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農業の現場の おはなしなどなど。

みじかな戦争。のはなし。

2015-05-15 17:29:18 | Weblog
みじかな戦争。のはなし。

宮崎沿岸部の実家。屋根裏の太さ20cm以上もある直立した柱には、斜め
方向に、親指大の穴がまっすぐにあいていました。あまりにきれいに開いた
穴。子供心に不思議に思ったものでした。

この穴、じつは機銃掃射の跡なんです。米軍のグラマン戦闘機とききました。
機銃掃射を受けた住民の話を聞きますと、戦闘機の座席にすわったパイロッ
トの顔が確認できるほどの至近距離での攻撃がつづいたのだそうです〔戦争
当時、小学生だったという方々の談話/子供といえど容赦なかったそうです〕。

テレビドラマや戦争映画の世界では、たとえばドアの陰に隠れただけで弾を
除けられます。っていうか、まず主人公にはあたらない。

そういったイメージが、あくまでフィクションだと認識できるちからが実家
にのこった この弾痕跡には秘められています。
そう、戦闘機の機銃掃射で発射された弾丸は、瓦を打ち砕き、天井板を簡
単に貫通し、太い柱さえ斜めに貫いて畳にめり込むのだそうです。


1945年、宮崎。海岸部には、砲台が設置され陸軍の部隊がつぎつぎに配
備されていきました。「沖縄の次は南九州」・・誰が考えても、連合国とく
に米軍のつぎの攻撃目標は南九州なります。

さらには軍需工場が存在する北
部九州を爆撃に向かう米軍爆撃機の浸入ルートは、宮崎沿岸部からでした。
北部九州へ向かう米軍爆撃機が浸入進行するたびに、宮崎の陸軍部隊から
高射砲が発射されます。その報復として、わが町も激しい空襲と、護衛の米
軍戦闘機の襲来に遭ったのだそうです。とくに1945年3月からの被害は
甚大。死者26人・被災戸数268戸・被災人口1273人と記録されてい
ます。そして死者のなかには、非戦闘員である子供ももちろん含まれている
のです。

・・・今回こういったかつての町の被害を詳しくおしえてくださったのは、
町の前図書館館長・平田さんです。平田さんはこうもお話くださいました。

『今では考えられないが、わが町にも空襲があり多くの人が亡くなった。ち
いさな町といえど、戦争がはじまってしまえば 望むと望まないとに関わら
ず、いやおうなしに個人も地域も戦争に巻き込まれていくものです。』 と。

戦後60年となった今年・・・あなたの町の戦争被害を調べてみませんか。
いま、この時間に、銃声や機銃掃射・戦車や飛行機の爆音が現実に響き渡る
世界の存在を知るためにも。


注/ 太平洋戦争の戦後60年に書いたもの↑ ですから、10年ほど前の回の
  ものの再録
となります。

51P4M6yKWYL__SL500_SS75_.jpg夢で終らせない農業起業」「里地里山複合大汚染