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Studies about acupuncture and moxibustion and Massage.

はだしの医者とともに

2018-06-01 | 中国医学の歴史

写真は『はだしの医者とともにーイギリス人医師の見た中国医療の17年』1972年東方書店

これは1954年から1969年まで、北京で診療したロンドン医科大学の外科医ジョシュア・ホーンさんの貴重な記録文献です。中国伝統医学のミッシング・リンクを埋めてくれます。ホーンさんは外科医ですが、中国伝統医学には、肯定的で、当時の中医の様子を教えてくれます。
ジョシュア・ホーンさんは1930年代にロンドンで医学教育をうけますが、その様子も興味深いです。ジョシュア・ホーンさんは1936年に船医として上海を訪れます。それは日本人アヘン王、里見甫が活躍し、上海マフィアの杜月笙(とげつしょう)が支配する「魔都・上海」でした。その腐敗しきった上海の描写が凄まじいのですが、里見甫さんの描写とピッタリ一致していてビックリしました。

ジョシュア・ホーンさんは、その後、イギリス軍医として1944年のノルマンディー上陸作戦に参加!フランス・レジスタンスやオランダのナチス将校の描写が素晴らしいです。軍医を辞めた戦後はバーミンガムで外科医をしていたジョシュア・ホーンさんは1954年に北京に移住し、17年を中国で過ごしました。

興味深いのは、中医の描写です。ジョシュアさんが治せなかった難病の出血症を治した中医の描写もあります。はだしの医者は、農民に6ヶ月間の教育で50個のツボと鍼灸治療の基本を教えただけですが、ジョシュア・ホーンさんは、肯定的に描写しています。


以下、引用。

「中国の医学界で、はるかに多数を占めていたのは、やはり伝統的中国医学を奉じる中医たちであった。医師の登録制度がなかったため、その正確な数字はわかっていないが、その数はおそらく40万人程度であったろう。彼らの中には、ヒゲをはやし、最高の教養と学識を備え、太医院を卒業した学者医師で、古典医学書をそらんじ、優雅このうえない書体で処方箋を書く者から、かろうじて読み書きのできる流し医者までいた。」

「これら中医の上層部は、中国の旧社会ではもっとも教養のある階層に属していた。彼らは広い知識と洗練された趣味の持ち主であり、古い詩や文学、絵画、磁器の鑑識家でもあった。金持ちであったし、大地主の家に生まれた有力者でもあったから、文化的にも思想的にも封建制度と密接なつながりがあったのである」

以上、引用終わり。

ショウキ先生に『中国傷寒論解説』を書いた北京中医学院の劉渡舟先生について尋ねたら「劉先生は書がうまく、漢方の処方も硯と筆で達筆で書いていました」とおっしゃっていました。劉渡舟先生も文化大革命でヒドイめにあったそうです。

以下、引用。
「高名な医師のもとで年季奉公をして独立開業したものもいたし、また、先祖代々の家伝の秘法を受け継いで、その医学知識を門外不出とするものもいた。根っからの農村育ちで子ども時代から山の中で薬草さがしをしているうちに煎じて用いるすべを学んだものまでいた」

これは江戸時代の日本も同じ、1990年代以前の中国も医師免許は無かったのです。

以下、引用。
「下層の中医は比較的、人民にとって身近な存在であった。彼らは多くが地方の都市に住み、そこから広大な農村に出かけて行った。彼らの料金は貧窮な農民には高いものであったが、途方もなく高いというわけではなく、場合によっては支払いを延期したり免除してくれることもあった」

「中国はこれまでずっと農業を主軸としてきた国であり、人口の80パーセントは農村に住んでいる。解放前は中国の農民の大部分が、事実上、西洋医学を全く知らず、中国伝統医学ともたまに接触を持つだけであった。西洋医学の医師たちは都市に群がって金儲けをしていた。」

「中医の多くは地方の小都市に住み、農村では希少価値があったので、一般大衆の手の届かぬほどの料金をふっかけることが出来た。彼らが治療に用いる薬草はだいたいにおいて非常に値段が高かった」

「往診料は無料で村人の家へ出かけて行く中医もいたが、その他の中医たちは往診料と適当な乗り物を用意しなければ動こうとしなかった。」

「よく村には鍼灸や指圧に天賦の才能を示す農民がいて、だんだんと噂にのぼるようになり、病人の治療を頼まれるようになるのだった。そういう農民はたいてい息子に自分の知識と技術を仕込むので、息子のほうは薬草の見分け方や煎じ方を学んで、得意な分野を広げるのだった。これらの農村の医師たちは文盲で、中医たちからは馬鹿にされていた。そして、後に真の農村の医者を育成する社会的土壌を形成した」

「中華民国の支配者たちは西洋医師の数がまったく足りないにも関わらず、中医の診療を禁止しようとした。この試みが失敗に終わると、あらゆる種類の制限を加えて中医の診療を妨害し、いくつかの都市から中医を追放した」


「1950年8月全国衛生労働者会議が開かれ、毛沢東主席は中医と西医の結合を呼びかけた」


「中医たちが人民の健康保持に貢献できるであろう事は疑いなかった。この中医集団にかわりうる良いものが現れる以前に、それを切り捨ててしまうことは愚の骨頂であり、無責任極まりないことだった」

以上、引用終わり。

1935年の中国人の平均寿命は28歳!!!です。
これは現代のアフリカ並です。富裕であるはずの中国人の海外留学生の6割が結核菌保持者という記録もあります。アヘンなどの麻薬と売春が横行し、性病と栄養失調と結核が蔓延していたのが戦前の中国なのです。魯迅先生の言う「人が人を食いものにする社会」でした。

 そこで、戦後の毛沢東の「はだしの医者」は、農村に衛生状態の指導を行いました。政策的にも麻薬中毒と性病が激減し、衛生状態が劇的に改善しました。これは共産中国が成し遂げた否定できない偉業です。最近ではアフリカのルワンダは、虐殺で医師のほとんどか海外逃亡しましたが、農村に衛生知識をもった女性たちを教育し派遣したところ、衛生状態が劇的に改善し、平均寿命が飛躍的に伸びた事例があります。医師がいくら増えても、都市部の富裕層だけがかかれるというのが、かつての医療でした。これは許俊(ホジュン)の時代の李氏朝鮮も明清の中国も同じです。

 「はだしの医者とともに」の著者のイギリス人、ジョシュア・ホーンさんは、巻末にカナダの外科医ノーマン・ベチューン医師の文章を掲載しています。ベチューンは、貧しい人たちに医療を提供しようと中国に渡り、毛沢東の八路軍の兵士や中国人を治療し続けました。ベチューンが中医を使うべきだと進言したことが毛沢東に影響を与えたようです。
ジョシュア・ホーンさんは、文化大革命の中国と毛沢東を絶賛しています。当時の中国では、ものすごい数の死者や政治的問題が続出し、毛沢東もけっして聖人ではなかったことも、いまではわかっています。当時の中国国内では報道されずに完全に隠蔽されていたようです。

 それでも、「貧しい人たちにこそ医療アクセスを」という思想や、医師でなくとも自分たちの健康は自分たちで守ろうという「はだしの医者」の理想は、世界中の人たちを感動させ、世界の多くの人々が中国鍼灸と「はだしの医者」をリスペクトしたのです。
 もし、「中医」が明清時代や中華民国時代のまま、富裕層のための高級サービス業のみの存在なら、魯迅先生の見解がそうだったように、「中医」は単なる軽蔑の対象のままだったと思います。


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