の回顧と反省 」
福井 圀彦,et al.
『バイオフィリア リハビリテーション研究』 Vol. 3 (2006) No. 1 P 27-32
https://www.jstage.jst.go.jp/article/brj/3/1/3_1_27/_pdf

※5:「片麻痺回復のための促通反復療法の理論と効果」
川平 和美
The Japanese Journal of Rehabilitation Medicine
Vol. 50 (2013) No. 2 p. 118-123
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjrmc/50/2/50_118/_pdf

※6:「固有受容器神経筋促通手技(PNF)の学内教授活動の変遷と現状」
佐藤 仁『理学療法科学』Vol. 25 (2010) No. 4 P 483-486
https://www.jstage.jst.go.jp/article/rika/25/4/25_4_483/_pdf


インドネシアの鍼とマッサージ

2018-04-30 | world
 
 
以下、引用。
インドネシアには「ジャムウ」と呼ばれる、その起源が1000年以上も昔にさかのぼる、インドから伝わった民間薬がある。インドネシアで発展してきたジャムウ薬文化は、いまでもかの国で広く庶民に受け入れられている。」
 
「ジャムウ(現地名:jamu)の語源は、インドのサンスクリット語「japa」に由来し、「魔法」や「呪文」の意味を持つ。 」
以上、引用終わり。
インドネシアには『ジャムウ(Jamu)』という民間薬があり、「魔法」や「呪文」の意味があります。
『ジャムウ』や『バリ式マッサージ(Balinese massage)』、『ジャワ式マッサージ(Javanese massage)』を行ってきたのが『ドゥクン(Dukun)』と言われる魔術師ヒーラー兼マッサージ師です。
 
以下、引用。
『1000年以上もさかのぼるジャムウの歴史は、その昔(ぼくは紀元前ではないかと考えているが、正確な記録がないのではっきりしない)、インドからインドネシアへ渡った人たちが、インドのさまざまな文化をインドネシアの人々に広めた歴史と重なる。仏教やヒンズー教を布教していた僧侶の中に医療行為を施すドゥクン(伝統医)もいたといわれる。彼らが手がけていた医学こそが、インド古代伝統医学のアーユルヴェーダだ。当時、文化の中心地だったジャワ島を舞台に、治療法の応用やインドネシア固有の植物を使うなど改良を重ね、自分たちの生活に合うように出来上がったのがジャムウ。つまりジャムウの原点はアーユルヴェーダにある。
 その痕跡を見ることができるのが、ジャワ島中部に位置する世界遺産、ボロブドゥール遺跡だ。西暦780〜830年に建てられた、世界最大級の仏教遺跡である。ある壁面には、病人と思われる人物に対しドゥクンが脈診を行い、マッサージを施している姿や、女性が生薬をすり潰してジャムウを調合しているとみられる場面がある。道具が現在使われているものと同じことからも、8世紀後半にジャムウが存在していたことがうかがえる。』
以上、引用終わり。
5世紀にヒンドゥー教徒がアーユルヴェーダ医学を伝え、その後、8世紀のシャイレーンドラ朝(752-832)やシューリヴィジャヤ朝(500ー1414室利仏逝国)の頃に、密教の考えでつくられたボロブドゥール仏教遺跡が出来て、中国の仏教僧・義浄が訪れています。この時期から、マジャパヒト王国のハヤムウルク王((1334–1389))時代に中国伝統医学が伝わったとされます。インドネシア伝統医療は、アーユルヴェーダ医学と中国伝統医学と、イスラム伝統医学がミックスされたものです。
 
インドネシア・マッサージの歴史」という論文には以下のように記述されています。
以下、引用。
「ヒンドゥー教は紀元400年ごろにヒンドゥー僧侶とともに、香油を使ったマッサージと植物薬を使うアーユルヴェーダ医学をインドネシアにもたらした」
The Hindu religion arrived here about 400 A.D. with Hindu priests who introduced Ayuvedic medicine, which uses scented oils for massage as well as medicines made from plants.
 
「後に、仏教僧たちが、中国伝統医学の知識をもたらした」
Later, traveling Buddhist monks brought knowledge of Chinese medicine.
 
「中央ジャワのマジャパヒト王国(1293-1478年のヒンズー国家)のハヤムウルク王は美しい中国人女性と結婚した」
During the Majapahit Kingdom in central Java, king Hayamwuruk married a beautiful Chinese woman.
 
「この中国人王妃の影響によって、の癒しの技術が紹介された。」
Through her influence, the healing arts of acupuncture and reflexology were introduced.
 
「マッサージのテクニックは、スパイス貿易をするアラビア商人や中国、インドからももたらされた」
Massage techniques also came from the influence of traders from Arabia, China and India, who sailed throughout the islands for the spice trade.  
 
「大きな島はそれぞれのマッサージがあるのだけれども、もっとも進んだテクニックはマジャパヒト王国の影響を直接受けたジャワ島とバリ島にある」
Although most of the larger islands have their own special type of massage, the most advanced knowledge of healing techniques is found in Java and Bali where it evolved directly from the traditions of the Majapahit kingdom.
 
「マジャパヒト王国時代に多くのビューティー・トリートメントが女王と王女のために発達させられた」
During the Majapahit era many beauty treatments were developed by the queens and princesses in the kratons (royal courts).
 
「マジャパヒト王国は1450年にイスラムの侵入によって滅びた。それにより、多くのヒンドゥー教徒がバリ島に逃れて、癒しの知識をもたらした。これがジャワ式マッサージとバリ式マッサージに多くの共通点がある理由である」
The Majapahit Kingdom was destroyed about 1450 A.D. after the arrival of Islam, causing many Hindus to flee to Bali, bringing their healing knowledge. This is why there are so many similarities between Java and Bali in massage and healing techniques.
以上、引用終わり。
 
 『ドゥクン(Dukun)』は、伝統医、薬草マッサージ師である以前に、スピリチュアル・ヒーラーそして魔術師です。『ドゥクン』には、「白いドゥクン」と「黒いドゥクン」がいます。「白いドゥクン」は白魔術師、「黒いドゥクン」は黒魔術師といわれますが、例えば、好きになった男性や女性とうまくいくための「恋の魔法」をかけるのは「黒いドゥクン(黒魔術師)」ですし、呪殺を担当するのも「黒いドゥクン(黒魔術師)」です。インドネシアの白黒の区分は外国人には理解しがたいです。
 スハルト大統領が1,000人の「ドゥクン」を厚く信仰し、1998年のインドネシア政変の際に大統領直属ドゥクンが最初に数百人単位で大量に殺害されたのは有名な話です。政治にもズブズブに介入し、「ドゥクンがわからないと、インドネシア政治はわからない」とまで言われています(Agus Trihartono「ドゥクンとインドネシア政治」 Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 12 September 2012)。
 
面白いのは、「黒いドゥクン」の呪殺パワーはジャワ島やバリ島の外には届かないそうです。日本人駐在員は「ドゥクン」に呪われたら、すぐに日本に飛行機で帰国したら大丈夫らしいです。なんじゃ、そりゃあー。
 
実際にバリ島で「ドゥクン」の参与観察をした文化人類学者・重森誠仁さんの素晴らしい論文があります。
重森誠仁 「現実はいかにして可能か─インドネシア、レンボガン島の事例より」2001
この論文は、素晴らし過ぎます!重森さんは1955年生まれの45歳のワヤン・タンカスさんという「ドゥクン」のもとで、修行します。ワヤン・タンカスさんは「ドゥクン」であると同時にインドネシア伝統武術シラットの達人です。「ドゥクン」は必ずシラット武術を修得する必要があります。
「(治療の最後は)タンカスによるサクティの照射と患者の患部に直接触れて行うマッサージである。そして最後に、タンカスは祭壇から自家製オイルを取り出し、患者の患部に塗りつける。これで治療は終了である」
「ドゥクン」は、オイルの塗油とマッサージはしますが、それ以外は「手かざし」などのスピリチュアル・ヒーリングです(笑)。「ドゥクン」は「シャクティ(Shakti)」と呼ばれる「気」そっくりのエネルギーの制御を学びます。このトレーニングがクンダリニーヨガや気功とそっくりなので驚きました。ドゥクンがやる『本当のバリニーズ・マッサージ』は、外国人観光客には、キビし過ぎます(笑)!聖歌の詠唱とか手かざしからスタートで、それで治らなかったら、マッサージという順番です。
 外国人観光客向けにエステでやるのは、この宗教色をデオドランドした無味無臭のオイル・マッサージになります。わたしが好きなのは、むしろ「ドゥクン」のほうなんですが・・・。インドネシア伝統武術シラットの達人で、スピリチュアル・エネルギーの制御もできて、マッサージもできて、ハーブも使えて「恋の魔法」まで使えるなんて、格好良すぎる!
 
【付録:インドネシアの歴史とレギュレーション】
「現代西洋医学の医師でのトレーニングを受けた者だけが、公共病院でをすることができる」
Allopathic physicians with appropriate training in acupuncture are able to practice acupuncture in public hospitals.
 
「96.2%はインドネシア伝統医療の方法を用いている。残りは、のように、他国の伝統に根ざした伝統医療を用いている」
96.2% use traditional Indonesian methods of treatment. The rest use medical treatments, such as acupuncture, that belong to the traditions of other countries .
「28万1千492人がインドネシア伝統医学プラクティショナーである。12万2千944人が伝統産婆で、5万1千383人が一般的なインドネシア伝統医療プラクティショナーである。2万5千77人がマッサージ師で、1万8千456人が割礼師であり、1万8千237人がトゥカン・ジャムウ・ゲンドン(ジャムゥの女性行商人)である。1万4千人がハーバリストで、1万2千496人がスピリチュアリストである。1万118人がスーパーナチュラリストで、8781人が整骨師である。」
 Among the 281 492 traditional medicine practitioners in Indonesia, 122 944 are traditional birth attendants, 51 383 are general traditional medicine practitioners, 25 077 are masseuses, 18 456 are circumcisers, 18 237 are tukang jamu gendong, 14 000 are herbalists, 12 496 are spiritualists, 10 118 are supernaturalists, and 8781 are bonesetters
 
インドネシアでは、18世紀頃から中国系移民の間でがされていたといわれています。
 
「中国社会によってのインドネシアでの最初のの活動は1962年に、中華人民共和国からスカルノ大統領を治療するために送られた灸師チームの活動です。」
Initially acupuncture in Indonesia is an activity that is covered in Chinese society until finally in 1962, the team acupuncturist from the PRC to come to Indonesia to treat the president Dr. Ir. Soekarn.
 
「(中国からの灸師チームの影響を受けて)1963年にRSCM(Cipto Mangunkusumo General Hospital )は、インドネシアで最初にヘルスケアでを行う病院となりました。」
In 1963, the RSCM note became the first hospital in Indonesia to open up health care with acupuncture.
 
「1975年2月7日に、インドネシア師連盟が形成された」
On February 7, 1975 an organization formed Association of Acupuncturists Indonesia (IAI)
 
2013年にはインドネシアで「インドネシア保健規制省」が中医学の規定をつくり、アモイ中医大学、広州中医大学、北京中医薬大学を卒業した中医師と韓医師はインドネシア灸臨床ができます。
 
2003年11月30日『ジャカルタポスト』
は医療として認知されてきている」
Acupuncture gaining medical recognition
 
【付録:東南アジアのシャーマニズムと伝統医療】
マレーシアには、Pawang(パワン)、フィリピンにはBabaylan(ババイラン)という、インドネシアの「ドゥクン(Dukun)」に似た呪術師ヒーラーがいます。シンガポールと台湾とタイの華人社会には童乩(タンキー:Tong ki)という呪術師ヒーラーがいます。

代替医療最前線:マレーシア伝統医学の現在

2018-04-28 | world
2017年2月26日
「(マレーシアの)伝統医学プラクティショナは『標準操作手順(SOP:Standard Operating Procedure )』を持つべきである。」
'Traditional medicine practitioners should have SOP'
たまたまアジア系の患者さんとお話しました。インドでは『AYUSH』というアヴェダ・ヨガなどの代替医療の省庁があり、担当大臣もいます。
タイランド王国には、『『タイ伝統代替医療開発局(DTAM:Department for Development of Thai Traditional and Alternative Medicine)』という代替医療の省庁があり、中医師が灸の臨床ができるようになりました。
そして、マレーシアも2016年5月に「伝統補完医学法2016」が通り、『マレーシア保健省伝統補完医学(中医学)部門(Health Ministry’s Traditional and Complementary Medicine (TCM) division)』ができています。
伝統医学・代替医学を政府として開発し、推奨するのはアジアのトレンドです。

以下、引用。
「伝統・代替医学プラクティショナ組織PTKは全国的に、大学と協力して、『標準操作手順(SOP:Standard Operating Procedure )』を実施するべきである」
Organisations of traditional and complementary medicine practitioners (PTK) nationwide should work with universities to come up with standard operating procedures.
 
「健康内務省のヒミ・ヤハヤ医師は、プラクティショナは患者の意見や広く信じられているところに依拠せずに、薬の現代医学的な臨床研究によって、臨床を行うべきだと述べた」
 Health Deputy Minister Dr Hilmi Yahaya said the practitioners should carry out clinical studies on their drugs as practised in modern medicine and not necessarily, rely on the testimony of users to convince the public.
 
「それらの代替医療の薬は、他の国では標準化して用いられている、健康内務省のヒミ・ヤハヤ医師はマレー伝統医学2017のイベントセミナのオプンニングで記者たちに語った」
"The drugs, can thus be sold in other countries as alternative medicine because it has been standardised," he told reporters after opening a seminar on Empowering Malay Traditional Medicine 2017 today.
 
「そのセミナは、マレーシア伝統医学プラクティショナ・アソシエションによって組織され、サイバジャヤ医科大学、マレーシアの国中の400以上の伝統代替医療プラクティショナによって共同開催されました。」
The seminar, organised by the Traditional Malay Medicine Practitioners Association Malaysia, in collaboration with the Cyberjaya University College of Medical Sciences, was attended by over 400 traditional and complementary
medicine practitioners from throughout the country.
 
「ヒミ医師は、2016年伝統補完医学法(775号法案)によって、2016年8月1日から、臨床および臨床家は規制されるようになったことを紹介しました。」
Dr Hilmi said Malaysia was among the first countries to introduce the Traditional and Complementary Medicine Act 2016 (Act 775) enforced since Aug 1, 2016, to regulate the practice of, and govern practitioners.
 
「現在は、マレーシアの、カパラ・バタス病院、ペナン、プトラジャヤ病院、ジョホのスタン・イスマイ病院など14の病院で、伝統医療が行われています。」
The traditional practice is currently offered at 14 hospitals in the country, among them Kepala Batas Hospital, Penang; Putrajaya Hospital; and Sultan Ismail Hospital in Johor Bahru.
 
「ヒミ医師は、(マレーシアで行われている)6つの種類の治療、、産後治療、ガン患者の副作用へのハブ治療、マレー伝統マッサジ、伝統インド・シロダラ治療、『テラピ・バスティ・ラン(インド伝統医学のバスティ治療)』を語った」
Dr Hilmi said it involved six types of treatment, namely acupuncture, postpartum treatment, herbal therapy as a side treatment for cancer patients, Malay traditional massage, traditional Indian Shirodhara treatment, as well as
'Terapi Basti Luaran'.
以上、引用終わり。
2016年にマレーシアでは合法化されました。マレーシアで面白そうなのは、マレーシア伝統マッサジである「ウット・ムラユ(urut melayu)」です。「ウット(urut)」はマッサジで、「ムラユ(melayu)」は、マレーのという意味です。
マレーシア伝統マッサジ「ウット・ムラユ(urut melayu)」は、イスラム伝統医学ユナニ・ティブの一部です。
 
「ユナニ」とは「イオニア(ギリシャ)の」という意味でヒポクラテスのギリシャ医学がロマ医学のガレノスに受け継がれ、ロマ領だったシリア経由でイスラム世界に輸入されて11世紀イランの哲学者=医師である「イブン・シ」が「イスラム伝統のユナニ医学」を発展させました。イブン・シは薔薇のアロマテラピ精油を最初に創った伝説をもつ化学者です。 この「イスラム伝統医学ユナニ」がイスラムだったシチリア島やスペイン経由でヨロッパに伝えられ、パラケススなどの「ヨロッパ伝統医学」となりました。
 
   中国領の「ウイグ伝統医学(回医)」はユナニ医学です。中央アジアのトコ系民族にはユナニ医学が伝わっています。
   インドはムガ帝国の時代にイスラム化され、インドには40のユナニ大学があります。 イスラム教国のパキスタンには4年制のユナニ医科大学があり、ユナニ医師の制度もあります。
 
   マレーシアもユナニ医学があります。マレーシア伝統マッサ「ウット・ムラユ(Urut Melayu)」は、古代ギリシャのヒポクラテスからの伝統を継ぐ最古のマッサ治療です。
   インドの「ユナニ医学」では「ダラック(Dalak)というようです。
「ユナニ医学におけるダラック・マッサ:レビュ
Dalak (Massage) in Unani Medicine: A Review
International journal of advanced Ayurveda, Yoga and Naturopathy, Unani, Siddha and Homoeopathy
Vol.3 No.1 2013

中医学の最前線:タイランド王国

2018-04-27 | 日本の鍼灸
2016年2月8日『毎日新聞』
「特派員が選ぶ私の世界遺産 ワット・ポー(タイ・バンコク) マッサージの総本山」
 
以下、引用。
「『19世紀前半の国王ラーマ3世が、この寺にマッサージや薬草などの伝統的な治療法を集め、後世に伝えるよう命じられたのです』。寺院に併設されたマッサージ学校『ワット・ポー伝統医学学校』のプリーダ・タントロンチット校長(73)が言う。タイマッサージの起源は定かではないが、14〜18世紀に栄えたアユタヤ朝には宮廷に仕えるマッサージ師がいたとされる。『世ではマッサージは最先端の医療技術でした』 」
 
「建物の柱などに何枚もの壁画が掲げられていた。『セン』と呼ばれる体のエネルギーの通り道が示された人体図だ。タイマッサージでは、センに刺激を与えることで、体の毒素を取り除いたり、内臓の調子を整えたりできると考えられている。」
以上、引用終わり。
『セン』には、経絡の任脈そっくりのものもあります。ワット・ポーのタイ式マッサージ師さんは上手でした。
 
以下、引用。
「タイの伝統医療などに詳しい川崎医療福祉大の飯田淳子教授(44)によると、西洋から近代医学が導入された19世紀後半以降、タイマッサージなどの伝統医療は一時、非科学的だとして軽視された。しかし、1970年代から国内で見直す動きが高まり、90年代には政府が医療としての制度作りを本格化させた。飯田さんは「西洋医学に限界を感じたり、東洋的なものにエキゾチックな魅力を感じたりする人が増えた。こうした風潮はタイの都市間層にも広がり、伝統医療が復権した側面もあります」。ワット・ポー伝統医学学校では現在、生徒の約半数を欧米や日本などの外国人が占める。」
以上、引用終わり。
 飯田淳子教授の「タイ・マッサージの民族誌」はタイ伝統古医学の歴史を詳細に書いた名著です。学院の図書室に寄付しています。
「タイ・マッサージの民族誌」 
飯田 淳子 明石書店 (2006/3/9)
 
「グローバル化時代に伝統医療が直面する課題−−「タイ式医療」の誕生と知的財産権の拡大を手がかりとして−」
小木曽 航平 早稲田大学   1-73   2010年
 この論文も感心しました。タイのバンコクはベトナム戦争でアメリカ兵の慰安所となり、スパ文化が発達しました。そので、タイ古式マッサージ(ヌアットボーランNuat boran)も社会のなかで復権してきたというものです。
 1978年にソ連のアルマアタでWHOの会議があり、「アルマアタ宣言(Declaration of Alma-Ata)」で、伝統医療とプライマリケアの復権がうたわれました。
 さらに、タイランド王国でのナショナリズムの高まりもあって、1990年代にタイ伝統古医学を見直す動きが加速しました。
 タイ政府は、1993年から2004年に「タイ伝統医学知識の復興プロジェクト」という長期プロジェクトを起ち上げ、タイの仙人体操「ルーシー・ダットン(Rusie Dut Ton)」はワットポー寺院の壁画からインスパイアされて創られました。
 ところが、2006年に日本のF・M氏は、タイ伝統医学の体操「ルーシー・ダットン」を日本の特許庁に商標登録してしまい、国際問題になりました。
 タイ政府は「ルーシー・ダットン」はタイの知的財産だとして異議を申し立て、日本政府に対して商標登録の取り消しを求め、日本の特許庁ではタスクフォースを作り、無効審判をかけ、2007年に商標登録は取り消されました。タイでは、ずーっと新聞の1面で取り上げられた事件ですが、日本では全く報道されていないため、ほとんどのヒトが知らないです。
 
タイランド王国の医学のレギュレーション】
1957年にワットポーの医学校(マッサージ)ができました。
1962年に伝統医療プラクティショナーのライセンスが認められました。
1982年にアーユルヴェーダの学校が、タイ伝統医学の組織をつくりました。
2002年には、タイ保健省(Ministry of Public Health)内に、『タイ伝統代替医療開発局(DTAM:Department for Development of Thai Traditional and Alternative Medicine)が出来ました。
 
2015年にタイランドは、医学を合法化して、医師にたいして専門知識と倫理のトレーニングにパスすれば、2年間の免許を与えることにしました(※1)。
 
以下、引用。
タイランド王国で国伝統医学が合法化するため、タイ保健省は、現在、医学のライセンスのレギュレーションを通過させていると、コーンは言う。」
With the traditional Chinese medicine becoming legal in Thailand, the Ministry of Public Health is now passing a regulation on licensing of traditional Chinese medicine, Korn disclosed.
 
「現在、医師免許をもっている出願者は、国伝統医学委員会の評価と専門知識、倫理のテストをパスすると2年間は免許が有効になる。」
The applicants for the temporary traditional Chinese medicine license, which will be valid for two years, must pass professional and ethical training and the evaluation of the Traditional Medicine Committee, he stated.
以上、引用終わり。
 
2000年にはシンガポールで、「医臨床規則」が出来て、2001年からは登録すれば医師が鍼灸臨床をできるようになりました。
2012年にはマレーシアで「伝統補完医学法案」が通り、医師が鍼灸臨床できるようになりました。
2013年にはインドネシアで「インドネシア保健規制省」が医学の規定をつくり、アモイ医大学、広州医大学、北京医薬大学を卒業した医師と韓医師はインドネシアで鍼灸臨床ができます。
2015年にはタイランド王国で、「タイ保健省」が「タイ国医療機関協力(the cooperation of Thai and Chinese medical institutions)」によって、医師が試験にパスすれば2年の免許を与えられることになりました。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
※1:「タイランド医学を合法化した」
Thailand Legitimizes Traditional Chinese Medicine
June 04,2015

鍼灸最前線:シンガポール

2018-04-27 | world
2017年2月1日シンガポールの新聞『ストレイツ・タイムズ』
「鍼は、4つの公立病院の疼痛外来で提供されている」
Acupuncture offered for pain management at four public hospitals

以下、引用。
「鍼治療は、疼痛の管理に病院患者に提供されている」
Acupuncture treatment is provided to hospital patients mainly as a way to manage pain.

「今日では、4つの公立病院が鍼を提供している。
シンガポール総合病院(SGH)、
シンガポール国立大学病院(NUH)、
タントクセン病院(陳篤生医院:Tan Tock Seng Hospital)、
クー・テクバ病院(邱德拔医院:Khoo Teck Puat Hospital)」
Four public hospitals offer the service today - Singapore General Hospital (SGH), National University Hospital (NUH), Tan Tock Seng Hospital and Khoo Teck Puat Hospital.
以上、引用終わり。

シンガポール総合病院(SGH)』の創業は1821年です。
シンガポール国立大学病院(NUH:新加坡国立大学)』は1905年にイギリスの医学校として創設され、1920年代はラッフルズ・カレッジでした。現在は、世界大学ランキングで東大・京大を抜いてアジア1位となっています。
『タントクセン病院(陳篤生医院:Tan Tock Seng Hospital)』が1844年に創設された病院です。アヘン戦争(1840-1842)の終結2年後に、福建省から移民した陳篤生(タン・トクセン:Tan Tock Seng::陈笃生:Chén Dǔshēng:1798-1850)さんがシンガポールで大富豪になり、1844年に5,000ドルを寄付して、救貧病院として『タントクセン病院』を設立しました。1850年に52歳で陳篤生(タン・トクセン)さんは急死しました。
『クー・テクバ病院』 は、マレーシア生まれのシンガポール人、クー・テクバ(Khoo Teck Puat:邱德拔:qiū débá:1917-2004)さんの名前をつけて2000年代に出来た新しい病院です。マレーシア生まれでマレーシア・シンガポール・オーストラリアの国籍を持ち、マレーシア最大の銀行の創設者にして最大の株主であるクー・テクバさんの人生は調査して興味深かったです。

シンガポールの中医学の医学史を調べると、香港にものすごく似ています・・・。
ヒンドゥー教・仏教のインド文化圏シューリヴィジャヤ王国(Srivijaya:室利仏逝)から
モンゴル帝国・元朝のフビライ=ハンのジャワ侵攻(1293、Mongol invasion of Java)を経て、
ヒンドゥー教・イスラム教のマジャパピト王国(Kerajaan Majapahit)となり、
1511年には「ポルトガル領マラッカ(Portuguese Malacca)」となり、
1641年には「オランダ領マラッカ(Dutch Malacca)」となります。

1819年にイギリス東インド会社のトーマス・ラッフルズ卿(Sir Thomas Stamford Raffles:1781-1826)がイギリス領シンガポールを創ります。
1821年に『シンガポール総合病院(SGH)』の前身の医学校が創設されます。
1840年から1842年にアヘン戦争、1856-1860年にアロー戦争が起こります。それまで清国は鎖国していました。
アヘン戦争後に香港の割譲、上海の開港があり、アロー戦争後の1860年北京条約で「中国人の海外への渡航」が初めて認められました。

1844年に陳篤生(タン・トクセン:Tan Tock Seng::陈笃生:Chén Dǔshēng:1798-1850)さんがシンガポールに移住し、『タントクセン病院(陳篤生医院:Tan Tock Seng Hospital)』を創ります。

1860年にアロー戦争後の北京条約で、「中国人の海外への渡航」が初めて認められました。
1862年には、シンガポールで最古の中国伝統医学クリニックである「同济医院(Thong Chai Medical Institution)」が建てられます。
1879年に広東省の余廣培(Eu Kong Pai)がマレーシアのペナン島に移住し、マレーシア・香港・シンガポールの漢方薬局チェーン「余仁生(Eu Yan Sang:ユー・ヤン・サン)」を創業しています。

1942年には、日本軍がシンガポールを攻撃し、昭和に獲得した南の島という意味で「昭南島」と名づけました。日本は1942-1945年のわずかな期間、シンガポールを統治します。
1945年以降のシンガポールは再び、イギリス植民地となりますが、1959年にイギリス自治領シンガポールとなり、1964年にマレー人と華僑の衝突「シンガポール暴動(1964 race riots in Singapore)」を経て、1965年にマレーシア連邦からシンガポール共和国として独立しました。

1946年に「新加坡中国医学会」が創設されます。1938年に福建省の「廈門市(アモイ市:厦门市)」が日本軍に占領されたとき、福建省で7代を経た中医、吴瑞甫(1872~1952)などがシンガポールに移住しました。
1947年には「シンガポール中医師会(新加坡中医师公会:Singapore Chung Hwa Medical Institution)」を創設します。

1953年に「シンガポール中医師会(新加坡中医师公会)」は、1976年に「シンガポール中医学院」と改称される「中医专门学校」を創りました。

 1997年アメリカNIHが鍼の効果の科学的根拠を認めました。
 1997年7月1日にイギリス領・香港が中国に返還されました。
 1998年に香港浸会大学で正規の中医学教育が始まりました。
 1999年に香港中文大学、2000年に香港大学医学部で中医学教育が始まります。1999年以降、香港は中医を受けいれ、中国で教育を受けた大陸の中医師は試験を受けて合格すれば、香港で鍼灸の臨床ができるようになりました。

 2000年にはシンガポールで、「中医学法2000(Traditional Chinese Medicine Practitioners Act 2000)」が出来て、2001年からは登録すれば中医師が鍼灸臨床をできるようになりました。
シンガポールの中医学校の現状」
松岡 尚則et al.『日本東洋医学雑誌』Vol. 59 (2008) No. 3 P 507-510
 

 2011年には、中国政府とシンガポール政府が共同出資で、シンガポールに中医学を専門とする『福建シンガポール友好総合病院(Fujian-Singapore Friendship Polyclinic )』を設立しました。2012年以降、毎年、3百万シンガポールドルをシンガポール政府は中国伝統医学の研究に費やしています。
 2013年には、シンガポール保健省、国立依存症マネージメント・サービス(NAMS:National Addictions Management Service)に鍼クリニックができました。

 2017年には、シンガポール保健省は、500万シンガポールドルを中国伝統医学の研究助成金として拠出することを決定しました。
 
    シンガポールで中医学鍼灸は発展する可能性があると思いました。

中医学の最前線:雲南白薬の歴史

2018-04-26 | world

2017年8月25日アメリカの経済誌『フォーブス』
「いかにして、一企業が、現代社会に、中国伝統医学そして、巨万の富をもたらしたのか?」
How One Company Brought Traditional Chinese Medicine To The Modern World And Made Billions

 漢方(中成)の『雲南うんなんびゃくやく:云南药:yún nán bái yào)』の記事です。『雲南うんなんびゃくやく)』はヴェトナム戦争の際に有名になりました。

 「三七(田七人参)」を主として使用した止血、打撲です。抜歯後の痕に田七の粉を振りかけると出血がすぐに止まります。ヴェトナム兵が「どんな出血でも1分以内に止まる」といって常備したであり、アメリカ兵も真似して携帯しだしたことから世界的に有名になりました。

  1902年に中国の雲南省の少数民族、彝族(イ族:Yízú)の名医、
曲焕章(qǔ huàn zhāng:1878~1938)先生が、雲南省で「百宝丹」を創りました。これが後に「雲南」となりました。

  1938年に日中戦争の山東省「台児荘の戦い(台兒莊戰役)」において、曲焕章先生は中華民国軍に「雲南」を提供し、それ以来、中華民国軍の常備となりました。

 この際に、曲焕章先生は、「雲南」の中身を教えるように、中華民国の「国医館」の館長、焦易堂(しょういどう:1880-1950)に逮捕されて拷問されて、この1938年に曲焕章先生は死去されています。焦易堂(しょういどう)は、中華民国の政治家で、日中戦争勃発の半年前の1937年に中国伝統医学の研究所「国医館」を創った中国伝統医学の歴史に残る人物です。「国医館」は、中華民国政府支援の半民間の中国伝統医学研究センター兼実験病院です。焦易堂(しょういどう)は中華民国の政治家として1950年に台湾で亡くなりました。

 1955年に曲焕章先生の奥さんが、中華人民共和国政府に雲南の組成の秘密を提出し、それ以来、中国人民解放軍の常備キットに入っているので、雲南の組成は中国の国家機密となっています。

 雲南の主である「田七人参」は、中国雲南省やチワン族自治区の非常に狭い地域でのみ栽培される生です。

   「雲南」を販売しているユンナン・バイヤオ・グループ(Yunnan Baiyao Group:雲南集団股份有限公司)の売り上げや利益は2016年に急増し、雑誌『フォーブス』の選ぶアジア企業50社に入りました。

 これは1999年に、中国政府の命令を受けた現在の経営陣が、雲南の鎮痛スプレー、痔クリーム、湿布、歯磨き粉などをつくりだし、特に、歯磨き粉が大ヒットしました。雲南の歯磨き粉はアメリカのコルゲートの歯磨き粉の2倍以上の値段ですが、ものすごく売れています。 

 軍事の関係の深い「雲南」ですが、中医は軍事と関係が深いです。

 2015年ノーベル医学章を受傷した中国中医研究院の屠呦呦(と・ゆうゆう:Tú Yōuyōu)先生は、「プロジェクト523」という中国人民解放軍のヴェトナム戦争のための秘密軍事プロジェクトで働いているときに、中「青蒿(せいこう)」から「アルテミシニン」を分離しました。この秘密軍事プロジェクトは1967年の文化大革命の真っ最中にヴェトナム政府のホーチミンの依頼と毛沢東の命令で始まり、1973年に屠先生と山東省の中国伝統医学者たちが臨床試験を行って発見しました。ヴェトナム戦争が終結したあとの1981年に、この秘密の軍事プロジェクト「プロジェクト523」は終了しています。

 ノーベル医学賞の屠呦呦(と・ゆうゆう:Tú Yōuyōu)先生は「三無科学者」と呼ばれていました。まず、文化大革命の1960年代から1981年まで中国に大学院は存在しなかったのです・・・。また、屠先生は海外留学経験も無いです。屠先生は職歴もなく、1980年まで「中国中医研究院」の研究員にさえなれず、なったのは1981年です。屠呦呦先生は、「学歴なし・海外留学経験なし・職歴なし」で、おカネもなくて、2007年の時点では賃貸アパートにあった電化製品は電話と冷蔵庫だけだったのは有名な話です。夫は高校の同級生ですが、工場労働者で、文化大革命中は思想改造のための労動改造所で強制労働させられていました・・・。

 屠呦呦先生は、この環境の中で、すべての中医学古典を調査し、全国の漢方医をたずねあるき、中医学古典の葛洪の『肘後備急方』から青蒿を候補として見つけ出して、アルテミシニンを分離しました。最初の人体実験の被験者も屠呦呦先生ご自身で、その論文は1977年に匿名で発表されました・・・。本当の実力の持ち主は、学歴も海外留学歴も職歴も関係ないようです・・・。

  もう一つの秘密のプロジェクトは、狭心症の特効的漢方製剤「冠心Ⅱ号(かんしんにごう:冠心Ⅱ号:guàn xīn Ⅱhào)」です。狭心症・気管支喘息に苦しむ毛沢東(もうたくとう:毛泽东:máo zé dong:1893-1976)主席のために、周恩来(しゅうおんらい:1898-1976)首相の肝いりで1970-1971年に始まりました。

 老中医、郭士魁(かくしかい:1915-1981)先生と、陳可翼(ちんかよく:陈可冀:1930ー)先生が、1978年に丹参を主とした注射「冠心2号」を開発しました。1980年には「精製冠心片」となり、十年後の1990年には「冠元顆粒」として日本のイスクラ産業から発売されています。陳可翼先生は、1981年に『中西医結合雑誌(中西医结合杂志)』を創刊されます。1990年には陳可翼先生は「血瘀証与活血化瘀研究」(上海科学技術出版社)を出版された中西医結合派の代表です。1990年から2002年には『中西医結合雑誌日本語版』も日本でも翻訳出版されて、たまに中国書店の店頭で見かけました。

  中医の歴史は政治や軍事と密接に関係しています。


中医学の最前線:ニューヨークで人気の咳止めシロップ「蜜煉川貝枇杷膏(ニンジョムペイパコア)」と葉天士

2018-04-26 | world

2018年2月27日『アジアワン』
「中国の止めシロップの「蜜煉川貝枇杷膏(ニンジョムペイパコア)」はインフルエンザがアウトブレイクするニューヨークで人気になっている」
Chinese cough syrup Nin Jiom Pei Pa Koa gains popularity amid New York flu outbreak

中国の清朝、康熙帝の時代に由来する「京都念慈菴(King To Nin Jiom)」という会社の
「蜜煉川貝枇杷膏(Nin Jiom Pei Pa Koa)」という止めシロップは、香港、シンガポール、マレーシア、タイランド王国のドラッグストアで売っているアジアの漢方ブランドです。

以下、引用。
「蜜煉川貝枇杷膏=止めシロップは、この10年で最悪のインフルエンザ・アウトブレイクに見舞われているアメリカのニューヨークで人気になっている。」
Nin Jiom Pei Pa Koa cough syrup has gained popularity among New Yorkers as the US is facing its worst flu outbreak in nearly a decade.

「わたしは1週間も寝込んで、が止まらなかったのと、プラット研究所の建築学教授アレックス・シュヴェダーは、『ウォール・ストリートジャーナル』にシロップ使用体験を語った」
"I'd been super sick for a week and a half and couldn't stop coughing," Alex Schweder, an architect and professor of design at Pratt Institute who used the syrup told The Wall Street Journal.


「シュヴェダーが言うには服用して15分で効き始めて彼は5人の人たちに、シロップを勧めた」
Schweder said it started working in 15 minutes, and he has recommended it to five people and told many more about it.

 

「香港の『サウスチャイナモーニングポスト紙』によれば、そのシロップは清朝(1644〜1912)に遡り、母の慢性のを治すためにつくられ、『ニンジョム』は『母の思い出』と言う意味がある」
According to the South China Morning Post, the syrup dates back to the Qing Dynasty (1644-1912), during which an official sought a medicine to cure his mother's chronic cough. "Nin jiom" means "in remembrance of my mother."


「『枇杷膏(ペイパコア)』は、中医学の理論では、風熱の邪気が慢性的に陰虚の患者を攻撃した状態にピッタリである。もし風寒なら、たぶん適切ではないとニューヨーク中医学カレッジのDr.イェメン・チェンは言う。
"It's (Pei Pa Koa) suitable for someone having wind and heat attacks or chronic Yin deficiency cases, according to Chinese medicine theory. If someone has a wind-cold attack, the syrup is probably not appropriate," said Dr. Yemeng Chen, president of the New York College of Traditional Chinese Medicine. 

 

「チェンは、アメリカにおいて中国伝統医学は、ますます人気になっていると言う」
Chen said traditional Chinese medicine is becoming more popular in the US.
以上、引用終わり。

「京都念慈菴(King To Nin Jiom)」は、清朝・康熙帝の時代の楊謹さんが、母親の慢性嗽を治すために、名医・葉天士の診察を受け、完治したことに由来するそうです!

京都念慈菴的歷史可追溯到清朝康熙年間,當時有一順天府人楊謹,字慎之,幼年喪父,母陳氏出身名門,勤於家政,教子有方,楊謹品學兼優,連科報捷,出任縣宰(相當於今日的縣長)。楊謹事母至孝,鄉里號稱為楊孝廉,而母親陳氏年邁多病,久為多痰的沉痾所苦,遍求名醫皆長治不癒。楊謹時聞名醫葉天士的事蹟後,不畏跋山涉水,千里躬求,親自拜訪並延回府中看診。葉天士斷太夫人為積勞成傷,又復誤於診治,不是平常湯藥所能奏效。葉於是授以秘方,叮囑須依此法煉製成膏,早晚服食,持之有理,楊太夫人自服此藥後病狀轉佳,後常以此膏和水代替茶湯服用,終於根治楊太夫人久痰多之宿疾。


清代四大薬店『広誉遠(GuangYuYuan)』が、パリ・ファッション・ウィークで世界デビュー

2018-04-26 | world
2017年9月28日『ビジネス・インサイダー』
「中国伝統医学のブランド『広誉遠(GuangYuYuan)』が、パリ・ファッション・ウィークで世界デビュー」
Traditional Chinese Medicine Brand GuangYuYuan to make Global Debut at Paris Fashion Week
  中医薬メーカー『広誉遠(广誉远:guǎng yù yuǎn: GuangYuYuan Chinese Herbal Medicine Co., Ltd)』は、「ビッグ・フォー」と呼ばれる「清代四大薬店」の一つで、創業は明代、嘉靖二十年の1541年!!!です。
  『広誉遠』の漢方処方である「亀齢集(きれいしゅう:龟龄集:guī líng jí)」と「定坤丹(ていこんたん:定坤丹:dìng kūn dān)」の製造方法は、中国政府によって、国家機密!!!に指定されています。
  『広誉遠』の国家機密漢方「亀齢集」は、明の皇帝、嘉靖帝(かせいてい)の命令で、収集された「仙薬」です。
 明の嘉靖帝は仙道に凝り、最終的に丹薬(水銀や鉛などの金属薬)の飲み過ぎで中毒死したのですが、嘉靖二十一年1542年の「壬寅宮変」という、後宮の宮女の恨みを買ったトンデモない猟奇的な事件にも関係しています。嘉靖帝(かせいてい)は、仙道・煉丹術に凝り、処女の経血を不老長寿の薬と信じ込み、全土から処女を集めて虐待したため、15名の宮女が皇帝を絞殺して暗殺しようとしたというものです(當時皇帝迷信,認為未有經歷性行為的宮女的經血可保長生不老,令禮部派員在京城、南京、山東、河南等地挑選了民間少年處女進宮,成為宮女。為保持宮女的潔淨,宫女们不得進食,而只能喫桑葉、饮露水,動輒予以毆打,有二百多位宮女被打死,被徵召的宫女都不堪其苦)。
 皇帝、変態やん! 本当に、東洋医学は、オコチャマに解説にするには向いていない、オトナの学問なのです・・・。ぜひ、パリのファッションショーでも、この嘉靖帝のエピソードを披露すべきです!(笑)
 
 「ビッグ・フォー(清代四大薬店)」の一つ、杭州で1874年創業の『胡慶余堂(こけいよどう:胡慶餘堂:胡庆余堂)』の「中薬博物館(胡庆余堂中药博物馆)」は、10年くらい前に見学し、中国伝統医学文物の国宝が無造作に飾ってあるのに、ビビった記憶があります。ここは、東洋医学を学ぶなら、ぜったいに一度は訪れるべき場所だと思います。ものすごく雰囲気があります。
 
 「ビッグ・フォー(清代四大薬店)」の一つ、1669年創業の『北京同仁堂(ぺきんどうじんどう)』は、北京旅行の際の観光地になっていますが、いまは、 『広誉遠』と同じく、『牛黄清心丸』で有名な大企業であり、あまり『胡慶余堂』のような雰囲気は無いです。
 
 「ビッグ・フォー(清代四大薬店)」の一つ、1600年創業の広州の『陳李済(陈李济)』は、世界最古の製薬工場としてしてギネスブックにも掲載されています。創業者の陳体全(陈体全)と李昇佐(李昇佐)の2人が、「陳と李の心は一つであり、ともに協力して世界を救う(陈李同心,和衷济世)」と誓ったことから、「陳李済」と名づけられました(※)。
 
 日本には、千年以上続いている老舗企業がたくさんあるのですが、中国で150年以上続いているのは、
1538年創業の漬物屋さん、北京の「六必居(六必居)」、
1600年創業の漢方薬店、広州の「陳李済(Chén lǐ jì)」
1663年創業のハサミ屋さん、杭州の「張小泉(张小泉剪刀)」、
1669年創業の漢方薬店、北京の「同仁堂(Tóng Rén Táng)」、
1828年創業のお茶メーカー、「王老吉涼茶(王老吉涼茶)」、
の5店しか無いそうです。
 「王老吉(ワンラオジー:wáng lǎo jí)」はアジアの清涼飲料メーカーとなっていますが、もともとは、王沢邦(王泽邦:1813—1883)が薬方として創った漢方茶を、アヘン戦争の林則徐(りん・そくじょ)大臣がカゼをひき治らなかった際に、王沢邦の涼茶を飲んで快癒したことから、「王老吉」の名前を贈ったことに由来します。
 
 中国で老舗といえるのは、5店のうち3つがもともと漢方でした。とくに『広誉遠』と『北京同仁堂』は、いまや大企業になっています。

鍼灸EBM最前線:腰椎椎間板ヘルニア

2018-04-26 | world
2018年3月1日『英国医師会雑誌』の『アキュパンクチャー・イン・メディシン』発表。
「腰椎椎間板ヘルニアの鍼:システマティックレビューとメタ・アナリシス」
Acupuncture for lumbar disc herniation: a systematic review and meta-analysis
Shujie Tang,et al.
Acupunct Med. 2018 Mar 1. pii: acupmed-2016-011332. doi: 10.1136/acupmed-2016-011332.
 中国で最も古い大学であり、「華僑の最高学府」といわれる、曁南大学(Jinan University: 済南大学:jǐ nā dà xué)の研究です。
 
以下、引用。
「【結論】鍼は、椎間板ヘルニアの治療において、イブプロフェン、ジクロフェナク(ボルタレン)、メロキシカム、マンニトールとデキサメタゾン(ステロイド系鎮痛薬)、メコバラミン(ビタミンB12)、漢方の「附桂骨痛」とイブプロフェン、マンニトールとデキサメタゾン、ロキソプロフェン(ロキソニン)と活血止痛湯よりも、このましい影響が見られた」
CONCLUSIONS:
Acupuncture showed a more favourable effect in the treatment of LDH than lumbar traction, ibuprofen, diclofenac sodium, meloxicam, mannitol plus dexamethasone and mecobalamin, fugui gutong capsule plus ibuprofen, mannitol plus dexamethasone, loxoprofen and huoxue zhitong decoction. 
イブプロフェン、ボルタレン、デキサメタゾン(ステロイド)、ロキソニンよりも鍼のほうが効果がありました。

余仁生

2018-04-26 | world
2017年7月2日香港の新聞『サウス・チャイナ・モーニング・ポスト』
「香港育ち:余仁生の中国伝統医学の138年の旅は平坦な道では無かった」
Homegrown Hong Kong: Eu Yan Sang’s 138-year journey making traditional Chinese medicine has been a bumpy one

   10年ほど前にタイランド王国の首都バンコクのチャイナタウン「ヤワラー通り」の漢方薬屋さんに入って以来、東南アジアの華僑の東洋医学に興味を持ち続けて来ました。
  東南アジアの漢方薬局「余仁生」は、燕窩(ツバメの巣)の配合された「白凤丸(Bak Foong Pill)」や「保嬰丹(Bo Ying)」で有名です。マレーシアで創業され、香港・マカオ・シンガポール・マレーシア・オーストラリアにチェーン店があり、最近、中国本土に進出しました。 マレーシア創業の東南アジア華僑による中国本土進出です。
 

    「余仁生(Eu Yan Sang)」は、マレーシアに移住した初代、余廣培(Eu Kong Pai)が1879年にマレーシアのペナン島で創業しました。彼は広東省佛山の風水師でした。最初はアヘンや漢方薬を売り、イギリス政府の徴税人や中国移民相手の雑貨屋をしていましたが、ゴムや錫で富を築きます。しかし、天然痘で37歳で急逝します。

  16歳で跡を継いだ、 2代目の余東璇(Eu Tong Sen:1877ー1941)が1910年代に、香港、シンガポール、クアラルンプール、広東に漢方薬局を開きます。

   この漢方薬局チェーン店は、東南アジアに散った中国系移民をネットワークする歴史的役割を果たしました。中国系移民は、余仁生薬局で薬を故郷の家族に送り、手紙を託し、余仁生薬局が銀行の役割を持ち、故郷に送金したからです。

    面白いのは余東璇の「余仁生」薬局はこの時代、アヘンを売っていたことで、よく考えると、イギリス領マレーシアもイギリス領香港もイギリス領シンガポールも、広東もアヘン戦争を起こしたイギリスの植民地だったのです。戦後の香港も麻薬中毒患者が多かったようです。

  1928年にマレーシアの華僑排斥により、余仁生の余東璇(Eu Tong Sen:1877ー1941)は香港に本拠地を移します。香港では豪邸に住み、庭園で孔雀とパンダを飼いました。4人の妻、13人の息子と11人の娘と同居していました。

   余東璇は香港大学の創設者の1人であり、香港映画界のオーナーの1人でした。

    しかし、1941年に余東璇は亡くなり、1989年には、資産を売り払い、倒産しかけました。4代目のリチャード・ユーが1992年に香港株式市場に上場させますが、1996年には再び一族の支配するプライベート会社に戻します。

   2000年にはシンガポール株式市場に上場させますが、2016年に再び一族の支配するプライベート会社に戻しました。

   記事の1993年の描写に「中医学は斜陽産業とみなされていた(Traditional Chinese medicine was considered a sunset industry )」という表現がありますが、これは当時の雰囲気を表しています。